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知る人ぞ知る、小さな喫茶店。もとはバーだったが改装され、今は紅茶をメインで扱っているらしい。らしい、というのも私は前身を知らないからだ。静かで落ち着いた素敵なお店。毎週末の金曜日、仕事終わりに何とか立ち寄る。本当はもっと通いたいけれど、就職3年目事務職女子に、そこまでの金銭的余裕はない。紅茶1杯で普段の一食分の値段がしてしまうし、ケーキや焼き菓子を付けると1,000円は超える。間違いなくチェーンのコーヒーショップやカフェの方が安上がりで、写真映えもする。それでもどうしても通いたいと思ってしまうのは、他に目当てがあるからだ。
からんころん、と少し低いベルの音がすると心が弾む。アンティーク調の家具に出迎えられると都会の喧騒や日常生活から切り離され、まるで外国にでも来た気分になる。
「いらっしゃい」
少し低い愛想のいい声に、心が躍って自然と笑顔になる。
「今日は何にします?」
「ええと、ハーブティーでおすすめとかありますか?」
「おや、いつもはアールグレイを飲まれているのに、珍しい」
週に1度来るだけなのに覚えていてくれたのか、と胸がきゅんとする。
「好きなのはアールグレイなんですけど、ハーブティーにもチャレンジしてみようかなって」
「ではルイボスにしましょうか。ハーブティーの中でも飲みやすい。ブレンドの仕方も色々ありますが、ルイボスをベースにしておけば楽しみやすいと思いますよ」
「じゃあ次来た時は、ぜひ別のものも」
なけなしの勇気を振り絞って、そう口にするとマスターはへらりと微笑んだ。
迷いない手つきでガラスのポットと茶葉を用意する彼をほれぼれと見つめる。
童顔で大人しそうに見えるがやや吊り目で生真面目そうな顔つき。線は細く見えるがかっちりとした袖から伸びる手は大きく骨ばっている。何より流れるような動きでてきぱきと準備をしつつも、口元は微かに弧をえがいていて、この仕事が好きなのだろうとうかがえる。30前後で自分より年上だと思うが、どこか可愛いと思ってしまう。
私がこのカフェに来るのはいつも週末の夜、閉店まで1時間を切った時間。あまり歓迎されない客だとは思うが、彼は一度だって嫌な顔をしたことはない。何より他に客がいないおかげで週末の夜を彼と二人で過ごすことができるのだ。それだけで私は一週間頑張ることができる。
少しでも彼の記憶に残りたくて、何度も同じものを頼んでいた。そして今回はいつもとは違うものを。さらに次回来た時また話をするためのささやかな口実を添えて。我ながら慎ましい、いや臆病なアプローチだとは思う。けれど私たちはただの客と店員で、お互い名前すら知らない。
今日こそ名前を聞きたい、と思いながらカウンターのテーブルの下で祈るように両手を握った。
会社のトイレで化粧直しもしたし、可愛いピアスに付け替えた。少しでも自分が魅力的に見えるようにと、魔法という名の自己暗示はばっちりだ。
けれど今日、いつもと違うのは、カウンターの端に見知らぬ男性が座っていることだ。
お店の最奥、カウンターの端。いつ来てもそこの席には“reserve”というシルバーのプレートが置かれていた。いつかに、この閉店間際に来る予約客がいるのか、と聞いたときにマスターは少し困った顔をした。
「このお店のオーナーが突然来ることがあるんです。その席が彼のお気に入りで。誰かが座っていると不機嫌になってしまうから、専用席にしているんですよ」
今カウンターの上に“reserve”のプレートはない。
視線に気づかれないように視界の端でうかがう。グレーの髪の壮年の男性だ。彫りが深く鼻が高い日本人離れした顔付きだ。マスターよりも年上に見え、着ているスーツも詳しくない私にもわかるくらい質の良いものだ。彼がオーナーであるとすれば納得の風貌ではある。つい、とポケットから懐中時計を取り出し時間を確認する姿はまるで洋画のワンシーンのようだった。無意識のうちに左手首の腕時計を確認する。閉店まで1時間を切っていた。
