亀の街
歩き出した背中を追う。相変わらず背が高い。
金属で補強された革鎧と背中に斜めがけにされている剣が、歩く都度こすれて音を立てる。エナと同じ赤毛は短く刈り込まれていたのに、すっかり伸びて肩にかかる程になっている。
更に上を見ると、赤毛に包帯が食い込んでいた。……まだ右目の傷には保護が必要だったのだ。
そこで再び視線が地面に戻った。
農夫として一生をあそこで終える筈だった彼が、自分と出会った為に傷を負って目の前を歩いている。
詫びて何になる?詫びても、彼の人生も目も戻っては来ない。
沈み込んでいる私をバジルが振り返る。
「吟遊詩人になるのって、大変?」
唐突にそう聞かれて返答に間が空く。
「……そうでもない。歌が好きなら」
「じゃあ、クレアは向いてる」
バジルは視線を前に戻し、歩きながら言った。
「村を出る前に歌っていたフォロの歌。俺も聞いていた。何度もあの日のクレアを思い出した。本当なら、ずっとあの村で歌っていられた筈なのに、俺が……」
バジルの背中に私は告げた。
「私は元々村を出るつもりだったのよ。だから、バジルが気に病む事なんて無い。私が、勝手に村を出た事の方が問題だったの」
バジルが振り向いて言った。
「じゃあ、お互い悪かったって事で、四年前の事は精算してしまわないか?」
「そんなの駄目よ。……私は家族が居た訳でも無いし、怪我した訳でも無いのに」
バジルが困ったように腰に手を当てる。
「はっきりさせておきたい」
「何を?」
「俺は勝手にクレアに惚れて、探し回った挙げ句に付いて来ている。これは君にとって迷惑な事なんだろう?」
迷惑と言うよりも、一緒に居ると命が危ないから。
バジルには真実を聞く権利があるとは思うが……こんな道端で身の上の説明などしたくは無かったので、視線を逸らして口をつぐむ。
バジルは私の様子から自分の言った事が肯定されたと取ったらしいが、あまり気に病んでいる様子も無く続けた。
「だったら俺がどんな生き方をしようと、例え怪我をしようと死のうと、君が心を痛める必要は無い。俺が勝手にやっている事だから」
第三者なら、本人がそこまで言うなら好きにさせておけ、と言えるかも知れない。しかし、当事者になっている私がそう考える事は到底出来ない。
私が俯いて黙っていると、ため息と共にバジルの声がした。
「強情だなぁ。俺は君が思っている程良い奴じゃないよ。どちらかと言えば悪い奴だ。だから気にしなくて良いんだよ」
「どういう事?」
バジルは言葉を選ぶようにゆっくりと言った。
「俺は自分のやりたい様に生きている。後悔した事なんて無い」
……言っている事の意味が繋がらない。思わず顔を上げた。
「好きな様に生きていくのは、悪い事なの?」
「そりゃ、ある程度までは良いだろうさ。けれど俺の場合、周囲がどう思おうが、どういう迷惑が及ぼうが、決めたら曲げない。……曲げられない性分なんだよ。そう言うのって、良くないだろう?」
「信念があるって事だと思うけど」
バジルが更にため息を吐いた。そして、私の顔を覗き込む。
「クレア、良いかい?俺は君を嫁にすると決めた。絶対に見つけ出すと決めて旅をして、見つけた。……ここで君を見失わずに済むなら、別に片目なんかあろうが無かろうが、どうでも良い。今の俺には、君の事以上に大事な事は無いんだ。それで君が困っても、だ。俺は、君に付きまとっている迷惑な男だと解釈されてもおかしくない立場なんだぞ」
絶句する私に、更に言う。
「例え見失ってもまた捜す。諦めて村に帰ったなんて甘い事を考えない事だ。……そう言う男に惚れられている事実をちゃんと理解している?君が俺を本気で嫌って遠ざけたいと考えているなら話は別だけれど……君はそんな事が思い浮かぶ程、俺の事を好きでも嫌いでも無い筈だ。俺に対して抱いているのは罪悪感だけ」
全くその通りだった。バジルは、本当に私の事を良く見ているのだと改めて再認識した。それだけ相手が真剣であると言う事に思い至らなかったのは、私が自分の事だけで手一杯だからだ。
「私、誰も好きになる事は出来ないかも知れない。一緒に居ても、嫁は多分無理よ」
バジルはくるりと背を向けると、再び歩き始めた。
「大丈夫。誰かを好きになるって言うのは……どんな場所でも起こる。突然に。それが命の危機に晒されている時であってもね」
「何で、断言出来るの?」
「知っているから。ローだって何時死ぬか分からない傭兵だけど、奥さんが居る。その奥さんも傭兵。しかもどっかの戦場で出会って、ローは惚れたらしいよ」
……フレイ姉様。元は天使だったのに、人間と結婚している。
戦場で始まった恋とは、どんなものだったのだろう?
