別離
バジルとの二人旅は二年を越えて続いた。街々を巡り、歌を歌う日々は、あの天使との遭遇を除けば、特に苦難も無く続いた。バジルの選んだルートには本当に天使も悪魔も居なかったのだ。
スライを再度訪れた時には、アミイ姉様は居なくなっていた。……何でも、お忍びでスライに来た王子が姉様を見初め、結婚を迫ったらしい。
姉様はその途端、煙の様に消え失せてしまったそうだ。王子は今も全力で姉様を捜索させているらしいが、見つからないだろう。きっと姉様はスライから遙かに離れた場所で、別の神獣を探して旅している。新たなる未知に胸躍らせて。
姉様に、時々で良いから歌を届けてね。私が生きているって教えたいから、とリュートに願う。神獣の弦だ。どんなに離れていても、姉様に歌を届けてくれる筈だ。
そして様々な出会いと別れを繰り返した三度目の春、旅先で私はあの星空のキャラバンの人々に再会した。……彼らはキャラバンを廃業し、ヴェルンを村長にして村を作って暮らしていた。
魔獣が出没したと言う街道を避けた際に見つけた村がそうだったのだ。
ヴェルン他、キャラバンの皆は私を見ると駆け寄ってきて再会を喜んでくれた。
メーダが私を抱きしめて泣き出した時には、本当に心配させてしまったのだと心底反省した。
「本当に心配したんだよ!私にくらいは、出て行くときには出て行くって言っておいきよ!水臭い。いくらヴェルンが言ったからって、いきなり、黙って出て行くなんて」
「ごめんね、ごめんね。メーダ」
「あんた……すっかり物腰が柔らかくなったね」
「そうかしら?」
自覚は無かったけれど、メーダも他の皆も私が変わったと口々に言った。
「その兄さんは恋人かい?」
「護衛です!」
「へぇ~」
「とにかく護衛!それより村!みんなに会いたい」
バジルが何か言い出す前に私は話題を切り替えた。
私達は、村長であるヴェルンの家に招かれた。
あの後の話をしつつ、ヴェルンはしみじみと言った。
「今年は豊作だ。全てトーチのお陰で」
開墾して三年で、豊作になるなんて……グリフォンの爪を土地に埋めたのだろう。
「どうして、キャラバンをやめたの?」
「お前が居なくなって魔獣が倒された後、トーチが言ったんだよ。お前は女神の加護を失った。今度は一人の死では済まない。地に根を下ろし木の様に生きろ、とね」
「あんたが帰ってこなくて……私達はトーチの言う意味に気付いたんだよ」
メーダがそう言うと、ヴェルンが続けた。
「トーチを埋葬し、皆で話していて気付いたんだよ。お前さんが来てからの四年、俺達の娘……フェリラ以外、死人が出ていなかったって事にね」
「そんなに人が死んでいたの?」
「お前が来る前はね。女は客に刺されるし、男は同業者とのいざこざで帰ってこなくなるわ……とにかく、明日を信じないし、互いに仲間だと言う感情を持つ事も出来ない有様だったのだよ」
窓際で話に加わるでも無く聞いていたバジルが、痛ましげな視線をヴェルンに向けた。
「クレアが来てから、死ぬ人間が居なくなって、明日が来る事を信じられるようになった。互いの命を惜しいと思える様になった。そう言う気持ちがあれば、村を作ってやっていける。トーチはそう言ってくれたのだと俺達は信じ、今こうして生きている」
村の名前がトーチ村なのも頷ける。
ヴェルン達の家を出て村を歩いているとバジルが言った。
「俺も会いたかったな。そのトーチって人に」
「今から会いに行くわ。一緒に行く?」
私はバジルと連れ立って、教えられた場所に向かった。
トーチは墓標の無い土葬を望んだと言う。
吟遊詩人の生き様を歌った歌がある。……生ある内は万民の財産となり、死して後は人知れず土に帰る。トーチは吟遊詩人として生き、死んだのだ。
墓標が無いと言うその場所には、小さな木が植えられていた。
木の苗木なら、墓標じゃないからトーチは許してくれるだろうと、ヴェルンが埋葬時に植えたものだそうだ。
木の周囲には花が沢山咲いていた。トーチの墓を中心に花畑が形成されつつある。
村で子供を産んだ娘達が、子と暮らせる感謝の意を花の種に込めたのだそうだ。
花を踏まない様に木に近づき、その前にしゃがんだ。
「本当に良い人だったの。私が人じゃないと打ち明けた初めての人だった。トーチはそのとき言ってくれたの。私は人だって。凄く嬉しかった。あの人は、本当に夜道を照らすかがり火……トーチの名にふさわしい人だったわ」
バジルも歩み寄ってくると、墓を拝んだ。
私は、リュートを手に持つと、吟遊詩人の生き様を歌った、『詩の風』を歌った。
「初めて聞いた」
歌い終わると、バジルが呟いた。
「この歌は、吟遊詩人が弟子に心得を教えるために授ける歌なの。トーチに最初に教わった歌よ。全ての吟遊詩人の祖である『名も無き吟遊詩人』が、最初の弟子であるアルファーンの為に作ったそうよ」
墓を後にして村に戻る道すがら、バジルが唐突に言った。
「君は、歌を作らないのか?」
「そのうち、ね」
バジルの視線がまっすぐに私を見据えていた。視線を逸らしてはいけないと思いつつも逸らしてしまう。
吟遊詩人の歌は、人間のものだ。地上世界の為にある。
私は、未だに人に戻る事は出来ていない。フレイ姉様の様に人になれたならその時には……そうは願っているが、その日が来るのかさえ分からない。
バジルの追求は無く、私は安堵して墓参りを終えて村に戻った。
帰り道、唐突に差し出された彼の手に、私は無言で自分の手を重ねた。その手を握ってバジルが歩き、私がそれについて行く。バジルは私の方を見ないで景色を見ている。私も彼の方は見ない。
彼は、あらゆる場面で手を差し出す。私が不安になったとき、彼が不安になったとき、口論になった後……。
差し出された手を無意識に繋いでいたと言う事があって以来、手を取る回数は増え、今では当たり前になってしまった。
私の精神が子供だからかも知れないが、言葉を尽くされるより、この方がずっと安心出来るのだ。
彼は紳士的で、私を抱きしめるような暴挙には二度と出ていない。手だって私が応じなければ、無理に繋ごうとはしない。
冗談で色々言うが、彼は私の気持ちが動くまで待つつもりなのだ。
そんな彼の優しさが体温と共に伝わってくるのは心地よく、手をもっと繋いでいたいと思う事もしばしばある。この感情がどういうものなのか一通り悩み、最近ようやく自覚できた。……人になれないから、口に出しては言えないが。
フレイ姉様はどうやって人になったのだろう?今会いに行けば、聞けるだろうか?