「お待たせしました。ルイボスティーです」
「ありがとうございます」
透明なガラスのポットにはハッとするような赤色の紅茶が揺れる。香りはあまり強くない。
「ルイボスティーは南アフリカが産地です。皮膚炎や花粉症の他にもいろいろ効用があります。カフェインフリーなので、寝る前にもおすすめですよ」
そっとポットからティーカップに注いでマットに戻すと、すっと伸びてきた手がポットにティーコジーをかぶせた。カウンターを挟んだ距離だからこそできるのだろうが、彼のこのしぐさがとても好きで、ついその手を目で追ってしまう。紅茶が冷めないように、という気遣いなのだろうが、カウンターを超えて伸ばされる手にどぎまぎとしてしまう。少なくとも、他の喫茶店でこうも恭しくティータイムの世話をされたことはない。
通えば通うほど夢中になる。
ルイボスティーに口をつけるとさわやかな香りが鼻に抜ける。渋みはほとんどなく、口当たりもまろやかで、飲みやすい。彼の言う通り、きっとハーブティー初心者に向いているのだろう。
ゆったりと紅茶がしみわたるのを感じていると、カウンターに小さなお皿を出された。お皿の上には型抜きクッキーがいくつか並んでいる。
「あ、えっとこちらは、」
「サービスです。新しいメニューを考えていて試作にはなりますが。よかったら感想を聞かせてもらえますか」
「ありがとうございます……!」
紅茶のおかげだけではなく、体温が上がる。みっともなく顔が上気してはいないかと、心を落ち着かせながらクッキーをつまんだ。型抜きクッキーは動物を象っていて、つまみ上げたそれはデフォルメされたうさぎの顔だった。あまりの可愛さに思わず唇を噛む。このお店のシックな雰囲気にはあまりに合わない。合わないのだが、マスターのどこか可愛らしい笑みを見たあとだとそれがひどく彼に似合っている気がした。食べるのがもったいなくて、耳から少しずつかじっていく。
「どうぞ」
小さく声がかけられてカウンターの端にいた男性、オーナーと思しき紳士の前にもクッキーが置かれた。
「君、こんなもの作ってたの」
「あいにくと、お客さんがあまりいなくて暇なもので」
「そう、ダージリンくれるかい?」
深く低い声にゆったりとした話し方は、どこか会社の重役を思わせる。私とは関係がないのに聞いているだけで緊張で背筋が伸びた。しかしオーナーと話すマスターはどこかぞんざいで、笑顔も口角を微かに上げて見せるだけだ。雇用主に対する態度としては気安い気がした。仲が悪いのか、それとも特別仲が良いのか、と視線でうかがうとオーナーと目があった。そこでオーナーが灰色の目をしていることに初めて気が付いた。
「君は、よくここへ来るの?」
「っは、はい。週末に、よく」
目が合っているのに一瞬、自分に話しかけられていると気づくのが遅れた。それほどまでに、このオーナーと話すのが不似合いな気がしたのだ。数年前の就活の面接の感覚がまざまざと思い出される。
「若い女性にはもっと華やかなお店の方が好まれると思っていたけど、どうかな」
「いえ、ここのお店は落ち着きもあって、雰囲気がとても素敵です」
「そう? さっき勝手に聞いちゃったけど、アールグレイが好きなの?」
「ええ、」
「ほかに何が好き?」
軽やかに質問が飛んでくる。圧迫感のある雰囲気に反して意外と会話が好きなのかもしれない。
「紅茶はアールグレイばかり飲んでいたのであまり詳しくありませんが、今日頂いたルイボスティーもすごくおいしいです。それに前に食べたチーズケーキも美味しくて」
「ほかにも、好きなものがあるんじゃない?」
にこにこと朗らかな笑みを浮かべながら、答えを促すように首を傾ける。他に、と要求され今まで通って口にしてきた記憶を漁ろうとして、紳士はぐっと私に顔を寄せた。
「ほら、彼とか」
「かれ、」
一拍おいて何を言われたか理解して硬直した。カッと顔が熱くなる。初対面でバレてしまうほどわかりやすかっただろうか。ともすれば当の本人である彼にも私の気持ちがばれてしまっているのではないだろうか。
