第一章:記憶の音
音楽が終わり、部屋は静まり返った。
マウスのクリック音が、なぜかいつもより大きく響く。
画面の中央にある「Fara-Day」のアイコンを見つめながら、
まるでそれが、俺が決断する瞬間を待っているようだった。
――夢じゃない。
むしろ、「何かを欲しがる」という感覚の記憶だ。
今朝、自分でそう言ったくせに、頭から離れない。
本当に、最後に「何かを欲しい」と思ったのがいつだったか覚えていない。
誰かに褒められるためでもなく、見せつけるためでもなく。
ただ、心臓が少しでも速く打つ瞬間のために。
クリック。
画面が光り、ロゴが現れた瞬間――
一つの記憶が蘇った。俺の初めての勤務の日。
あの頃、まだイベントの喧騒にも慣れていなかった。
ただ通りを歩き、バス停の掲示板を眺めていた。
画鋲で留められた紙は、埃とガソリンの匂いがした。
『イベント会場のクロークスタッフ募集。日払い。いつでも連絡可。』
その時、俺が持っていたのは古いガラケーだった。
塗装の剥げたボディ、半分のキーは一度押しただけでは反応しない。
それでも、番号を打ち込み、電話をかけた。
受話器の向こうの声は短く、冷静で。
――「七時に来られるなら雇う。人手が足りない。」
そうして俺は、そこに行くことになった。
数回の勤務を終えたあと、今のスマホを買った。
画面に亀裂が走ったままの、例のやつだ。
ネットの掲示板で見つけた出品者から、
地下通路の香ばしいナッツと排気ガスの混ざる場所で。
彼は言った。
「バッテリーはまだ生きてるよ。充電だけ気をつけて。」
俺は笑って答えた。
――「俺みたいだな。」
ある寒い朝のことを覚えている。
自販機から漂うコーヒーの匂い。
背後でバスのドアが閉まる音。
そして、その先にあったのは――クラブ。
ナイトクラブじゃない。
客が料金を払ってPCの前に座り、ゲームに没頭する場所。
他人の制服を着て、締めつける蝶ネクタイに息苦しさを覚えながら、
俺はただ立っていた。
光と音が入り混じる会場で、
モニターが瞬き、歓声が飛び交う。
ガラス越しに見えた。
十三歳くらいの少年二人が、「Fara-Day」で戦っていた。
「マイナス5! どうやったんだよそれ!?」
「だから言っただろ、インパルス無しでピークすんなって!」
人々は笑い、拍手し、誰かがスマホを掲げた。
俺はただ、誰かのコートを手に持ったまま――
その音のリズムに惹かれた。
カチッ、間、息、銃声、また息。
クリックの合間の沈黙すら、音楽のように響いていた。
ロゴが焼きついた。――Fara-Day。
何年経っても、あの映像は頭から消えなかった。
そして今、俺はここにいる。
クリック。ローディング。ファンが唸る。
胸の奥で、あの夜の鼓動が蘇る。
――夢じゃない。ただの記憶。
でも、記憶に残っているなら、それは「願い」だ。
ラウンド1 ― Defense Side。
手持ちはたったの1000クレジット。
ライフルも、アーマーも買えない。
信じるか、計算するか――その二択。
購買画面が光る。
「Handguns」「Utilities」「Armor」。
俺はSentry Mineを二つ、SMR-9を一丁。
残りは50。スモークすら買えない。
「ミッド行くぞ!」
「Aラッシュ!止まるな!」
「いや、ディフェンスだろ!」
「ディフェ?ここはパブだぞ!」
皆が叫ぶ中、俺だけは黙って別の道へ。
階段の下にマインを設置し、
誰も見ない廊下にもう一つ。
仲間たちの足音が遠ざかる。
やがて爆音、「RUSH MID!」の声。
――俺は一人、Bサイトに残った。
静寂。
仮想の窓ガラスに、雨の粒が落ちる音。
Ping。
センサーが反応する。
一人、二人、三人――。
「ミッドクリア!」
「いや、クリアじゃない。」
壁沿いを滑るように動く。
最初のマインが炸裂。
チャットが光る。
[DEAD] TofuMan: NICE TRAP WTH
銃声。もう一人倒れた。
三人目の足音。
リズム――ステップ、ステップ、静寂。
リロード。
時間が伸びる。
一つ一つの動きが、ピアノの鍵のようになる。
Shift。Aim。Flick。
――クリック。
二人目、落ちた。
最後の敵がフラッシュを投げる。
視界が白に染まる。
何も見えない。
けれど、音でわかる。右だ。近い。
「C3」――最後のトラップ。
床に置いた爆発カプセル。
一秒。
カチッ。
轟音。
TRIPLE KILL。
チャットが騒ぐ。
[ALL] xZERO: BRO IS WALLHACKER WTF
[ALL] Klynn_: No, just ears.