ライトやバジルが居るので、フレイ姉様の話は、バジルの意識が戻った夜以来、聞く事が出来なかった。
私は、そもそも男を好きになった事が無い。その感情を傍目に見たり、歌で知っていたりしても、まるで他人事で、自分はとてもそうはなれないと思うばかりだ。
フレイ姉様の様に、誰かと心を許しあえる様な余裕は無いのだ。
その事も、バジルには話す必要があるかも知れない。
とにかく、私の事をバジルには話さなくてはならない。そうする事で、彼の思っている私と、現実の私の違いを知ってもらう必要がある。
あなたが想っているのは、人に見える化け物なのだと、きちんと伝えなくては。これ以上、彼が傷つくに値する存在では無いと。
「私、あなたに言っていない事があるの」
バジルが振り向かずに立ち止まった。
「ここでは話せない。長い話になるから……ゆっくり話せる場所が必要だわ」
「分かった」
バジルはそれだけ言うと歩き始めた。バジルはそれ以降、一定の歩調で歩いて話しかけては来なかった。
視線を合わせたり話したりせず、ただ背中を見て歩けるのは少しほっとした。
しばらくすると、街道の人の数が増えて、道端に露店や宿への客引きが見られる様になってきた。そして『ようこそスライへ』と書かれた看板が見えた。スライの街に着いたらしい。少し前から感じていた生気の量が一気に増えて圧倒される。さぞや大きな街なのだろうと思ったが、そこは小さな桟橋で、小舟が出ている様だった。
森が切れて、徐々に現れた光景に驚いた私は、思わず立ち止まった。
私が立ち止まったのに気付いたらしく、バジルが振り向いた。
「どうかしたの?」
「水の上に……街がある」
「うん。スライは、スラン湖の上にある水上の街なんだ」
海と見紛う様な湖があり、その上に木製の街が、小山の様にこんもりと出来ている。
私が驚いたのは、まるで板の上に土の山を盛った様な全貌に対してなのだ。それが、明らかに……湖の上でゆっくりと回転しているのだ。
「どういう仕掛け?」
「仕掛けじゃないよ。……聖獣の上に街がある」
「聖獣?」
よく見ると、それには四本のヒレの様な足があって、ゆっくりと泳いでいるらしかった。
巨大な亀なのだと分かるまで、しばらくかかった。
「あの聖獣は、湖の水を浄化して、魚や貝なんかを大量にもたらしている上に、湖の周囲の森まで豊かにしている。……あのでかさで水中に居るから、魔獣に襲われ難い。昔、魔獣が多くて人々が困っていた頃に漁師が住み着いて、あの街が出来たと言う訳だ」
魔獣から逃れた人々が、聖獣の上に街を造って生きているなんて、驚くばかりである。
「さあ行こう」
しかし、生きた聖獣の上に、サキュバスである私が乗ったら、すぐに居場所が分かってしまうのでは無かろうか?
桟橋の手前で私が立ち止まると、バジルが私の手を握った。
「俺が一緒だから大丈夫。ばれない」
心臓がどきりと跳ね上がる。……ばれない、と確かにバジルは言った。
どういう事なのか問い質そうとしている内に、バジルは手を引いて歩き出す。桟橋に向かって。
「待っ……」
私の声をかき消す様にバジルが叫んだ。
「二人、頼むよ」
バジルの声に、桟橋の男が振り向いて片手を出した。……身分証の写しと渡し賃を催促しているのだと理解して青ざめる。
星空のキャラバンでは、偽装の身分証を作っていたが、ヴェルンが一括で管理して街では提示していたから、実際に使った事が一度も無かった。
戸惑っている内に、身分証を一瞥した男が、受け取った金を籠に放り入れ、身分証をバジルに返還した。私の方を一瞬見て目を逸らす。
訳が分からない内に、バジルに手を引かれ、船に乗っていた。
漕ぐ音が水面に響く。ゆっくりと小舟が桟橋を離れる。
バジルの言った事の意味は分かった。私に身分証が無い事を知っていたのだ。しかし、何故ばれなかったのかが分からない。
それよりも気になるのは、生きた聖獣の上に乗る事になってしまった点だ。
今更、引き返す……となると、人外の力を解放しなくてはならない。生気を辿る程度の事ならやっていても天使や悪魔の注意を引く事は無いだろうが、船から跳躍して陸地にあがったら、桟橋は大混乱になった挙げ句、あの聖獣が察知して追ってくるかも知れない。そうなったら、色々と被害が広がる可能性がある。
考えがまとまらず、不安になっていると、船が唐突に止まった。
「伏せろ!」
何事かと振り向くと、船頭が、櫂を抱きしめてその場にうずくまっていた。
どうしたのか、と問おうとした瞬間、凄まじい水しぶきと水音がして、バジルが私を庇って船底に押しつけた。
良い天気なのに目の前が陰になり、バジルの肩口から空を見上げると水滴が降ってくる。
……目の前には顎髭を生やした巨大な亀の頭があった。
考えに沈んでいた為、注意がおろそかになっていた。全く気付かなかった。お陰で力が抜けていて、バジルを突き飛ばすという恐ろしい行為にも及ばずに済んだ。