にんまりと、おかしそうに弧を描く紳士の口元から目が離せない。
「こら」
まるでシャッターでも降ろすように、私と紳士の間にメニュー表が置かれた。置いたのはもちろん、紳士のためにダージリンを用意していたマスターだ。
「うちのオーナーが、申し訳ありません。何か失礼なことは申し上げませんでしたか?」
聞こえてしまったのではないかと気が気ではなかったが、どうやら彼の耳には届いていなかったらしく一人胸をなでおろす。メニュー表の向こうでオーナーはクスクスとおかしそうに笑っていた。
「君も失礼だな。私がこんな可憐なお嬢さんに無礼を働くわけがないだろう?」
「あんたにそういった類の信頼はありません」
オーナーは酷いなあ、と嘯くが変わらず機嫌よさそうにカウンターに置かれたダージリンのティーカップを手に取った。
少しだけ冷めたルイボスティーを飲みながらちらりとマスターを盗み見る。いつもにこやかなマスターだが、オーナーに対しては少しツンと澄ましている。きっと相手が違えばクールに見えるのだろうが、相手が壮年の上司となるとどこか拗ねた子供のようにすら見えてくる。今日は二人きりでないことに少しだけがっかりしていたが、普段とは違う彼の様子が見られて、心の中でオーナーに手を合わせた。
しかし先ほどオーナーに何を目当てに通っているか言い当てられてしまい、どうにも居心地が悪かった。片思いを誰かに知られるのはこんなにも気まずかったのかと学生以降味わうことのなかった感覚に苛まれる。
心中身もだえている間にもティーカップの中身もうさぎのクッキーも減っていき、退店しない理由も減っていく。今日の目標はマスターに名前を聞くことだったが、もう話の糸口すら見当たらない。
「ねえ、この前あげたネックレスは着けてくれないのかい?」
「……ああ、あれですか。趣味が悪いので無理です」
「ひどいなあ。君のために作ったのに」
決して大きな声というわけではないが、静かな店内で交わされる会話はすべて漏れ聞こえてしまう。オーナーとマスターの会話は軽妙で、マスターの対応はつっけんどんなのに、そこにある種の気安さや親しさを感じてしまう。今日はもうなんだか勇気も何もかもでない気がして、カップに残っていたルイボスティーを飲み干した。閉店までまだ30分はあるが、これ以上いてもオーナーとマスターの仲のよさそうな会話を傍観することしかできないだろう。
「いつもゆっくりしてもらってるのに、今日はオーナーがうるさくてすみません」
「いえ、とんでもありません。また来ますね。あとクッキーありがとうございました。可愛くておいしかったです」
「本当ですか。良かったら持って帰ってください。静かな時間を提供できなかったお詫びです」
下を向いていた気分が、彼と話しているだけで簡単に上向きになる。よくある店主と客の定型文とは違う、今私に話しかけてくれているのだという事実だけで、しぼんでいた気持ちは持ち直して、なけなしの勇気を振り絞る。
「あの、お詫びとかは全然、大丈夫なので、その、マスターのお名前を伺いたいです……!」
鏡を見る間でもなく、顔が紅潮しているのがわかった。そしておそらく目の前の彼もそれに気づいているはずだ。丸い目が見開かれると一層顔が幼く見えた。それから気が抜けたようにへらりと笑う。その笑顔でただの客としての一線を越えてしまったという緊張が一気に解ける。
「私の名前なんかがお詫びになるかもわかりませんが、そんなことでよければ、」
「悪いね、お嬢さん。申し訳ないけど、この子に名乗るための名前はあげてないんだ」
オーナーはマスターの言葉を一刀両断するように遮った。人の言葉を拭い去るように覆い被せてきたにも拘わらず、その声は先ほど話した時と全く変化がなかった。落ち着き払った厚みのある声なのに、有無を言わせない力強さ。
「この子はこの喫茶店のマスター。それだけ。名乗るための名前なんてないんだ」
「せっかく通ってくれる数少ないお客さんだったのに」