村に戻って部屋に入り、ぼんやりと窓辺でリュートを抱いて外を眺めていると、リュートの中から人の微かな声が聞こえてきた。
『クレア。聞こえるか?……クレア』
自分を呼ぶ声に、私は想わず声をあげていた。
「フレイ姉様?」
私の声も届いたらしく安堵した声が返ってきた。
『良かった。クレアに繋がった。久しいな。元気か?』
「はい。元気です。それで姉様、これは一体……」
『今はそれを説明している時間が無い。良く聞け』
姉様の切迫した声に、私は疑問を飲み込んだ。
『九人目が生きている』
「九人目って……最後まで現れなかった、あの?」
『そうだ。ワルキューレは太古の昔から九人と神に定められている。だから今回もちゃんと九人いたのだ。しかし、現れなかった一人は、何らかの方法で何処かに拘束されている可能性が高い』
「拘束なんて、ワルキューレに対して無意味です」
『その通りだ。しかし、ワルキューレと成る娘に対してであれば、どうなる?』
私は頭から血の気が引くのを感じた。
『九人目に選ばれたであろう娘は、ワルキューレの園にたどり着いていない。たどり着かねばただの娘だ。ところが厄介な事に、ワルキューレに選定されているという神の加護がある為、そう易々とは死なない……アミイの話では、首だけでも生きている可能性が高いそうだ』
そのような状態になっていて欲しくは無いが、それに近い状態になっている可能性は高い気がした。
フレイ姉様も同じ様に考えているらしく、こう続けた。
『園へ向かいたいと思う感覚は、神による強制的なものだ。片足をもがれた程度で挫けるものではない。気が狂っていても行こうとするはずだ。……そしてこの状態がこのまま続く事になれば九人目は想像を絶する苦しみを味わい続けている筈だ』
何という事だろう。一体誰が、何の為に?
『苦しみから解放してやりたいが、私は人に変質した。そしてアミイも別の種に変質しつつある。私達二人は、もうこの件に関与できない。それで、お前に九人目の探索を頼みたいのだ』
「変質って、アミイ姉様まで…一体どうやって、ワルキューレから別の種に変わったのですか?私も変わりたいです」
フレイ姉様は一瞬、言葉に詰まって黙り込んだ。そして私の質問を無視した。
『……とにかく、九人目を救ってやりたい』
「それでは、私が一人で探すと言う事ですか?」
『そうなる。……アミイはこの事を知っていて、九人目を探し続けていた様だが、変質し始め、どうしようも無くなって、私にこの話を持ちかけてきたのだ。あれらしい……一人でどうにか出来るつもりだったのだろう』
「はい」
『アミイは、死ぬ程後悔していたよ。……このままでは体に障る。お前が何とかしてやってくれないか?この遠話方法も、アミイ本人が行うと言い張ったが、あれは今こんな術を行えば死ぬかも知れない体だ。それで、私が代行する事にした。人になったとは言え変質は完全に終わっていなかったらしい。ワルキューレの部分が完全に消えるにはまだ数年かかる。それで術も使えたし、お前とも話せた訳だが』
「アミイ姉様は一体どうなっているのですか?」
フレイ姉様はまたも黙り込む。
『それを私の口から語るのは、アミイが許さないだろう。また、私もそれをお前に語るべきでは無いと思っている』
ワルキューレの変質。一体何が起こると言うのだろうか?知りたかったが、これ以上フレイ姉様に迫っても答えは教えてもらえそうに無いので話題を変えた。
「姉様、九人目はこのまま放っておくとどうなるのですか?」
『アミイの話では、死ねないままになるそうだ。次のワルキューレが生まれても、その次のワルキューレが生まれても……九人目は永遠にそのままだ』
「どうすれば彼女は解放されるのですか?」
『ワルキューレが殺せば良い』
その言葉に体が硬直した。
「仲間を……手にかけろと言うのですか?」
『アミイの肩を持つ訳では無いが……私もお前も、そう言う反応をする。だから言い辛かったから一人で何とかしようとしたのだ。その部分では、あれに負担を強いた責任の一端は我々にもある。それは分かってやってくれ』
賢明なアミイ姉様の事だ。下手をすれば、ワルキューレとして聖戦を戦っている頃からこの事を知っていたのかも知れない。しかし私達を想い、たった一人で九人目の事にカタを付けようとしていてくれた。
それなのに、いざ自分に負荷がかかったら、自分は出来ないなんて……同じワルキューレとして、妹として、余りに情けない。
『私はアミイの側に居て、折れた心を支えてやらねばならない。……お前に負担をかけると思うと堪らなくなるのだろう。夜もろくに眠れないし、食べ物も口にしない。変質が始まってしまった以上、睡眠も食事も必要なのに。何、心配はいらない。私の名誉にかけて、アミイは元通りにしてみせる』
「はい。フレイ姉様」
アミイ姉様とフレイ姉様は、年齢的には殆ど、いや実は全く変わらない。私がワルキューレの園に着いた時には、まだどちらが姉になるか決まっていなくてもめていた。
結局、単独行動を好むアミイ姉様よりも仲間を指示して戦えるフレイ姉様を一番の姉にしようと言う案でまとまった。
そう……二人の最大の違いは、相手を信用して寄り添えるか否かの部分なのだ。
仲間として過ごす間、その差を思い知る場面は何度もあった。危険な役や面倒な事柄を黙って引き受けて一人で処理してしまうアミイ姉様に、フレイ姉様がどれだけ激怒したか。
その都度、少しくすぐったそうに、そして嬉しそうに叱られながらフレイ姉様を茶化して逃げるアミイ姉様。二人は、仲間を想う気持ちは同じでも、やり方が対照的だったのだ。
