Scene 1 ソレイユ
Scene 1~5まで、五人の視点で物語を紡ぎます。
一人目は、ケーキ屋のご主人(男性)です。
ごめんなさい──。
迷惑、かけちゃったね──。
ほんとに、ごめんなさい──。
そして、今まで本当にありがとう──。
じゃあ、さよなら──。
元気で──、
さよなら──。
夢から、さめちゃったね──、
やっぱり──。
もう一度、原点に立ち戻らなきゃ──。
あたしの、原点に──。
Scene 1 ソレイユ
◇
「ふたつ、ください」
いつもと変わらない控えめな調子で、彼女は言った。表情もいつもと変わらない、この言葉を口にしたときに出る、はにかんだ、わずかとは言い難いほど照れの入った表情だ。
「はい、シューカフェ二つ、ですね」
『シューカフェ』というのは、その名の通りシュークリームのクリームの代わりにカフェオレ味のババロアを練ったものを入れたものである。シュークリームほどの甘さはないが、コーヒーとミルクの奏でるソフトなハーモニーが『ちょっと落ち着いた日曜の午前一〇時』を思わせる、繊細な風味を持ったデザートである。
「あら、今日は『シューカフェ』なの?」
私の横にいた涼子が彼女に話しかける。涼子は彼女のことをお気に入りである。本人は『私、若い頃を思い出すわあ』などとのたまうが、残念ながらそれは私に言わせれば自分を美化しすぎなのである。
「ちょうどよかったわ。もう一つ、オマケしようか?」
涼子の口調が少しいたずらっぽくなる。午後七時、閉店の一時間前だ。
「ありがとうございます。でも、やっぱり……」
「え~っ、持って帰ってくれないと、売れ残っちゃうなあ。ねえ?」
突然涼子が私に話を振った。だが、何て言ったら当意即妙だろうと考えているうちに、はにかんだ彼女の方が涼子に言葉を返した。
「ウソばっかり」
足かけ三年、常連である彼女には、この手のウソは通じない。涼子が目尻を下げながらふくれて見せると、彼女は涼しげに笑った。いい表情だ。
今時珍しい、化粧っ気のまったくない顔。完全な黒髪。アクセサリーもしていない。
ちょっと見だとまだ中学生ぐらいかとも思わせるが、整った顔立ちに深く刻まれつつあるものが、しかしそれを許していない。
それは悲しいほどの疲れ──。
儚げで、今にも散ってしまいそうで、私としてはいつもやきもきさせられる。普段はひどい焼き餅焼きなはずの涼子がそんな私を咎めようとしないのは、彼女に好意を持っており、同時に私と同じような想いを、彼女に対して抱いているからなのだろう。
「じゃあ、失礼します」
彼女は礼儀正しく軽くお辞儀をすると、颯爽とこの『ソレイユ』を出ていった。二人そろって「ありがとうございました」が一瞬のどに詰まって出てこない。二人とも会釈で、彼女に答えるのが精一杯だった。
「はあ……」
「……どうした?」
ため息をついた涼子に、私は訊いた。
「いいコだよねえ……」
涼子はそう言うと、名残惜しそうにドアから目を離した。
私たち夫婦は、彼女のことを特によく知っている、というワケではない。だが、週に一度は必ず──年末年始だろうと夏休みだろうと、この店が休みでない限りは──ケーキを買いに来てくれるただの一人のお得意さま、というのとはまた違う存在であることは、今の私たちには明白な事実だった。
「あっ、いらっしゃいませ」
新しいお客さんが入ってきた。三人組のオバサマ方だ。バッチリとお化粧をし、キラキラと光るアクセサリーをたくさん身につけ、髪は茶色から紫まで、カラフルに染め上げている。
「……なにに、いたしましょうか?」
涼子の言葉がぎこちない。きっと思いは同じなのだろう。爽やかな先ほどまでの空気が、余韻が、一気に消し飛んでしまったから。
「ありがとうござました~」
棒読みのように涼子が言う。オバサマ方が出ていくと、ふう~っ、と息を深く吐き出した。昔からポーカーフェイスでいられないのだ。
「サービスは、しないのか?」
「あのね」
今度は怒ったような表情になる。私はこのストレートな感情表現に惹かれて、涼子と一緒になった。今、私たちは、地味だけれど確かに幸せなのだ。だからこそ、彼女のことが余計に気になるのかもしれない。
「いらっしゃいませ~」
ゆっくりと考え事もできないうちに、次々と仕事はやってくる。
私たち三人の間には、以前ちょっとした『事件』があった。
『事件』のあらましはこうだ。
彼女はいつも、『ふたつ、ください』と、同じケーキを二つ買って帰っていった。いつも違うケーキを買っていくのに、そのケーキを必ず二つ買っていくのだ。そしてそのとき、彼女は決まって顔を赤らめる。
