せら
2099年 東京 星界ホテル
ロビーには3mほどもあるスタンド花が幾十と並べられ、ウェルカムドリンクが振る舞われている。ハイボール、オレンジジュース、ウーロン茶をトレーに乗せたコンパニオンが、にこやかに客に声をかけた。5種類のカナッペも振舞われている。紗奈と大和に扮した若葉は、髪をセットし着飾ってエレベーターから見える東京の街に微笑んでいた。ここで生きている命があると知らせるように、東京の街には光が溢れている。
紗奈たちが守りたい未来を創る人々が、そこで眠り、笑い、食べて、泣いて、生きている。
「さぁ婚約破棄と洒落込みましょう」
紗奈は若葉に手を伸ばした。若葉は緊張で顔を強張らせていたから、紗奈は気を張ることはないと口で言う代わりに拳を作って目を細めた。若葉も眉を下げて笑う。
「このクソッタレな世界をぶち壊す第一歩」
二人の拳が重なった。
「歴史を壊す夜にする」
エレベーターの扉がちょうど開いた。人々が紗奈たちの訪れを察して振り返る。その美しさに見惚れて息をこぼす人もいた。これから起こる惨劇を知らない彼らは、能天気に金勘定の話をしている。紗奈たちは彼らを見まわして、ロビーへと足を踏み出した。
挨拶もそこそこにクロークに荷物を預けてハンドバックのみを手に、控え室へ回る。すでに両親たちが待機していた。
「おー、綺麗だな」
「立派じゃないか」
若葉の顔が一瞬固まった。泣きだしそうに見えて、紗奈は慌ててお礼を述べた。若葉は直接両親にそういった言葉をかけられたことがない。姿を見るのだって、数えるほどしかないはずだった。
恨みはない。恨めるほど知らないから。両親が自分たちを苦しめた元凶だと言う自覚を得る前に、もう大きくなってしまった。全ては生まれる前に終わっていて、それからは全部、大和が請け負っていたから。
誰も周りにいないことが当たり前すぎて、人が周りにいる状況を目にしたことがなくて、寂しいとも思えなかった。
だから今、若葉は驚いていた。これが普通なのだろうかと。こんなふうに両親がいて、褒められて、和やかに談笑する日常もあるのだと。
「ありがとう」
そうして怒った。大和と時雨に思いを馳せて。自分たちを人質に、大和と時雨がどのような目に遭っていたのかの片鱗を見た気がしたから。
少しの優しさを知って突き放されることは、初めから優しさを知らないよりもずっと苦しいと思った。
初めから優しさも愛も知らなかったなら、悲しみなんて感じずに済む。若葉はそうだった。知らなかった。大和と時雨がごはんをくれるだけで満たされていた。だけど、時雨と大和は。
思わず手が震えた。その手を紗奈が握る。若葉の思いを想像して、その怒りを和らげたいと思ったのだ。
「今日のスピーチはうまく行きそうか?」
「ええ」
紗奈は当然だと胸を張った。
「まぁ頑張れ」
自分が何を応援したのかを、両親は全くわかっていないようだった。
「うん、頑張る」
紗奈は自然に応えた。
会場のドアが開かれ、ウェルカムドリンクを片手に円卓へと向かう。立食パーティー用の小さなテーブルを両家で囲んだ。会場をぐるっと囲むように天ぷら、寿司、カツサンド、そば、炭火焼、お吸い物が準備され、ホテルの料理人がその場で作ってくれるようになっており、中央にはバイキング形式で様々な食べ物が並んでいる。アンドロイドではなく、人間が配膳をしていることからも、どれだけこのパーティーにお金がかかっているかがわかる。
紗奈たちがテーブルの上に先に着けてあったビールをグラスに注いでいる間に、乾杯の挨拶のために首相が壇上に上がった。
「本日はご多忙の中お集まりいただきありがとうございます」
あと1時間もないうちに、紗奈はこの壇上に登る。そこで、この男と、両親、小鳥遊家を断罪する。紗奈は、大和たちは今頃どのあたりをさまよっているのだろうと考えずにはいられなかった。
「近年、宇宙資源の開発競争が激化しています」
首相の言葉は紗奈の意識を強制的に引き戻した。
「戦争へいつ各国が踏み切ってもおかしくない状況です」
事実、テロは今この瞬間も起こっている。
「かの国が、衛星兵器の実用化に向けて動き出したというのも、記憶に新しいでしょう」
50年前から変わらず、世界の兵器において弾道ミサイルが覇権を握っていたのは、技術の問題ではなく、費用の問題だった。エネルギーコストが、衛星兵器の開発を押さえていたのだ。宇宙資源を手に入れ、いずれ地球から移住していく未来が現実味を帯びた今、そのコストの問題は、かろうじて無視できるようになった。なってしまった。
「改善しつつあるとはいえ、人口がかつての数よりもはるかに減少した今、私たちはこの国を守るために、できることをしなければなりません」
半無人機が増えたのも、自衛隊員の減少が原因だった。完全に無人化してしまうと、責任問題が発生したときの対処ができないからである。航空機の性能は上がり、コンピュータの指示に従って飛行を行うようになった。退役を迎える兵器よりも、新しく導入した兵器の数の方が多い。
イージス艦もそろそろ退役を迎える。それに代わるものとして迎撃の可能性が低い超音速対艦ミサイルを完備した戦艦が導入された。十分だろう、と叫ぶ者は多い。