今にして思う。スライで出会った姉様の寂しそうな表情には、ただならぬ事情があったからだと気付くべきだった、と。
私は、いつも自分の事で手一杯。何もかも後で気付く。そして、気付いた時には手遅れなのだ。
『私はアミイとは違う。殺せとは言わない。とにかく見つけて、今の環境から救ってやって欲しい。まずはそれからだ。済まないと思っている。お前一人にこんな事を任せるのは、私も辛い。しかし、お前しか居ないのだ』
悔しさの滲む声。フレイ姉様も苦しんでいる。そして少しの沈黙の後、重い口調でこう続けた。
『天界や魔界に居るなら、人に変質した私は、もうお前の相談に乗れないだろう。……時の流れが違うから、戻ってきた時には、多分、私はこの世にはおるまい』
ひんやりとした言葉が胸に刺さった。地面が揺れた気がした。
「助けた九人目は、どうしたら良いのですか?」
『私は、お前を信じている。大丈夫だ。お前は優しい子だから、九人目の望む様にしてやれるだろう。……頼む、私達の不憫な妹を救ってくれ』
それきり、姉様の声は途絶え、呼んでも待っても声は聞こえて来なかった。
張り詰めていた気持ちが音を立てて切れた。心が鉛の様になり、重く沈んでいく。
どれくらいそうして過ごしていただろうか。気持ちを反映した様に、茜空がみるみる曇り、雷鳴が轟いた。そして激しい雨が窓を叩く。
暫くして、雨水を滴らせながらバジルが部屋に入ってきた。
「参ったよ。いきなり降ってきやがった」
バジルは、濡れた上着を脱ぐと、荷物をひっかきまわして乾いた布を取り出し、頭や体を拭い始めた。
「……クレア、どうかしたのか?」
バジルが首に布を引っかけて歩み寄ってくる。
「別に」
そこで初めて、バジルの上半身むき出しの姿に気付き、目を逸らす。こんな場面で逃げ出さなかった自分を取り繕う事は不可能だった。
「何も無いなんて、嘘だ」
言い訳できない状況になり、ただただ視線を下に落とす。
「どうした?ただ事じゃないだろう?」
どう言えば良い?何を?どこから?
大きな雨音に心を委ねて黙っていたかったけれど、バジルは引き下がる様子を見せなかった。じっと立って、私の答えを待っている。
「バジル……あなたと一緒に旅を出来て、本当に良かった」
ようやく言えたのはこれだけだった。
「終わりじゃない。これからだって出来るさ」
私は首を左右に振った。
私とバジルを一瞬、雷光が明るく染め、程なくして轟音が鳴り響いた。
「私、長い旅に出なくてはならなくなったの。次元を越えて、天界や魔界へ行く旅。あなたは人だから行けないの。……それに多分、私がやるべき事を果たして戻ってきた時には、あなたは生きていない。時間の流れ方が違うから」
バジルが掠れた声で言った。
「何で、今なんだよ?」
「私だって一緒に居たい。今なら良く分かるわ。恋する気持ちに罪悪感で応えるなんて……あなたに、どれだけ失礼な事を言ったのか。好きな人の事を考えるって事は、そんな気持ちの入り込む余地の無いものだって。分かったのよ。あなたと旅して」
バジルの目が大きく見開かれた。
「でもね。私の仲間は今も苦しんでいるの。未だに死ぬ事も出来ず自由に動く事も出来ず……気の狂いそうな状態で、何処かで助けを待っているの。救えるのは私だけ。それを知っていながら、見捨ててあなたと一緒に過ごす事は出来ない」
ああ、これが絶望なのだ。私は自分が泣いている事に気付いた。
正しい道を歩みたい。これは自分の願いでもあるから曲げる事は出来ない。しかし、そこには大切な人がいない。手を差し出してくれる人は居ないのだ。
「どうしても?」
「どうしても。だって、私らしくなくなるもの。あなたとした約束は、絶対に破りたくない」
バジルが歩み寄って来て、頬をこぼれる涙を人差し指で拭った。触れられる事にもう抵抗は無かった。だから大人しくしていると、バジルの顔に苦笑が浮かんだ。
「あんな約束、しなきゃ良かった」
「させたのは、あなたよ」
「とっくに俺のものだったのに……待たなきゃ良かった」
「待ってくれているからこそ、好きになったのよ」
再び涙があふれ出した。
「ごめんね。こんな事になってしまって」
バジルが堪えるような表情で私を見た後、大きくため息を吐いた。
「君には敵わないな。いつまで経っても」
「バジル?」
首を傾げると、バジルは目を閉じてしばらく口を閉ざし、意を決した様に言った。
「俺は君の目的を知っている。君が探しているのは……ワルキューレになれなかった娘だろう?」
私は言葉を失ってバジルを見つめた。
「俺はね、本当はバエルって名前だった。君なら、それで分かると思うけれど」
「悪魔……バエル」
悪魔や天使には、基本的には名前が無い。位があってそれが名前になる。位を与えられない天使や悪魔は、名前持ちの者に仕える従者となる。
高い位に就けるか否かは、誕生と共に決定する。そして襲名者が死亡、あるいは位の返還をすると、名前の無い者の中から、位に見合った能力の者が、名前を引き継ぐ。
バエル。人間で言う所の一国の王に匹敵する悪魔だ。
俄かには信じ難いが、バジルが、ただの人間が知っているにしてはあまりにも高位過ぎる悪魔の名前の出現に、否定ができなくなる。
「本当は言いたくなかった。悪魔に戻る気は無かったから。位も返上してしまったしね……。このまま俺は、君と一緒に人間のまま死ぬつもりだったんだ」
バジルは数歩退いた。
