セリフィラの涙
「君、麗しの婚約者はいいのかい?」
「……お前らが話があるってつれだしたんだろ」
「え?君、アレを麗しいと本当に思っているの?目が悪いんじゃないかい?」
「社交辞令さ。流石に侯爵家の御令嬢を悪くは言えないさ。」
「あんなの、何で美男美女で有名なシャルトナーク家から生まれたんだ?」
「まあ、公爵家に生まれた宿命だ。諦めろ政略結婚だけしてさっさと美人な愛妾でも囲いたまえ。」
「……」
「いっそのこと、結婚前に死んでくれたらいいのに、そしたら君も解放されるんじゃないか?」
ゲラゲラと、笑い合う声に私は声を漏らさないように耳を押さえて、ポロポロと涙をこぼしてその場から走り去る。
私はシャルトナーク侯爵家の次女エレミア・シャルトナーク。クラウス・マルカーニ公爵公子と婚約をしている。
私は、美男美女を輩出しているシャルトナーク侯爵家の中でも異端な存在だった。父が領地の村娘に手をつけて生まれた娘なのである。
金髪、銀髪が当たり前の家の中でただ異質な胡桃色の髪。そばかす、浮腫みが酷くぽっちゃりとした体型。顔のパーツは父似なのにかなり残念な容姿だ。でも、そんな私だが唯一、シャルトナークの宝石と呼ばれるマスカットグリーンの瞳だけが自慢である。
お父様が歳がいってからの子の私は、家族からは優しく甘やかされた。王妃となられたお姉さまも、結婚されたばかりのお兄様ご夫妻も穏やかな方で、非嫡出子の私の存在を妹だと認めてくださったうえで、優しく接してくださった。多分、産後の肥立が悪く、生まれてすぐに生母を失った私を憐れんでくださったのもあると思う。
…そんな中で、5歳の頃に私とクラウスは婚約した。
クラウスは猫を被るのが上手い子供だった。
天使のような可愛らしい顔で大人がいるところでは丁寧に接してくれたが、いざ2人きりになるといじめっ子の顔をだした。初対面でいきなりカエルをドレスの中に入れられたし、馬鹿にされた。
「お前、ぶー垂れた顔ばっかでつまんねー。」
「侯爵や王妃殿下に似てるの眼だけだな。」
「わ、泣くなよ。余計にブスになるだろ?困るんだよ、俺が泣かせたってしられたら。」
その日、私は婚約者が大嫌いになった。
でも、私は耐えた。本当は非嫡出子は貴族の戸籍に入れないのを相当無理して入れてくださったし、お兄様やその奥様も私のことで、周りから相当な非難を受けたはずなのに変わらず優しく接してくださった。ただでさえ王妃となったお姉さまの評判を悪くする足手纏いなのに、これ以上、評判を下げるようなことをしたくなかった。
だから、私は心無い言葉も、周りからの蔑みも、全て呑み込んだ。決して、侮られないように血の滲むような努力をして語学やマナーも立ち振る舞いも身につけた。
そんなストレス環境で私の顔や手足は浮腫みやすくなった。瞼や頬は肌がぱんぱんに腫れてツルツルになるぐらい浮腫んだ。
それが華奢な他の令嬢と比べられて、余計に惨めになる。
それでも、クラウスは私と婚約破棄はしなかった。意地が悪いが、根が真面目らしくプレゼントは欠かさないし、夜会ではパートナーとしてエスコートしてくれた。そのたびに私は笑われ、クラウスは馬鹿にされた。クラウスを慕う令嬢からは目の敵にされ嫌味、嫌がらせは日常茶飯事だ。
「……っ死にたい。」
努力したって、最終的に報われない。容姿のことをあんな風に言われたら心が折れてしまう。
私なんて生まれてこなきゃよかった。
そんな事を言ってはいけないのはわかる。家族が私を愛しんでくれるのはとても幸せなことだ。
でも、私のせいで、父が他の貴族に侮られる姿を見たくはなかった。
私のせいで、お姉さまが馬鹿にされるのは耐えられなかった。
私のせいで、兄夫婦が社交場で蔑ろにされるのは許せなかった。
私のせいで、真面目な婚約者が不憫がられて笑われる姿も見たくなかった。
家族に報えず、婚約者にも馬鹿にされたまま生きる人生がとても無価値で、やるせなさでいっぱいだった。