日本の軍事力は、目に見えて上がっていたから。
しかし世界の軍事力の向上は、日本のそれをはるかに上回っていた。
「この国を守るために、これからも最善を尽くしていきましょう」
世界には、テロも貧困も2100年前と変わらず存在する。苦しむ人はいまだにある。都市部での飢餓も政治の崩壊も1000年前の出来事などではない。今の話だった。泥臭い戦いはいまだ続き、無人の戦車が人々を撃ち殺す光景も、ニュースで報道される。被弾の確率を下げるために可能な限り小さくされたレールガンを搭載した戦車は圧倒的な数で人々を倒していった。
高画質で、生々しく、匂いまでわかるほどの熱量であるというのに、どこか現実感がなく、日本国民は毎日を生きている。
危機感を覚える人間は少ない。だってこの国は平和だからだ。
「乾杯」
グラスが重なる。ジンジャーエールをぐっと飲んで、紗奈はのどの渇きをうるおそうとしたものの、一気に飲みすぎて軽くむせた。
(私がこれからやることは、正しいのだろうか)
両親の、小鳥遊家の、首相の覚悟を知るたびに思う。思ってしまう。
(大和たちが自然に生きられるようにすれば、断罪する必要はないのではないか)
だって彼らも、国を思う意思は変わらない。全国に彼らの所業を晒す必要があるのか、と思わずにはいられなかった。
紗奈は揺らぐ思考を正そうと二の腕の内側をぎゅっとつねった。
(だめだ)
自分が、どうして揺らいでいるのか、紗奈はよくわかっていた。
(逃げるな)
彼らに代わる、指導者になる自信がない。
指導者たる資格を持つ大人が、今の政界に見当たらない。
これらが、彼女が揺らぐ原因だった。
――――ツーツー
『紗奈』
その時、ピアスが通知を知らせ、コンタクトレンズから文字が映し出された。圭からだった。
『圭より、宇宙船征圧完了。斎藤教授のほうも任務完了したとのこと』
斎藤教授が言う任務とは、大和たちの映像のことだった。天才たる小鳥遊兄弟たちの協力のもと、斎藤教授は星海ホテルの内部に侵入し、断罪のための材料を準備してくれたのだった。
あとはもう、紗奈だけ。
紗奈がとどめを刺せばいい。刺せばいいのだ。
『紗奈』
圭のメッセージは終わらなかった。
『大丈夫できる、無駄な心配はするな』
それは、紗奈の悩みを殴り飛ばすようなメッセージ。
『ぶちかませ』
紗奈は思わず声を出して笑いそうだった。いくら何でも適当すぎる。雑にもほどがある。もっと丁寧に寄り添う言葉もえらべるはずなのに、圭は紗奈の背中を強く押す。支えるのではなく、信じて突き放す。
(あーもー)
紗奈は降参だと目を閉じて首を少し傾けた。横で大和の姿をした若葉はそんな紗奈の様子を見て長いまつげをぱちぱちと拍手させた。
(これだから、好きなんだ)
彼らに代わる、指導者になる自信がない?
指導者たる資格を持つ大人が、今の政界に見当たらない?
だからなんだ。
自信なんてなくても、未来がどれだけ不確かでも、
なるしかないのだ。
だって紗奈は守ると決めた。国民の命を、生活を、人間らしい営みを、そして大和たちの人生を。
「バカだったわ」
「え?」
紗奈の独り言に若葉が反応した。若葉の手には、カツサンドが握られている。
「美味しい?」
紗奈は尋ねた。
「ああ、すっごく美味しい。こんなに美味しいものは初めてだべた」
「そう」
「全部すっごく美味しいよ、次はローストビーフを取りに行こうかと思っているんだ」
若葉の目は、シャンデリアの光を写し、キラキラと輝いている。
それだけで、間違っていないとわかった。
「ならよかった」
いつか、日本がどこかの国に併合されるときが来るかもしれない。
戦争でこの国にミサイルが落ちて大地が死に絶えるかもしれない。
そんなありえるかもしれない未来の責任を負えないと悩むのは無駄でしかない。罵詈雑言を浴びる覚悟はできた。
暗闇の中を生きていた若葉が、今幸せそうに眼を輝かせている。
それがすべてだ。
「行ってくるわ」
司会者に紗奈の名前が呼ばれた。若葉は慌ててカツサンドを平らげる。その様子に笑って、紗奈は意気揚々と壇上へ上った。金屏風を背に、マイクの前にと足を踏み出す。いまだガヤガヤとした会場を鎮めるために、紗奈はそのマイクをハウリングさせた。
これは、斎藤教授たちへの合図でもあった。
その不快な音に、一瞬人々は顔を歪ませて、紗奈を見た。赤いドレスに身を包み、絹のように滑らかな黒髪を持った、美しい少女を見た。
「ご紹介に預かりました、桜庭正時、桜庭優菜の娘、桜庭紗奈と申します」
会場の電気が落ち、スクリーンが天井から下りてくる。
「この場を借りまして、私事ではありますが、一つ発表をさせていただきたいと存じます」
怪しげな雰囲気に、紗奈の両親が声を上げる。事前に見たスピーチ原稿に、そんなことはどこにも書いていなかった。
「私桜庭紗奈は」
声を上げ、壇上に登ろうとする紗奈の両親を、大和の姿をした若葉が止める。その機械でできた体をとめられるほどのフィジカルを、彼らは有していなかった。
「小鳥遊大和との婚約を破棄します」




