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ふたつ、ください  作者: 笹木道耶
5/5

Scene 5 公園

Scene 1~5まで、五人の視点で物語を紡ぎます。

Scene 5、五人目は大学時代の同級生(男性)です。



 あたしは、また夢を見ているの?


 これが夢だったら──、

 なんて残酷なんだろう──。

 

 がんばったのに──。

 がんばってたのに──


 たった一つの偶然が──、

 すべてを台無しにしてしまうの?


 それも「奇跡」に近い偶然が──。


 今度こそ──、

 信じて、いいの?──、

 

 あたし──、

 あたしも──、

 夢を見て、いいの?


 叶うかもしれない夢を、見てもいいの?

 

 あなたは、それを──、

 許して、くれるの?

 


Scene 5 公園



 どこか落ち着ける場所はないものか──そう思って歩いていたら、公園にたどり着いた。

 そこそこ大きな公園だ。土曜日なので、小さな子どもたちを含む様々な世代の人々が思い思いのときを過ごしている。しかし、それでも人口密度は決して高くなく、私が目的を達するには十分な環境であると言えた。

 二人がけ程度の小さなベンチに一人で腰掛け、ビニール袋から紙の包みを取り出す。紙をのけると、中から木目の入ったお弁当箱のような箱が姿を見せ、そしてそれを開けると──。

 一瞬周囲に気を配る。鳩による襲撃を受けたらたまらない。この瞬間を迎えるために、今日は一時間近くもずっと歩き通しだったのだ。

 おそるおそる蓋をあける。

 芸術的とも言える繊細な色使い。

 柔らかそうな曲線を描く美しいボディ。

 先ほど店先で見た姿と寸分違わぬ姿で、今は私の手の中にある。

 私は、それを不器用に親指と人差し指で摘むと、形を崩さないように慎重に慎重に口元へ運んだ。そして一瞬だけ間近でその美しい姿を見、そして口の中へ放り込む。

 一口で食べると、様々な味のコーディネートのすばらしさが解るのだ。

 ほんの一瞬だけの、確かな幸せを感じる瞬間──。

 例え他人に理解されなくても、私はこういうのが好きだ。胸を張って自慢できるような行いではないかもしれないが、とにかくこれが今の私の最大の楽しみである。そしてまた、こうした瞬間を得るためにいろんなところに足を運び、『確かな』店を探し歩くことも、私の楽しみの一つであった。

 箱の中にはもう一つ、先ほど一口で食べたのと同じモノが入っている。

 今度もまた不器用にそれをつまみ、口元へと運ぶ。そしてじっとそれを見ながら、今度は前歯で少しだけ切り離して口の中へ。今度は、色とりどりのその芸術品の一部一部を、少しずつ少しずつ味わっていくのだ。

 二つ目を食べ終わり、ほうっと一息つく。

 ウイークデーの間からずっと楽しみにしていた瞬間が、今、終わった。


 もっといっぱい一度に買い込めばいいのに。

 そんなふうに言う人もいるだろう。

 私がそうしないのはどうしてだろう。

 一応理由はあるんだけれど、そこまでこだわる理由でもないはずなのだが。

 ただなにかその、生きている、というか、生きていける、というか──、そういう実感がほしいから──というのが、『今の』理由の根底にあるんだろうとは思っている。

 幸せを欲張るつもりはない。

 例え一瞬でその幸せが終わっても、また比較的すぐに、新たな幸せを得ることができる。そしてそれは、決して裏切ることはないから。

 確かなものを持っているお店に出会うことはそう多くはない。ただ、歴史あるたたずまいのお店の場合で、そのたたずまいが真実である場合は、それなりに高い確率で『確か』である。たいていのお店には複数の商品があるから、何回も通うことはできるのだが、私は、そういう店を探し当てても、すぐにまた次の店を探し始める。そうすることによって、本当にいつでも新鮮な幸せを得られるように、しておきたいから。


