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電車に乗るのは2か月ぶりだった。会社を辞めさせられ、今住んでいるカプラへ連れて来られてから行動範囲が狭まっていて、電車を使う機会が全くなかったのだ。それこそ、最後に使ったのは電車を乗り継ぎ東へ逃亡しようとしたときだ。ICカードに入れっぱなしだった電子マネー金額に不安を覚え入金しておく。初めて乗る駅、見覚えのない車窓からの景色。どれもどこか新鮮で、電車があればどこへでも行けるのだという今更過ぎる万能感さえ感じられた。
今住んでいる場所は以前の職場の隣の市の郊外だった。前の自宅からも職場からも、それなりに距離がある。
四角く切り取られた外からは、橙色の日が差し込んでいる。座っている女子高生が船を漕いでいた。暖房がなくとも、窓から日が入るだけでかなり暖かい。徐々に春が近づいて来ていた。目の前で人が殺された夜から、季節が変わろうとしている。
いつも着ている白のシャツに黒のスラックス、会社勤めの時に来ていた馴染のコートを着ていれば、退社するサラリーマンの群れの一部になっているようだった。もっともそれは形だけなのだが。駅の人波に揉まれながら歩いていると、いろんな属性の人間が歩いていることが見とれた。会社勤めのとき、俺は自分がいる場所こそがメインストリームで、それ以外はそこから外れた変わり者や落伍者だと思っていた。子どもの頃からきっとそうだったのだろう、真面目に学校に通って、大学へ行って、企業に就職する。それが普通の人生で、正しい道だと信じて疑わなかった。だがそれゆえに、そこから外れることに恐怖していた。高卒で働く同級生や起業する大学の同期のことを変わり者だと思いながらその勇気に恐怖していた。だが今の俺と言えば、勤めていた会社を辞めさせられ強制的に無職になった挙句、道楽のような収益を度外視した反社会的勢力の所持する喫茶店の雇われ店長をしている。人生どうなるかわからないが、なるようにしかならないのだとこの年になってわからされた。
前の会社の同期たちに会うのに、抵抗がないわけではない。実際、1月前に誘われたときは適当にお茶を濁していた。つい先日までバリバリ働いていたのに目の前にあったレールを絶たれ、腑抜けのようになっている自分が恥ずかしかった。何より自分の今の状況を、何一つ彼らに説明できる気がしなかったのだ。ちょうど目の前で人が殺されるのを見るのが2回目だった。あの時の精神状況で同期に会ったらその場で泣き崩れてしまうような気さえした。
またつい数日前に俺に声をかけたのは同期の羽田だった。誰よりも早く俺に辞令のことを伝えに来て、一緒に憤ってくれた彼は俺が辞めた後も気に掛けてくれている。一応落ち着いて、現在の状況もある程度飲み込みつつ、対外的な言い訳や設定も用意できた今、近況報告の一つでもするのが義理だろう。話せる事実は多くない。ただ今の生活に大した問題がないこと、やめさせられたのは遺憾だが、気に病んでいないこと伝えられれば、羽田に無駄な心労を掛けないでいられるだろう。
伝えられていた店の扉を開ける前に深呼吸する。
今からこの扉を開けるのは殺人鬼に気に入られた挙句囲われた俺じゃない、理由もわからず仕事を辞めさせられたが、運よく雇われ店長になれた俺だ。
嘘は吐いていない。真実を伝えないだけで。間違いなく、それがお互いのためだからだ。
「うおおおお灰音‼ 生きてる!!」
「生きてるよ。生きてなかったら誰が返信してると思ってたんだ」
「大丈夫か⁉」
「大丈夫だよ」
店内中腹の6人掛けのテーブルに見慣れた面々が見えた。真っ先に立ち上がったのはやはり羽田で、目が合うなりタックルのようなハグをされる。
「もう飲んでんのか」
「飲んでねえよ素面だよ! ぶっちされるんじゃないかって不安だったんだよ畜生!」
「行くって答えてんのに来ないような奴だと思われていたのが心外だ」