何も言わず走り去ってしまった名前も知らない常連の女の子を見送って、入り口に“closed”の札を提げた。
「別に繁盛しなくて構わない。どうせこの店はカモフラージュでしかないのだから」
手元のダージリンティーを啜ると半笑いで「60点」と呟く。
「お湯を入れたあと、蒸らすのが長すぎるようだ。少々渋い」
「どうせカモフラージュなら出すお茶も適当でよくないですか」
「良くないな。少なくとも私の好みに淹れてもらいたい」
ふてぶてしく言うと残りの紅茶を一息に煽った。それを見届けて空のティーカップを奪いシンクで洗う。
「大体なんですか、さっきの。名乗るための名前はあげてない、なんて。気色の悪い。俺の名前は俺のものですし、俺が名乗るのも勝手でしょう」
「それでも、私の言葉を遮ってまで名乗ろうとしなかったじゃないか、ハイネ」
灰音という苗字はこの男が口にするとまるで異国の名前のように響く。不快感を隠そうともせず舌打ちするが、気にした様子もない。
「君、色恋営業得意なタイプだよね。前職でもそうやって誑し込んでたのかい? さっきのお嬢さんだって君に惚れ込んでいたから通っていたように見える」
「人聞きの悪い。俺は何もしていないし、知りませんよ」
「敢えて勘違いを誘発するのは得意なようだが、嘘を吐くのは苦手なようだね。さっきの私とお嬢さんとの会話だって聞こえていないはずがないだろう?」
これ以上話していても都合が悪くだけだろうと思い、顔を顰めて食器を洗うのに専念する。
流水の音の合間から、余っていたうさぎ型のクッキーを咀嚼する音が聞こえる。可愛らし過ぎるクッキーは半ば嫌がらせのつもりだったのだが、テオドールは変わらぬ表情で機嫌よく食べていた。
「人を誑かすのも大概にしておいてくれ」
「誑かしているつもりはないのなら、気をつけようもありませんね」
「可愛い顔をして、君はなかなかどうして手がかかる」
テオドールが椅子から立ち上がったのが視界の端に見えたため、持っていた食器を置いてカウンターの奥へ逃げようとした。しかしカウンター越しに伸びてきた長い腕は、遠慮なくループタイを引っ張る。踏鞴を踏むとおかしそうに喉の奥で笑われ、舌打ちをした。
「ああ、行儀の悪い口だ」
「すぐに手が出るあなたよりマシでは?」
「ハイネ」
あ、と思うより先にタイを掴んでいた手が襟元を掴みなおして力任せに引き寄せられる。とっさに距離を取ることもできないまま強引に口づけられた。戯れのように何度も唇を重ねられるのが腹立たしくて、再度重ねられる唇に噛みつく。微かな血の味と甘いクッキーの味がした。
「君は本当に、可愛くないのが可愛いね。もう少し私に可愛がられたいとは思わないのかい」
「はは、ごめんですね」
「長生きできないよ?」
血の滲んだ薄い唇が弧を描く。淡々とした言葉に怯んだのを見逃すわけもなく、テオドールは俺の唇に噛みついた。
3か月前、俺はこの男が人を殺すところを見た。
灰音啓治30歳独身、医療機器メーカーの営業職。自己紹介をするとそれだけで終わる。職場以外に属しているコミュニティもなければ、心血を注ぐ趣味もない。仕事の日は積極的に残業を引き受け、休みの日は家で寝て過ごす。なんのために働いているのか、と言われることがないわけではないが、仕事を主軸にした人生の何が悪い、と鼻であしらう。
新卒で入った医療機器メーカーに入社して10年弱。おそらく営業職に向いているタイプだったらしく、業績はそれなりで、取引先にも気に入ってもらえている。人がどうすれば喜ぶか、何をすれば好かれるか、それを察知する特技があって、行動に起こすことを苦に思うこともない。むしろ自分が結果を想定した行動で、その通りの影響が見られ、成功につながるととてつもなく気分がいい。
給料や待遇が特筆して良いわけでも、鼻に掛けられるほどの有名企業というわけでもない。ただ居心地が良く、やりがいのある仕事から、おそらく定年までここで勤め上げるのだろうとぼんやりと思っていた。
