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冬越しのちょうちょう

作者: ゆめこ@flat

 僕の娘は、白く濁り、ごろんと丸まり、土に埋まっているカブトムシの幼虫に釘づけだ。

 年始にオープンしたこのショッピングモールには大型のペットショップが入っていて、娘は先週もこのペットショップで二時間過ごしていた。

 今日はバイオリンの発表会のドレスを買いにきたというのに、グレーと緑のチェックのズボンに、グレーのトレーナー、さらにグレーのニット帽と、グレーに身を包んでしゃがみこんだ娘は、まるで岩のように動かない。


 今日の目当ては、ペットショップではなく、キッズドレス専門店の期間限定ポップアップストアだ。

 「行けるチャンスは今日だけだからね」という妻の言葉を思い出した僕は、腰を曲げ、指先で娘の肩をちょんちょんとつついた。

「ドレス見にいこうよ」

 娘は丸々と太った幼虫を見つめながら「うん」と生返事をして、やっぱり動かない。

 幼虫が入れられているケースには「国産カブトムシ、幼虫、三百円」とある。ドレスに比べればはした金、僕は買ってやることにした。

 とはいえ、透明なケースから丸見えのカブトムシの幼虫を持って女の子だらけのドレス専門店に入るのはいかがなものか。

「ドレス見てから、幼虫買って帰ろっか?」

「うん!」

 娘は振り返りながらピョンと立ち上がり、その大きな目を少し細めて笑った。


 ポップアップストアは思っていたよりも一回り小さく、店内に親子連れが三組いるだけなのに、なかなか賑わっているように見える。

 入り口のマネキンはラベンダー色のロングドレスを着ていて、足元には白い靴がちょこんと置かれている。

 一方、マネキンの横をさっそうと歩いていった娘の足には、マジックテープがついたスニーカー。

 僕はこの時、靴も買わないといけないことに気がついて本当に良かったと思う。

 白いドレスには白の靴がいいだろうか、それともゴールドとか他の色がいいのだろうか、などと考えながら娘の後をついていくと、娘は水色から濃紺までグラデーションを作るように並べられているドレスの前で止まった。

「青系にするから」

「あ、そうなの? 白かと思ってた。モンシロチョウみたいに」

 娘が発表会で弾く曲は『ちょうちょう』。

 僕はずっと、菜の花畑を舞うモンシロチョウを思い描いていた。

「私、ルリタテハだから」

「なるほど……。さすが昆虫博士だな」

 娘は照れくさそうに僕から目を逸らし、一番右端に吊られている濃紺のドレスを手に取った。

 

 ルリタテハとは、その名の通り、美しい瑠璃色模様の翅を持つ蝶だ。

 その翅は全体が青みがかった黒、または深い紺色で、鮮やかな瑠璃色の帯状模様がついている。

 ほとんどの蝶は幼虫やさなぎの姿で冬を越すが、ルリタテハは成虫の姿で冬を越す。

 立春を過ぎてもまだ春の訪れを感じられないこの時期、モンシロチョウは飛んでいないが、ルリタテハは飛んでいるのだ。


「試着してみますか?」

 僕たちに声をかけてきた女性店員は二十代後半に見えた。黒い髪をきっちりと一つにまとめ、黒いパンツスーツに身を包み、黒いパンプスを履いている。

 僕が、白いドレスが並ぶ一角で姉妹の相手をしている年配の女性店員の方が良かったなと思っている間に、娘はさっさと若い女性店員についていってしまった。

 あわてて後を追う僕に、女性店員はにっこりと笑って「そちらに座ってお待ちください」と、五本指をきっちりとそろえて手のひらを上に向け、試着コーナー手前の背もたれのないソファを示した。