他の面々からも声を掛けられながら空いていた席に着く。彼らの顔を見ながら知らず知らずのうちに顔色を読む力が随分と上がったなと感じた。普段笑顔を張り付けた人間の心情を必死に読み取りながら優位を取ろうとしているからだろう。不安、心配、好奇心。各々思うところがあっ羽田の声掛けで集まったのだろう。
とりあえず生、と当たり障りない注文をしてそれぞれの仕事の近況を聞く。話始めれば2か月の空白や突然退職した俺の奇異さも気にならないようで、一緒に勤めていたころと変わらないテンポで話すことができた。というよりも俺が聞き手にあえて回ったからだろう。話のフリや内容は俺が調整できる。それぞれ数杯飲んで多少酔いが回ってきたころ一人が不思議そうに口にした。
「それにしても灰音、雰囲気変わったな。前はもっとギラギラした感じだったのに、すごい、こう、のほほんとした感じ」
「そうか? そもそも俺は言うほどぎらついてたか?」
「ぎらついてたよ。客にはニコニコいい子の笑顔してるのに、客の前以外だといつもぎらついてた」
「わかる。ばりばり仕事するぞ、とか成り上がってやる、みたいな感じな」
まあ自覚がないでもなかったが、周囲にそこまで悟られている時点で完璧ではなかったのだなと一人ごちる。定期的に同期たちと飲み会をしていたのも、いざというとき頼ることのできるパイプの維持のためという下心からだった。だがこの分だとその下心まで見透かされていそうだった。
「ていうかさっきから聞いてばっかだったけど、灰音って今何してんの?」
羽田の言葉に他の4人に緊張が走る。一瞬にして酔いを吹き飛ばされたような顔に苦笑いする。なるほど俺が聞き手から話し手側に回らなかったのは俺の振る舞いだけが理由ではないようだった。皆一様にジョッキや箸を持った手を止める。気遣うように俺を見る目に笑ってしまった。
「今は喫茶店の雇われ店長してる」
「喫茶店の! 店長! お前が⁉」
「俺がだよ。仕事辞めた後すぐ、知り合いから紹介された。のんびりさせてもらってるよ」
何とも言い難い感嘆の声を上げる面々を見ながらウーロンハイを飲む。驚嘆は安心、好奇心、それから妬み。わかりやすくて笑ってしまった。確かに今の俺の説明なら羨ましがられても全くおかしくない。がつがつした営業職から一転、のんびりと喫茶店の雇われ店長をしているなどと聞いたらスローライフに興じていると思われるだろう。実態は店内で殺人事件が起きたり、オーナーの人殺しに狙われたりしている。それを聞いたら誰も羨ましいなどとは口が裂けても言えないだろう。もっとも、そんなことを伝えたら俺も彼らも命の危険に晒されないでもないのだが。アルコールの入った頭でも、絶対に漏らしてはいけないことは
よくわかっていた。
「喫茶店の店長って、コーヒー淹れたり、料理したり?」
「ん、そう。俺がコーヒーより紅茶の方が好きだからメインは紅茶。あとチーズケーキとかマフィンとか簡単なお茶請けを作って出してる」
「灰音くんってお菓子作りとかできたの⁉」
「一応。そっちで働いてた時も休みの日とかに作ってたよ」
思えば同期とは付き合いは長いが会うのはいつもこういった仕事終わりで、仕事の話はすれどそこまでプライベートの話はしなかった。もっとも、俺のプライベートなど基本的にぺらぺらなため話せることなど端からなかっただろうが。
「いや、でも、お前……いや、お前のせいじゃないのは百も承知ではあるけど! お前が引き継ぎ0でいきなりいなくなってお前の仕事全部突然降って来た俺たちの苦労! なのにお前がのんびり生活しとるとか納得いかん!」
「俺だって辞めさせられたことに納得してない。が、それはそれとして迷惑かけたな。俺のせいじゃないけど」
「お前のせいじゃないけど!」
よくわからない乾杯をせびられジョッキを軽くぶつける。
予想はしていたが、やはり俺がいなくなって宙に浮いてしまった仕事は無事同僚たちに割り振られたらしい。仕事を増やして申し訳ないが、悪いのは会社に圧力をかけたテオドールとそれに屈した会社だ。俺は悪くない。
