静かすぎる別れ 後編
静かすぎる別れ
「名前は……?」
医師が小声で尋ねた。
誰も答えなかった。
一人の少女の心拍が、停止した。
時計の針が、午後2時13分を指していた。
◆
「死亡時刻、14時13分。死因は……外傷性脳損傷による多臓器不全」
医師がカルテに淡々と書き込む。
その背後で、両親は椅子に座っていた。
泣くわけでもなく、怒るわけでもない。まるで、待っていたかのような沈黙。
「臓器提供について、確認されていましたね」
母親が頷く。父親は顔を背ける。
それだけで、手続きが進んだ。
◆
マイナンバーによってひもづけられた少女の電子カルテには、AB型・Rh+、HLA適合、心臓・腎臓・肝臓すべて移植可能というタグがついていた。
その情報は、瞬時に国内外の臓器提供データベースに送信された。
一部の情報は“特別ルート”に流れた。
本来、絶対にアクセスできないはずの官邸側のターミナルで、ある人物が画面を確認する。
「この子、適合してるな……次の案件に使える」
その情報は言葉ではなく、サインのみで送られる。
◆
担当医は、少女の臓器を慎重に摘出し、それぞれ適合者のもとへ配送する。
心臓は、心臓疾患を患っていた11歳の海外VIPの子へ。
腎臓は、国内の中年男性へ。肝臓は、匿名の高官の娘へ。
それぞれの家族は、涙を流していた。
──“助かった”と。
だが、その命がどこから来たのかを知る者は、いなかった。
◆
少女の名前は、新聞のどこにも載らなかった。
SNSでも話題にならなかった。
なぜなら、死亡報告は
「心不全による自然死」として処理されたからだ。
マイナンバーカードのデータも改ざんされ、虐待の痕跡は跡形もなく削除されていた。
保護者の罪も問われることはなかった。
彼女は、国の制度の「理想的な成果」として、静かに消えた。
◆
後日、担当医がデータを確認したとき、
彼女の記録が“空白”になっていたことに気づいた。
彼はしばらく画面を見つめ、そして静かにPCを閉じた。
「見なかったことにしよう」──それが、精一杯の自己防衛だった。
◆
──誰も、彼女を助けなかった。
──でも、誰も罪に問われなかった。
その夜、どこかで3人の命が救われた。
世界は、何も変わらなかった。
救えたのか、それとも
記録上、この子どもは「転倒による外傷性ショック死」。
提供された臓器は4名の命をつなぎ、各医療機関は「感謝と称賛の声」でその事実を包んだ。
しかし病院関係者のひとりは、匿名でこう呟いている。
「あの日の同意書には、そもそも署名欄がなかった」
別の看護師はこう語る。 これは使えそう?
「あの子、目だけがずっと、どこか別の場所を見ていた。助けを求めてたと思います」
文書の改ざんはあったのか?
判断は間違っていたのか?
それとも、これは“助けられる命を助けるための制度”だったのか?
その答えは、公式にはどこにも書かれていない。
だが1人の記者が非公開の病院ログにアクセスし、こう記録している。
「虐待通報が1ヶ月前に自治体へ届いていたが、『対応済み』と記され、削除されていた」
偶然か、意図か。
人為か、制度の誤作動か。
――すべてが誰かの命を守るためだったのか、
それともただ、整合性のために消された命だったのか。
それを知る手段は、もう残されていない。
けれど、最後に誰かがこの子の臓器で命を救われたなら、
「その命に意味はなかった」とは、誰にも言えないのかもしれない。
本作はフィクションです。
だが、時として事実は、物語よりも丁寧に隠されているだけです