かて
圭は考え抜いた結果、翌日の朝には自分がミネルヴァに入ることを決めた。
『君がその能力値で東京行きに選ばれなかったのは、どう考えても桜庭紗奈から君を引き離すためだろう』
彼らはそう言っていた。
『脳のデジタル化に関する君の論文は読んだよ。だから君に声をかけたんだ』
完全に信用したわけではない。
彼らも自分を利用していると言うことはわかっていた。
だけど今、少しばかり電子の世界に詳しいだけの16歳にできることは他になかった。
圭は、そもそも紗奈が幸せなのならば、身を引くのも厭わないつもりだった。お金持ちで、かっこよくて、優しい男と婚約して、幸せに過ごしている姿を何度も夢に見た。
自分の知らないどこかだろうと、自分の知らない誰かの隣だろうと、紗奈が幸せになれるなら、それだけで。
それだけで、よかったのに。
(紗奈が傷つく可能性があるなら、潰さないと)
圭の代わりに、ミネルヴァの隊員が高校に通ってくれることになった。圭はその間、対アンドロイドの戦いに備えた最低限の護身ができるように、また、小鳥遊研究所のセキュリティの穴を見つけられるように努力した。いくらでも頑張れた。
だって圭は、紗奈が思っているよりもずっと。
重苦しいくらい、紗奈が好きだったから。
初めて声をかけられる前から、圭は紗奈を知っていた。不器用な人だと思っていた。その美貌と能力があれば、どれだけ横暴に振る舞っても許されるだろうに、少しでも声をあげれば、嫉妬の声もおさまるのに、じっと一人で耐えては苦しそうに笑っていたから。嘘を吐かれて裏切られて、嘘が嫌いになってしまってもなお、その有り様を変えないから。
自分には到底できないと思った。
初めは心配で見ていた。
少しずつ、笑っている姿が見たくなった。ちゃんと笑っているところを見たことがなかった。
そうして気づけば堕ちていた。初めてみた満面の笑みはそれはそれは可愛くて、圭は潔く降参した。それから好きだと告白して、一緒に時間を過ごすにつれて、どんどん紗奈が愛おしくなった。
幸せに、笑っていてほしい。
だから。
「もう一本、お願いします」
圭はもう一度拳を振るった。
***
その頃紗奈はと言うと、高校に通いながら大和と距離を深めていた。その上で両親の秘書として動いている。生半可な忙しさではなかった。何度も圭に連絡を取ろうとピアスを触ったが、起動する前にやめた。今声を聞いたら、全て投げ出したくなると思ったから。
「ね、大和は高校行かないの?」
カフェでカタラーナを頬張りながら紗奈は大和に尋ねた。大和は桃ヨーグルトパフェを口に運んだところだった。
「ん、あぁ。俺は家業の手伝いがあるからさ」
「家業?」
「家業は研究。研究所に行かなきゃいけないんだ」
ほえー、と気の抜けた返事をして、紗奈は圭のことを思い出す。圭も脳をデジタル化することで理論上の永遠の命を手に入れられるかを研究していた。確か理論的には可能になったのではなかったか、と紗奈は思う。
「どういう系?」
「秘密」
「ケチ」
「秘密があるくらいのが魅力的だろ?」
「顔がいいからって調子乗るな」
存外秘密主義な婚約者は、詳しく立ち入ろうとすると何も教えてくれない。躍起になって当てようとするのだが、それでも紗奈は未だ当てられなかった。
「んー、じゃあ、私が言ったことがあってたら、首縦に振って」
苦肉の策だったが、大和は乗ってくれた。それどころか、少し嬉しそうなほどだ。秘密主義なくせに自分に興味を持ってくれると喜ぶなんて難儀な性格だと紗奈は笑う。
「宇宙開発系?」
首は横に動いた。
「地球環境系?」
横。
「デジタル系?」
横。
「生物系?」
首は縦に動いた。
「へー、生物系なんだ。生物系は詳しくないなぁ。私ブラックホールの研究中なの」