王城の中庭に飛び出し、薔薇園の奥へ奥へと向かう。
「え、何で?」
王城の薔薇園を抜けると見慣れぬ一軒のお店があった。
東家がある筈の場所は古民家風の店がある。場違いだが、軒先に薬局の紋章があることから、ここは薬局らしい。
王城、薬局、不思議な家と言う単語に、私はふとある伝説を思い出す。
「アルタークの魔女薬局、?」
そう、王城には初代国王が契約した魔女が住んでいると言う伝説だ。
アルタークの魔女、救いを求める人間の元にしか現れないと言われる魔女で、珍しい薬を一つだけ授けてくれると言う。
建国以前、当時の聖霊教会の苛烈な魔女狩りから逃れてきたのが魔女アルターク。
彼女は安寧の地をもとめ、このエリスデンの地にやってきた。そこで知り合った青年ヨハネスとその仲間たちと共に兵をあげ、他の神をも弾圧する聖霊教会に不満や憎悪を抱く民衆を扇動し、その総本山である聖アドリム教国を壊滅させ聖霊教会を地上から無くしたと言う。
聖アドリム教国の地をも併合し初代国王となったヨハネスは魔女アルタークと盟約を結んだ。善き魔女達は善き隣人であり、盟友であるからして必ず国をあげて保護する。そのかわり時々力を貸して欲しいと言う盟約だ。以来、時折り魔女アルタークは人々の前に現れる。
ある王妃は不妊に悩んでいたら魔女の薬のおかげで子宝に恵まれたとか、ある10人の子持ちの馬丁が事故で両足を複雑骨折して困っていたら、魔女アルタークの薬で完治したなどなどの話が実在する。だが、それは本当かわからない。何故なら、建国は400年以上前だ。次第に魔女なんて架空のものだといわれ、今では子供の絵本の題名だ。
恐る恐る中にはいると、そこには機嫌が悪そうなお婆さんが、新聞を広げていた。
どこにでも居そうな腰が曲がった老婆だった。ただ、少し違うのは紅い林檎のような瞳だけだ。それ以外は全体的に印象が薄い。だが、その瞳こそまさしく、アルターク本人だと物語っていた。
「あ、あの、」
「たく、ここに来る客は碌なのがいないね。」
お婆さんは、冷え冷えとした紅い瞳で一瞥すると新聞を畳み、奥へと消える。
居た堪れないが、ここがどこだかしりたくて扉の前で立ち尽くしていると、お婆さんはカウンターに戻ってきた。
「エレミア・シャルトナーク。あんたの願いの薬は決まっている。対価はそうさな、あんたの血を分けてもらうか。この小瓶を持ちな。」
「わっ、」
投げ渡された小瓶を持った瞬間、小瓶の中に真っ赤な液体が満たされる。これは、多分血だろうか。
「よこしな。」
「は、はい。」
お婆さんに、その小瓶を返すと何故だか体がふらついた。何故だか、頭がクラクラする。
「若いのに、これくらいの採血でふらついてんじゃないよ。言っただろう?これは対価だ」
お婆さんは小瓶を棚にしまうと、私の前にある物を持ってきた。
私の前に差し出されたのは青い花を乾燥させたものだった。
6枚の花弁しか入っていない小瓶だが、その花弁に私は息を呑むほど見惚れた。
なんて綺麗な青、宝石みたい。
「これはセリフィラの涙。あんたが求める薬さね」
「薬、ですか?」
「六日間、一枚ずつに分けてミール茶に溶かして飲みな。必ず、花弁を月の光に1時間あててから飲むんだよ。副作用は最初の二日間は頻尿になるくらいで、最終日には安らかな眠りのなかにあんたを引き摺り込む。文字通りだ死んだように眠れるよ。」
「…死?」
「ただし、本気で最後まで飲むなら決して鏡を見るなよ。ああ、本当に碌でもない!あたしの前で死にたいなどと言う馬鹿にこの薬をあげなきゃいけないなんて、最悪だ。」
「っ……。」
「言っておくが、あたしゃ、あんたみたいな馬鹿な娘が大嫌いだ。父親に、兄に、義姉に、姉に、婚約者にあんたを産んだ母親に愛されてきた命を簡単にいらないなどとほざく、うじうじした根暗が特にな!患者じゃなきゃ、救済なんぞしたくもない。さっさと帰れ!親不孝者がっ!」