だから、かなり前から涼子は、オーダーされるまでもなく同じモノを二つ箱詰めするようになっていた。
「そんなの決まってるじゃない。彼氏がいるのよ。ダンナさんかもしれないけどね」
閉店後のある日、ふとその話になった。
「旦那さん? まだ若そうだぞ」
「確かにまだ若いとは思うけど、パッと見ほどじゃないと思うよ。それにあの照れ方」
私の反論は、涼子の予想したものそのものだったようだ。
「お化粧っ気がないのは、きっとそれ相当の相手がいるからよ。お金がない──というのもひょっとしたら理由の一つかもしれない。あのコの相手が同年代の男の子だったら、生活能力はそんなにないはずだし、子どももいるとなったら、もっとずっと大変だと思う」
「でもそれなら、ケーキ一つ買うのも、かなりの負担になるんじゃないか」
「うん、それは……。それはきっとこうよ。二人ともきっと、ケーキがすごい好きなの。で、一週間に一度、その週頑張ったご褒美に買っていく、とか。何か張り合いがないと、貧乏暮らしって、大変だもんね」
「そうだなあ」
自分たちの経験と照らし合わせて、そういうケースがあることについては同意できるが。
「でも僕は、そうは思わないなあ」
「え?」
涼子は意外そうに驚いた表情を浮かべた。余程自分の「推理」に自信を持っているのだろう。
例えそれが「推理」と呼んでいいほどのものであるかどうかは別にして。
「いや、特に根拠はないけど、なんとなく、ね」
そう、まさに何となく、だった。直感と言っていいだろう。私とて初めから、特に意識して彼女のことを見続けてきたわけではない。
「じゃあどう思うの? 苦労人の幸一クンとしては」
「どうって……。ただその、なんとなく……必死で二本足で立とうとしているように、思うんだ」
「え~、じゃあどうして、いつもいつも二つも同じものを買っていくの?」
「それは──」
私はそれには答えられずじっと黙っていたのだが、涼子はそんな私の態度、いや感覚に納得がいかないようで、ついにはこんなことを言い出してしまった。
「じゃあ、次あのコが来たとき、確かめてみましょう。いい方法、思いついた。あのね」
私はさしたる反対もできず、結局涼子の弄する策を黙って静観することにした。
「あなた、いつも来てくれるでしょう。ほんの気持ちよ」
「でも……」
彼女は涼子の「一つサービスするわ」という言葉に本気で戸惑っていた。少なくとも私にはそう見えた。
「あら、たまにはいいんじゃない? 一つずつケーキを食べたあと、残りの一つを二つに分けて食べるっていうのも」
「え?」
彼女は一瞬、涼子の言葉が何を意味しているのか解らなかったようだった。少なくとも私にはそう見えた。
「だからあ、彼氏、いるんでしょう? ダンナさん、かな? 若い者は遠慮はしちゃだめよ。好意は素直に受け取るもの。いい?」
涼子の口調はもちろんソフトで優しいものだった。だが、私にはこの言葉が、彼女に関しては感覚的に受け入れがたいものなのではないか、というふうに思えてならなかった。
またしてもなんとなくなのだが──。
彼女は顔を真っ赤にしていた。
涼子が得意そうな目で私の方を見る。
しかし、私には彼女が本気で困って、それで顔を赤くしているようにしか見えなかった。どうしたらいいか判らない、それが恥ずかしい──そんな感じだ。
「でもやっぱり──すみません、受け取れないです。そ、その──もったいない、から」
彼女は涼子が三つのケーキを詰めた箱を受け取ることも出来ずにオロオロしていた。
さすがに私も見るに見かねて、静観するのをやめてこう言った。
「じゃあ、一つはお客さんが買ったことにして、もう一つをサービスにするよ。三つはきっと、多いんでしょう?」
「え、でもその、悪いですよ」
「いいからいいから。いつも買っていただいてる、お礼ですよ。でも他のお客さんには、内緒だからね」
「でも……」
「さっき涼子が──このオバ、おねーさんが言った通り、若い者は遠慮しない。どうせ、閉店になったら処分するんだ。気にしなくていいよ」
彼女はそんな私の申し出をもなお断ろうとしたが、先ほどのように本当に困ったようなそぶりはなくなっていた。そして結局彼女は私の申し出を受け入れ、二つのケーキを持って、いつもより深くお辞儀をして謝意を示し、店を出て行った。
「……どういう、こと?」
涼子は納得がいかないようだった。ブスッとした不満顔だ。
「まあつまり、あのコは一人、ってことだと思う」
「ええっ? じゃあどうして……」