 こんなことをはじめたのは学生時代だ。

 小学校、中学校、高校と、何よりも優先して取り組んできた野球。私はそれを高校三年生の夏を最後に、失うことになった。

 野球しか知らない野球バカの私には、もっとずっといろいろなことを知っている人たちしか周りにいない大学での生活は、ほんの少し、苦痛だった。

 良くも悪くもプライドだけは高い私は、そして典型的な投手としての、目立ちたがり屋で神経質で我が儘な性格である私は、表面的にはそれなりに周りとうまくやれていたと思うが、もっと深い部分では、誰ともうち解けることができずに、淡々と大学生活を送っていた。

 男性とも、女性とも──。

 女性に言い寄られたことは何度かあった。甲子園に出場したことがあるという過去のせいか、それとも一八〇センチ以上ある体格等の外見のせいか、それとも人見知りをしない比較的とっつきやすい(と思われていたらしい)性格のせいか──。

『連れて歩くにはいいよねえ』

 ふとしたことで耳にしてしまった自分に対する女性だけの場での女性陣の評価。そんな評価に、苦笑すると同時に強い嫌悪感を抱いた。みんな本当の私を知ろうとはしない。むしろ私を、「あなたはこういう人間であるべきなんだ」と型にはめようとする。そしてそれに応えようとしないと、「あいつはおかしい」とか「性格悪い」とか「付き合い悪い」とか、陰口をたたかれる。

 当時の私は、そんなこともあって多少、女性不信になりかけていた。

 そしてそんなとき、私はある女性と出会い、そしてあるお店と出会った。


 至福のときをもたらしてくれた和菓子の入っていた箱を手に提げたまま、私はもうしばらく、休日の公園を堪能しようと衝動的に決めた。

 体が大きいので、ゆっくり歩いても歩速はかなりある。私は意識してゆっくりと、木々を見上げ、その先にある空を眺めながら歩き出だした。

 都会の中のオアシス。それほど澄み切った空気、というわけでは決してない。しかしそれなりに広いこの空間は都会の雑踏を確実に遠ざけ、私の心をほっとさせるには十分だった。

 ふと目線を前方に移す。

 ドキッとした。

 途端に息苦しくなる。

 立ち止まる。

 もう二度と訪れることはない──さすがにもう、そう覚悟しつつあったこと。

 その覚悟が不要となる瞬間が、そこにはあった。


 彼女は一人ベンチに座り、眼鏡をかけ、そして本を読んでいた。彼女が目があまり良くないことは知っていたが、眼鏡をかけている姿は初めて見た。

 服装も学生時代とは変わっている。年相応のカジュアルスーツ。こざっぱりとしていて、在野な印象が非常に強かった当時の印象とはかなり違う、エリート的な雰囲気を携えている。

 しかし、それでも私にはすぐ、この女性が彼女であることが判った。

 三年ぶりなのに。

 遠目に見ただけなのに。

 三年近く会ってなかったし、しかも現在どこに住んでいるのかも、どういう境遇にいるのかも知らなかった彼女。

 もちろん、新卒のときに就職した会社は知っていたし、共通の友人、知人もいた。調べればすぐに判るはずのことだった。

 でも調べなかった。

 私が入った会社と今の自宅、そして彼女の会社は同じ路線で割と近くだったし、縁があるのなら必ずまた会える──根拠のない、その想いをただただ信じて。

 私は駆け寄りたい衝動を抑え、彼女の方へ、それまでと変わらないスピードで、再び歩き出していた。

 

「お暇ですか? お暇なら、どうです? その辺でお茶でも」

 こう声をかけると、彼女は読んでいた本から、視線を私の方に移した。

「見ての通り読書中」

 彼女の返答は素っ気なかった。

 特に驚いた様子もない。

 まさか、私のことなんかすっかり忘れているのか?