「天使や悪魔には、傷を手当てすると言う概念が無い。アムリタ以外全く摂取しない体は他の物を一切受け付けないから。自分の治癒力で治しきれない傷を負ったらまず死ぬ。でもね、全く方法が無い訳じゃない」
バジルは、言葉を選ぶように少し考えてから続けた。
「転生と言う方法で、古い肉体を捨てて新しく生まれ直す事が出来るんだ。……それを同族でやる事は禁忌だから、地上界で人間の胎内に宿って生まれ直す事になるけれどね」
「どうして同族ではいけないの?」
「天使も悪魔も……産まれてくる子供と産まれる前から対話する能力を持っているんだ。胎児は母親に対して精神防壁を作れない。だから知られてしまうんだ。転生だって。……気持ち悪いじゃないか。何処かの誰かが怪我をしたから腹に入ってきたなんて分かったら」
「分からないからって人間でやるのもどうかと思うけれど」
バジルは慌てて言った。
「許してくれよ……転生するときには人間の事をそんなに知らなかったから、そんな気持ちも起きなかったんだよ。今は悪いと思っているよ。本当に」
バジルは指で空中に円を描く。その軌跡は、消えずに光となって空中に残っている。更に中に何かを書き込んでいく。……非常に複雑な魔法陣だった。
淀みなく、正確に動く指に、魔法に慣れ親しんだ者の……アミイ姉様の動きを連想する。
ああ、この人は人間では無いのだと思う。
「この方法だと、人間の親の容姿に依存した姿になって元の姿には戻れない。子孫にもこの容姿が伝わる事になる。しかも異種族だから、容姿に魂がなじまないと、記憶が戻らずに人間のまま死ぬ事もあるんだ。だから、この方法を使わずに死んでいく者の方が圧倒的に多い。それでも、俺にはあえて転生を使う理由があったんだ」
「理由?」
「君だよ……」
魔法陣が輝き、バジルの体へと吸い込まれていく。一瞬風も無いのに髪の毛がふわりと浮き上がってまた元に戻った。その瞬間、バジルを包む気配が大きく変化した。
リュートは、彼の気配を抑えようとしなかった。
今までの気配はかき消えて、空気の色さえ変化させそうな濃密な妖気……悪魔の持つそれへと変化した。そして、闇が音もなく集まり、鋼色の巨大な翼がバジルの背中に現れた。
見覚えがある。
天使の翼も悪魔の翼も、明るい色やぼんやりとした色合いの物が多い。その中にあって、明らかに輪郭をはっきりさせていた鋼色の翼……。
私を化け物と呼んだ、あの少年。仕留め損ねた悪魔の翼は、あの色をしていなかったか?
「まさか」
バジルは再び歩み寄ってきた。一瞬身を固くすると、その足が止まった。
「俺を覚えていたんだね。勘違いしないでくれ。復讐とかそんな気持ちじゃない。それは一緒に過ごした時間でわかってくれている筈だよね」
あんな目に遭わされて何故……。彼が嘘を言っていないのは分かるのに、全く理解出来なかった。
「君の攻撃を受けた瞬間、俺の精神防壁は破壊された。それで、君の心の声が……悲鳴が聞こえたんだ。こんな事、好きでやってる訳じゃない。誰か、助けてって」
「え……」
「ワルキューレには、罪悪感など無いのだと思っていた。だから、如何に酷い行為なのか、俺は思い知らせてやりたかった。子供だったから、その気持ちだけで突き進んで……それだけだったんだよ。けれど、君から直接伝わった感情で思い知った。残酷なのは神のやり方であって、ワルキューレじゃないんだって」
「私は、罪悪感を最初は持っていなかった。あなたの言う通り、わかっていなかった」
バジルは首を左右に振った。
「それは、単に君が幼かったからだ。事実、君は成長していく中で自分の行為の意味を知って苦しんだ。俺はそれを知っている。あのとき、意図せず君の記憶を受け取ってしまったんだよ。……事故だ。意図的にやった事じゃない。すまない」
自分が人間で、天使や悪魔の様に、普段から自分の心を隠す為の防壁を持っていなかった事を思い出し、私はバジルから視線を逸らした。
「精神防壁を持っていなかった事は、恥ずべき事じゃない。ああいう事態で無ければ、知る事は無かった筈だ。俺が生き残った事が奇跡だったし、大抵の悪魔は、防壁を解いてワルキューレの心を見るなんて行為、思いつきもしない。他の誰かが知っているとは思えない。勿論、悪魔に戻っても、君の心は勝手に読んだりしない」
姉様達に気持ちを知られているのは恥ずかしくないのに、バジルに知られていたと言うのは、酷く恥ずかしかった。しかし、バジルは明言した通り、私の気持ちを読んでいないらしく、特に変わった様子を見せずに続けた。
「ワルキューレは、戦が無くなれば神にとって不必要な存在だって事実に、君は酷く傷ついていた。俺は、もうすぐ聖戦が終わる時期まで何とか生き延び、君が現れるであろう場所を予測し、そこで転生した」
「どうやって予測したの?」
「ワルキューレになる人間は希なんだ。どうして人からワルキューレが生まれるのかを研究している者が居て、その研究論文を読んだ。……地上には、アムリタが微量に染み出ている場所があって、そこで収穫された物を食べて何世代も育った人間は、天使や悪魔の様に、容姿が整って生まれるみたいなんだ。アムリタの出ている場所はそう多くない。君の銀色の髪から地域を特定し、子孫を捜した。人の生まれである君は、無意識に自分の血筋に惹かれて地上に降りてくる。俺は、それにかけたんだ」
「何故、最初に会った時に教えてくれなかったの?そうすれば、こんな怪我をしなくても……ああ、愚問ね」
自分の問いかけに自分で答えを見つけてため息を吐く。こんな話をされたところで、当時の自分が信じたとは到底思えない。