ふと、店内が騒がしいことに気が付いた。皆アルコールが入っているのだ柄ある程度騒がしいのは当然なのだが、どこか様子がおかしい。
「おいっ通してくれ! 奥に裏口あるんだろ! そっちから出してくれ!」
声の主は大柄な中年の男だった。男はアルバイトの若い青年に必死の形相で怒鳴りつける。
「こ、困りますお客さま!」
「いいから早く通せ!」
その鬼気迫る怒声に他の客もざわつき始めた。店内の空気はどこか不穏になる。
「なに、あの人」
「裏口から出せって、表から出ればいいのに」
同期の言葉に自分が入って来た入り口を見る。するとガラス戸の向こうに人がいるのが見えた。複数人の黒い影。だが彼らはいっこうに店内に入る素振りを見せない。いつもなら、連れが来るのを待っている、あるいは店から出た客がタクシーが来るのを待っているのだろうと思えるのだが、今はなぜかそう思えない。
それこそ喚き散らす男の様子を見れば、まるで男が出てくるのを待ち構えているかのようにすら見えた。
「他のお客様のご迷惑にもなりますので……」
「うるせえ! 金なら払う、」
からから、と扉が開けられた。男は息を飲み、他の客も固唾を飲んで見守っていた。扉が開く音に気付いた厨房の店員だけが条件反射のようにいらっしゃいませーと叫んでいた。
「お邪魔しまーす。あ、クラタさんいた! 裏口から逃げようとしてるの?」
扉をくぐってのんびりと声をかけたのは身長2メートルはありそうな赤毛の青年だった。そしてあまりにも見覚えのある姿に俺は全力で目を逸らした。
「ダメだよ。借りたお金はちゃんと返さないと」
「返す、返すから!」
「返さないから捕まえに来たんだよ」
ルドルフ・カデンツォ。先日カプラでテオドールに殺されたマシューという男を片付けに来た、食人鬼の青年だ。
なぜここに、というと見たがまま、借金の集金の仕事なのだろう。死体の処理に借金の集金。絵にかいたようなヤクザだというのに彼の毒気のない笑顔と話し方だけは本当に善良な青年らしかった。
「あなたがクラタさんであってるよね? トーマさんから大柄な男って聞いてたし、大柄なのあなたしかいないし、呼んだら反応したし」
「ち、っ違う俺じゃない!」
「あれ、あなたじゃないの?」
不思議そうに首をかしげるルドルフに、店内の誰もが男の言い分を信じるのか、と思っていたが、関わり合いになりたくないため誰もそれを口にすることはない。ルドルフは躊躇なく男からクラッチバッグを奪うと中を漁りだした。
「あ、財布あった! うん、免許証も。やっぱりクラタさんだ!」
「か、返せ!」
「……嘘をついたね? 罪深く、悲しいことだ」
静かな声と共に笑顔が消える。そして予備動作なしにクラタと呼ばれた男を担ぎ上げた。
「騒いでごめんね。もう帰るから」
ルドルフは目の前で呆然とやり取りを見ていたアルバイトの青年にそう言うと、成人男性を担いでいるとは思えない軽やかな動きで危なげなく踵を返した。
そして振り向いた瞬間、赤い目と視線がかち合った。無表情が一瞬にして満面の笑顔に変わる。
「ハイネ! 久しぶりだねハイネ! 元気? そっちは友達?」
「……ああ」
名前を呼ばれた時点でなんの言い逃れもできず、感嘆とも返事とも取れない声を漏らした。同期たちの視線が痛い。
「ルドルフ……! 早く来い……!」
「あっトーマさん! 見て! ハイネがいるよ!」
「わかったから早く戻れ……!」
開けられたまま入り口にスーツを着た壮年の男性がいた。一度しか見ていないが、あの夜カプラにいて俺を2階まで連れて行ってくれた人だろう。トーマと呼ばれたその人は申し訳なさそうに一瞬俺を見てすぐに逸らした。おそらく、彼は一般的な感覚に近いものを持ってる。だからこそどう見てもヤクザである自分たちと俺にかかわりがあることを伏せたいのだろう。連れから俺がどう思われるかまで考えてくれている。そしてその考えを微塵も理解しないのがルドルフだ。
「ごめんね! 今仕事中だから、また今度お店の方に行くね!」
ニコニコ笑顔のままルドルフは数歩で玄関にたどり着きそのまま出て行った。




