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「天狗の子は天狗」3  作者: 西尾祐
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2.いつか終わる夢(2/2)

 帰宅時、すでに外は暗くなりつつあった。奈々は鍵を開け家の中に入ると、すぐに玄関の電気を付けた。

 嵐山家の住人が奈々と春樹のみである以上、平日は彼女が家のことをある程度以上やらなければならない。もっとも、何年もそれを続けている奈々にとって、それはもはや日常に組み込まれていることだった。苦になる、というものでもなく、ごく自然に行っている。

 「ただいまー」

 自分以外に誰もいないことを知りつつ、奈々はお決まりのフレーズを口にする。

 家に上がり手洗いやうがいをおこなった後に、家中のカーテンを閉めていく。勝手口にも灯を点し、リモコンを操作してテレビをつけた。どこのチャンネルもニュース番組をやっている。

 奈々は少しバラエティ色の強いチャンネルを選び、画面に映し出される料理の数々に目を輝かせた。中でも印象的に映ったのが、ジェノベーゼだった。

 「必見、絶品イタリアン! 気鋭の若手シェフが作り出す、目にも鮮やかな料理の数々!」

 「うわぁ、おいしそう!」

 思わず夢中でテレビを見てしまう奈々。しばらく釘付けになっていたが、ふと晩ご飯のことを思い出した。時計の針は五時四十分を指している。

 奈々は慌てて夕食の準備に取りかかり始めた。犬の絵が書かれたかわいらしいエプロンを付け、手を洗ってから米を研ぐ。四月とはいえ水は少し冷たい。とはいえ冬よりはマシだ、と彼女は自分をなだめる。真冬の水道水は凍えるように冷えていて、米を研いだり風呂場を洗うときなどは手がかじかみ、痛いほどだ。それと比べれば幾分かマシだ、と彼女は思う。

 「冬の水仕事……つらかったなあ」

 昨日より水温が低いと感じはするが、特に問題はない。

 「よしっ、二合ぶん……と」

 水気を切り、炊飯器の釜に米を入れる。底を平らにしてから、二合分の水を加えた。再びならし、微調整をした後にフタを閉め、ボタンを押した。ピロリリ、と炊飯開始の合図が鳴る。五十分ほどで炊きあがることを見越し、奈々はおかず作りに取りかかった。

 「よーし、おかずはなににしようかなぁ……あ、お米炊いちゃった~……どうしよう」

 奈々には、先ほどテレビで見たイタリアンを作りたい、という思いがあった。パスタはばっちり買ってあるが、いつもの流れでご飯も炊き始めてしまった。リゾットでもいいけど、と彼女は悩み始める。

 「(もしメインをリゾットにするとしたら、他のおかずは何にしようかな。炒め物?それとも焼くとか、蒸すとか)」

 こと料理に関しては、かなり凝り性な奈々である。よほど気をつけていないと、夢中になって豪勢な食事にしすぎる可能性は高かった。そして今回、例によってひそかな危機にまったく気付いていなかった。作り慣れているために手際がいいのも問題の一つ、だったりする。

 「(とりあえず、何があるか確認しようっと)」

 冷蔵庫の扉を開け、どんな食材があるか一つ一つ見ていく。

 「卵、チーズ、バターはあるね。牛乳も買い置きが四本。これならだいじょぶかな……お父さん、結構飲むから」

 奈々の養父である春樹は、下戸で酒が飲めない。より正確に言えば、少しの量で大いに酔っぱらってしまう。アルコール度の低い缶チューハイが一本あれば、泥酔した姿を拝めるほどである。

 では他に何を飲むかといえば、牛乳や緑茶、ほうじ茶であったりする。炭酸飲料などは苦手で、口の中がピリピリするのが怖いなどと奈々に打ち明けたこともあった。

 「(うーん。よく考えると、うちのお父さんってちょっとお年寄りっぽい……かも?)」

 などと娘に心配されてしまうほどである。

 そんなことを考えながら、野菜室を開けた。昨日買ってきたばかりの新鮮な野菜が、色鮮やかにボックスを彩っている。赤と黄のパプリカ、ベビーリーフの詰め合わせパック、二十日大根、大きな葉の付いた大根、小松菜、ほうれん草、それににんじんとにら。