「目の事は、本当に良いんだ。アムリタを摂取していた一族の体は、俺に良くなじんだ。なじみすぎて、損傷も受け継がれてしまった。俺の片目は、生まれ直した時から大した視力は無かったんだ。君に受けた損傷までも受け継いだんだよ。……君を想わなければ、とっくに捨てていた命だ。聖戦での事を俺は運命だったと思っている。後悔しないでくれ」
「バジル……」
「後は知っての通り。村で君を見て気持ちを抑えきれず……君を見失った。すぐに村を出たよ。人の子に生まれ、大切に育ててくれた両親に、慕ってくれる妹に、情が全くなかった訳じゃない。けれど、君を捜さずにはおられなかった。……彼らには悪い事をしたと思っている」
バジルの求婚を受けて村で暮らしていれば、全てが丸く収まったのだ。そう思うと、何もかもに怯えて逃げ出した事が悔やまれるばかりだった。
「君を探す過程で別のワルキューレと出会った」
「フレイ姉様?」
バジルは頷いた。
「独特の剣技には見覚えがあった。隠していてもすぐに分かったよ。この広い地上でワルキューレにまた出会えたのだから、きっと君にもまた出会えると信じられた。そうして、因果な事に、魔獣に襲われて死にかけ、君を見つけた」
私が、キャラバンを飛び出した夜の事だ。
少し悲しそうな表情になった後、彼は私に告げた。
「君の事を十分承知しているのに、知らない振りをした。本当は悪魔なのにそれも言わなかった。君は全てを俺に告げてくれたのに。……君が思うような良い奴じゃないんだ。俺は本当に酷いんだ」
私は何も言えなかった。
彼は、愛情を注いでくれた人間の家族と集落を捨てた。
悪魔に家族と言う概念は無いから、彼はさぞや驚いただろう。……そして、その良さを知った。知ったのに、私がそれを捨てさせた。
「それだけじゃない。俺は、ワルキューレが一人、ずっと軟禁されている事実を知っていて君に言わなかった」
「知っているの?」
バジルは頷いた。
「捉えているのは、リリスだよ」
「リリスってサタンの……」
「そう、妻だ。……三人のサタンを夫に持った、ね」
悪魔の場合、夫婦すら位で決まる。夫が死んで別の者が同じ位に決まっても、妻はそのまま生きていれば、譲位しない限りそのまま位に残り、妻となる。
サタンが代替わりをしているのに、リリスだけはそのままとなれば、リリスは相当の実力者だとわかる。
「俺達が数を増やしたのは、リリスの力が大きい。……俺が新たにバエルに選任されたとき、リリムを紹介された」
「リリム?」
「リリスが産んだ娘の中で一番優秀な者がリリムと呼ばれる。……次期リリスと考えても良い」
その言葉で気になって、思わず口を挟んだ。
「実の父親がサタンでも……リリムはリリスに、父親の妻になるの?」
バジルは少し言葉に詰まってから言った。
「そうだよ。クレアの気持ちは分からなくもないけれど、悪魔って言うのはそう言うものなんだ」
バジルやアミイ姉様の事を見ていると、悪魔の本質を学んでいながら忘れそうになる。
「君は知っている筈だよね?魔界の体制って言うのは、力で分類された強固な枠……位だけなんだ。それが悪魔を縛る唯一のルールだから。モラルなんてものは存在しない」
悪魔の世界は、神の造った秩序を乱す為の世界。秩序を破壊する力は、正反対の力の中から湧き出している。欲望で満たされているのが正常な場所なのだ。
「話を戻そう……。俺は異例の若さでバエルに抜擢された。ガキだったのは、君も知っての通りだ。リリスは、当分自分がその座に居る予定だったし、まだ娘を産むつもりだった。だから、リリムに別の位を与えたがっていた」
「別の位?」
「強力な悪魔の妻の位だよ。……つまり俺の妻だ」
衝撃で言葉を失う。
「リリスは、積極的に悪魔達を結婚させて、子供を産ませた。そして生まれた子供に別の子供をあてがって、更に子供を……。そういう事が好きだったんだ。それで悪魔は凄く増えた。強くもなった。君がワルキューレになった原因の源流は、リリスにあるとも言える」
そんな説明はどうでも良かった。私は別の事が気になっていた。
「……結婚したの?」
バジルは苦笑した。心情を見透かされた事に気付いて、思わず赤くなる。
「結婚なんて話になる前に、事件が起こった」
「事件?」
「俺がリリスからリリムを紹介されている時、リリムの様子がおかしくなった。途端に、リリスが血相変えてサタンを呼んだ。呼びかけに応じて出現したサタンは、娘を見るや否や、彼女の首をはねた」
「もしかして……」
「俺は当時、何故リリムがそんな目に遭ったのか分からなかった。ただ、リリスもサタンも、何も言わなかった。俺に分かったのは、リリムの内部から光が射してくる様な強烈な威圧感がわき上がっていた事だけだ。俺は面倒に関わる気は無かったから、何も言わずに立ち去って、二度とこの事は口にしなかった。でも後になって、何故リリムが首をはねられたのかは理解した。……君たちが現れたからだ。八人で」
「サタンの娘が……リリムが九人目のワルキューレ?」
バジルは頷いた。
「以前の俺……バエルだった俺には、色々と情報が入って来ていたんだ。死んだ筈のリリムが生きていて、胴と首が別の部屋に入れてある事、首無しの胴体が、首のある部屋の石壁を延々とかきむしっていると……胴から頭が離れた途端、どんな魔法も武器もリリムを傷つける事が出来なくなり、リリスが苦肉の策としてそうしたと言う事もね」
言葉を無くして、私はバジルを見つめていた。