 私は内心、かなり動揺していた。

 しかしあり得ないことではない。こっちが覚えているからといって、彼女が私を覚えているとは限らないのだ。

 ただ、人違いということだけはあり得ない。私は、そのことだけは確信を持っていた。

 彼女はそんな私の心の内を見透かしたのか、クスッと小さく笑った。

「元気そうだね」

 学生時代より、落ち着いた調子で彼女は言った。ホッとすると同時に、その落ち着きが少し心に痛い。

 やはり、もう彼女は、確固たる幸せを掴んでいるのだろうか?

「ああ。とりあえず、元気だけが取り柄みたいなモンだからな、俺の場合」

 自然と言葉が学生時代に戻る。彼女の『今』が幸せなら、それはそれで結構なことじゃないか。

「ふふっ、いつもそう言ってたよね。実際は、結構そうでもなかったように見えてたけど」

 優しい笑顔。ちょっと張りがなくなった声。

 でもやはり、コイツは変わってない。

 変わってないよ。

 そして私もきっと──。

 彼女の言葉に、思ったように突っ込むことが出来ない。

 いや、そもそも、頭の中が限りなく真っ白に近くなってしまっている。

 しかし逆に、ドキドキしている、という自覚症状があるにも関わらず、なんだかひどく落ち着いてもいる。自分がこうなるべくして、今、ここにいるような気がする。

 なぜか、そんなふうに思う。

「あっ、お菓子」

「ん? ああ。ついさっき食っちまったばっかだけどな」

「え~っ、惜っしいなあ、それ。ちょうど久しぶりに和菓子も食べてみたいな、って思ってたのに」

 じゃあこれから一緒に買いに行くか──そんな言葉が喉元で止まる。

「あなたのことだから、どうせまた、二つ同じの、買ってたんでしょ」

「……え? な、なんで?」

 どうしてそれを?

「あ、そうか。お互い、しゃべってなかったもんね。『はたけ』のことについては」

「……知ってたのか」

「うん」

 どうして──。

 たまたま偶然、私は彼女が『はたけ』という和菓子屋で働いていることを知った。

 もちろん大学で知り合ったあと、本人の口からではなく、どこからともなくそんな情報が入ってきただけ──だったのだが。

「『はたけ』のお菓子、美味しかったでしょ」

「ああ。何年も和菓子屋食べ歩きをやってる俺の知ってる中でも、まあ上位に入る店だな」

 一時期通った畑中和菓子店、通称『はたけ』。

 私の「食べ歩き」発祥の地。

「ふふふ、そう言ってもらえると、雪恵さんたちも喜ぶわ。でもそんなことやってたんだ。知らなかったよ」

「……まあな」

 つい口が滑ったようだ。

「でもさあ、そういえば、どうして同じお菓子を、いつも二つも──」

 彼女はそこで言葉を切った。

 気の利いた答えが出てこない。

 私は少し舞い上がった気分の中で、そう思った。しかし、依然冷静さも同時に保てている。そして彼女の言葉の意味を少し考えてみることもできる。意外と余裕がある。

 どうしてだろう? 

 沈黙が二人の間を流れる。

「最初はお前を冷やかしに行こうと思っただけだったんだけどな。そんときたまたまお前いなくて──で、まあ待つのもヘンだし、基本、そのときもまあ、和菓子好きだった俺としては、とりあえず買って帰らない手はないってんで試しに買ってみたらこれが美味しい」

 普段、それほど口数が多くないはずの自分から、驚くほどにスラスラと言葉が出てくる。

「俺ってさ、結構ガサツな感じのイメージなかった? 体もでかいし、口は悪いし、ぶっきらぼうだし。だからさ、なんかその、知ってる人に、和菓子好きなことをさ、知られたくなくて。特に女子には。

