Scene 2 大学
Scene 1~5まで、五人の視点で物語を紡ぎます。
二人目は、大学の同級生(男性)です。
ダメだよ──。
きっとまた──、
幻だから──。
だから、ダメ──。
また迷惑をかけちゃうだけだから、きっと──。
あたしはみんなが幸せなら、それでいいから──。
だから──。
あなたはあたしに、ちょっとだけ夢を見させてくれた──。
それだけで、十分だよ──。
Scene 2 大学
◆
それは僕たちが三年生となった、新年度の始まりのときだった。
無事に進級することができた僕は、はっきり言ってつまらないことを気にすることが出来るほどの余裕を持っていた。実家だから生活するのには困らないし、バイトも上手くいっているので遊ぶ金にも困らない。
カノジョもいた。付き合い始めて一年以上。今までそんなに長く続いたことなど無かったので、もうなんだかこれから先も続いていくのが当たり前──そんな感じになっていた。
しかしだからこそ、僕には『あのこと』が、自分のことでもないのに強く印象に残っているのかもしれない。
今だから、そう思う。
◇
僕は教室に入ると、後ろから六番目、前からだと一〇数番目という席に座ることにした。
もちろん席順など決まっていないので、後ろから席が埋まっていくのが通常だ。しかし、一番後ろが意外に目立つことを僕は知っていた。中学生相手の塾の講師などをしていると、教師の目でそれを実感することが出来る。それに真面目な学生が好んで前の方に座るため多少真ん中辺りに座っても『一番前』の席になる心配はまったくない。『真ん中よりやや後ろ』がベストなのだ。
……まあ、結局は、教員から見ると結構丸見えなのはご愛敬だが。
席は一応三人がけの固定座席なのだが、両端に二人が座るのがふつうだ。そんな席の列が、この教室には三列ある。
僕は黒板から見て右サイドの中央側に座った。
僕の左斜め後ろの席には、昨年あたりから頻繁に顔を見るようになった女子学生が座っていた。後ろの席の中央側でない、壁側の席だ。臼木悠日とかいう少し変わった名前で、見た目化粧っ気がまったくなく、アクセサリーもしていない、言ってみれば地味な女の子だ。しかし、流行を気にするカノジョがいるせいもあってか僕的には新鮮で、なにより美人なのが僕の目を惹いた。
とはいえ、それに初めに気づいたのは僕じゃない。
「よお、久しぶり、元気か? 修平。お、それに臼木さんじゃないか」
噂をすれば影、というが、我が友人、緒田聖人は、僕に続いてすぐに臼木さんに声をかけた。
「あ~、久しぶり。元気?」
彼女は昨今よく見かける凝ったチョコレートのお菓子を頬張りながら、彼、聖人にそう返した。僕自身は彼女と話したことは一度もなかったのだが、この状況なら僕にも会話に参加する権利がある。
「こいつが元気じゃないときは、もう死んでるんじゃないかな?」
「すごいこと言うねえ。でもまあ、そうかも」
「なんだお前ら。新学期早々ひでえヤツらだなあ……って、お前ら、知り合いだったか?」
僕と彼女は一瞬目を合わせ、そして笑い合った。
なるほど聖人の言うとおり、それなりに明るいコではあるらしい。
彼女は特に人見知りをする方ではないらしく、僕たちは三人でしばし、春休みが終わったことへの愚痴や、前年度の成績、今年度の履修科目についての話題で盛り上がった。
「あ、なんだお前、チョコばっかばくばく食いやがっていつもいつも。そんな食うと太るぜ」
聖人の言葉で話が展開した。
聖人の口が悪いのはいつものことだ。本人もそれは自覚している。そしてその影響を僕も強く受けてしまっている。
まったくロクなヤツではない。
しかし、彼はただ単に口が悪いのではない。とても悪いのだ──では決してなくて、限度はきちんと心得ている。はっきりと物事を言うから、きつく、口が悪く聞こえるだけなのだ。
「いいのよ。あたしが太っても誰も困らんから。それにあたしは太らん体質だし」
「いや、今日以降のことは解らんぜ? 昨日食べた夕食がお前の体質を改善しちまったかもしれないからな。それに困るヤツもたくさんいるぞ。電車で横に座ったヤツとか、混んでるエレベーターに最後に乗ろうとしたヤツとか」
