順番を無視した少女
クロスライト劇場のロビーは、音で満ちていた。
ビジネスライクな声、観客のざわめき、そしてCrystaのプレゼンのBGM。
エイリドがカウンターに立っていた時、
空気が震えた。まるで未来の風が吹き込んだように。
「ビィィィ——ッ!」という音と共に、
青いバラが揺れ、ライトが瞬いた。
そして、その中にコミが現れた。
彼女はまるでランウェイのモデルのように、ホバーボードに立っていた。
片手にはチュッパチャップス、もう片方にはスマホ。
ノースリーブのジャケットは片方の肩からずり落ちている。
ライトがネオンブルーに染まった彼女の髪先に反射し、
その一瞬、ロビーにいた全員が目的を忘れた。
「へぇ〜、Crysta Party?
真面目そうだけど、ここって“自分らしくいられる”パーティじゃないの?」
ホバーはスパークしていた。
バッテリーがほとんど切れかけている。
だが彼女は安全なんて気にしない。
軽やかにターンしながら笑う。重力と踊るように。
エイリドの目が赤く点滅する警告を捉えた。
「……あと数秒だな」
次の瞬間、ホバーが完全に止まった。
コントロールを失い、コミの体が前に倒れる。
胸も、肩も、全身が空気を切って。
彼女はチュッパチャップスを握りしめたまま、
文明の最後の尊厳を守るように――
そのまま、エイリドの腕の中に落ちた。
彼は一切慌てずに受け止めた。
まるで、それを予知していたかのように。
「気をつけろ。
この劇場、二度目の事故は耐えられない。」
コミは目を瞬かせ、それから笑った。
「床よりマシ。ありがとう、ミスター・リフレックス。」
背後から冷たい声がした。
「またあのNovaね。」
サオリが歩み寄ってきた。
胸にCrystaのバッジ、視線は冷たく正確。
「ここは仕事の場よ。配信会場じゃないの。」
「わかってる。でも、私のリスナーはもう来てるから。」
ロビーの空気が凍った。
青いバラの花弁に、二人の光が反射する。
片方は氷。片方は炎。
「あなたのファンは“話題”に金を払う。
うちの客は“結果”にね。」
「へぇ〜、じゃあ、あなたの“結果”ってそのまま胸のサイズ?」
「そしてあなたの胸は“約束”と同じ。膨らんでるだけ。」
周囲が息をのむ。
エイリドは目を閉じてため息をついた。
「……これが俺の“勤務時間”か。」
その時、上階のバルコニーに女性が現れた。
黒いドレス、銀の留め具、髪をまとめ、静かに立つ。
存在そのものが冷たい電流のよう。
彼女は何も言わず、二人を見下ろしていた。
演出家のように。俳優たちがまだ自分の役を知らない瞬間を見つめるように。
エイリドはその視線に気づいた。
――支配者、だ。舞台の呼吸を決める人間。
沈黙の中でホバーがピィと鳴り、
チュッパチャップスの棒が小さく音を立てた。
コミは微笑み、目の前のエイリドを見上げた。
「ミスター・リフレックス。いつもこうやって女の子を受け止めるの?」
「バッテリーと重力が先に教えてくれた時だけ。」
彼は静かに彼女を立たせた。
ホバーは壁にぶつかって止まり、花瓶の中の青いバラが揺れた。
「悪くないね、この劇場。私の登場にも耐えた。」
「俺はもう限界だが。」
その時サオリが現れた。
完璧な姿勢、冷たい声。
「また来たのね、Nova。ルールを覚えていないようで。」
「ルール?大好きよ。破るのが特に。」
「ここではホイール系は禁止。知ってるでしょう。」
「知ってるよ。」コミが近づいて囁いた。
「それでも来たの。招かれたから。」
言葉が空気に沈む。
受付の端でナオミが息を止め、ユウジロウが目配せする。
ドアの向こうから、あの“海の匂いの男”が現れた。
彼はMediaWingのスタッフに何か囁き、会場の空気が一段重くなる。
カメラのレンズがゆっくり回転し、ロビー全体が“撮影”の空気を帯びた。
バルコニーの女性が再び口を開いた。
「サオリ。」
その声は冷たくも柔らかく、劇場そのものの声のようだった。
「ゲストを案内して。衝突は不要。」
「了解です、リカさん。」
エイリドはその名に軽く反応した。
――リカ?人事部のリカ?