秘密にしていると言うことはあまり立ち入った話は聞いてほしくないのではないかと考えて、紗奈は自分の研究について話し始めた。大和はどこか疲れた様子だった。よほど研究は大変らしかった。目の下にクマができている。
「…………疲れてるなら、今日ははやめに切り上げる?」
「いや」
大和は平気だと笑って、謝った。
「もうちょっと一緒にいたい」
大和からそう言われるとは思わなくて、目を丸くする。それなら嫌なことは忘れて楽しんでもらおうと、紗奈は意気込み、手始めに追加のデザートを頼んだ。
「好きだね、甘いの」
大和はそう言って、桃ヨーグルトパフェを掬って、紗奈に差し出す。
「食べる?」
呆れたように紗奈は新しいスプーン手に取り、大和に言った。
「ありがたくいただくけど、その貰いかたはやめておく」
パフェが紗奈の方に差し出されたので、そっと自分でスプーンを差し込んだ。
「ちぇ、流されないか」
大和は楽しそうだった。何が楽しいのかわからず、紗奈は首を捻る。自分の無愛想さは自覚していた。
大和は距離が近い。パーソナルスペースが広い自分とは大違いで、少し困惑する。嫌ではない自分にも。
「好きな人いるんじゃなかったの?」
「可愛い女の子が前にいるならたらし込むのが俺の流儀だ」
「わーチャラーい」
紗奈は2歳上の彼をどこか兄のように思っていた。そのさらっとした好意の居心地が良かったのだ。
「楽しいな」
美味しさから顔を綻ばせている紗奈を見て、大和はそうこぼした。思わず口から出たその言葉に何だか嬉しくなって、紗奈は大和の方を伺い見る。
心からそう思っているのが伝わる笑み。紗奈でさえ見惚れてしまうほどに彼は美しかった。
「今までの人生で一番楽しい」
「無味乾燥な人生過ぎない?」
どうやら大和は感動屋のようだった。
「嘘じゃないよ」
「嘘であることを願うレベルよそれは」
それから好きな本や好きな音楽の話をして時間を過ごした。大和はどの本をあげてもその内容を知っていた。相当の読書家らしく、紗奈はたくさんの本をおすすめしてもらってご満悦だった。
「待って悪役令嬢ものも嗜むの!?」
「まぁ一応?紗奈さん好きなんだ」
「うん、好き。かっこいいじゃない?」
「あー、紗奈さんかっこいい人が好みだもんね」
「は????」
盛り上がってはいたが、そろそろ時間だった。流石に帰らなければならない。
名残惜しいと二人は思った。二人の影が重なる。
「じゃ、送ってくれてありがと!」
「ああ、楽しかった。また来週な」
大和は手を軽く上げて、紗奈が邸宅に消えていくのを最後まで見送った。
その美しい顔から表情が消える。
紗奈といる時、あんなに幸せそうに笑っていた男は見る影もない。自分の人生を呪いながら生きているような、あるいは全世界を呪いながら生きているような、そんな絶望感だけが残る表情で、彼は立っていた。
20時。
彼は人混みの中を歩き出す。
「ええ、問題はありません」
金色のピアスに触れて、彼はどこかと連絡を取った。
「今から帰ります」
喉仏が下がった。
「…………はい。了解です」
大和はその細く指通りの良い髪をくしゃっと掴み、何かに耐えるように目を瞑った。
その時、コンタクトレンズから『通知が来ました』という文字が投影された。紗奈からだった。
『今日はありがとう、楽しかった!気をつけて帰ってね』
彼は上がる口角を下げようと口をきつく結んだ。
(次に会えるまで一週間か………長いな)
返信して、今日のことを反芻する。
今日が楽しかった分、研究所での生活を思うと帰りたくなくて震えた。思わず立ち止まってしまう。
その大和の意思を察したのか、チョーカーが震える。黒の、細いチョーカー。紗奈が褒めてくれるまで、大和はこれが大嫌いだった。
「わかってる」
大和は顔を歪ませて、無理やり前に足を進めた。
「帰るさ」
大和は視界に映る、もう一つの通知を無視した。
『鷹見圭洗脳計画に妨害が入りました。第二フェーズに移行します』