そう怒鳴られた瞬間、私は店を追い出され、気がつけば薔薇園の東家の前に佇んでいた。
アルタークの魔女薬局はなく、ただ静かな夜の空気に私は呆然とその場に立ち尽くしていた。
***
どうすれば良いのか分からず、暫くセリフィラの涙を見つめたがあの夜の事を思い出し、呼び鈴を鳴らし侍女のリルを部屋に呼ぶ。
「…お呼びですか?」
「この部屋から、鏡を撤去してちょうだい。あと、ミール茶をお願い。」
アルタークの魔女の薬……私の人生に何か重要な意味があるなら、彼女の薬にかけてみよう。
アルタークが言った通り、セリフィラの涙を月の光に1時間あてミール茶に入れると砂糖のように溶けて行く。溶け切ったのを確認すると、一口すする。
甘い。渋みが強いミール茶じゃなきゃ飲むのが苦な甘さだ。
ミール茶の渋味が上手く甘味を中和してくれている。
そして、突然の尿意が私を襲う。
一日目
水分補給とトイレの繰り返し。尿の色が青くて正直困惑を通り越して恐怖だ。大丈夫なのだろうか。
2日目。
やっぱり排尿がとまらない。取り敢えず色は薄くなったけどまだ青い。
3日目
頻尿は治ったけど、身体が怠い。長時間立っていられない。
父様が心配して医師を呼んだが、医師も原因がわからないみたい。尿は普通の色に戻ったので一安心。
4日目
かろうじてトイレと風呂にいけるけど、ベッドからほぼ出れなくなった。リルは私からいい香りがすると言う。体臭がどうやら変わったようだ。眠る時間が増えた気がする。
5日目
クラウスがやってきた。マルカーニの領地視察に行くっていったのにどうしたのだろうか。上体を起こすのがやっとで瞳を開けるのが億劫になった。ご飯も食べられなくなったのだが、不思議と空腹感はない。何故かクラウスがリルを怒鳴り付けるように尋問していたから止めた。違うの、この子は悪くないの。クラウスは焦ったように王城にいくといいだし挨拶もそこそこに帰っていった。
なにがどうなっているのだろうか。兄夫婦に問えば何故か泣かれた。夕方、王城から姉様がやってきて久しぶりに私を抱きしめてくれた。なんだか良い夢が見られそうだ。お茶だけはしっかり飲まねば。
6日目。
「……危篤です。…心の準備をされてください。」
「ミアっ…」
「嘘だ、嘘だ!ミアが、死ぬわけがない!妹は、6日前まであんなに元気だった!元気だったんだ!」
「あなた………。」
騒がしいなと、ふと意識が浮かぶと周りは大惨事だった。瞼が開かない。声だけが聞こえる。
お父様の悲しそうな泣き声が聞こえる。兄様の戸惑いのこえ、義姉様の鼻をすする音、
ああ、私は今、大事な家族を悲しませている。
どうしようもない後悔が押し寄せる。何故私は大切な人たちを悲しませてしまったのか、死にたいと思うことはこんなにも周りを傷つけてしまうものなのか。
嫌だ、こんな終わり。
私は馬鹿だ。大馬鹿だ。アルタークの魔女の言う通りの馬鹿者だ。大切にしてもらった。たくさんの愛を私はもらっていたのに!
せめて、最後ぐらいお礼を言いたいのに、体が動かない。
そこにバタンっとドアの音がした。誰か来たのだろうか。
「ハア、ハア、間に合った。」
「姉上!?それにクラウスくんまで…っ」
すると、いきなり誰かにガシッと顎を掴まれた。
「ちょっ!クラウスくん!?」
「こんの馬鹿っ!!ふざけんなよっ!勝手に死に急ぎやがって!」
「おいっ!妹に乱暴するな!!」
「クラウス様、冷静になって!?」
激昂する兄様とオロオロする義姉様の声に混乱が拍車がかかる。
「アリアーナ…まさか」
「ええ、お父様。エレミアはアルタークの魔女の薬を処方されたのです。」
神妙に頷くお姉様の声にその場の空気が変わる。
「アルタークの魔女…だと?」
「そんな、御伽噺の魔女が実在したと言うの?」
「実在しております。私も一度結婚式後にお会いしています。」
王妃のお姉様の言葉にその場が静まり返った。ああ、お姉様は知っていらしたのか。
「先程、クラウス殿がアルタークの魔女の工房に招かれ解毒剤を受け取られました。」