金曜日の23時過ぎ、半年ぶりに会う同期たちとの飲み会を二次会まで熟し、終電の時間とともに帰路に着いていた。普段あまり会うことがないが、他部署の同期と顔をつないでおくと何かと便利であるため、少なくとも半年に1度は顔を合わせる機会を作っていた。
酒は好きでも強くもないが、この年になるとアルコールなしで会うことなどない。やや思考が緩慢となっていることを自覚しながら歩いていると、ふいにしばらく前を歩いていた男が倒れ込むように路地に姿を消した。
一瞬で酔いが冷め、男が消えた路地に駆け寄る。周囲に他に人はおらず、店もすでに閉まっている。ただの酔っ払いかもしれないが、もしかしたら心筋梗塞や発作の可能性もある。アルコールが入った状態でも、自分ができる限りの救護をするという判断には迷わなかった。
「おいっ大丈夫かあんた!」
路地に踏み込めば案の定男が倒れていた。
慌ててポケットからスマホを取り出しライトをつける。意識があるかどうか確認しようとしたところで違和感を抱く。抱き起した男は予想に反して両目を開いていた。しかし顔を覗きこんでもなんの反応もない。
酒で温まっていた身体が急速に冷える。ふと抱き起した時に触れた背中が濡れていることに気づいた。ライトで照らしてみれば背中に回していた左手は赤い液体に塗れていた。
「は……?」
倒れて頭を打ち、打ち所が悪くて出血、死亡。その結果がよぎるがすぐに打ち消す。頭部から出血している様子はない。つい先ほどまで自力で歩いていて、数秒後背中から血を流して死亡するようなことあり得るだろうか。
ライトの照らす端で何かが揺れた。そこではたと顔を上げる。今の今まで、倒れている男しか見えていなかった。
「ああ、ようやく気付いたね」
「……は?」
声のした方へライトを向けると、そこには眩しそうにこちらを見下ろす男がいた。
血を流して死んでいる男。それを救護しようと駆け寄った俺を、ただ間近で見ていただけの壮年の男。男は穏やかに微笑んでいた。
この状況で友好的な笑みを浮かべる男を、どう考えても好意的に捉えることはできない。
「いい子だね。見ず知らずの男を、わざわざ助けようとするなんて」
「っ……」
「かわいそうな、いい子だ」
俺は抱えていた男を放って路地から飛び出した。脇目もふらずただ一心に走る。あまりにも非現実的だった。まだアルコールの見せた幻覚、寝ぼけてみた夢、ドラマの撮影と言われた方がはるかに信憑性がある。けれど確かめる勇気もない濡れた左手がこの状況が現実であると思い知らせてくる。
振り向くこともできないが、背後から足音はしない。誰もいない夜道には俺の荒い息遣いと乱れた足音しか聞こえなかった。
翌朝、身体の軋みとともに目を覚ました。
酒を飲んだ翌日特有のだるさと、脹脛の筋肉痛。伸びをして昨日浴び損ねたシャワーを浴びるためにベッドから落ちた。
左手を見てももう何もついていない。昨晩帰宅直後、半狂乱になりながら手を洗った。爪の間にも見慣れない赤は残っていないし、洗面台にもなんの名残もない。やはり何か悪い夢だったのではないかと思おうとして、脱衣所の籠を見て呼吸を忘れる。昨日着ていたワイシャツの袖口が、赤茶色に染みて乾いていた。
あれが何だったかわからない。けれど紛れもなく現実だった。ワイシャツをごみ箱に突っ込んでからシャワーを浴びる。
俺は殺人現場を見てしまったのではないか。
人生においてこんなことを思う日がくるとは夢にも思わなかった。血まみれの男は間違いなく息絶えていた。数秒前までは生きていたのに駆け寄ったころには息絶えていた。そして傍で立ってこちらを見下ろしていた男。あれはただ現場に居合わせた人間ではないだろう。
そうでなければ悲鳴を上げるなり、俺と一緒に救護をするなりしただろう。
ならばあの微笑んでいた壮年の男こそ、殺人犯なのではないだろうか。
推理とも呼べないお粗末な想像。だがあの状況でそれ以外の答えがあるはずもない。
思わず乾いた笑いを零してから、男の言葉を思い出して凍り付いた。
『わざわざ助けようとするなんて、かわいそうないい子だ』