「判らないよ。でも、一人っていうのは当たってると思う。『もったいない』って、言ってたでしょう? それに、毎週毎週、通ってくれて、それでなおかつ、いつもいつも買っていくものが違うほどのケーキ好き」
「あっ……」
私の言った言葉ですべて察したのか、涼子の表情は見る見るうちに変わっていった。
「私、ひょっとしたら、すごくひどいこと、言っちゃったのかもしれない。
ど、どうしよう。ねえ、どうしたらいい?」
そう言われても困るが──。
「まあまあ、そんなに深刻な問題でもないかもしれないからさ」
それは私の本心だった。考えすぎて得することはそんなにあるものじゃない。それに彼女は、そういう意味ではきっと強い子だから──。
「そういえばさっき、『オバサン』って言おうとしたでしょ?」
考えさせといた方がよかったか──。
「じゃあ、今日はイチゴショートで。ふたつ、ください」
『事件』の翌週、いつもよりはやや遅い時間に現れた彼女は、いつもの儚げな表情で私に言った。こないだはゴメンね、と私が言うと、彼女は大きな目を更に丸くして驚きのような表情を浮かべたあと、えへへ、と小さく笑った。そして、もう慣れてますから──と。
「慣れてる?」
私は彼女の言葉に反射的にそう問いかけていた。
「ははは……。なんか、こう、いつも照れ笑いしてる、らしいんですよねあたし。よく幸せそうなカオしてるって、言われちゃいます」
ほんのりと、色白の顔が赤く染まる。こう言っては彼女に失礼だが、確かにこのはにかんだような表情が、私たち夫婦の論争のきっかけであることは事実だった。
「それによくあるんです、あたし。はっきりなかなか言わないから、こうズルズルと……」
子どものいない私たち夫婦にとって、彼女が自分たちの娘のように思えてくるのは、彼女が多少、私に似て(?)口べたであることも原因の一つなのかもしれない。もちろん、誠実そうな彼女の人柄を見て、願望的にそう思っている、ということなのだろうが。
ニコッといたずらっぽく笑う彼女の表情の裏──。
相変わらずお化粧の跡のない顔の裏には、いったいどんな真実があるのだろう?
「いい奥様ですよね。本当にお二人、仲が良くって、お似合いで……。それに、奥様のこと、名前で呼んでらっしゃるんですね。あたしの、理想です」
私は年甲斐もなくその言葉に照れてしまった。こういうとき、何か気の利いた言葉を返せればいいのだが、そうできない自分がもどかしい。
涼子ならこんなことはないのだが。
「あっ!……」
そのとき、背後から涼子の声がした。
「…………遅かったじゃない」
その強い口調とは裏腹に、ずいぶんと弾んだような声だった。ホッとした自分の気持ちを隠そうとしているのだろうが、その目的はまったく達成されていない。
「ちょっと今日は、授業のあと、友達に捕まってしまいまして」
「あっ、ええと……そっか。そういえばあなた──、学生さんなの?」
「え? あ、はい。一応その、大学生です」
『学生さん?』という問いかけ方はなかなかにくい。高校生でも大学生でも、短大生でも専門学校生でも、ハズレることはないから。
しかし、大学生だったのか。正直、上にも下にも見える。
「ふうん……。ごめんね、こないだは。お詫びに、サービスにもう一つ、どう?」
「え? いいえ、その……え~と、さすがに食べ切れませんから」
彼女の照れたようなはにかんだような、最後は囁くように消え入るように言ったその言葉に、私たちは笑った。彼女も笑っている。
本当にいいコだ。
「でもホントに、お二人、仲がいいですね。うらやましいなあ」
「え? ちょっとお、アタシが戻って来る前、どんな話してたの?」
私と彼女が黙っていると、涼子はすねたような口調で、「ちょっと幸ちゃん、何とか言いなよ」と私に詰問してきた。
「そういうことですよ。涼子さんと幸ちゃんさん」
「え?」
「それじゃああたし、失礼します」
「あっ、いつもありがとうございます。また来てね」
「ハイっ!」
彼女はいつものように颯爽と店を出ていった。しゃべるときと動いているときとでは少し印象が違うな、と思う。しゃべるととてもおっとりした感じなのだが。
「ちょっと、あのコ来てたんなら、呼んでくれてもいいじゃない。幸ちゃんって、そういうとこ、あるよね」
涼子はまた、すねた口調で私に言った。彼女の言葉を思い出して、涼子の名前を呼ぶのが少し照れくさい。
冒頭、読んでみたら“主人公”の名前が出てこないので、Scene 2は早めに掲載します。
以後、毎週末(金夜・土・日)のいずれかに、続きを掲載する予定です。