 言われた通りソファに座ると、目の前にある鏡の端っこに、さきほどまで目にしていたきらびやかなドレスとは対照的な僕の姿が映しだされた。

 お気に入りのジーンズはかなり年季が入っているし、仕事柄ついつい黒い服ばかり着てしまう。

 それに、いつも月曜の朝に剃るひげは、今日の朝に剃るべきだった。

 僕は耳にかかりはじめた髪の毛をさわりながら、明日行く予定の美容院では、爽やかで清潔感がある髪型にしてもらおうと決めた。

 来週の日曜は、いよいよ娘の初めての発表会。

 僕は何をするわけでもなくて、いつも通り写真を撮るだけだが、なんだか緊張する。



 娘が小学校にあがった四月から始めたバイオリンは、習い始めてそろそろ一年が経とうとしている。

 四月から一緒に習い始めた子達は、五月のモンシロチョウの季節には二つ目の練習曲『ちょうちょう』を弾いていた。

 青葉が眩しい日にバイオリン教室にお迎えに行った時、幼稚園の制服を着た女の子が「ミドド、レシシ、ラシドレ、ミミミ」と口ずさんでいたのを思い出す。

 みんなが『ちょうちょう』の合格をもらう頃、娘はまだ一つ目の練習曲『キラキラ星』を最後まで弾くことすらできていなかった。

 モンシロチョウの季節が過ぎ、セミが鳴き出しても、娘は『キラキラ星』から『ちょうちょう』へ進めなかった。

 そして、バイオリンの先生から、夏休みだけレッスン時間を伸ばすことができるという話があり、夕食時に妻に相談した時のこと。


―別に伸ばさなくていいんじゃない。そもそも家での練習時間が足りないんでしょ? みんなもっとやってる、だから次の曲に進んでる。うちはやってない、だから進めない。レッスンの時間を伸ばしても、それをちゃんと家で練習しないんじゃ意味ないと思う。

―そうだなぁ。やっぱり、もう少し練習時間を増やした方がいいんじゃないか?

―……。

 娘は無言で、僕が作ったハンバーグを食べる手を止めた。

―自分でバイオリンやりたいって言って始めたんでしょ? うまくなりたいと思わないの?

―……思う。

―だったら、もっと練習しないと。

―……だって。

―なんでそんなにやる気がないの? そもそも、なんでバイオリンがやりたいわけ?


 幼稚園に行く前から虫が大好きだった娘がバイオリンを習いたいと言った時、僕は内心ほっとした。

 それで、娘がなぜバイオリンを習いたいのか、聞いてもいなかった。

 きっと、小学生になって、やっと女の子らしいものに興味が出てきたとか、友達がバイオリンを習っていると言っていたとか、そんなところだろうと思っていた。

 とにかく、僕は娘にバイオリンを続けてほしくて、せっせと送り迎えをし、レッスン終わりには決まってジュースを買ってやった。

 でも、よく考えてみれば、娘はバイオリン教室に仲の良い友達もいないし、練習も毎日十分ぐらいしかしないし、相変わらず頭の中は虫のことでいっぱいだ。

 それなのに、どうして、バイオリンを習いたいのだろう。

―テレビで、バイオリンを聞いた時に、なんか、風の音とか、虫の声に似てると思ったから。

 その理由をきいて、僕はふいにこみあげてきた涙をこらえた。


―結局、虫なのね。だったら、わざわざバイオリンを弾かなくても、聞けばいいんじゃない? ママも知らなかったけど、バイオリンを弾くには、時間とお金がすごくかかる。練習して弾けるようにならないなら、バイオリンなんかやめて、あなたの時間は虫取りしたり、昆虫館に行ったりして使った方がいいと思う。バイオリンに使うお金も、昆虫図鑑とか、アリの巣ハウスとか、ヘラクレスオオカブトを買うのに使えるじゃない。