その言葉は俺に向けられた言葉だった。
“かわいそう”とは、うっかり殺人現場と殺人犯を目撃してしまったことだけではないのではないか。
思えばあのとき俺はライトをつけてしまっていた。そしてあの微笑む男を見上げた時、スマホのライトは俺の顔もある程度照らしていただろう。
俺は殺人犯の顔を見てしまっていた、殺人犯も俺の顔を見ている。
温かいはずのシャワーが冷水のように感じられた。慌ててシャワールームを飛び出して玄関のカギを確認する。鍵は二つともきちんとかけられていた。落ち着かない気持ちでチェーンも追加する。振り向いてベランダの窓も確認するがそちらも施錠されている。
あの言葉は目撃してしまったばっかりに、口封じで殺されるのを“かわいそう”と言ったのではないだろうか。
突然スマホの通知音が部屋に響き肩を跳ねさせる。恐る恐るタップするとなんてことはない、昨日の飲み会に参加した同期のグループトークに写真が投稿されているだけだった。胸をなでおろしてから、最寄り駅名と死亡という単語で最新のニュースを探す。しかしどこにも路地で男性の遺体が発見されたといった記事は掲載されていなかった。
警察に相談した方が良いのか。だがそもそも死体がなければ酔っ払いの虚言だと思われて終わりだ。では死体が今も見つからずあの路地にあるのかを確かめに行く勇気はない。それこそあの殺人犯と思しき男に見つかれば殺されてしまうかもしれない。
心穏やかなはずの土曜日の朝は今までにないほどにかき乱されていた。
出かけることが恐ろしい。
幸い最低限の食料はあり、この土日は外出せずとも過ごせそうだ。けれど月曜になれば出勤しなければならない。しかも出勤するためにはあの殺人現場の脇を通らなければならないのだ。
土日の二日間、とにかく何も余計なことを考えないようにした。
いつ買ったかも覚えていない古い文庫本を読み直し、無心で筋トレをして、貰い物の紅茶を淹れて、賞味期限が間近だった小麦粉でクッキーを大量に作った。
二日間、この街で殺人事件があったというニュースは一切報道されなかった。そして俺の家に不測の来客が来ることも、スマホに知らない番号から電話が来ることもなかった。
いつも通り、何も変わらない週末だった。
俺の不安に反し、恐れていた月曜日は特になんの異変もなかった。恐る恐る覗いた路地には近隣の店舗のポリバケツが置かれているだけで何も落ちてはいなかった。駅でも電車でも、微笑む男に出会うこともなく、いっそ拍子抜けするほどの日常が通り過ぎた。
だが会社に到着した途端日常が終わった。
「おはよ」
「は、灰音お前どうしたんだよ!」
「なにがだ?」
金曜日に飲んだ同期のうちの一人が血相を変えて俺の腕をつかむ。
「なにって、お前先週飲んだ時、退職するなんて一言も言ってなかっただろ!?」
「は? ……退職? 俺が?」
何言ってるんだと笑うと同期は俺の腕を引っ張ってロビーの掲示板の前へ連れてきた。掲示板には直近の人事異動や社内通知が張り出されている。その中に真新しい異動通知が貼られていた。
営業部デジタルサービス課、灰音啓治、退職。
「……は?」
「は、って……お前のことなのになんでお前が知らないんだよ」
目の前の情報が全く処理できない。文字は読めるのに内容が何も入ってこなかった。
リストラ、という言葉が頭に浮かぶが、数多いる社員の中で営業成績の悪くない自分が首を切られる意味が解らない。何より会社都合退職だったとしても、普通事前に相談があるだろう。俺に一言の相談も宣告もなく、社内の決定事項として俺の退職が通知されている。
つい先週、定年退職までこの会社にいるだろう、と考えていたのに翌週には首を切られる。いったい何が起こっているのか。
何度見ても、異動通知の文字は変わらない。
呆然自失としている俺に、同期も俺が何も知らされていないことに気づいたようで、気遣うように俺の肩を叩いた。
「灰音、こんな横暴あっていいはずない。とにかく人事課に話を聞きに行ってこい」