 最初はなんて言うか──お前の冷やかしメインだったから、そこはあんまり考えてなかったんだけど、いざ行ってみるとやっぱり──な」

 ──急に恥ずかしくなったから、とは言えなかった。

「でも、すごく美味しかったからさ。今度はマジでお菓子が目的になっちゃって。だから、二回目からはお前がいないときに行くようにしてたんだ」

 さすがに肝心なことはぼやかしてしまう。本音ではあるのだが、我が事ながら歯がゆい。

 やはり私はこの程度の人間なのか。

「でも『はたけ』さん、本当に旨かった。だから、二つ必ず、買っていったんだ。同じものを。それが今でもクセになっちまってなー。一つじゃ俺には物足りないし。

 だけど、一度に三つ以上食べると、ほら、和菓子って結構、一つ一つの味がキツイだろ? それに俺、絶対太りたくなかったし」

 実は私は、野球をやめてからもジョギングや筋トレは地味に続けていた。スポーツ選手は、スポーツをやっている間はそう簡単に太らないが、全くやめてしまっても、食欲までは変化に対応できないことが多い。さすがにそれが怖くて──そう告げると、彼女は小さく、しかしとても楽しそうに、しかしどこか不安そうに──笑った。

 !──!?

 なんだか、今まで私が見てきた笑顔とは違う?

「じゃあ、あたしが以前『太らない体質』って言ったとき、結構本気でムカッときてた?」

「うん。結構ちくしょーとかって、思ってたぜ」

 そんなやりとり、覚えていてくれてるのか? 

 もちろん私の方は覚えていたが。

「で、ほんとに、それだけ?」

 ……苦しい質問だ。

 しかし、コイツに対しては絶対にごまかしはきかないぞ──というか、ごまかしたくはない──そう思った。

 そして彼女には、自分のことを少しでも正確に知っておいてもらいたい、という思いがあった。

 だからこそ、私は彼女に、すべてを包み隠さず話すことにした。

 普段の私なら、そこまではまずしない、そんな行動だった。

「三つだと多いっていうのは一応本当だよ。でも二つだった理由は確かにもう一つあるな。相手が──お店の店員さんがもしお前だったら、ひょっとしたら一つだけ買うんでもよかったのかもしれない」

 自然と照れ笑いがこぼれてしまうのがわかる。

 実に婉曲的に本音を話している自分が、なんだか少し切なくもある。

「やっぱさ、なんだかんだ言って、いい年した男が、ああいうモンを一つしか買ってかない、っていうとさ、『世間体』が悪いっていうか……年頃の男の意地っていうか見栄というかなんというか。おかげで今ではすっかり、二つ買うのが習慣になっちまったよ」

「…………」

「…………」

 しばし無言になった二人。だけれども、彼女の顔はゆっくりと、だが確実に緩んでいた。

「あははははっ──はあ、でも、それで『二つ』かあ」

「うるせえな、わりーかよ」

 照れ隠しもあるが、いつも通りの言葉でちょっとだけ反抗する。

「ううん、解る。その気持ちはあたしにも」

 なんだ? 

 なんか今、一瞬彼女が、すごくシリアスな表情になったように見えた。依然笑ってはいるのだが、なんとなく──。

 いや、笑っている?

 笑ってるよコイツ。

 ……ひょっとしてこれが、彼女のほんとの笑顔なのか?

 ものすごいスピードでそんなふうに思考を巡らせる私の視線を前に、彼女は一度俯き、そして言った。

「どころでさ、ナンパなんて、絶対しないんじゃなかったの?」

 学生時代よりも多少弱々しいような、当時は見たことがなかった笑顔。しかしその言葉が、そしてそんな自然な笑顔が、小心者の私に勇気をくれた。

「ナンパしたつもりはねえよ。お前だから、あんなふうに声をかけることができただけだ」

 即答した。

 即答できた。

 もちろん、本心だったから。

「……いつか必ず、縁があるんだったら、いつか必ず、また会えるって思ってた。虫のいい考え方かもしれないけど」

 意は決した。

 どんな結果に繋がっても、絶対後悔しない。

 運命がどうであれ、縁がどういうふうにあるのであれ、今この場で、こうして再会できた。何の障害もなくスッと自然に話ができたこの場所で、私は彼女にすべてをぶつけるのだ。