そんな事になっていたら……バジルは水切り石のごとくこの湖を飛び、対岸まで辿り着いていた筈だ。恐ろし過ぎる。
この聖獣は、私を察知して来たのだ。間違いなく。しかし、どうしたら良いのか皆目分からない。
この聖獣を殺してしまったら街は沈む。大勢の人が居場所を失う。そんな事は私の望む事では無い。
私は、諦めて目を閉じた。
多分、船が沈む。そうなったらバジルと船頭を助け、その後は水にもぐってこの聖獣に身を委ねれば良い筈。それが、一番被害が無い。
そんな決意を固めてどれだけ待っていただろう。やがて閉じたまぶたに日の光が感じられ、再び水しぶきが上がったが、何も起こらなかった。
恐る恐る目を開けると、バジルが心配そうに私を見ていた。
「平気?」
「うん」
起き上がって周囲を見回したものの、聖獣は既にゆっくりと向きを変えている最中で、澄んだ水面下の頭は、揺らいで殆ど見えなかった。
目がこちらを見た気がしたものの、それも一瞬の事で、すぐに見えなくなった。
「いや、珍しい事もあるもんだ」
船頭が笑う。
「昼間はめったに顔出さないからなぁ。今日はべっぴんさん乗せているから、見に来たのかねぇ」
船頭の話では、あの聖獣は、一日中でも潜っていられるくらい息が続くそうだ。しかし息継ぎは必要で、一日に一回から二回、息継ぎで顔を出すそうだ。
それは夜が多く、船頭は夜には船を出さない事にしているそうだ。暗くて頭の場所が分からず、転覆した事が過去に何度かあったからだとか。
幸い、昼間なら水が澄んでいるから頭が見える。
頭があがって来るのが見えたら、船を止めて乗っている者は皆伏せる。それが船頭に長年言い伝えられ、徹底されてきた回避方法なのだそうだ。
珍しい事ではあるが、数年に一回程度の頻度であると言っていた。それで、船頭は私達を不審がる様子も無く、船着き場まで運んでくれた。
恐る恐る聖獣の背の一部である船着き場に足を降ろす。……何も起きなかった。
大きく息を吐くと、先に降りたバジルが待っている所に歩み寄る。……あの聖獣は私を認識した上で、上陸を容認したらしい。
「行こう。あっちだ」
バジルに連れられて船着き場を出ると、道が亀の甲羅に沿った坂道となって現れた。その左右に町並みが拡がっている。家々は、階段の様に甲羅の上に組まれた足場の上に建っていて、階段やスロープで繋がれ、複雑に入り組んだ構造になっていた。
「凄い。こんなのどうやって建てたのかな」
「長年、立て替えや増築を続けた結果、こうなったらしいよ」
一度入ったら、二度と出られそうも無い家の屋上で、老人が植木に水をやっている。
スロープを滑り降りてくる子供達の歓声、何処か分からない場所からあがってくる籠の洗濯物を干している女達の世間話の声……暖かい、暮らしの空気を感じる。
キャラバンで久しく忘れていたものだ。……ここは暖かい。あの聖獣が暖かいからかも知れない。
しばらくすると、ある建物から声がした。聞き覚えのある声が……私を呼んでいる!
「クレア、クレア!」
声のする方に目を向けると、黄金色の髪を風になびかせ、窓から身を乗り出している女性の姿が見えた。
「そんな……嘘」
掠れた声で呟いた後、私は精一杯声を張り上げて、その人の名前を大声で叫んだ。
「アミイ姉様ぁ」
「待って、今そっちに行くから」
アミイ姉様は、そう言うと窓から頭を引っ込めて、姿を眩ませた。
「どういう事?」
バジルの問いに、慌てて当たり障りのない返答をする。
「血は繋がっていないけれど、姉なの」
「義理のお姉さん?」
「うん。私を家族に代わって育ててくれた人」
幼くしてワルキューレになった私の面倒の多くは、フレイ姉様とアミイ姉様が見てくれた。年長者と言う事もあったのだろうが、二人とも、人間と言う存在そのものに強い興味があったらしい。
人の出である私は、人間を知るのに丁度良かったのだろう。お陰で私は戦の続くワルキューレの暮らしの中でも幸せだった。
建物がどう繋がっていたのか、アミイ姉様は真後ろの建物から唐突に現れて、私を抱きしめた。
私が振り返ると、姉様は私の顔を両手で挟んで笑った。輝くような笑みに思わずうっとりする。言葉がうまく出なかったのは、私だけではなかったらしく、アミイ姉様もただただ私に触れている。
そこで、ふと不安になって問う。
「怒ってないですか?私がここに来てしまった事」
もう会わないと約束したのだ。それなのに会う場所に来てしまった。
「どうして怒るのよ。そもそも私は居場所を教えていなかったわ。あなたも私に会えると思っていなかったでしょ?それでも会えたのは凄くラッキーじゃない。こういうのは良いのよ。……会えて嬉しいわ」
しばらく私達は互いを見つめていたけれど、ふと側に立っているバジルに気付いて、姉様は目つきを鋭くする。
「この男は?」
「傭兵のバジルって言います。一緒に居る理由は、話すと長くなります……」
自分の為にここに居るバジルの事を、バジル本人の前では説明しづらい。