呼吸が重い。
手が震える。
だが、それは恐怖ではなく、
――失敗と紙一重の緊張。
画面に表示される。
ROUND MVP ― KLYNN_ (3 KILLS / 1 ASSIST)
音楽が消え、
ファンの回転音と自分の息だけが残る。
「三対一……それでも勝てた。」
マウスを撫でながら思う。
奇跡じゃない。運でもない。
冷たい計算と、わずかな感覚。
ラウンド2。
報酬2200。
アーマーとSpecter-14を購入。
[TEAM] Jettor: WTF Klynn carry
[TEAM] Luna: teach me your trap setup pls
返事はしない。
ただ、次の罠を置く。
クリック。静寂。勝利。
――音だけが残る。
Round Score: 5-2。
最終ラウンド。3200クレジット。
Vex-11(サプレッサー付き)を装備。
左右にトラップ。
指が鍵盤を弾くように動く。
Ping。
爆発。煙。
敵が踏み込む。
一発、二発、三発。
TRIPLE KILL。
[TEAM] Luna: holy f**k he did it again!
――6-2。勝利。
画面に「VICTORY」。
数字が並ぶ。Damage:1340, Accuracy:82%。
静けさ。
待っていた音楽が、終わった。
Match Over。Next Side: ATTACK。
キャラクター選択。
新しい顔が一つ。
Lyra。
グレーのスーツに身を包んだ女性。
片目に光るレンズ。
サイレンサー付きの銃。
「孤独を嗅ぎ分ける者。
音の隙間で真実を視る。」
指がキーに触れる。
Klynnが理性なら、Lyraは本能。
ラウンド開始。
「ラッシュミッド!」「いや、スプリットだ!」
俺は黙って息を吐く。
サイドトンネルを歩く。
一歩、間。
二歩、息。
三歩、影。
Q――「Echo Veil」。
音が沈む。
世界が水の底に沈むように。
銃声が消え、心臓の鼓動だけが残る。
二発。
二人倒れる。
DOUBLE KILL。
[ALL] xZERO: bruh who plays like that
[TEAM] Klynn_: me. always.
最後のラウンド。
設置された爆弾のタイマー、00:15。
足音――三つ。
彼らがデフューズに来る。
一度だけ、クリック。
「SILENT SHOT」。
――6-2。
MVP: Lyra (4 Kills / 0 Deaths)。
モニターが暗くなる。
俺は息を吐いた。
疲労ではなく、明晰さ。
「俺はプレイヤーじゃない。
ただ、どうあるべきかを見ていただけだ。」
その瞬間、初めて笑った。
誇りではなく、理解の笑み。
これは終わりじゃない。始まりだ。
画面が黒くなり、
カーテンの隙間から陽光が差し込む。
キーボードの上で埃が金色に踊る。
3999。
画面の隅に浮かぶ数字。
皮肉のようで、愛おしい。
部屋はもう昼の光に包まれていた。
カーテンの隙間から差し込む陽が、
キーボードの上で金色に揺れる。
モニターの隅に、数字が浮かぶ。
――3999。
皮肉のように、微笑ましく。
俺はただ息を吐いた。
マウスから指を離し、
両腕を伸ばして背中を鳴らす。
「……腹、減ったな。」
キッチンへ。
クラッカー、ミントティー。
電子ケトルがかすかに唸る。
プラスチックの匂い、
温かい蒸気。
いつも通りの朝。
けれど、何かが少し違う。
窓辺のブリキ缶。
その中に、俺の小さな癖。
――自家製の手巻き。
乾いたバラの花びら、少しのセージ、ミント。
タバコじゃない。
煙の代わりに、香りで考えを洗う。
一本取り出し、火をつける。
甘く、柔らかく、
雨の前の空気のような香り。
吸い込むたびに、
胸の奥のざわめきが静かになっていく。
煙がゆっくりと、陽の光に溶けた。
パソコンに戻る。
クリック――YouStreamが自動で開く。
『CRYSTA vs VALTYS ― 国際準決勝』
人の波。ライト。実況の声。
中央に映るのは――RINX。
あの夜見た少年が、
今はステージの光の中に立っていた。
彼の動きは静かで、
周りの仲間たちはまるで一つの呼吸のように動く。
短い指示、
それだけで全員が理解して動く。
「……すげぇな。」
クラッカーを噛みながら、
湯気の消えたカップを手に取る。
煙がゆらゆらと上がり、
太陽の光に絡む。
「焦らない。
押されても崩れない。
反射じゃなく、調和だ。」
RINXがグレネードを投げる。
フェイク。
敵が引っかかる。
三秒。――ACE。
歓声。爆音。
でも俺は、静かに見ていた。
羨ましいのは、キルでも勝利でもない。
――誰かが、彼らを「まとめた」こと。
指先で灰皿をなぞり、
灰を落とす。
バラの香りが強くなる。
煙の中に、温もりがある。
「……もし俺が戦わなくても、
これを動かす側にはなれるのかもしれない。」
ニュース欄を開く。
派手な広告の間に、小さな枠。
『CRYSTA ― 戦略・分析マネージャー募集』
一瞬、時が止まった。
笑って、息を吐く。
「馬鹿みたいだな……でも、
今じゃなきゃ、いつやるんだ。」
マウスが動く。
「応募する」ボタンの上で止まる。
目を閉じる。
見ないように。
ただ、決めるために。
――クリック。
画面が一瞬だけ光る。
壁の向こうでケトルが鳴く。
バラの煙が朝の光に溶けていく。
そして、誰かが囁くように聞こえた。
――「ここからが、本当の始まりだよ。」