「それならあんたの方がよっぽどじゃない。でっかい図体して。あー、このへんなんだか酸素が薄くない? この辺だけ急速に温暖化してるような気がする」
「アホかおのれは。温暖化のメカニズムについて教えてやろうか」
「そっちが最初に言ってきたんでしょ? それに、温暖化の経過や原因を説明することはできても、『メカニズム』を論じるのは無理なんじゃない? 『メカ』じゃないから」
「……まったく、アホにはつき合ってられんぜ」
臼木さんの言う通りだと思うけれど、僕は黙っていた。
ちなみに彼女は自分で言うとおり少しも太っていない。むしろ痩せ過ぎと言っていいぐらいだ。
ちょっとぐらい太った方がいいような気がする。
「ねえ、こいつ蹴っていい?」
「いいんじゃない?」
「てめっ、修平!」
僕の左横の席に座った聖人に、後ろの席の臼木さんが攻撃を仕掛ける。蹴ったり殴ったり──というと語弊があるが決してウソではない。
まあ、一般的にはじゃれているようにしか見えないのだが。
聖人は口は悪いが、だからこそ逆に信頼がおける。そんな彼が彼女を評して「あんなカワイイ娘、なかなかいないぜ」と言っていた。そしてそれを裏付けるような光景が、今僕の目の前にある。
彼女はやや痩せ気味のほっぺを目一杯膨らませたあと、言った。
「まったくもう、せっかくバレンタインのチョコ、あげようと思ったのに、やめよっかな~」
「ん? お前、その」
今は四月だ。
「欲しい?」
彼女は少しイタズラっぽい笑みを浮かべ。それまで自分が食べていたチョコレートを一つ指でつまむと、彼の口元へ持っていった。彼女は「あ~ん」などと言ったが、彼はさすがにそれを、かつては『快速右腕』と言われた右手で奪い取り、自分の口へと運んだ。
心なしか、彼が照れているように、僕には思えた。
「あ~っ、……まったく素直じゃないねえ」
彼女は一つ、軽くため息をついたあと、クスクス笑いながら、残り一つとなったチョコを自らの口に入れ、「ありゃ、ごめ~ん」と僕に言った。
聖人と臼木さんが知り合ったのは、僕らが二年生の時の、やはり四月のことだったらしい。
思い返してみると、確かにその時期、口は悪いが決して口数が多いわけでも大騒ぎするタイプでもない比較的クールとさえ言ってもいい聖人が、珍しく舞い上がっていたことがあった。
『俺みたいなヤツがいた。女の子だけどな』
彼は意味不明とも言える言葉を僕にぶつけてきた。
「俺みたい」って、身長が一八〇以上あって一四〇キロ以上のボールが投げられる女か?──などと茶化した覚えがある。
そのくらい彼は舞い上がっていた。
聖人はルックスがいい。背も高い。かつては甲子園を湧かせた『快速右腕』で、高校二年夏の大会で、当時の大会最速の一四八キロをマークしたことがあるという、プロ注目の好投手だった。当然運動神経もいい。肘を壊してボールを投げられなくはなったが、それでも有名私立大学から「打者オンリー、ファーストのポジションを約束する」とまで言わせたとも言われている。
なお、これまでの野球人、緒田聖人の話はすべて、聖人が一度も自分から話したことがない、つまり僕も直接は彼から聞いたことがない情報だ。それは付言しておかなければならない。
野球オタクである僕は、彼から一切野球の話を聞かなくてもこのくらいのことは知っていた。そのくらい彼は有名な選手だったし、そのことを決してひけらかすことのない人格の持ち主でもあるのだ。
加えて国立のウチの大学に現役で入ってくるぐらいだから、勉強もそこそこは少なくとも出来る。文武両道、ルックス良し、裏表のない性格。彼にカノジョがいないのが、僕にとってはこの大学の七不思議の一つであった。
聖人と臼木さんはかなり仲がよかった。少なくとも僕にはそう見えた。授業で一緒になる日はだいたい可能な限り一緒にいるみたいだし、学食でツーショットを見かけることも珍しくなかった。すべてにおいてハイレベルだが決して今風ではない聖人と、美人なのに化粧っ気のない地味系美人の臼木さんとは、はっきり言ってかなりお似合いだと言ってよかった。
お前ら、付き合ってんじゃないの?