「俺はリリムを可哀想だとは思わなかった。悪魔王の娘がワルキューレになるなんて、とんでもない話だ。リリスの行いは正しいと思った。……おびただしい数の同胞を殺すと分かっているのに放置してワルキューレにするのは、悪魔の立場からすれば納得出来るものではないからね」
それから、彼はきっぱりとした口調で言った。
「今でも、俺の考えは変わっていない。……リリムは、リリスやサタンを恨んでいるだろう。彼女を解放するのは反対だ」
人間を殺すと分かっている獣は狩られる。人間にとっては当たり前の行為だ。
悪魔にとってのワルキューレもそれと同じ。だから、バジルは私に言わなかったのだ。彼は悪魔だから。ワルキューレの私を受け入れてくれても、ワルキューレ全てを受け入れた訳では無いのだ。
「絶対に、誰も殺させたりしないわ。私が、必ず何とかする」
「本当に何とかできるのか、俺には疑問だ」
「バジル!」
非難の声をあげると、彼も眉をつり上げて強い口調で言った。
「相手は悪魔だ。……これだけは言っておく。良いか?君がリリムを殺せなくても、リリムは君を殺せる」
そんな事を心配していたの?私は笑顔で言った。
「リリムが私を殺すなんて事は、絶対に起こらないわ」
「何故、そう言い切れる?」
「ワルキューレが殺し合いを始めたら……それこそ、世界の危機だと思わない?」
はっとした表情でバジルは私を見ていた。
「そう。ワルキューレはワルキューレに対して、悪意をもてないの。私達が変えられたのは、器だけでは無いと言う事よ。悪魔のあなたにとって……おぞましい事でしょうね」
神を憎悪する悪魔。バジルはそうなのだ。……神にあらゆる場所を歪められてしまった私をどう見るのか。それを考えれば、こんな事は言いたくなかった。
しかし、彼は私に本音で話をした。しかも、人のまま一緒に死ぬつもりだったと言う体を、私の為に悪魔のそれに戻したのだ。
私だけが、都合良く自分の事を隠す事は出来なかった。
顔を上げられずに居ると、バジルの腕があっと言う間に私を抱きしめていた。
「俺の悪魔である部分は、君が神の与えた力に苦悩する部分を愛した。人になって得た新たな部分は、君の優しさを愛した。もう何を聞こうが……君を嫌いにはなれない。どうしても」
そして、更に強く抱きしめてもう一度掠れた声で言った。
「……この気持ちすら、神の仕組んだものだとしても」
その言葉に心が揺れた。その揺れを押さえ込む様に彼は言った。
「君は、何も悪くない。神のやり口が汚いだけさ」
「何か……知っているの?」
彼の言葉の意味を知りたくて聞くと、彼は寂しそうに笑った。
「今は言えない。だって、今の俺は悪魔だから」
訳が分からない。しかし問いただそうと体を離すと、彼は話を変えてしまった。
「リリムの所に行くなら、俺が今すぐ連れて行くよ。俺なら、君に誰かを傷つけさせたりしない」
「バジル、待って!」
「待たない。待ったところで俺が苦しいだけだから。それにすぐにカタを付ければ、地上との時差が無くなる。……さっさとカタを付けよう」
何故バジルが苦しいのだろう?しかし、その問いは発する事が出来なかった。
鋼色の翼が私を包み、足下の床が消失した。
そして数瞬後、バジルの翼が拡がり、なつかしい……嫌な匂いがして、視界も一変していた。
魔界の匂い、そして見覚えのある景色だった。
赤い大地にまばらに生えた、枯れ木に見えるものは、魔獣の卵を孵化させる為の樹魔と言う低級悪魔だ。
樹魔は、養分として大地からアムリタを吸い上げ、木のまたに植え付けられた卵を育てている。アムリタが減ってくると、根を大地から引き抜いて移動する。
天界だと、聖獣の卵は、専用のアムリタの泉に入れられているので、卵や幼獣を見る事は無いけれど、魔界では樹魔が戦場にも居たりした。
傷つけたりすると、自己防衛の為に、魔獣が未成熟なまま卵から無理矢理に孵って襲ってくる。
天界にしろ、魔界にしろ、その摂理には、ついていけないところがある。
「やっぱり、俺の故郷は好きになってもらえそうに無いね」
私の表情を見て、バジルが苦笑して言う。
「私は結局、ワルキューレにされても中身の大半は人間のままだったのよ。その部分が革命的に変わらない限り、天界にも魔界にも住めそうにないわ」
「そうか……」
バジルがふわりと宙に浮いて手を差し出した。素直にその手を取ると、体が浮いた。
「君の力は目立つ。使わないで欲しい」
「分かったわ」
彼の言葉を素直に受けて、飛翔する為の理力は彼に任せる。
「ところで、リリムはどんな子なの?」
「漆黒の髪で、大きな紫の瞳をしている。……人間で言うなら、十四歳くらいだったな」
「そう」
当時無事にたどり着いていたなら、十二歳だった自分は妹だった筈だが……妹として扱う事に決める。容姿で年齢差がわかるほどもう幼くないし、ワルキューレとしての経歴で言うなら自分は姉の筈だから。
「サタンの城に行っても大丈夫なの?」
「ああ、任せておけ。悪いようにはしないよ。元バエルとして絶対に」
彼に頼る事は、何故か引け目を感じない。何故かふんわりとした幸せな気分になってしまう。これが……好きになるって事なのだとしみじみ思う。
「バジル、大好きよ」
思わず感情のままにそう言うと、彼は心底悔しそうな顔になった。
「人間の時に言ってくれればよかったのに……」
また訳がわからない。悪魔だろうが、人間だろうが、彼は彼だ。質問しようとすると彼が告げた。
「話はここまで。……あれがサタンの城」
バジルはそう言うと、急降下して、大胆にも最上階のバルコニーへと降り立った。