 「うん、これだけあればサラダが作れる!」

 奈々はテレビに映っていた料理を思い出す。いかと海藻のアーリオオーリオ、サラダ、ミネストローネ、たこのマリネ……。

 「(メインはパスタで、サラダとスープ。たこはないけど、ハムとたまねぎでマリネ! 平日の夕ご飯にしては豪華だね。ふふ)」

 そんなことを思いながら、冷蔵庫や野菜室、流しの下から食材を取りだし一通り並べる。まずは下ごしらえに取りかかることにした。

 「まずはイカだ!」

 実に楽しげに、奈々は夕飯を作り始めた。時計五時五十分を指している。


 「ふう。ちょっと遅くなってしまった」

 一人つぶやきながら、春樹は家へと向かう。腕時計を確認すると、七時近くを指していた。 部活動の指導がある中学・高校の教員と比べれば、小学校教諭は多少早く帰宅することも可能だ。しかし、仕事をいくつも抱えてしまえば話は別である。

 テストの採点も、国語・算数・社会……といくつも重なればすぐには終わらない。小学校の担任は、一人でほぼすべての授業を受け持たなければいけない。それにやりがいを感じることも多いが、難しさを痛感することもある。

 とはいえ、春樹は教師という仕事が好きだ。生徒と接することも、勉強を教えることも決して簡単ではない。自分の教え方しだいでは、子どもたちは勉強に苦手意識を覚えたり、やる気をなくしてしまうかもしれない。接し方によっては、道徳から外れた考えを持ったり、強めてしまうこともあるだろう。これなら間違いない、という最適解もありはしない。

 それでも、春樹は仕事が好きだ。

 分数が理解できずに困っている生徒に、どうしたら分かってもらえるか考え続けたことは記憶に新しい。

 分数はつまづく生徒の多い単元だ。理解してもらうための努力を欠いてしまえば、生徒は算数自体に苦手意識を持ってしまうかもしれない。自分の教え方一つで、その子の未来が変わってしまうといっても過言ではない。春樹自身、高校時代に英語を嫌いになりかけたことがある。

 担当教師高遠の授業はいわゆるスパルタだった。ついていけば成績は確実に伸びるが、こぼれ落ちた生徒は勉強に自信を持てなくなることも多かった。高遠のやり方が間違っていたと春樹は思わない。受け持ったクラスの生徒全員の成績を上げることは無理に等しいし、士気を高め維持していくことも難しい。高校時代は納得できなかったが、教師になってみるとよく分かる。

 「(高遠先生も悩んでいたんだろうな。あの頃の俺は先生のやり方が嫌で仕方なかったけれど、今は分かるような気もする。同じ立場になって初めてね)」

 教師も一人の人間でしかない。調子のいい日もあれば悪い日もあるし、好きな生徒も嫌でたまらない生徒もいる。差別などではない、厳然たる事実だ。仕事に私情を挟まないだけで、心の中では他の人間のように葛藤している。高遠も春樹を面倒な生徒だと思っていたかもしれないし、自分の指導が完璧だと盲進していた訳でもないだろうと、今では理解できる。

 教師も人間だ。汚い感情を持つこともあれば、同僚や生徒に嫌気が差すこともある。ただ、それを表に出さないだけである。若い頃はどこか認めたくなかったことだが、教師生活を続けるうちに自然と腑に落ちた。

 「(まあ、それを言い訳にしてはいけないのだろうけど。たとえ苛ついているとしても、生徒に辛く当たってはいけない)」

 春樹がそう自分に言い聞かせていた時、ふいにスマートフォンが鳴った。電話の主は奈々である。慌てて、すぐに出る。

 「あ、お父さん?」

 奈々の声はどこか不安げだった。帰宅が遅くなる時には必ず連絡をする、というのが嵐山家のルールである。それが珍しく破られてしまったのだから、彼女が心配するのは無理もないことだ。

 「ごめんな、遅くなったのに連絡しなくて」

 「大丈夫。お仕事忙しかったんでしょ?」

 「ハハ、まあなんとかなったよ」

 仕事の山と格闘してヘトヘト、などとは言えない春樹だった。

 「ご飯、もうすぐできるから。気をつけて帰ってきてね。いきなり電話しちゃってごめんなさい」

 「そんな。奈々が謝ることじゃないさ。夕ご飯、楽しみにしてるよ」

 ぱっ、と奈々の声が明るくなった。

 「ありがとう! 今日も頑張って作ったからね。じゃあ、また」

 「うん、また家でな」

 電話はそこで切れた。奈々の心遣いをありがたく思いながら、春樹は家路を急ぐ。時計の針は七時十分を指していた。辺りの家々に明かりが灯り、美味しそうな匂いが漂ってくる。幸せな夜の情景だった。