「ふ~ん。だったら積もる話もあるし、今日は私の家に泊まりなさいな。そこの傭兵さんには、女の一人暮らしだから遠慮してもらわないといけないけど」
姉様の言葉に、バジルは少しも嫌な様子を見せずに頷いた。
「バジル、ごめんね。話は、またちゃんとするから」
「焦らなくて良いよ。久しぶりの再会を邪魔する程、野暮じゃない」
バジルはアミイ姉様の方を向くと、宿泊予定の宿の場所を伝え、私に軽く手を挙げて去っていった。
アミイ姉様はさっそく、私を案内して住んでいる場所に連れてきてくれた。
複雑な迷路を通って、たどり着いたのは教会だった。
教会と言っても、近所の家と同じ様に建て増され、他の家々と繋がっている。扉に教会のマークが付いている事と、真っ黒に塗られている事で、辛うじて教会としての体裁を保っている感じだ。
「あそこが私の職場。病人の看病をして、感謝の生気を食べて暮らしているの。どうしても苦しくて、助からない患者さんの生気もたまに食べるけど、そっちはめったに無い事ね」
そこから二軒程行った所で、階段を上った先の小さな扉をくぐると、狭い部屋が一つきりのアミイ姉様の住居にたどり着いた。
部屋には必要最低限の物すら、置いていない。……やはり眠る必要も無く、食べる必要も無い姉様には、居場所以上の物はいらないらしい。
間違いなく、姉様もワルキューレのままなのだ。それに密かに安堵感を覚える。フレイ姉様の様に人になっていたら、と少し不安だったのだ。
椅子が一つしか無いので、私は使っていない寝台を勧められて腰を下ろした。
「何で、あなたが来たって分かったと思う?」
そう言えば、街に入ってすぐに姉様は私を見つけて呼び止めた。
「彼がおしえてくれたのよ。あなたが来たって」
「彼?」
「亀よ、亀」
ここに来るとき、頭を持ち上げて私を見ていたのを思い出す。
「あのね、ここの亀は、本当は聖獣じゃないの。神獣なのよ」
「神獣って……聖獣とは違うんですか?」
「大違いよ。言うなれば、神の一部。世界の始まりから存在しているの。この亀が死ぬと神も死ぬんだから。……神の体が世界である以上、そう言う重要な部位が地上にあってもおかしくないでしょ?」
言われてみれば、神の体が世界ならば、臓器に当たる部位がこういう姿であらゆる場所にある方が自然な気がした。
そして、何故自分がそこに上陸する事が出来たのか納得した。神にとっては、天使も悪魔も関係が無い。聖獣の様にどちらかを敵視する事は無いのだ。
そしてワルキューレも、区別したりしないのだ。
「まぁ、天使も悪魔もあまり神獣には詳しくないわ。ご先祖様の作った優秀な聖獣なんだと信じている天使も多いわね。悪魔もそう思っている場合が多いの」
恵みをもたらすから聖獣、と言う固定概念が、神獣の存在を霞ませているのだろう。
「私は神獣の研究をしていた悪魔の出だから、知っているんだけどね。意志の疎通も出来て面白いわ。何年かここで研究をしたら、別の神獣の所に行こうと思っているの。……聖獣だと思いこんでいる奴らには、私は見つけられないわ。神獣は殺生を嫌うから、助けを求めれば、私を隠してくれるもの。それに大抵、長生きしている聖獣の側には教会があるでしょ?神獣の側なら確実に教会があって、シスターとしてもぐりこめるのよ」
姉様は、神獣によって自分を隠して生きているらしい。
「こういう生き方を思いついたのも、クレアのお陰よ。ありがとう」
「え?……私ですか?」
唐突な話に、私は驚く。
「あのね、天使も悪魔も、地上の状況には興味があっても、人間って生き物にはあまり興味が無いの……。似た姿をしているのに、あまりに短命過ぎるし、うるさいのよ」
うるさい。つまり心理を外に漏らさない為の防壁を作れないと言う意味だ。
「実を言えば、私とフレイ姉様ってもの凄く仲が悪かったの。……ワルキューレになる前にずっと戦場で会っていて、色々あったの」
初めて聞く。ワルキューレの中では一番仲が良さそうに見えていたのに。
「そこへ、クレアがやって来たのよ。小さくて弱々しい子供だったあなたが。……それなのに、心理があまりに強くて、私達の防壁を破って入ってきたのよ。どんな心理だったか覚えている?」
「覚えてないです……」
「なんて綺麗な人達!この世の者とは思えないわ」
思い切り恥ずかしい。赤くなって縮こまっていると、笑いながらアミイ姉様は言った。
「嘘偽りの無い賞賛って凄く気持ち良いし、感動するのよ。……私達、喧嘩寸前だったけれど、そんな事も忘れてあなたに夢中になったわ。地上の事、人間の事が知りたくなったの。お陰で、地上に来て過ごし、生きたいって願えるようになったのよ」
「他の姉様達は?」
「あなたは好きでも、地上や人間に興味を持てなかったわ。あなたの様な人間ばかりだったなら話は別だったのでしょうけれどね」
そうだったのだと今更ながら知り、酷く残念な気分になった。
「さあ、私の話はこの程度にして、あなたの話を聞かせて頂戴」