バジルは私の肩を抱いたまま、その場に立って、何かを待っていた。
やがて……二人の悪魔がバルコニーへ出てきた。
どちらも二十代前半の美しい男女の姿をしているが、その妖艶さと強い妖気故に、会った事も無い悪魔だったけれど、誰か解ってしまった。
サタンとリリスだ。
「久しいな。バエル」
サタンが親しげにバジルに声をかけると、バジルも笑って応じた。
「その名は捨てた。もう新しいバエルが居るんだろう?」
「いいや。魔界は深刻な悪魔不足でね、バエルの名を継げる程の者はまだ居ない。……そこのお嬢さんが沢山仲間を屠ったからね」
その言葉に身を固くして身構えると、リリスが目を細めて笑った。
「今ここでやり合おうとは思っていないわ。安心なさい」
「俺と彼女が来た理由。知っているみたいだな」
「私達の情報網を甘く見ないで、と言いたいところだけれど……今回はアミイから情報提供があったのよ。あれもワルキューレだったとは驚きだけれど、その後に与えられた情報の方がもっと驚きだったわ」
リリスは真顔になって言った。
「リリムを何とかしてくれるの?」
視線はバジルでは無く私の方を向いていた。私は口を開いた。
「地上へ連れて行くわ。少なくとも、あなた達に復讐する気は起こさせない様にする」
「それは信用できるのかしら?」
「嘘だと思うなら、そのままリリムを閉じこめておけば?私が彼女を何とかしなければ、もう誰も彼女を止められないのよ?次のワルキューレ達が生まれて彼女の存在を知れば、解放にくるでしょう。……その時代には十人のワルキューレが暴れ回る事になるわ。天使と悪魔のバランスを取るどころか、一方を滅ぼしてしまうかも知れないわ。そうなったら、世界も終わる。破滅がお望みならそうなさい」
私の言葉に、リリスが渋い顔をする。
「悪魔の望みは、神を苦しめる事であって、神を殺す事では無いの」
サタンが大きくため息を吐いてから言った。
「悪魔は信用で動かない。契約で動く。おまえの言葉、契約と取って良いか?」
「かまわないわ。悪魔の契約でワルキューレは本来縛れないけれど、あえて縛られてあげる」
悪魔は、契約を重んじる。契約を破るとペナルティを科す様にする独特の魔法を使用する。それには私の一部……体毛や血が必要となる。
私が銀の髪を抜いてサタンの目の前に差し出すと、サタンはそれをまじまじと見てから言った。
「おまえはすでに三つの契約で縛られている。契約はこれ以上できない」
「え?」
契約などした覚えは無いのに……。そこで、数年前の出来事を思い出す。
バジルに抱きしめられ、抱擁から逃れる為にしたあの約束。
見上げるとバジルは真顔でサタンを見ている。
戸惑っているのは私だけでなく、サタンとリリスも同様だった。
「バエル、人間に転生している最中にどうやって契約をした?」
「簡単な事さ。俺は左腕だけ悪魔に戻していたんだよ。左手で彼女に触れて契約を行えば、魂に反応して契約は成立する」
あのとき、抱きしめていたのには理由があったのだ。
バジルは私の方を見て言った。
「腕一本程度の悪魔化なら、人として死ねる筈だったから、万一、悪魔に契約を迫られても、絶対に契約できないようにしておきたかったんだ。ワルキューレを契約で縛り、わざと破る方向にし向け、道具にしようって考え方は、悪魔なら考えそうだからね」
全くその通り考えていたのか、サタンは苦々しい表情になった。
「全く抜け目の無いやつだ。惜しいな。魔界に戻ってくる気は無いのか?」
「無いね。第一、ワルキューレを盲愛している様な悪魔を、バエルに据える気か?」
サタンが苦笑する。
「それもそうだな……」
サタンはしばらく目を閉じて考えた後、こう言った。
「おまえ達、リリムを盗め。……追っ手はかけない」
「サタン!」
リリスが驚いた様にサタンを見る。
「仕方あるまい。契約で縛れないワルキューレと、元バエルだぞ?結局リリムを連れて行くなら、黙って持って行かせた方が良いだろう。追っ手をつけたところで死体が増えるだけだ」
リリスはしばらく瞬きしてから、大きく息を吐いた。
「そうね。有望な悪魔の誕生を望む私としても、これ以上悪魔が居なくなるのはごめんだわ」
「そういう事だ。とっとと行け」
サタンの言葉にバジルは笑って頷いた。
「ありがとう。……兄さん」
私が目を見張る中、バジルは私の手を引いて歩き出した。サタンは一瞬優しく笑ったものの、すぐにその顔は見えなくなった。
「サタンは、バジルのお兄さんだったの?」
「前の姿は、結構似てたんだぜ」
子供の姿で現れた、当時の彼の顔は一瞬しか見ていないので、あまり思い出せない。特徴的な翼の色と、鎧に散る漆黒の髪、そして同じく漆黒の瞳に走る怒りの色。思い出すのはそればかりだ。
「気に入っていたの?」
「まぁ、今の姿も嫌いじゃないけどね。色合いが好みじゃないんだ」
どうやら、赤毛が気に入らないらしい。
「まぁ、この問題は解決できるからいいんだ」
染めるつもりなのだろうか?それよりも嫌な音に気づいて思わず立ち止まる。
カリカリ……カリ……カリリ……
「リリムはこの先を曲がったところに居る」
バジルの言葉に、音の正体を察する。首と離された胴が、首を求めて壁に爪を立てているのだ。そこで改めて気づく。
「そういえば、サタンはリリムの首をはねたのに、何故平気なの?」
「リリムが感じていないからだ」
「君、戦闘中に傷を負って痛かった事あるか?」
「え?」
そもそも、負傷の記憶が無い。それを察したのかバジルが苦笑して言った。