 「ただいま、お父さん!」

 玄関のドアを開き、奈々は春樹に笑いかける。

 「ただいま、奈々」

 春樹はそれに応じつつ、内心小さく喜んだ。いつものやりとり、いつもの景色。特別なことは何もない、ごく当たり前の日常。それこそが、少年時代から春樹がずっと憧れてきたものだったからだ。

 「……どうしたの?」

 ふと顔を上げると、奈々が不思議そうに首をかしげていた。思っていることが顔に出て、にやけていたのである。完全な不可抗力だった。

 「いや、ちょっとね」

 「えーっ、なになに?」

 ごまかそうとしたが失敗に終わり、春樹は降参した。

 「……いや、家族っていいものだなと思ってさ。私の両親――奈々のおじいさんやおばあさんは、昔とても厳しい人たちでね。私は出来が悪かったから、怒られてばかりだった。家にいてもくつろぐどころか、かえって居心地の悪さを感じてばかりだったよ」

 「……辛かった?」

 「正直なことを言えばね。……あの日々が穏やかで心安らぐものだったなんて言えば、嘘になる」

 率直な、偽りのない表現だった。 

 「私には出来のいい兄がいるんだ。彼は頭が良くて、運動も冗談みたいに得意だった。小さい頃は一緒に走ったりしたけれど、追い抜くどころか並べた記憶すらない。その上皆をまとめることも上手く、誰にも彼にも慕われていた。私は落ちこぼれだったけれど、兄はいつも優しくしてくれたんだ」

 そう言って春樹は靴を脱ぎ、家に上がった。

 奈々はわずかに戸惑う――というより、驚いていた。春樹に兄弟がいるということを、今の今まで知らなかったからだ。父親の両親には良くしてもらっているし、時折電話したりもする。それでも、春樹の兄の話を聞いたことは一度もなかった。十年以上一緒に暮らしていて、ただの一度も。

 「兄の思いやりが、かえって辛かったりもしたんだけれどね。今はどこでなにをしているのか……さて」

 話はそこで途切れた。奈々は慌てて居間に入り、夕飯の準備をする。春樹がニュースを見ている間にテーブルを拭き、料理を並べる。

 「今日はイタリアンか! いやあ豪華だ。美味しそうなものばかりだねぇ」

 「ふふー」

 春樹の素直な賞賛を受け取り、奈々は得意げに胸を張った。今日の料理は彼女の自信作ばかりである。パスタもマリネもサラダもスープも、どれも上手くできたと自負している。

 「頑張って作ったんだよー。早めに食べてね。冷めちゃうともったいないから」

 「それは楽しみだ。よし、すぐに着替えてくるよ」



 「いただきます!」

 その言葉を合図に二人の夕食が始まる。奈々はマリネから、春樹はサラダから食べ始めた。二人ともメインディッシュにはすぐに箸を伸ばさない。ただの習慣であり、特に意味はないのだが。

 「このサラダいいな。野菜の切り方が面白いし、器もユニークだよ。ガラスのボウルなんてうちにあったのか」

 「一ヶ月くらい前におしゃれなお店を見つけて、そこで買ったの。ガラス工房と一緒にやってるんだって」

 「へえー、面白そうなところだなあ。しかし私、全然知らなかったよ」

 「最近仕事忙しそうだもんね。あんまり一緒に出かけたりもしてないし……」

 ただ思うまま話しただけだったが、奈々は妙に寂しい気持ちになってしまった。実際、春樹とはしばらく遊んでいない。その主な原因は春樹の多忙にあるが、小学校高学年の女子として、父親に甘えすぎているのではないかという思いも、彼女の中にはあった。

 しかし、奈々にとっての家族は養父の春樹だけである。いざとなった時に頼れるのは、彼とその両親くらいしかいない。友人たちは奈々によくしてくれているが、あまり迷惑をかけてはいけない――と彼女は考えてしまう。博子たちを大切だと思えば思うほど、かえって依存してはいけないという気持ちは強くなっていた。

 「(人に頼るって難しい)」

 「……ごめんな」

 つい考え込んでいた奈々に、春樹が声をかけた。

 「寂しい思い、させただろう?」

 「そんな……大丈夫だよ。寂しくなんてないよ」

 奈々はつくろうように言葉を返す。その半分は本当で――半分は嘘だった。

 春樹がいる。友人たちがいる。祖父母がいる。今まで知り合った多くの人々がいる。それだけで幸せだ、自分は恵まれていると奈々は思う。

 しかし、ひとたび暗い面に目を向ければ話は別だ。

 友人の博子にも真菜にも杏にも、ひそかに思いをよせる光彦にも、両親がいる。母と父の二人が揃い、兄弟もいる。血のつながった実の家族がいるのだ。

 奈々には――そんな存在はいない。本当の親に会ってみたいと願ったところで、叶うかどうかも分からなかった。そもそも自分を捨てたような人間が、改めて自分に会ってくれるとは限らない――彼女はそう思ってしまう。涙を誘うような感動の再開がある、と心から信じたりはできなかった。