「解毒薬っ!?ミアは魔女に毒を処方されていたのか!?」
「毒と言うか劇薬ですわ。セリフィラの涙。天使族の涙と呼ばれる薬花で身体の如何なる毒素も浄化する力を持つと言われています。アルタークの魔女曰く、ミアは腎臓が生来悪いのだそうよ。」
「腎臓?」
「魔女が言うには、身体の自浄作用がある臓器のひとつですわ。人間はその臓器があるから身体にとりこんだ余分なものを尿にして出しているそうなの。だけどミアはその臓器が生まれつき弱くて、浮腫みが酷かった。二つある臓器も限界でこのままいけば20歳もいかずに死んでいたそうですわ。」
「そんな、話…聞いてないぞ?」
「わ、私はっ、」
地を這う父様声が近くにいたお医者に向けられたらしい。
「……侯爵、魔女が、その爺さんを責めるなって言っていました。ミアは本来ならもうとっくに死んでいたと、その医者は薬を使って身体の毒素を取り除き、小まめな塩分制限や体調管理をしていたから、今日のミアがあるのだと。」
「なら、っどうして!」
「エレミアが今の医学で助かる方法はひとつ、外科手術だけだった。」
外科手術。それは最近西の大陸で確立した医療技術だった。莫大な金とリスクを伴う技術らしい。
「…エレミア様の悪くなった腎臓を取り除き人工魔導臓器に付け替えるしか選択肢はありませんでした。でも、…外科手術は大変危険な医療で、成功例は4件、合併症を発症し、亡くなるケースもあります。副作用も酷くて、私にはそれを侯爵様にもお嬢様にも言えず、遅らせるだけで精一杯でした……。申し訳ございませんっ」
「……っ」
静まり返った部屋の中、動きを見せたのはクラウス様だった。
「……リル、ミール茶を。冷ましたな?」
「は、はい!」
「侯爵、アルタークの魔女曰くセリフィラの涙は臓器の毒素を浄化し、復活、活性させる薬花だそうで人間が飲むと副作用でひどい激痛を伴うのだと。しかし、夜の精霊王の涙を混ぜた事で、痛みを中和し、臓器復活まで仮死状態になるそうです。ですが、6日目の日中までに、セリフィラの涙の解毒薬を飲ませなくてはいけません。」
「解毒薬?まっ、真っ赤な小薔薇じゃないか!」
「これです、デーヴァの涙です。デーヴァの涙は海龍のメスの涙です。この涙に光の精霊王の涙を混ぜ、1時間太陽光にあてミール茶に溶かして飲むと、夜の精霊王の涙の効果を打ち消し、エレミアを目覚めさせることができます。」
「だが、それではセリフィラの涙の激痛がエレミア様の身体に起きるのでは?」
「魔女曰く、セリフィラの涙を飲んで5日目で臓器は復活しているようで痛みはない健康体になっているそうです。6日も飲めば死にいたるそうです。6日目はまだ飲んでいなくて良かった。」
かちゃかちゃと掻き混ぜる音が聞こえる。恐らくミール茶にデーヴァの涙を混ぜたのだろう。そう思考していると、上半身をいきなり起こされた。
「っ……っ!」
その瞬間、唇を何かで割られ液体を口に流し込まれた。
ローズヒップさながらの酸っぱさに目が見開いてしまい。思わずその至近距離にいた婚約者に仰天する。
「き、貴様っ!うちの妹に何をする!!」
「何って……口移しですが?」
「あらまあ。」
「だ、大胆ですわ。」
「お嬢様!よ、ようございましたぁあ!」
口元を扇子で隠しニマニマ笑うお姉様と、恥ずかしそうに視線を戸惑わせる義姉様。それとは対象に顔が怖いお兄様とお父様を前に平然とするクラウスはある意味怖い。
「ミア」
「クラウス……?」
「あの夜会、何で先に帰った。」
「え、だって…」
あの人たちの言葉にあれ以上傷つけられたくなかったから、そう言葉が出ずにクラウスを見れば、不貞腐れたようにクラウスは私の頭を撫でた。
「どうせ居合わせたなら最後までいろよな。せっかくアイツらボコボコにした俺の勇姿がパァだ。お陰で一晩王城の地下牢行きだったんだからな。」
「え」
夜会で喧嘩したのこの人!?全然知らなかった!