アミイ姉様に促され、私の過ごした四年間の話をした。
村の事、キャラバンの事、ローとフレイ姉様の事、バジルとの事も。
アミイ姉様はフレイ姉様の生き方に意表を突かれたらしく、詳しく聞きたがったが、私も知っている事が少ないので多くは語れなかった。
「バジルなら、私よりも知っているかも。実際に会った事もあるみたいだし」
「よし、明日にでも詳しく聞きたいわね、是非」
私が頷くと、外はすっかり暗くなっていた。ろうそくを取り出して姉様が灯す。
そして姉様の顔の表情が真剣になって浮かび上がった。
「ねえ、どうしてあの男の事をそんなに重く考えるの?確かに、顔は良さそうだったわね。怪我して包帯を巻いていても、あれだけ様になっているのだから。でも、あなたの話を聞いていると、凄く気持ち悪いわ」
「気持ち、悪い?」
「クレアがその村に居たのって一ヶ月だったのでしょ?」
「はい」
「話とか頻繁にした仲だったの?」
「いいえ……」
再会して気付いたが、バジルは無口な訳では無いけれど、私に話しかけてこないのだ。見られている事は多かったけれど。
「勝手に惚れて、執着しているだけでしょ?私なら、絶対に逃げるわ。そんな気持ち、独りよがりで相手の事を考えていないもの」
「本人もそんな事を言っていました。でも、そんな風に私は思えないんです。どうしてでしょうね。……彼には、何か欲が感じられないのです」
「欲?」
「うまく言えないのですが、私と共にありたいと言う意思はあっても、私を縛りたい、自由を奪いたいと言う欲を感じないのです」
「独占欲が無い、と」
「はい。だから、重く感じないというか……枷になっていると思うのは、目を失った事と彼の人生を変えてしまった事ばかりなのです」
「ワルキューレの直観力は確かだから、きっとそうなのでしょうね。でも、何か裏がありそうだわ。実は悪魔で防壁展開してて、察知させないとか」
「姉様心配しすぎです。そんな悪魔だったら、私の顔を一度見て気配もたどれるのだから、再会するまで四年もかかりませんって」
「それもそうね」
一瞬、会話が途切れた後、私は苦笑して正直に心境を告げた。
言うまいと思っていた泣き言だった。
「歌の師匠で、私に最も関わってくれていたトーチや星空のキャラバンの人達と別れてみて初めて分かったんです」
私は自分の情けなさに落ち込んでいた。
「一人は嫌だ。寂しいって……」
姉様の顔を見る事が出来ない。
「ワルキューレだって話すまでは一緒に居ても良い筈だ。もし話しても、一緒に居たいと言ったら仕方ないって……彼へ本当に責任を感じているなら、命を護るためにすぐにでも違う方角へ走り出すべきだったのに……。分かっているのに、自分の寂しさが紛れるなら、バジルが死んでも構わないって選択を心の何処かで肯定しています。一番独りよがりなのは、私です」
手が私の頬に触れて顔を上向かせる。そこには、悲しそうなアミイ姉様の顔があった。
「……私達のさせた約束が、あなたを苦しめていたのね。ごめんなさい」
「姉様?」
アミイ姉様は私を抱きしめた。
「フレイ姉様と私はね、あなたが心配だったの。できれば一緒に居たかった。けれど、私達の容姿は目立つわ。ワルキューレは、見目麗しい乙女と決まっている。天使も悪魔も、それを知っているから、目立つ容姿の者を狙う。だから一緒に居られなかったの」
同じ事をしていると目立つから一緒に居られないのだと思っていた私は、目を見張った。
「私、美しくありません。姉様達に比べたら……」
アミイ姉様が苦笑する。
「その劣等感はいい加減に捨ててしまいなさい。それがあなたを頑なにしているから、一緒に居られない理由を正しく伝えられなかったのよ。……あなたは人間の出とは思えない程、別格の容姿をしているの」
姉様が私から体を離すと、引き出しから手鏡を出してくる。
鏡を見たのはどのくらい前だっただろう?私は久しく自分が鏡を見ていなかった事に気付いた。
そこには、若い女の顔が写っていた。アミイ姉様と年齢的には変わらない。
「自分の事を分からないままで居ると、厄介事に巻き込まれる事になるわよ」
「自分を綺麗だって思うのは、何だか傲慢な気がして」
「私もフレイ姉様も自覚しているわ。傲慢なのかしら?」
私がうなだれると、アミイ姉様は笑った。
「……とにかく、バジルがあなたの容姿に目が眩んだだけだとすれば、それはあなたの本質を知らずに勝手に妄想で恋しているだけ。これからも、そう言う人間が現れるかも知れないわ。あなたは、それにいちいち責任を感じて付き合ってやる気なの?寂しいからと、そういう男共と関わっていくつもりなの?」
「そんなつもりは……」
バジルは私の心理を的確に言い当てた。君は俺の事を好きでも嫌いでも無い、と。しかも勝手について行く自分は悪い奴なのだとはっきり言い切った。
妄想で恋をする者が、そんな風に客観視した物言いが出来るのだろうか?