「ワルキューレはめったに怪我をしないから、わからなかったんだな。ワルキューレは痛みを感じない。死ぬときですら苦しくないんだ。君の自殺した姉達も苦しくなかった筈だ」
「そんな……痛みを感じないなんて」
「ワルキューレが痛みで恐怖にかられて戦えないなんて事になったら、神の切り札にならないからね。悪魔にも天使にも伝承として、痛みを感じないワルキューレの話は残っているから確かな話さ。だからサタンは首を取った」
バジルは腕を組んで目を伏せる。
「それよりも君は、あの子を連れ出して、どうするつもりなんだ?」
私は少し迷ってから言った。
「とにかくワルキューレの園へ連れて行くわ。リリムが不死なのは、ワルキューレの園で完全なワルキューレになっていないからだもの。不死を解かなくちゃ。それから、あの子を連れて地上を旅するわ。あの子が自分の居場所を見つけるまで」
一呼吸置いて、更に告げる。
「でも、体が元に戻らないなら、あの子はワルキューレになると同時に死ぬわ。痛みを感じなくても、急所は同じだもの」
バジルは、私が何をするつもりか察したらしく、目を見張る。
「じゃあ、ここでリリムを元に戻し、ワルキューレにしてから地上に戻るって事だな?」
「ええ。必ず私の言う事には従ってくれるわ。信じて」
バジルは大きく息を吐いた。
「そうか。……じゃあ俺の役目は終わった。ここでお別れだな」
何を言い出したのかとバジルを見ると、彼は苦笑していた。
「俺には俺のやるべき事がある」
「どういう事?」
「俺はワルキューレの園へはいけない。君がリリムをワルキューレにして戻ってきても、リリムが将来をどうするか決めるまで、君は俺の求婚には答えてくれないだろう?」
「それは……でも、あなたは悪魔だもの。待てるでしょう?」
「待てるけれど、それじゃあ君と共に生きられない」
「何故?」
「君を悪魔にしてしまうから」
バジルは困ったように続けた。
「ワルキューレは戦が終われば、愛した者に身を委ねる事で、その種族に変わる様にできているんだ」
衝撃で言葉を失う。
「天使も悪魔も聖戦が終わったら、ワルキューレは殺すように決めている。神の僕だろうが、聖戦が終われば狩ってしまえ。神の信奉者である天使が、この掟に従うんだ。おかしいと思わないか?」
「私達が人の命を吸うからでしょう?」
「違う。この内容には裏がある」
バジルは真顔で言った。
「……本当の所は、ワルキューレ達に恋をして、同胞殺しを同胞に招き入れてしまう事を避ける為の掟なんだ。神は、自分に奉仕した乙女を死なせたくないのだろうね。君には俺が、フレイにはローが、そしてアミイにも誰かが居る。そういう風にワルキューレは護られているんだよ」
「それ、天使や悪魔は皆知っているの?」
「いいや。知っている者はほとんど居ないと思う。俺も、君に巡り会う為の転生に必要な文献を漁っていなかったら知らなかった。俺は兄がサタンだし、自分がバエルだったから、どんな極秘の資料でも読める立場にあった。それで知っただけだよ」
私は、バジルが私と別れて何をしようとしているのか、悟ってしまった。
そして、予測通りの答えが返ってきた。
「俺はもう一度転生するよ。実は、転生は繰り返す程に魂を傷つけるんだ。慎重に次の転生は行わないと、記憶を無くすかも知れない。……だから、何時になるかは言えないけれど、転生を確実に成功させ、必ず君を捜し出す」
バジルを愛しているのに別れなくてはならない。それが酷く辛い。
「私があなたを探す事はできないの?」
バジルは頷いた。
「ただの人として生まれる以上、頼りになるのは俺の持って生まれる記憶だけだ。転生には絶対が無い。しかし君の記憶を失う訳にはいかない。準備には時間がかかると思ってほしい」
転生である以上成長の時間が必要だ。地上世界の五年、十年の単位で戻ってくるのは不可能なのは明らかだ。下手をすれば百年以上の歳月がかかるのかも知れない。
私が目を伏せると、バジルが私を抱き寄せた。
「悪魔になるなんて言うなよ。俺だってぎりぎりの所で踏みとどまっているんだ。本当なら君の意志なんて無視してしまいたい。俺が望めば、君が拒まないのも分かっている」
私はただ黙って頷いた。
「でも、君は吟遊詩人だ。弟子を取り、歌を残す。トーチの弟子として、トーチの歌を伝えたいだろう?……人として生き、人として死ななくちゃ」
トーチから引き継いだものがある。それを放り出してはいけない。バジルの言葉は身に染みた。
「あなたは、すっかり悪魔じゃなくなってしまったのね」
バジルはそれに苦笑で応じると言った。
「待っていて。俺はきっと君の所へ戻る。きっと人間に戻してあげる。一緒に人間として生きて、死のう」
「必ず?」
「必ず」
バジルは強く私を抱きしめ、しばらくじっとしていた。私は抱きすくめられたまま、目を閉じてそれを受け止めた。
そしてどれくらい経ったのか……唐突にあっけない程の動作で、バジルは私から身を引いた。
「さあ、行くんだ。俺も行く」
未練はお互い有り余る程なのは分かっていた。しかし、ぐずぐずしていても現状は変わらない。バジルはそれを断ち切るようにしてくれたのだ。
その気持ちに答えなくてはならない。
泣かない。また会えるのだから。一時の別れを惜しんで、目的を見失ってはいけない。
私は目を離しがたい背中から、必死で目を離し、背を向けた。すべての事にケリをつけ、最後に笑っている為に。
この角を曲がればリリムが居る。私は、意を決して一歩を踏み出した。