今夜は別の衣装、別の顔。
リカはコミに目を向けた。
「ようこそ、コミさん。
技術的に舞台があなたの登場に耐えたなら、退場にも耐えられるでしょう。
ただし、ロビーでは曲芸は禁止です。」
「私、曲芸じゃなくて“愛嬌”の人なんで♡」
サオリが小さく鼻で笑う。
エイリドはその音を拾った。
――彼女、笑ってるけど心は笑ってない。コントロール中だ。
「では、こちらへ。」サオリはCrystaの客を誘導する。
「プレゼンは四分後。コーヒーは左、カメラは“サクラ”通路へ。」
コミは残っていた。
アシスタントが駆け寄り、震える声で言った。
「ファンゾーンのパスを……コミさん?」
「はぁ?ファンゾーン?私はゲストだよ。」
「し、失礼しましたっ!」
エイリドが番号札を差し出そうとすると、
彼女は代わりに小さなステッカーを彼の手に置いた。
黒い王冠、細いネオンの縁取り。
「名刺じゃないよ。」
「じゃあ何だ。」
「マーキング。あなた用。」
「捕まえた相手に印をつけるのか?」
「未来を覗いた目に、ね。」
彼の視線がホバーに向く。
壁際で眠る機械が、うっすら光っている。
「忘れ物だ、コミさん。」
「そのままでいいよ。あんたが面倒見て、ミスター・リフレックス。
電気、好きでしょ?」
「うちは充電ステーションじゃない。」
「でも、あんたはそうでしょ?」
そう言って、彼女は軽く振り向いた。
短い一瞬――けれど彼のためだけに。
濡れたデニムがライトに光り、
腰の動きが音楽のように揺れる。
曲がり角で彼女は立ち止まり、
肩越しに振り返ってニヤリと笑った。
「充電、忘れないで。取りに戻るから。」
甘い香りと雨の匂いを残して、
彼女は消えた。
コミが消えた後、
エイリドはしばらくホバーを見つめていた。
壁際で光る小さなモニターが、かすかに点滅している。
まるで「まだ動ける」と言いたげに。
彼はため息をついて、ホバーを持ち上げた。
「よし、相棒。お前も客人だな。」
電源コードを探し、壁のコンセントに差し込む。
静かな充電音が、雨音と重なる。
その瞬間、劇場全体が一呼吸したように感じた。
「一番うるさい奴ほど、
去った後に残すのは静寂だけだな。」
エイリドは呟き、カウンターに戻った。
ロビーの空気が再び動き出す。
外から新しい客が流れ込む。
コート、香水、冷えた空気、笑い声。
番号札が軽やかに鳴り、
金属の音がテンポを刻む。
ナオミが低く言った。
「見て。Novaのグループ、メディア入ってる。」
「知ってる。ロゴが小さいが、光ってる。」
「記事になるのはプレゼンじゃなくて、あの子ね。」
エイリドはうなずいた。
カメラは無言のまま、しかし貪欲に動く。
コミはそれを理解している。
わざと半音低く、
挑発ではなく“編集される前提”で動いていた。
一方で、サオリは正確な動きで客を誘導していた。
背筋は一直線、言葉は短く、冷たいが丁寧。
彼女の肩越しに、エイリドは小さく観察を書く。
「S — 返答に間を置かない。
強い言葉を飲み込み、誰も焼かないようにしている。」
音楽が変わる。
プレゼン開始の合図だ。
温かい照明が白に変わり、
空気が少しだけ冷たくなる。
リカの姿はバルコニーから消えていた。
代わりに残るのは、形のない“影”。
「まもなく開始します。
皆さま、お席へ。」
放送が流れる。
コミが振り返って、軽く笑った。
「番号札、綺麗に返すね。準備してて。」
「ミスはしないのか?」
「あなたにはしない。」
サオリがすぐ後ろに現れた。
「エイリドさん。
今日も“干渉しない”方針ですか?」