「あ、ああ、すまない。そうする」
どこか気まずそうな同期の背を見送り、俺は人事課へ向かうためエレベータに乗り込んだ。
結果だけ言えば、俺は今日無職になった。
呆然としながら会社に置いてあった荷物を抱え、近くの公園のベンチに座っていた。
人事課へ状況の確認に行ったが、結局何もわからなかった。ただ退職してほしい、と。頭を下げられたうえ、課長どころか総務部長までも出張ってきた。だが管理職が出てきてなお、納得のいく説明は何一つとしてなかった。こじつけでも言いがかりでもいいから何か理由がある方がましだった。誰も事情を説明できず、何なら誰も知らないのではないかという気すらする態度だった。本来なら会社都合での退職勧告は会社の評判として避けたいはずで、その前に辞職の相談があるはずだ。だが何もかも一足飛びで、今俺の手の中には離職票があった。楽天的に捉えるなら失業手当をもらうための手続きがすぐにできる。退職予告がなかったことで予告手当ももらえた。だが逆に本来ならもっと離職票の発行には時間がかかるはずなのにすべて用意が整っているとはどういうことか。
何も納得できない。何も理解できない。
根が張ったように身体が動かなくなり、もうどこへ行くこともできない気がしたが、昼休憩の時間になれば社員たちがこの公園の横を通ることもあるだろう。そのとき退職させられた自分の姿を見られることはどれほど惨めなことか。
重い身体と荷物を引き摺って、致し方なく駅へと向かった。
まさか人生でもう一度就活をすることになるとは思わなかった。無職になって1週間、ようやく現実を受け入れ始めていくつかの就活サイトに登録をした。
ハローワークで雇用保険受給資格者証と失業認定申告書をもらった帰り、近くのカフェで就活サイトを物色しながらため息を吐いた。現状無職の状態で、外食するのは躊躇われたが、もともと金を使う趣味もなく貯金し続けていて金銭的に余裕はある。むしろこの理不尽な状況に苛まれるストレスを思えば、多少の出費にかかずらう方がはるかに心的負担になるだろうと開き直った。
遅めの昼食にパスタを啜りながら、ずらりと並んだ求人の一覧を眺める。幸い、年齢はまだ30歳。体力もあり、営業の経験もあれば就職自体はそう難しくないはずだ。それこそ、想定はしていなかったとはいえ転職だと思えばいい。キャリアアップのために転職する友人だっていたのだから、自分にできないわけではないだろう。何とか心を奮い立たせてめぼしい求人にマークをつけておく。
パスタを食べ終わって、10件目の求人にマークを付けたころ、スマホを見る視界の端に人影が入り込んだ。
「ここ、相席させてもらってもいいかい?」
「あ、いえ、もう食べ終わっていて帰りますから、どうぞ」
相席が必要なほど、いつの間に込み合っていたか、と腰を浮かせてはたと気づく。壁に掛けられた時計の針は午後3時。テーブル席もカウンター席もちらほらと空いていて、相席が必要なほど混んでなどいない。
そして男の声に聞き覚えがないか。
勢いよく立ち上がるのと、スマホが手から滑り落ちるのは同時だった。
壮年の男は穏やかに微笑むと床に落ちた俺のスマホ拾い上げた。
「慌てさせてすまないね。壊れていないかな」
バクバクと心臓が音を立てる。
間違いなく、金曜日の夜に会った男だ。血まみれの死体と、呆然とする俺を見下ろして微笑んでいた男。
ゆったりとテーブルの向かいに座る男は自然に俺にスマホを差し出した。
「あの時は、落とさなかったのにね」
疑いが確信に変わる。
スマホを置いて逃げ出そうとしたがそれすら予想していたように男は俺の手首をつかんだ。大きな分厚い手がぎりぎりと締め上げる。
「スマホ、忘れてるよ。このまま逃げてくれても別にいいけど、無駄な手間が増えてしまうからおすすめはできない」
視界の端で男の革靴が俺のカバンの入った荷物入れを自分の足元へ蹴り飛ばすのが見えた。身分証明書はポケットの中の財布に入っているが、カバンに入っている雇用保険受給資格者証には住んでいるアパートの住所が書かれている。