 妻に理詰めされている娘をかわいそうに思った僕は、とっさに助け舟を出した。

―まぁまぁ、そんなにがっつりやらなくても、バイオリン教室に通ってるってだけでも、女の子らしくていいじゃないか。

 その時、カタンという音がした。

 おそるおそる音のした方を見ると、フォークをテーブルに置いた娘がギロリと僕を睨んでいた。

―もうバイオリンやめる。

 その夏中、僕は必死で娘の標本作りを手伝って、やっと許してもらえたのだった。



 三つある試着室の一番奥から出てきた娘は、一瞬誰だかわからないほど大人びていて、その姿に僕はたじろいでしまった。

 娘は店員に付き添われ、はにかみながら、いつもよりゆっくり歩いてくる。

 かわいいとかきれいとか言ったら怒るだろうかと悩みながら立ち上がり、声をかけるタイミングを失って、ただ娘の肩に手を置いた僕は、そのドレスの肩口からすらりと伸びる二の腕に、半袖の形に日焼けの跡が残っていることに気がついた。

「お父様、髪型はこのままショートですか? ウィッグかなんかつけたりします?」

「あ、いえ、このままです」

「そうですか。であれば、むしろ、この付属のヘアアクセは……」

 店員は独り言のようにつぶやきながら、娘の耳の上あたりにつけていたキラキラしたものをはずしてしまった。

「うんっ! 何もつけない方がかっこいいですね!」

 そう言った店員を見上げた娘は、その大きな目を思い切り細めて笑った。


 ショッピングモールの自動ドアを出てひやりとした空気に触れた僕は、手に持っていたダウンジャケットを羽織った。

 娘はというと、僕が広げた白いコートをちらりと見て「いい」と言い、カブトムシの幼虫のケースを愛おしそうに両手で包んだ。

 ショッピングモールは駅直結だし、コートを着ていなくても風邪をひいたりはしないだろう。

 とはいえ、まだまだ寒いこの時期、バイオリンの発表会を間近に控え、僕は娘のウインドブレーカーを持ってこなかったことを後悔した。


 電車を降りてからは、十五分もあれば家に着く。僕は娘の背中に手を添えて、家路を急いだ。

 駅から住宅街へと続く道には、美容院やパン屋が並び、二、三軒ある居酒屋はそろそろ店の準備を始めている。

 店が途切れ、住宅街の入り口となる交差点を渡ったところには、十分な広さの公園がある。

 少しでも早く家に着きたくて、その公園を突っ切ろうと入り口まで来た時、ふいに娘の名前が呼ばれた。

 見ると、公園の総合遊具の一番上にあるツリーハウスのようなところから、男の子が三人、こちらに向かって手を振っている。

 右端の男の子の足元には、サッカーボールが一つ。

 僕は嫌な予感がしたのだか、言葉を探しているうちに、娘はカブトムシの幼虫をかかげて行ってしまった。



 あれは、季節が秋めいてきた頃。

 娘は、もう一度バイオリン教室に通い出した矢先、左手の薬指を突き指した。

 公園でサッカーをしていて、グローブもせずに素手でゴールキーパーをしたらしい。

―なんでよりによってゴールキーパーなんかしたんだ?

―女だからと思われたくなかった。

 