姉様の心配は良く分かる。しかし……どうも姉様の思っている状況とバジルは違うのだ。
巧く説明する自信が無かったので、黙っている事にした。
「私はあなたが心配なの。寂しいからって得体の知れない男と旅をするなら……私と一緒に旅する?移動の時に気をつければ、一緒に居ても多分大丈夫よ」
一瞬、それは現状を打破し、生きるのが楽しくなる名案に思えた。しかし、私は頭を左右に振った。
「姉様には神獣の研究って言う確かな目的があります。フレイ姉様も、自分で運命を逃れる道を見つけています。だとすれば、私も自分で旅をして見つけなくてはならないのだと、思います」
鏡を見せられて分かったのだ。もう、妹だからと手を引いて歩いてもらう年齢では無い事に。すがりついてはいけない事に。
アミイ姉様は、何か言おうとして結局止め、少し寂しそうに笑ってから言った。
「まだしばらくはここに居ると思うから、寂しかったらいつでも会いにいらっしゃい」
「はい……」
姉様は隣に座ると、私の頭をそっとなでた。昔から、よくこうしてなでてもらった。
懐かしさがこみあげる。これくらいなら甘えても構わない筈だ。私は目を閉じてその感触を楽しむ。
しばらくして、姉様が低く呟いた。
「あの男、明日化けの皮を剥いでやるわ。おかしな男だって分かったら、お仕置きしてやる」
「お仕置き?」
「あなたが出発しても、追えない様に足腰立たなくしてやるだけよ」
ワルキューレの能力がどれほど不安定か知っているだけに思わず不安になる。加減をしようと思っても出来ないのが怖い。
「大丈夫よ。神獣の側にいると、ワルキューレだってばれない様に隠してもらえる代わりに、能力もあまり発揮できないの。でも技術的に、たかが人間の傭兵に遅れを取る程、腕は鈍っていないわ。うふふ」
不穏な発言は聞かなかった事にして、姉様にこの街の事を更に詳しく聞く。
そして分かったのは、ここに居る間は、どれだけがんばっても、人間の限界を上限とした能力しか力が発揮できないとの事。……神獣が破壊されれば世界が壊れる為、そういう事になっているらしい。天使も悪魔も例外無くここではそうなっているそうで、それならと安心する。
「あなたには関係ないけれど……感能力に至っては、完全に使い物にならないわ。神獣が、天使や悪魔に自分の心理を勝手に読まさない為に張っている防壁の中に居るからね」
「姉様、感能力が無くて平気なのですか?」
感能力は天使や悪魔にとっては神の枷であると同時に重要な六番目の感覚だ。それを無くすと言うのは、人間が五感の一つを失う様なものでは無かろうか?
「最初はちょっと戸惑ったけど、今は平気。防壁を絶えず作って人の感情や心理をせき止めなくて良いのは楽なくらい。ただ、人の顔や様子を見て何かを察するのって面倒ね。……年寄りに、気の回らないシスターだって言われると腹が立つのよ。本当に」
姉様が盛大に顔をしかめ、私は想わず吹き出してしまった。人間の年寄りが、元・神の使いに、気が回らないと文句を言うのだ。姉様もすぐさま笑い出した。
「とにかく、あの男にはフレイ姉様の事もあなたの事も、色々聞かないと」
姉様は決意を秘めて何度も頷き、嬉しそうに笑った。きっとどんなお仕置きをしようか考えているのだ。
何故なのか自分でも理由は分からなかったけれど、バジルは姉様の考えている様なお仕置きは受けずに済むに違いない。不思議とそう確信していた。
4.神の弦
翌日、朝から教会に行っていたアミイ姉様が不機嫌な顔で帰ってきた。
午前中に用事を済ませ、教会への寄付金からリュートを見立ててくれると言うので、私は姉様を部屋で待っていたのだ。
教会への寄付から吟遊詩人に物資を与えるのは問題無い行為だそうだが、認可が必要だそうで、姉様はその許可を取りに行ったのだ。
「まさか、教会に来るとは思わなかったわ」
あからさまに不快そうな物言いのアミイ姉様の背後にはバジルが居て、私を見ると手を挙げた。
買い物をしたらしく、鎧が真新しいものに変わっていた。以前の鎧は魔獣との戦闘で破損していた為、買い換えたのだろう。
そして頭に巻いていた包帯は、黒い眼帯に変化していた。包帯を巻いていた頃よりも傷がはっきり見える様になったものの、既に乾いた傷は露出してしまった方が、かえって痛々しさが無くなる様だった。
包帯の痛々しさに心を痛めなくて済む事に内心ほっとしつつ、私は口を開いた。
「夕方には宿に行く予定だったのに」
「買い物、午前中で済んじゃって、ヒマになったんだよ。アミイさんが教会のシスターの衣装を着ていたから、教会へ訪ねていけば宿で待たなくて済むと思って」
アミイ姉様からとげとげしいオーラが出ているが、バジルは笑顔で全く気にしている様子が無い。
「午後から姉様と買い物する予定だったの。姉様、それで教会の用事を大急ぎで済ませてくれていたの」
「姉妹で買い物の所、邪魔して悪いんだけど、俺も一緒に行っていい?」
笑顔でそう言われては、姉様も露骨に否定できない。結局三人で買い物に行く事になった。
買い物に出るとなると、姉様は切り替えが早く、笑顔で歩きながら話し始めた。
「あのね、リュートだけじゃなくて、服と靴と旅用のマントも良いって」
「そんなに?……何か、申し訳無いです」