僕は彼にそう訊いたことがある。
彼の答えはこうだった。
「彼氏、いるんだよあいつ。もう四年──いや、五年目ぐれーになるんじゃねえか?」
そして──。
「俺らぐらいの年代になるとさ、どこにどういう彼氏がいても不思議じゃねえよな。
年上だろうと年下だろうと、遠距離だろうと同棲だろうと」
彼は別の機会に、僕にこんなことを言ったことがあった。
『誰かと付き合ってるヤツをさ、仮に俺が横槍入れて、それで俺の方に靡いてくれたとして、そいつにそれまで以上の幸せを感じさせることができるだなんて自信は、俺にはないから』
そして、日本語の文法をちょっと無視した、こんな言葉も──。
『……ほんと、あいつ、ときどき、ほんとにいい笑顔で、笑うんだよな』
ある授業のあと、僕たち三人で立ち話をしたことがある。夕方だったと思う。
僕はカノジョとの待ち合わせが、臼木さんはバイトがあるとかで、長話はできない、そんな状況だった。
「どうすんだこれから。えれえヒマだな」
最終授業である午後七時三〇分開始の六時限目をただ一人履修している聖人にとっては、二時間弱という時間をどう過ごすかが重要なテーマだったのだろう。さかんに愚痴っていた。その間に入るべき授業が一つ、休講になったことが巻き起こした、ちょっとしたいたずらだった。僕にとっては一時限早く終わるということで、非常にありがたかったのだけれど。
臼木さんはもともとこの日はもう授業がないらしく、「そんな夜遅くの授業なんかとるからよ」と、相変わらずの明るい調子で、痛烈な一言を言った。
「じゃあさ、そんなヒマなら、ナンパでもしてくれば? せっかくかっこいいんだし、性格だって悪くないんだからさ」
聖人は一瞬口ごもった。だが、すぐに言葉を返した。
当意即妙とは言い難い言葉だった。
「俺は、絶対ナンパなんかしない」
この二人にしては珍しく微妙な一瞬が存在したあと、二人はまたいつもの二人に戻った。時間の関係で僕はそのあとすぐ脱落したから、その後の二人の様子は知らない。
このときのやりとりについて、僕には強く心に引っかかっていることがある。彼女の「ナンパでもしてくれば?」と言ったときの、何とも言えないような複雑な表情だ。
人をナンパするよう焚き付けておいてする表情では、なかったように思う。
◆
そして今、僕は思う。
カノジョと別れてもう一年になろうとしている。絶対に別れることなんてないと思っていた。信じられなかった。心に大きな穴がポッカリと開いたような、そんな感じだった。
でも、何となく時間は経ち、カノジョがいないこの状況を日常として、僕はこの世界で生きている。
独り身になっただけの自分。
特に何も変わっていない、それまでの自分の延長上にいる、今の自分──。
そのときの彼女の気持ちが、今なら少し、解るような気がするのだ。
Scene 3、三人目は和菓子店の従業員(女性)です。
※遅くとも来週末(金夜・土・日)までには更新予定。