「絶対会える、そんな気がしてたんだ。

 もう何年もたってるからさ、さすがに無理だろうとはどっかで思ってたはずなんだけど、でも、必ず、縁があるなら必ずもう一度会える、そういうふうに思ってた。

 だから、会いたかったけど、ほんとにマジで、もう一度会いたいって、思ってたけど、でも、連絡先を知ろうとか、そう言う努力はいっさいしなかった。

 会えると信じてたから。

 もし会えないのなら、それは縁がないんだ、って、思ってたから。それが俺のほんとの気持ち」

 次々と、信じられないセリフが出てくる。用意していたわけではない、本当に心から出る、正直な気持ち。

「そんなに長い期間、一緒にいたってわけでもないのに。彼氏がいるって、噂も聞いてたのに。でもなぜか、まったくの他人、って感じがしなかったんだ。家族のような安心感っていうのかな──いやちがうのかな? よくわかんねーけど」

 四年以上、言えなかった気持ち。

 本当の私の、正直な想い──。

 え~っ、なによそれ、っていう、ちょっと困惑したような、でもちょっと弾むような、微かな彼女の声──。

 そんな彼女は笑顔の中に、うっすらと涙を浮かべている。

 笑顔の中で複雑な口元。

 なにかを我慢しているようにも見える。

「俺さ、口下手だからここまでしか言えねえ。だけど、今のは一応マジでマジ。迷惑だったらはっきりそう言ってくれ。

 ずっとつき合ってる彼氏と今でも続いてるんならそれはもう仕方ねえし。略奪愛は俺には似合わねえし。

 それとも、もう結婚してる──とか?」

 私が冗談ぽく言うと、彼女は一瞬目を丸くしたあと、涙を浮かべたまま歯を見せて笑った。そして、結婚なんてしてないよ──とやや間延びした口調で、悪戯っぽく言った。

「どうもあたし、誤解されまくってたみたいだね。まあ、身から出た錆なんだろうとは思うけど……そっか、緒田クンにまで、そういうふうに思われてたんだ」

「え? いや、お前がモテないとはとても思えねえし、そう聞いてたから」

「そんな……。あたしは全然モテないよ。それにあたし、そんなこと自分で言ったこと、あったっけ?」

「うーん、どうだったっけ?」

 わざと曖昧な返事をしたが、実は確かなことを私は言えた。

 直接は聞いたことはない。断言できる。

「あたしは別にモテないし。そもそも、そんなに魅力のある人間じゃないよ。なんかさー、女友達にもそんなふうに言われることがあってさ。なんでだろ? なんかなあ、フクザツ。

 つき合った人も一人だけだし、それも長くは続かなかったし。それに何年前よ? もう一〇年近いわ。まったくしょーがないなあ、あたしは」

 一人で少し思い出し笑いをする彼女。

 しかし、その声は少し震えていた。

「あたしは……」

「俺はお前が好きだ。臼木さん」

 彼女が何かを言いかけたのを遮り、思わず、ハッキリと口をついて出てしまっていた。

 高校球児時代の自分のストレート以上の剛速球を、いきなり投げてしまった。

「なんていうか、感覚的にというか、最初に会ったとき──話をしたときから目が離せなかった。

 でも一目惚れとは違う。何というか、よくわからんけど……とにかく俺はお前が好きなんだよ」

 まだ足りない。

「さっきさ、和菓子好きなこと、『女子に知られたくなかった』って言ったろ? 自分でバイト先に冷やかしに行っといてなんだけどお前に会えなくて、で、なんか冷静になってみたら──何だか急に恥ずかしくなって、で、お前には知られたくなくなったってだけだ。

 かっこつけていたかったんだよ、お前の前では。いつも」

「……そのわりには、さっきはあっさり、冷やかしとか言ってたような?」

 口調とは裏腹に、真剣な目で、彼女は訊いてきた。

「ああ言ったよ。この三年で、少しは大人になったのかもしれないな、俺。

 でも、もしもっと個人的な関係で親しくなることができたなら、それはそれでいつかは知られることだし。それに、これは俺という人間の本質に限りなく近い要素の一つだ。そう簡単に変えられるようなことでもないし、これが原因で嫌われるなら仕方ないと諦めもつくし──って、まあ本当に嫌がられるなら、諦めるよう努力することについて、やぶさかでもない──けど。