「魔獣に襲われて生き残った吟遊詩人が、楽器も失い、着の身着のままで困っていますって言えば、当然これくらいはくれるわよ。何せ吟遊詩人は万民の財産なんだから。その代わり、明日の夜は教会で歌ってもらうからね」
「わ、分かりました」
物品の代償は歌。それが吟遊詩人だ。それに見合う歌を歌わなくては。演目の相談をまたしなくてはならないな、と思っていると、バジルが言った。
「実は俺も、宿からクレアに必要な品を買う様に金をもらってる。できれば今晩歌って欲しいって。その事もあって教会を訪ねたんだよ」
「そう言えば良いのに」
アミイ姉様が呆れたように言うと、バジルが反論した。
「俺の顔見るなり、凄い形相で睨み付けていたじゃないか。話を聞いてくれそうに無いから、クレアに話そうと思ったんだ」
バジルが苦笑して続ける。
「三曲か四曲、適当に見繕って歌ってくれって。演目は限定しないけど、楽しいのが良いってさ。教会経由で金が出るって分かっていたら、宿に君の事を話したりしなかったんだけど……勝手に仕事持ってきて、迷惑だったかな?」
「ううん。歌えるなら何処でも歌うのが吟遊詩人だもの。今晩ね?分かったわ」
バジルがほっとした様子になると同時に、アミイ姉様が人の悪い笑みを浮かべた。
「吟遊詩人は人気者ねぇ。じゃあ、豪勢に飾り立てるとしましょうか」
するとバジルが、金の入った小袋をアミイ姉様の前に差し出した。
「クレアが歌うなら、釣りはいらないって言われてる」
姉様は暫くバジルの顔を見た後、袋を受け取った。
「私に、任せてくれるって事?」
「勿論、俺にとっては、将来義理の姉になる人だし」
アミイ姉様が呆れた表情になった。
「今、さらりと凄い事言ったわね?」
「言うよ。クレアが俺の事を意識してくれるなら、何でも言う」
「……とんだ傭兵ね。詐欺師の方が向いているんじゃない?」
「詐欺じゃない。俺は本気だし、クレアの事でしかこんな事は言わない。俺の運命はクレアだけなんだから」
その場から逃げ出したい気分になって背を向けると、アミイ姉様が、冷めた口調で、私の気持ちを代弁してくれた。
「口の腐りそうなセリフばかり言っていると、クレアに逃げられるわよ?」
「おかしいなぁ。ローはこれで落とせるって保証してくれたのに……」
私は思わず振り向き、バジルに向かって叫んでいた。
「ローの真似はやめて!私はそんなので落ちない!」
余程の大声だったのか、バジルだけじゃなく、アミイ姉様まで私を見て目を丸くしている。
「あ……その……。フレイ姉様は落ちたんだっけ」
顔から火が出そうで俯くと、アミイ姉様が吹き出し、バジルも笑い出した。
「二人とも笑わないで!酷いわ」
自分でも分かる。耳まで真っ赤だ。アミイ姉様はそんな私に謝りながら笑っていた。
雑談を交えつつ歩いて、私達はアミイ姉様に案内されて一軒の家に入った。入り組んだ階段を上って着いた先には、服が大量に積み上げられた倉庫の様な店があった。
「いらっしゃい……。何だ、アミイさんか」
服に埋もれる様に座っている小さな老人がアミイ姉様を一瞥し、縫っている最中の服に視線を戻した。
「失礼ね」
「だって、あんた尼さんだから服買わないじゃないか。古着をお布施代わりにくれって取り立てに来るだけ。あんたは客じゃない。先週来ただろ?古着は無いよ」
「今日は買うわよ」
姉様は、勝ち誇った様子で言い放った。
「買う?あんたが?」
老人が頭を上げ、まじまじと姉様を見た。シスターは普段着を必要としないので、さぞや不思議に思えたのだろう。
「この子の服よ」
前に押し出され、おずおずと頭を下げる。
老人が眼鏡をかけ直し、身を乗り出して私を見た。
「綺麗な娘だなぁ。何処の子だ?」
「私の妹なの」
全然似ていないのに、姉様は誇らしげにそう言った。
老人はその様子があまりに堂に入っていたからか、詳しく事情を聞かずに、そうか、と嬉しそうに言っただけだった。
アミイ姉様は、服を勝手に漁り始め、漁りながら私の事情を店主の老人に聞かせた。
「そりゃ、災難だったなぁ。この街は聖獣に護られているから、そう言う話は聞かないが……外は危険なんだなぁ」
「一時期よりはマシだよ」
バジルが傭兵らしい知識で、魔獣の数が最近減って来ている事を話すと、老人が言った。
「ワルキューレの聖戦が終わったのは本当らしいな……」
姉様の手が止まる。私がどういう事なのか訊ねると、老人は笑って応じた。
「あんたが歌に出来る程の話は知らないが……。この街には、聖戦が始まる時と終わる時に、兆しがある」
「兆し?」
「世の中がおかしな事になって来ると、聖獣が鳴くんだよ。この鳴き声から暫くすると、天使様と悪魔の世界で、ワルキューレの聖戦が始まるらしい。そして、また鳴く。すると、聖戦が止む。この街が出来る以前から、この聖獣に関する言い伝えとして残っている話さ。地上では、ワルキューレの聖戦そのものがあるのかさえ、分からない事なのになぁ」
姉様は手を止めて聞いていたが、再び何事も無かったかの様に服を漁り始めた。
バジルと老人が雑談をしている間、私は椅子に座ってぼんやりとさっきの老人の話の事を考えていた。