完全に詰んでいる。
「ハイネくん、紅茶とコーヒー、どっちが好き?」
紅茶から立ち上る湯気の向こうに、友好的な微笑みを浮かべる壮年の男。
平日午後の採光の良いカフェ。近くに座って勉強をしている学生や、子供の口にケーキを運ぶ母親から見れば、きっと俺たちは既知の仲のように見えることだろう。実際は、殺人犯と目撃者だ。
嫌な汗が背中を伝う。落としたスマホは俺の手元へ帰ってきていて、もう手首を締め上げられているということもない。けれどこの男の雰囲気から決して逃がさないという意思を感じた。
せめてもの救いは、少なくとも衆目のあるこの場で俺が殺されることはないだろうというその一点だけだ。
「遠慮しないで飲むと良い。冷めてしまうよ」
「……いただきます」
促され口をつけるがまるで味がわからない。
微笑む男は40代くらいに見えるが、色素の薄い髪色の印象もあるせいで実際の年齢はわからない。彫りは深く、細められた目は銀にも見える灰色で、日本人には見えなかった。路地で会ったときはあたりが暗かったためわからなかったが、日の下で見るとかなり目立つ風貌だ。
「会うのは2回目だね、元気にしていたかい」
「……あまり」
まるで友人のような気安さにいっそ警戒を強める。この手のタイプの人間は自分が優位に立っているのをわからせるために鷹揚に話すのだ。
「そうだよね。仕事がなくなった分時間はあるだろうが、今の時代就活はスマホでするし、自宅に居ても気が休まらないだろう」
「……なんでそんなことまで知ってるんですか」
「私が君の勤めていた会社に、君を解雇するようにお願いしたからね」
口から出かかった驚愕の声は奥歯で嚙み殺した。反応を見せればそれだけ喜ばせるだけだ。男は世間話でもしているようにティーカップを傾けた。
「なんで、そんなことを」
「うん、答えるかどうかは私が決めるけど、君、そんなこと聞いてどうするの」
「どうもしませんよ。ただ自分なりに納得したいだけです」
今更理由を知ったところで、もといた会社に戻れるわけではない。一切の倫理観が欠如していそうな殺人犯を責め、罵倒できるはずもない。ただ自分が事態を飲み込むために、理由が欲しいだけだ。
「……君、やっぱりいいね」
「は、」
「頭は悪くないし、度胸もある。何より可愛い」
「か、かわいい?」
「君が欲しくてね、仕事をやめてもらったんだ。ハイネくんうちで働かない?」
機嫌のよく笑うと、男は子どものように言い放った。
自分の異動通知が職場の掲示板に貼られていた時と同じくらい、情報が頭に入ってこない。今この男はなんと言った。
「ああ、働くって言っても私がしてたような仕事じゃないよ。色々店や企業も持っていてね。先日処分した男がバーの店長をやっていたんだ。その分席が空いてしまったからそこに。そうだ、紅茶が好きなら改装して喫茶店にでもしよう」
「死んでいた男が、店長……」
軽々しく口に出される言葉を受け止めきれない。そして先ほど手首を掴まれていた時よりもこの男が恐ろしい。自分が殺した男は、自分の店で働いていた男で、それを殺したことをこんなにも日常のように話すのかと。
周囲の客との距離は遠いわけではない。けれど誰もこの男の言葉に注目することはなかった。それほどまでに、この男は普通だった。
「ハイネくん人好きするタイプだし、向いてると思うけど、どう?」
「……就職先なら、自分で探してますので、間に合ってます」
ぴしゃりと断ると男は目を丸くした。場違いにも、開かれた目が透き通る宝石のようだ、と目を奪われる。男は初めて微笑むのをやめて破顔した。
「ははははは、おかしなことを言うね。頭が悪いわけではないのに、うん。いわゆる“天然”というやつかな」
「何が言いたいんです」
「いや、うちで働くか、よそで働くかの話はしてなんだよハイネくん。うちで働くか、私にこのあと殺されるかの話をしているのだから」
一通り笑うと、男は俺の手を握って口角を上げた。
「私の名前はテオドール。仲良くしてほしい。ハイネ・ケイジくん」