 まあなんていうか、それだけの気持ち──だから」

 彼女が俯いてしまう。まだ言葉が足りないぞ──私は冷静に、ゆっくりと次の言葉を発する。

「お前から出てくる返事なら、どんな応えでもいい。でも本気で、本音を聞かせてほしい。お前って、結構綺麗事にこだわるタイプだと思うから。俺と同じで、自分に酔えるタイプだと思うから」

「……自分に、酔える?」

「ああ。自分一人の欲望に向かっては、ガツガツ進めないタイプってヤツ」

 自嘲気味に言った。

 この言葉は、ただただ彼女を侮辱しているだけかもしれない。こんなことを言ってしまったら、うまくいくものもいかなくなるのかもしれない。

 しかし、仮にうまくいかなくとも、彼女にそうした認識を正しく持ってほしいとは思う。それを持った上で、これからの人生を歩んでほしい。

 肘と肩、両方の激痛を堪えながらマウンドに立ち続け、肘を疲労骨折しながら、なおもマウンドに立ち続けようとした愚かな自分。

 プロのスカウトの来訪も、高校ナンバーワン右腕と書き立てるスポーツ新聞や専門誌の記事も、すごく嬉しかった。光栄に思ってた。

 自分はプロに行ける才能を持った人間だ、そう真剣に思うこともあった自分。

 プロ野球で活躍することが夢だった自分。

 そして、決してそれらのことが夢ではなかった、それだけの力を持っていると信じられた自分。

 肩が痛い、投げられない──違和感が出た時点でそう申告しておけば、私の野球人生は終わってなかったかもしれない。でも、二年夏に甲子園出場、三年春はそれを逃し、最後の夏こそと思って、みんなで頑張った県大会。肩の痛みを庇ったため肘に来ていた痛みが破裂して、致命傷を負った間抜けな自分。

 自分一人の夢を追えなかった自分。

 でも、それでいいやと、満足してしまっている、自分──。

「……肘が折れちゃうほど、痛かったのに、投げ続けてたんだよね? 肘が折れた音、内野手の間には聞こえてて、駆け寄ろうとしたみんなを制して、それでもマウンドに立ち続けようとしたって。

 チームには自分しか、ピッチャーはいないからって」

 え?──。

 なぜ、彼女がそのことを?

「あたし今、雑誌記者やってるから──。スポーツ・芸能に弱かったんで、勉強がてら過去の記事を調べまくったことがあったの。そこで──っていうのも、実は半分も本当じゃないかな」

 彼女は顔を上げ、はっきりと私の目を見ながら、言った。

「あなたのこと、調べてみたくなったの。あたしが知ってる、唯一全国区の有名人。

 そしてあたしが一番、いえ、ずっと──知り合ってからずっと気になってて、でもきっと遠い存在なんだ、って思い込もうとしてた、たぶん好きだった人。

 いえ、今でも、ずっと気になっている、たぶん好きでいる、その人のこと。

 ……だから、まあ、偶然再会した今の、この急展開に、正直どうしたらいいかわからないんだけど」

 何で当時言わないのよ──というような、彼女は呆れたようにも見える表情をしていた。

 心なしか、顔が少し赤いような気がする。

「卒業式に来なかったお前が悪い──っていうか、俺が『好き』ってハッキリ自覚したのが、そのあとだったから──かな?」

「……それはなんだかなぁ、だねぇ」

「ちょっと今、時間ある?」

 立ち上がりながら、私は彼女に尋ねていた。

 緊張に耐えられず、気持ちを落ち着けるだけの時間が欲しかった。

 幸いにして、この公園から出てすぐのところに喫茶店があることを、入る前に私は確認していた。

「え? うーん、お昼休みの散歩、ってとこなんだよね、実は」

 しかし、あっさりとそんな私の目論見は崩れ去った。

「昼休み? 土曜は休みじゃないのか?」

「出版社だからね。お休みは多少変則的なんだ」

「そっか……」

 彼女は何かを言いかけてやめ、そしてベンチから立ち上がろうとした。自然に彼女の右手をとり、そして引き上げる。もう速いボールを投げることは出来ないけれど、それでも、痩せ形の彼女の体くらいなら十分支えられる右腕で。