「ええ。俺はただ、ドアを開けておくだけです。」
「……それが一番怖いわね。」
彼女はそう言って去った。
観客がホールに吸い込まれ、ロビーが息を吐く。
ほんの数分の静寂。
遠くでプロジェクターが立ち上がる音。
コーヒーの香りと、青いバラの影。
劇場が「聞いている」。
まるで舞台の外にも、もう一つの芝居があるように。
そこへ、再び“海の匂いの男”が戻ってきた。
今度はコートなし、タブレット片手。
「あなた、手が早いね。」
「観察してるだけです。」
「誰のために?」
「区別を間違えないために。
他人の呼吸と自分のを。」
男は微笑んだ。
「いい職業だ。“混ぜない”ことが仕事とは。」
「あなたは?」
「混ぜて、区別を失わせる側。」
それだけ言って去っていった。
プレゼンは四十分続いた。
ビジネスの言葉が波のように流れ、
ロビーには別のテンポが生まれる。
コートの擦れる音、カップの触れる音、
遠くの女性ボーカルがテスト音を流す。
コミが戻ってきた。
一分も経たないうちに。
「番号札。」
彼女は手を出したが、取らない。
ただエイリドのブロックノートを覗き込んだ。
「私のこと書いてるの?」
「君の好きな単語“カオス”を二拍に分けて。」
「違うよ。“カオス”は“ホーム”って読むの。」
その瞬間、カメラが回った。
オペレーターが偶然を装って二人を映す。
画面の中では、二人の距離が“演出”に見えた。
「ミスター・リフレックス、私の光を支えてくれてるでしょ?」
「俺はただ、ハンガーを落とさないようにしてるだけ。」
「おい!」
サオリの声が響いた。
「カメラはホールへ!ロビーは撮影禁止!」
カメラが引き、モニターに一瞬、エイリドの顔が映る。
無表情。静かな瞳。
だがその一秒があれば、Novaのチャットは明日こう言うだろう。
――「あの人、誰?」
彼は何もせず、次の番号札を渡した。
サオリが立ち塞がる。
「約束は守ってもらうわ。」
「笑顔は禁止じゃないでしょ?」
「笑うのは構わない。でも“許可なしの絵”は禁止。」
コミが少し黙った。
それから、エイリドを見た。
――あなた、許可した?
彼は肩で答えた。
「俺は署名しない。番号を渡すだけ。」
コミは理解したように頷き、
チュッパチャップスを外して微笑んだ。
「じゃあ、ただのコーヒーにする。」
彼女が去った後、サオリが小声で言った。
「……ありがとう。」
「別に。」
「本当に。助かったわ。」
「慣れてる。」
サオリはほんの少しだけ笑った。
心から。
幕が一度下りた。
ホールから人の波が押し寄せ、
ロビーは再び息を吹き返す。
番号札が鳴り、コートが揺れ、
雨に濡れた革の匂いが漂う。
エイリドは速度を上げた。
「×1.25倍」――急ぎすぎず、遅すぎず。
手からハンガーへ、視線から記憶へ。
「杖の男――指が震えている。痛みを隠している。」
「青い服の女――両手でカップ。疲れを温めている。」
「タブレットの男――数字にしかめ面。でも人には笑顔。」
そんな断片が、夜の呼吸の地図になる。
ナオミが叫ぶ。
「左の列、ラインを保って! ユウジロウ、濡れたのと冬物混ぜないで!」
「了解!」
コミはホバーなしで近くを歩いていた。
コーヒーを片手に、ただ空気を感じるように。
肩はリラックス、目は挑戦的で、でも優しかった。
「静けさから音を作るのが得意なの?」とエイリド。
「違う。時々、静けさが私の中で爆音になるの。」
「だから“キック”された?」
「知ってたの?」
「少しだけ。」
「性格と数字。視聴者は多いけど勝率は低い。
“クリーンイメージ”が欲しいらしい。