 その次の日の朝、案の定、娘はバイオリンの練習をしないと言った。

 妻と、二、三分でもいいから練習時間を伸ばすという約束でまたバイオリンを始めた娘は、本当に練習時間を二、三分伸ばしただけ。

 一緒にスタートを切った幼稚園の子達は、もう手が届かないところまで行ってしまった。

 ここで練習を一週間も、二週間も休めばどうなるか……。

 僕は昨晩から考えていたことを、努めて冷静に言った。

―左手なしでも、ちゃんとあごで支えられていればバイオリンは持てる。右手で、ラとミだけでいいから練習しよう。

 そして、しぶしぶ右手一本で練習を始めた娘は、ふと髪を触った際にバイオリンを床に落とした――。

 ガターンという木と床が衝突した物理的な音と、ジャーンという美しい三万円の響き。

 小さな「駒」という部品は落下の衝撃で飛んでいき、白い壁にコツンと当たった。

 その時、僕は何を言ったか覚えていない。たぶん、大きな声を出したんだと思う。

 だって、娘がバイオリンの弓をだらんと下げ、うつむいて突っ立っていたのを覚えている。

 妻はちょうど仕事に出かけようとするところで、腕時計をつけながら僕の横を早足で通り過ぎ、はぁとため息をついてから僕の方を振り返って言った。

―ちゃんと練習してるんだから、壊れることだってある。本当に壊れたんなら、今日中に買いに行ってね、明日の練習に間に合うように。


 娘が学校に行った後、僕はバイオリンを買った時についてきた説明書を探し出し、スマホ片手に英語の説明を解読しながらバイオリンを組み立て直した。

 わずかに残る白い松やにを拭きとりながら、バイオリンを前から見たり横から見たりして、何度も「駒」の位置を確認した。

 それから、完全にゆるんだ弦をしっかりと締め、チューナーとにらめっこしながら、一からチューニングをやり直した。

 やっとバイオリンがなおった頃には、午前中にやるはずだった書類の整理も、カメラの手入れも、洗濯も、洗い物も残っていて、僕は何もかも放棄したくなった。

 仕事も、家事も、妻の正論を受け止めるのも、娘のバイオリンに付き合うのも……。


 娘のバイオリンには、この時の落下でできた一センチぐらいの傷が、今でも残っている。

 その傷を見ると、僕は心のかさぶたをはがされるような気持ちになる。だから、毎朝、無意識にその傷を見ないようにしている。

 全部なかったことにしたくてふたをしているのに、こじ開けられそうになって、それでも僕は思い出す勇気がないのだ。

 けれど、娘はちゃんと覚えているだろう。いつも、その大きな目で真正面から世界を見ている。

 そして、かさぶたができたそばからはがして、絆創膏もすぐに取ってしまって、傷むきだしのまま走り回っている。



 薄紅色の夕焼けが始まって、僕は「早く幼虫を大きな虫かごにうつしてやろう」という、とっておきの台詞で娘を帰る気にさせることに成功した。

 娘は、そのほっぺたを健康的なピンク色に染め、鼻をすすりながら僕の後をついてくる。

 そして、公園の出口の手前にある水道までくると、慎重に幼虫のケースを地面に置き、トレーナーをひじの上までまくりあげて手を洗った。

 手をブンブンと振り、「ハンカチ」と言って出した娘の手のひらには、数本の赤い線がついている。

 さっき木登りのようなことをしていた時に擦ったのだろうか。

 僕はしゃがんで手を拭いてやりながら、娘のあごのあたりにも同じような赤い線が入っているのを見つけた。

 

 あとは家まで一直線という道の右側には、小さな公園ぐらいの大きさの菜の花畑が広がっている。

 去年、ここの菜の花が一面に咲き誇る中、僕は飛び交うモンシロチョウを見ながら、いつになったら娘が『ちょうちょう』を弾けるようになるのかと考えていた。

 いや、幼稚園の子でもできるのに、どうして娘はいつまでたってもできないのかと、本当はそう思っていた。

 でも、僕が馬鹿だった。

 だって、娘はルリタテハだったから。

 春に舞うかわいらしいモンシロチョウじゃなくて、厳しい冬をたった一人で生き抜く兵、ルリタテハだったのだ。


 ルリタテハは、いくら冬が厳しくても、さなぎになってその生を止めはしない。自分が一番輝く姿のまま、北風に向かい、雪上を舞う。

 冬の日を一日、また一日と追うごとに、誰もが美しいと称えるその翅は、破れ、欠け、帯状模様を彩る瑠璃色は色褪せていく。

 僕は、そんなルリタテハを見つけたら、シャッターを切らずにはいられない。

 その翅の、傷ついてなお高貴さを失わない濃紺の深みとか。その帯状模様の、瑠璃色を失ったからこそたどりついた雨過天青の奇跡とか。

 そういうところが、最高にかっこいいから。

 僕の娘のように。

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