 「奈々、おまえは優しい子だね」

 春樹の顔は奇妙なほどに憂いを帯びていた。言葉のみを捉えれば賞賛のようだが、意図する所は異なっていたからだ。奈々の優しさは、自分の心を塞いだために生じているのではないか――彼女はどこかしら無理をしているのではないか――。春樹には、そう思えてならなかった。 「いい子だよ、本当に」

 「どうしたの、お父さん……?」

 「奈々……頼む、一つだけ約束してくれ」

 マリネのイカをフォークで刺しながら、彼は奈々の目を見据えた。

 「苦しい時は、人に頼ってほしい」

 「……!」

 「お前は優しいし、賢い子だ。それだけに自分一人でなんでも解決しようとする癖がある。本当に追い詰められ辛い時でも、いや、そんな時だからこそ人に相談できない。私には時折、そう思えてならないんだ」

 「…………」

 「答えなくてもいい。ただ、覚えておいてほしいんだ。人一人でできること、耐えられる重さは決まっている。個人差はあるけれど、誰にも限界はあるんだ。そんな時は誰かに相談したり、手伝ってもらうと気持ちが楽になる。自分が信じられると思える人に、頼る。難しいことだ。でも、とても、とても大切なことなんだ」

 奈々の手を取り強く握りしめながら、春樹は言葉を紡いだ。それは嘘偽りの一切ない、彼の本心から来たものだった。奈々はうつむき、肩を落としながら静かに語る。

 「……そうできたらって、思うよ。でも、私には……私は……人に頼れない。だって、もし拒絶されちゃったら? 自分が信じた人に裏切られちゃったら? 人に思いを寄せたって、返してくれるとは限らないって、思っちゃう」

 奈々は強く唇を噛みしめた。小さな細い肩が、わずかに震えている。

 「(どうして、お父さんはこんなことを言うの? ずっと隠してきた汚い思いなんて、誰にも知られたくない……人に嫌われたくないから本当のことを言えないなんて、友だちすら信用できないなんて、私は……私はどうしようもない人間だ……!)」

 図書室で借りた本に書いてあった、その感情を表す言葉を思い出した。

 欺瞞。

 好かれるために、嫌われないために、自分を偽る。大抵の人間が行うそれら「演技」は、幼い奈々にとって受け入れがたいものだった。

 彼女は、自分のことが好きではない。

 人の思いを受け止め、自分なりの意見を述べることも不得手だ。相手が彼女を大事な人だと思ってくれているとしても難しい。むしろ好意を持っている人間には余計に遠慮してしまう。大切な人に見放されたくない、自分の言葉で傷つけたりしたくない、とがんじがらめになってしまうのだ。

 「私は、お父さんが思ってくれるような人じゃない……! 博子も真菜ちゃんも杏ちゃんも、クラスのみんなも……光彦くんも……どこかで自分みたいな、どうしようもない人ことなんて嫌ってるんじゃないかって疑っちゃう……! いつか、みんな……」

 頬をつたう涙を拭い、奈々は言う。

 「本当のお母さんやお父さんみたいに、私を捨てるんじゃないかって……!」

 「…………!」

 春樹は驚き、目を見張った。ずっと娘がひた隠しにしてきた感情を、その源を知ってしまったからだった。

 春樹は急に席を立ち、奈々を抱きしめた。強く強く、決して離さないように。もう「あの時」と同じことを繰り返したくはないと願いながら。

 「奈々、お前は強い子だ。長い間、苦しかっただろう……そんな風に思わせて、ごめんな……!」

 奈々は春樹の背に腕を回し、声を上げて泣いた。大きな涙が零れ、春樹と奈々の服を濡らす。とどめ続けていた感情が、堰を切ったようにあふれ出してくる。

 「……おとう、さん……」

 偽りのない、思いを伝えた。

 「ありがとう」



 同時刻、男は夜の空へ飛び立った。黒い羽が町の遠景を塗りつぶす。――死の使いが少女たちの元へ降り立ち、すべてを終わらせる日は――。

 もう目の前だ。

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