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バイバイまたね、クドリャフカ  作者: くろのあずさ
セレネの反乱―月―
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 セミの声がうるさい。


 勉強机に向かっていた私は現国の参考書を閉じて、じっと耳と澄ませた。


 毎日変わらずに繰り返される騒音。もう随分と前からずっと鳴いている気がする。


 カレンダーを睨めば七月末。あと数日で八月だ。カレンダーをめくる必要があるのかは謎だけれど、一か月前も同じ感想を抱いた。


 私が単純なのか、他になにか思うほど刺激のない日々だからなのか。


 まだ七月、もう七月。セミたちは梅雨明け宣言を自分たちがするかのように、いっせいに鳴きはじめた。


 この辺にこんなにセミっていた? 去年はどうだったかな? もしかすると単に私が気づかなかっただけで、去年もそれくらいから鳴いていたのかもしれない。


 静かになったおかげで、彼らはよりいっそう存在を主張できるようになった。変わったのは認識する私たちの方だ。


 やっぱり人間って勝手な存在だな。


 結論づけて私、紺野(こんの)ほのかはなんとも言えない気持ちになる。一言では言い表せない複雑な感情。黒い波に攫われたくなくて、無心で机に向かっていたのに。


 きっと問題が悪かった。『人類の宇宙進出の歩みについて』というテーマの論説問題は今は解く気にはなれない。


 シャープペンシルを問題集の上に転がし、私は椅子の背もたれに体を預ける。


 見慣れた天井をぼーっと仰ぎ見ると、自分の意志に反してあれこれ思考が脳内を駆け巡っていった。


 私は、ずっとこのままなのかな? でも、それでいいって決めたじゃない。今さらなにに抗うの? なにをしようとするの? 全部、無駄なのに。どうせ――。


 目を見開いて勢いよく立ち上がる。もう長い間カットしていない肩下二十センチほどまで伸びている黒髪が揺れた。


 ドクドクと心臓が早鐘を打ちだし、エアコンの効いた部屋にも関わらず汗が噴き出そうだ。


 じっとしていたら飲み込まれる。気分転換でもしよう。


 エアコンを消して部屋の外に出る。ドアを開けた瞬間、動物の吐息のようなむわっとした空気が私を待ち受けていた。


 おかげでつい二の足を踏んでしまう。やっぱり部屋の中でいようかな。


 けれど私は一歩踏み出し、階段を軽快な足音で下りて行った。リビングに顔を出しても誰の気配もない。惰性でテレビをつけると、ニュースが流れていた。


『NASAはスペースコロニーの建設計画の頓挫を発表。また、新たに打ち上げた宇宙ステーションが空中分解しこれにより犠牲者は――』


 時刻は午後十二時過ぎ。出かけるには暑い気もしたけれど、今年は異常だと言われるほどの冷夏だ。


 その原因がどこにあるのかまでは、みんな興味がないのか、深く考えないようにしているのか。


 過ごしやすいなら文句はない。私は無心で顔や手足に乱暴に日焼け止めを塗り、両サイドの耳下で髪をまとめた。そのまま勢いよく外に出て行こうとしたが、その手前で玄関にかけてあった麦わら帽子が目に入る。


 機能性よりもお洒落さを重視していて、かかっている水玉のリボンに一目ぼれして買った。一瞬だけ迷い、せっかくなので帽子もかぶる。


 外に出るのは本当に久しぶりだった。太陽の光が眩しく、お世辞にも快適さとはほど遠い。ここのところずっとエアコンで空調整備された部屋の中ばかりにいた私には正直、堪える。


 陸から上がった魚ってこんな感じ?


 息も苦しくて、すぐに肌に汗が滲む。暑さに目眩を起こしそうで体が全身で不快感を訴える。でも今はそれでいい。自分を痛めつけるために外の出てきたようなものだ。


 乱暴なやり方なのは百も承知している。でも暗闇に思考を覆われるくらいなら、まだこっちがマシだ。嫌でも実感できる。


 私はまだ、生きているんだ。


 ゆっくりと深呼吸をして改めて前を向いた。


 意気込んで家から飛び出たのはいいけれど、どこに向かえばいいのか。悩みつつ、とりあえず目的もなく足を動かす。


 私の家は高台の住宅街、月見ケ丘(つきみがおか)ニュータウンにあり、私が幼稚園のときに建てられた一戸建ては築十年ほどだ。


 改めて見ると真っ白だった家の外壁はわずかに黒ずんでいる。まぁ、そこまで気にはならない。


 とはいえ、ここ数年のうちに建てられた家と比べるとそれなりの年月を感じさせる。後ろにあった山を削ってさらに土地を作り、そこに小さい子どものいる家族や若い夫婦が家を建て、この辺りもよりいっそう賑わっていた。


 休日や放課後になると子どもたちの楽しそうな声が聞こえ、癒されるときもあれば煩いと思うときもあった。


 それも懐かしい思い出だ。時期的にいえば今は夏休みにあたるのに、この住宅街では子どもの声はおろか人の気配さえあまり感じない。


 新築さながらの家の前を通ると、玄関先には子どもの好きなキャラクターのオーナメントが並び『Welcome』の文字が太陽の光を反射している。


 ところが家中の雨戸は閉められ、花壇は荒れ放題だ。どんな家族が住んでいたのかさえ記憶にない。


 どこに行ったのか、と考えるのさえ無駄だ。一軒ですまないのだから尚更。変わり果てた家々を横目に私はとにかく足を動かす。


 どこまで行こう。前へ前へと進んでいき結局、下の大通りにまで出ていくことにした。車だとかなり回り込まないとならないけれど、歩行者専用の階段を使えば下まであっというまだ。


 静かな町を一度見下ろし、一歩一歩灰色の無機質なコンクリートの階段を踏みしめていく。先を見つめず足元だけに集中していると、やがて大通りにでた。ここで少しだけ車や人の気配を感じる。


 ふーっと大きく息を吐くと、二十代くらいのカップルが階段のすぐそばで手を繋いで空を見上げていた。


 ドキッとしたのは私だけで、ふたりとも私なんて眼中にない。


「ねぇ、また大きくなってない?」


 女性が怯えた表情で男性の手を引く。男性の顔も強張っていた。まだ昼間だというのに、今から肝試しにでもいくかのようだ。


「やめろよ、お前。縁起でもないだろ」


「だって……」


 女性は今にも泣きそうな気配だ。私は彼らから視線をはずし、空を仰ぎ見る。


 あー、たしかに大きくなっているかも。


 東の空に浮かぶ月。昼間なのでほんのり白く、しかしはっきりと存在を主張している。太陽よりもはるかに。


 歪な形がシュールで、嫌でも目を引く。一口かじられたどら焼きを連想し、むしろ笑いが込み上げてきそうだ。


 でも今ここでさすがにそこまで空気が読めない行動を取るわけにはいかない。


 現に隣の女性は切羽詰まった声で男性に問いかけている。


「本当に落ちてくるのかな? そしたら私たち、どうなるの!?」


「落ち着けよ。きっと大丈夫だって」


 なんの根拠もない言葉でそう彼女を励ました彼氏も、質問した彼女も本当はわかっている。


 “きっと大丈夫じゃない”って。

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