「クラウス殿、確かに気持ちはわかるけどあれはやり過ぎよ。王家の姻戚に対しての誹謗中傷、婚約者の名誉毀損だったからあの程度ですんだのだから…」
はあ、とため息を溢すお姉様の様子からしてかなりとんでもないことをしたらしい。
「な、何をしたの?」
「全員鼻と前歯折ってやった。」
俺、悪くないと言わんばかりのクラウスに私は頭を抱えたくなる。どこに素手で人の前歯を折る公爵家の公子がいるのだろうか。血だらけのクラウスの姿はさぞや社交界ではドン引きされただろう。
「それに関してはクラウス君は悪くない。娘の唇を奪うのはけしからんが。」
「そうだな悪くない。妹に手を出した時点で万死だが。」
「やあねぇ、男って。変なとこで結託して」
「本当面倒くさい。」
温度差がある家族を見ながらホッとする。
ごめんなさいと謝ろう。心配かけてしまったから
あと、あの赤目の魔女にもお礼を言いたい。
「アルタークの魔女は元気になった患者には2度と会わない。」
「へっ?」
「それが……魔女からの伝言だ。」
「……そう。」
なんとなく、そんな気がしたけど…
「ミア。」
「はい」
「俺の婚約者はお前だ。」
「あ、ハイ。」
「………俺が結婚するのはお前だけだ。」
その言葉に目を見開き、クラウスを凝視する。
「俺は花嫁衣装を着たお前と一緒に歩いて、聖堂で結婚して、派手な披露宴して、ハネムーンに避暑地に行ってのんびりして、一緒に住んで、笑って泣いて、喧嘩して、…一緒にお前と家族になるのが楽しみだったんだ。」
肩を抱くクラウスの腕が強くなる。涙腺が緩む感覚に息を呑む。
「……俺を置いていくなよ。」
ポロポロと溢れる涙が止められずクラウスの肩に顔を埋めた。
「ごめんなさいっ、ごめん、ごめんなさいぃっ」
***
店中の窓ガラスが散乱し、戸棚はへし折れドアノブはへし折られ惨憺たる様に魔女はため息を漏らす。
「魔女殿。ずいぶん彼とやりあいましたね。」
「あんたかい。生憎、今日は店じまいだ。帰んな。」
「………妻から事の次第は聴いています。義妹、義弟のお詫びをしにきました。」
男はそう言うとへし割れたカウンターの上に上物のワインボトルをそっと置いた。
魔女はそれを横目に鼻で笑うと指をパチンと鳴らす。その瞬間、店は元通りに変わり、割れていたランプも復活し来客の男の秀麗な顔を照らした。
「あの小僧、狭量もいいところだね。薬の対価を寄越せと言ったらこの有様さ。」
「因みに対価は?」
「10年間肌身離さず持っていた婚約者の手縫いのハンカチさね。」
その言葉に「あぁ」と男は困ったように頬をかく。義妹が初めて婚約者の為に縫った刺繍のハンカチだ。よほど悔しかったらしく、魔女と口論から発展してこうなったのだと理解する。
「あの狂犬、あの娘が好きすぎなんじゃないかい?重すぎるのも考えもんだね。」
「まあ、でも、一応はまだ理性があるほうですよ。彼女の悪口を言っていた令息全員半殺しにしてますけど。」
「それはダメだろ。」
「ですよねぇ。あ、浮腫が取れた彼女を見舞ってきましたよ。さすがシャルトナークの最終血統。すっかり癒し系美少女に大変身でした。鏡を見るなと言ったのは5日目まで確実に薬を飲ませるためですか?」
「鏡を見れば飲むのをやめちまうからね。臓器を健康に復活させなきゃ意味ないんだよ。あの薬はね。」
「ありがとうございます。妻も薄々、妹の病気を察していたみたいで…これで安心したと思います。」
「あんたも十分、重たい男だね。義妹の命なんかどうでもよかったくせに。ああ、むしろ妻の不安要素がいなくなりゃ万々歳って思っていた口か。」
「……これは手厳しい。」
うっそりと微笑む男に魔女は目を細めると頬杖をつき、指を鳴らすと薬局の扉が鈴の音と共に開かれる。
「女房に愛想尽かされる前にとっとと帰んな。重たい男はうんざりさ。当分顔を見せるでないよロクデナシ。」
「ははっ……また来ます。」
扉をくぐり去っていく男を見送ると魔女は窓の外に視線をむける。
青白い月に魔女は眼を優しく細める。
「かくて、めでたし…か。」
王城には初代国王が契約した魔女が住んでいると言う伝説がある。
その名もアルタークの魔女、救いを求める人間の元にしか現れないと言われる魔女で、珍しい薬を一つだけ授けてくれると言う。
彼女は今日もどこかでそっと店を開いているのだろう。