でも私は、自分の光が欲しい。他人のじゃなく。」
その瞬間、Novaのオペレーターがまた近づいた。
スマホで小さく撮影しながら。
「コミさん、一言だけ。なんでここに?」
彼女は一度だけ真面目な目をした。
「興味があるの。
誰がドアを開け続けるのか、って。」
カメラがエイリドを映す。
彼は何も言わなかった。
その沈黙が、すでに答えだった。
第二部が終わり、客が雪のように流れ出る。
湿った匂い、ネオンの光、コーヒーの泡。
ステージから落ちたケースが倒れそうになる。
エイリドは一歩前へ。
手の角度、足の位置――完璧。
ケースは音もなく床に触れただけ。
「サンキュー!」ユウジロウ。
ナオミは無言で頷いた。
コミは見ていた。
初めて、からかいではない笑みを浮かべて。
「やっぱり。あんた、ドアだけじゃなく人も支えてる。」
「俺はテンポを支えてるだけ。
人を支えるのは、もっと難しい。」
「でも誰かが支えてる。そうでしょ?」
その時、サオリが横に現れた。
「そうね。
時々、“他人と自分を混ぜない”人が支えるの。」
空気が一瞬止まる。
青いバラが微かに揺れた。
「行くわよ。」
「了解。」
コミはもう一度振り向いた。
「番号札、綺麗に返すね。覚えてて。」
「驚かせてみろ。」
「もう驚かせたじゃん。」
上階から声がした。
「いいえ、それは“セットアップ”よ。」
リカ。
光と影の境目から。
「お願い。テンポは壊さないで。」
三人は同時に頷いた。
最後のコートが消え、
ロビーは打ち上げ花火の後の海岸みたいに静かになった。
エイリドは手袋を外し、ノートを置く。
表紙に新しい傷跡――番号札の痕。
海の匂いの男がまた現れた。
「明日はもっと熱いよ。」
「舞台が? 人が?」
「カメラが。彼らは見始めた。」
「カメラはいつも見てる。
問題は――何を、だ。」
「違う。誰を、だ。」
男は去った。
サオリが戻ってきた。
疲れているが、穏やかな顔。
「今夜、ありがとう。形式的には仕事。
でも、実際は救われた夜だった。」
「慣れてる。」
「コミがあなたの番号を聞くと思う。
私は“知らない”って答えるわ。」
「嘘は?」
「あなたが望んだでしょ。期待を残さないって。」
「もし俺が望んだら?」
「その時は、電話して。」
「するよ。」
彼女は頷き、
「じゃあ、また明日。
ドアのある場所で。」
「それが“明日”だな。」
最後に、コミが現れた。
ホバーなし、でも同じリズムの歩き方。
「ねぇ。綺麗に返したでしょ?」
彼女は番号札の代わりに
黒い王冠のステッカーを渡した。
「名刺じゃない。
“マーク”だよ。」
「捕まえた相手に?」
「理解した相手に。」
「また悪い光の中で会おう、ミスター・リフレックス。」
「そこが俺の居場所だ。」
コミはチュッパチャップスの棒だけ残して去った。
ユウジロウがそれを指差した。
「捨てる?」
「いや、置いとけ。
あれもチケットだ。別のホール行きの。」
エイリドはメインの灯りを消し、
角のスタンドライトだけ残した。
青いバラが紫に染まる。
劇場がカチリと鍵を鳴らした。
外は小雨。
空気は清潔で、まるで世界が掃除されたよう。
携帯が震えた。
Saori: 「お疲れ。今日のテンポ、忘れないで。」
Eiridは返事を書いて、送らなかった。
二つ目の通知。
Komi: 「surprise, surprise — 明日はもっと騒がしいよ。隠れないで。」
彼は笑って、ようやく返信を打った。
Eirid: 「隠れてない。ドアを開けてるだけ。」
そして、街も同じようにうなずいた。




