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「街が二度目に語る時」

彼はジャケットを羽織り、WorkLinkのバッジを確認し、ポケットにノートを滑り込ませた。

ドアのそばには傘。濡れた骨組みが、ついさっきの雨を思い出すように軋んでいた。

部屋にはコーヒーと清潔な空気の匂い。


「CRYSTAのシフトか……」と彼は笑い、スイッチを押した。

「同じ芝居の、次の幕が始まるみたいだな。」


ドアが閉まり、街が彼を再び飲み込む。

湿り気と騒音、そしてネオンの蒸気に包まれた夜。

アスファルトは映画のワンシーンのように輝いている。

細かい雨が頬に冷たいキスを落としながら、すぐに消える。

埃とコーヒー、燃える看板の匂い――

疲れていても美しくあろうとする、東京の典型的な夜。


エイリッドはゆっくりと地下鉄へ向かう。

一歩ごとの足音が路地にこだまし、まるで街が囁くようだった。

「ほら、また働きに行くんだな。」


階段の手前で、古びたスマホを取り出す。

角のひび割れが光に反射した。

画面が点滅し、メッセージ。


Saori > 本当に行くの?雨なのに?

彼は口の端を上げ、一歩も止まらず片手で返信する。

Eirid > 君、見張ってるのか?

すぐに返事が来た。

Saori > 予想を確かめてるだけ。たまには当たるのよ。

Eirid > 天気ぐらいじゃシフトは中止にならない。

Saori > じゃあ見せてもらおうか、嵐の中での“フォーム”を ;)


彼は小さく鼻で笑い、スマホをしまった。

「フォーム、ね……。人の中身は輪郭だけじゃないのにな。」


地下の空気は重く、

レールの低い唸りが胸の奥まで響く。

鉄と温い水の匂い。

天井のライトは均一に光り、街が“もう瞬かない”と決めたみたいだった。


電車が滑り込む。

思考をリセットするような音。

彼は乗り込み、窓際に座り、傘を立てかけた。

乗客はまばら。

弁当の袋を抱える人、イヤホンの中に沈む人、

手に顔を埋めて眠る人。


スマホが再び震えた。


WorkLink.Pro > 通知:Eirid様、CRYSTA Groupのスタッフリストに追加されました。

シフト:CrossLight Theatre 19:00~23:00 左ウィング入口より入場。


彼は眉を上げた。

「仕事が早いな。」と小声で呟き、

「俺のスケジュール、運命の契約書みたいになってきた。」と苦笑した。


電車が揺れ、トンネルの光が流れる。

窓に映る自分――白い髪、青い瞳、

それでも消えない疲れを纏った目。

そしてふと気づいた。

本当に興味が湧いている。

シフトでも、サオリでも、金でもない。

“次”が、ただ知りたかった。


地上に出ると、東京の夜は違う顔をしていた。

急がず、脈打つように動いている。

濡れたアスファルトに灯りが映り、

車は静かに滑り、

人々は過去の設計図から抜け出した幻のように歩いていく。


空気に潮の匂いが混ざっていた。

遠く地下のどこかで、波がまだ息をしているように感じた。


スマホが震える。

Saori > バッジ忘れないでね。前、ロッカーに置きっぱなしだったでしょ。

Eirid > 今回は完璧だよ。傘まで持ってる。

Saori > お、傘とは進歩したね :3


彼は返信せず、ただ笑ってポケットにしまう。

サオリの言葉はいつも軽くて鋭い。

その一言に、言葉以上の意味が隠れている。


CrossLight駅への角を曲がると、空気が重くなった。

風が古いポスターを揺らす。

長いコートの女優、その下に書かれた文字:

「二度と訪れない舞台」

彼は呟いた。

「人生も同じだな。」


劇場前の路地は静かだった。

パン屋の少年がシャッターを下ろし、

イヤホンの少女が窓に映る自分を見つめている。

エイリッドはその音の間を歩き、

雨粒と足音が作るリズムを聞いていた。


スマホをもう一度見た。新しい通知はない。

それでも、誰かがまだ“送信”を押していない気がした。

彼の脳裏にサオリが浮かぶ。

オフィス、マグカップ、強気な瞳。


「君は言ったね。『変わってる』って。」

彼は笑った。

「シーンを間違えるなよ、サオリ。」


劇場の入口にはWorkLinkのスタッフが二人。

灰色のベストに、お決まりの丁寧な頷き。


「エイリッド・Kさんですね?確認します。」

端末が緑に光る。

「どうぞ。左ウィングでお待ちです。」


中は温かく、

ワニスと電気の匂い。

廊下の灯りは柔らかく、まるで舞台の息遣いでできていた。

彼はゆっくり歩き、心臓が静かに拍を刻む。


ドアの向こうから声とざわめき。

観客を迎える準備が進んでいる。

「街が最初に語るなら、今度は俺の番だな。」


内部は雨と金属の匂いが混じり、

どこか現実と舞台の境界が曖昧だった。

青いバラが花瓶に並び、

冷たいスポットライトを反射して淡く光る。


彼は静かにホールを抜けた。

足音がBGMのように響く。

今日は芝居ではない。

CRYSTAのイベント――

静かなプレゼンテーション、

それでも休憩もコーヒーも観客もある、

「信じるより、聞く」人たちの集まり。


彼は細部を観察する。

音響は左に偏り、

受付のペアは欠け、

通路のカメラは点灯を待っている。


そして、劇場そのものが誰かを待っているように感じた。

たぶん――彼自身を。


クロークには仲間が二人。


「エイリッド?またお前か?」とユウジロウ。

「運命だよ。」と彼は笑った。「このドアと契約したらしい。」

ナオミが名簿を見ながらため息をつく。

「今日は半分がCRYSTAのエージェント。

無口でね。“こんばんは”って言っても、

再生速度0.5倍で返される感じ。」

「慣れてるよ。俺も急がない。」


彼は左のカウンターに立った。

指は記憶している――

番号札、コート、他人の言葉。

だが今日は、音が柔らかく、

まるで雨越しに聞こえる会話のようだった。


最初の客たちは静かに入ってくる。

スーツ、整った動作、無色の声。

胸にはCRYSTAのロゴバッジ。

完璧な礼儀と、完璧な距離。

「ありがとう」さえ言わず、

無言のうなずきで“入力完了”。


エイリッドは彼らを観察する。

全員、姿勢も歩調も同じ。

「なるほど。人を操る者たちは、

自分の手を使わないのか。」と心の中で呟く。


「エイリッド。」ナオミが囁く。

「一人、こっちに来る。」


振り向くと、

黒いコートの男。三十五歳前後。

手にはタブレット。海の匂い。

雨にも洗われない冷たい塩の香り。


「番号札を。」

男はコートを差し出し、じっと見つめた。


「あなたは推薦されています。」

「誰に?」

「CRYSTAに。」

「なら、俺はここで正しい。」


「私たちが何をしているか、知っていますか?」

「いいえ。でも聞かない。俺はただ、ドアを開ける側です。」

男はわずかに口元を動かした。

「それが、正しい立場です。」


彼が去ると、

空気がわずかに重くなった。

ホール全体が同じ呼吸を始める。


続いて数人。

グレーのトレンチの女、MediaWingの二人。

皆、静かに、同じリズムで歩く。

目はカメラのレンズのように、

見ているが記録していない。


「彼らは観客じゃない。」

「コントロールだ。」


音楽が変わる。

軽いビートの向こうに女性の声。

遠く、澄んでいて、

スピーカーではなく空気そのものから響く。


青いバラが微かに震え、

会場全体が一瞬止まった。


「綺麗だな。」とユウジロウ。

「音響テストだろ。」とエイリッド。

「あるいは……警告かもな。」


彼の声は落ち着いていたが、

心の奥で何かが動いた。

恐れではなく、既視感。


街と劇場が再び密かに語り合う。

そして、彼だけが――

その会話を聞き取っていた。

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