「また、今度はちゃんと『約束』した形で、会ってくれるかな」

「……うん。もちろん」

 あたしでよければ──。

 彼女の口元が、そんなふうに動いたのを、見逃すことはなかった。

 多少ぎこちなく、私たちは目を見合わせ、そして微笑みあった。

 彼女の笑顔は、学生時代の、どこか張り詰めたような笑顔ではなく、ちょっとふにゃふにゃとした笑顔だった。


 それから少しばかり時が流れ、約三年ぶりに、しかもたまたま偶然再会しただけだった二人は、二人が初めて出会った母校の付近を散策していた。まるでずっと一緒に暮らしてきたかのように、自然な雰囲気を醸し出しながら。

 繋がれた手と手──。

 初めて繋いだときは年甲斐もなくぎこちなかったそれも、今ではすっかり馴染んでいる。

 ふと、彼女が言った。行きたいところがあるんだけど──。

 彼女の案内で二〇分ばかり歩いていくと、そこにはケーキ屋があった。看板には『ソレイユ』と書かれている。確か、フランス語で「太陽」の意味だったか。

「ちょっと、いい?」

 彼女は私の手を放すと、一人で『ソレイユ』の店内に入っていた。

 私は一つため息をついたあと、ゆっくりとした動作で、彼女に続いた。

 店内から店員さんと彼女の会話が聞こえてくる。

「これはお久しぶりですね。お元気でしたか?」

「ハイ。ありがとうございます。幸ちゃんさんもおかわりなく。……涼子さんは?」

「ああ、奥にいるよ」

 そう言うと、その五〇前後くらいの男性の店員さんは奥に向かって涼子、涼子、と二度叫んだ。はーい、という女性の声が奥から聞こえてくる。そしてパタパタという慌ただしい音がしたあと、「あら? あらあら、久しぶりじゃない! 元気だったぁ?」と、奥から出てきた女性が、大声で彼女、悠日に話しかけた。

「あ、どうもすみません。何か、おさがしですか?」

「え?」

 ふと、そのやりとりを後ろから眺めていた私に、男性の店員さんが声をかけてきた。

 どうやらこの人は、この店の店長さんらしい。

「今日は何にする? 今日は何を二つ、買ってってくれるのかな?」

 相変わらずの大声で女性の店員さんが悠日に話しかけている。

 ん? 待てよ? ──『二つ』?

「あ、いや──」

 悠日に視線を向けたあと、店長さんと目が合う。

 そしたら、ふと、彼が笑った。

「涼子。どうやら、四つ包んだ方が良さそうだぞ」

「え? あっ……。え?」

 二つ目の「え?」には、なにやら喜びのような感情が込められているように思えた。

 悠日を見ると、彼女は彼女で顔を少し赤らめている。

「そっか、そういうことか」

「…………はい」

 少し潤んだ目で、悠日が私の目を見つめてくる。

 二つ、四つ──。

 四つ。

 なるほど、そういうことか──。

「……うん、そゆこと」

 溢れんばかりの笑顔で、悠日は言った。

これで無事、連載を終了しました。

お読みくださったみなさま、ありがとうございました!


あなたにとって、“主人公”の“臼木悠日”はどんな人物でしたか?

彼女の姿や笑顔や口調、声が想像できましたでしょうか?


百人百様ほど幅があるとは思っておりませんが、十人十色、名前の読み方一つとってもそれは「あなた次第」のもの。


少しでも、好ましい人物としてイメージいただけたならば幸いに存じます。

また別の作品でお逢いできましたら、そのときはよろしくお願いいたします。

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