神獣であるこの亀は、神の重要な肉体の一部であると同時に、世界のバランスを見極める神の目であり耳であるのかも知れないのだ。
アミイ姉様が地上で生き甲斐を見つけた事がよく分かった。姉様は、昔から知的欲求を満たす事が最高の快楽だと言っていた。
世界の謎に迫っていく事は、姉様にはたまらない快感だろう。……解き明かせば、ワルキューレがどの様に選定されているかも分かるかも知れない。そうなったら、是非知りたい所だ。
「さ、クレア。こっちにいらっしゃい」
服を片手にごっそり引っかけた姉様が私に手招きする。
「あの、姉様……。これ、縁取りに刺繍が一杯。高いんじゃ……」
「良いから着てみなさい」
有無を言わせぬ物言いに負け、別室で袖に手を通す。
青い光沢のあるブラウス、刺繍の縁取りの付いた黒いチュニック、チュニックと対の刺繍の入った丈の短い黒いベスト。組み合わせて着ていると、姉様がどこからか茶色の丈夫そうな革のブーツと、白いボアで縁取られた黒いフード付きのマントを持ってきた。
マントを小脇に抱えて外に出ると、バジルと老人が会話を止めて私の方を見た。
「銀の髪が映える様に、あえて服を暗い色に抑えてみたの。どう?」
「良いね。クレアの髪が光っているみたいだ」
ローの真似はしないでと言ったのに、と、思いつつバジルの方をにらむと、素直に言っていたらしく、きょとんとしている。
「でしょ?吟遊詩人として歌って行くには、それなりの衣装が必要よ。キャラバンみたいに衣装からステージまでお膳立てしてくれない以上、普段からそういう物を身につけていた方が良いわ」
確かに、キャラバンではそれらしい衣装を渡され、化粧をされてステージに出ていた。
しかし、これからはそうはいかない。そんな事も考えずに着の身着のままここまで来てしまった自分の間抜けさに、ため息が漏れた。
「気に入らない?」
「違います。高そうと言うか、私にはもったいないと言うか……。リュートも買わないといけないし」
とっさの言い訳に、アミイ姉様が呆れた様に言った。
「全く、自分を低く評価しちゃだめだって言ったでしょ?あなたにはそれくらいの服が丁度良いのよ。……それとお金の心配もしないの。この爺さんは、自分の作った服を大事に着てくれる人にはふっかけないのよ」
私が老人を見ると、老人は苦笑していた。
「ね、クレア以上にこの服を着こなせる子は居ないわ。それにこの子、私と違って生真面目だから、服も大事にするわよ」
「……悔しいが、そう思うよ」
老人はそう言うと、驚くような安値で、服一式とブーツ、そしてマントを売ってくれた。
それでは儲けが出ないと言うと、老人は笑った。
「それなら、明日教会で歌う時に、『仕立て屋と悪魔』を歌ってくれないか?」
仕立て屋が、悪魔から服の注文を受けた話を歌にしたものだ。
おとぎ話の様な話で、曲のテンポも童謡に近い。子供に聞かせるのに向いている曲だ。教会で歌うなら子供も来るし、丁度良い。
「歌います。絶対聞きに来てください」
老人は必ず行こうと請け合った。
その後リュートを捜す事になったものの、これが大仕事になった。
この街には楽器の専門店が無かったのだ。それで、古物屋を回って捜す事になった。
三軒回った所でようやく見つけたのは、弦の切れた古いリュートだった。
「良いリュートだと思うけど……」
「問題は弦か?」
「うん」
弦を張り直すのは自分でも出来る。しかし、肝心の弦が無いのだ。
「別の街で手に入れられると思うから、今日と明日の歌は、演奏無しで何とかするわ」
「教会は構わないと思うわ。それでも」
「宿も良いと思うよ」
普通の歌と違って、世界のあらゆる事を歌って聞かせ、見知らぬ人との共通認識へと引き上げる為の手段だ。伴奏や旋律よりも、如何に聞きやすく歌うかが問題なのだ。
騎士ならば、何処の騎士でも騎士の歌を知っていなければ恥だと言う様に、仕立て屋なら仕立て屋の、傭兵なら傭兵の……。それ以外にも歌を多く知っていれば知っている程、人との対話の幅や知識が拡がっていく。
見知らぬ土地でも、同じ歌の内容を知っていれば、そこから対話が生まれる。同じ地域で地域の歴史にまつわる歌を皆が知っていれば、それが団結の礎となる。
吟遊詩人はそれらの歌の教科書的役割を担っている。人と人をつなげる役割が大きいからこそ、万民の財産と呼ばれるのだ。
だから、伴奏の有無を気にする事は無いのだ。……歌い手である吟遊詩人が、歌いづらいと言う難点を除けば。
「でも、クレアが大変なんじゃないか?」
バジルが私の不安を言い当てた。
「うん、でもその辺は何とかするわ」
「どうして大変なの?」
アミイ姉様が不思議そうに首を傾げると、バジルが説明してくれた。
「沢山歌を歌うからね。曲によってテンポも音程も違うから、曲ごとに歌い出しの音が無いと、前の曲の音程につられる。切り替えが難しいんだよ。ましてや、宿屋だと歌う場所は酒場になる。酔っぱらいが盛り上がると歌い出す。外れた音程に引っ張らない為にも演奏がある方が良いんだ」
「そうなの?だとすると、教会でもきっと子供達が知っている曲は歌い出すわよ」
二人の視線が私に向く。私は強張った笑みで応じた。
「大丈夫です。一緒に歌ってもらうのは。その程度で音程を外す事は無いと思います」
確かにこれだけは自信がある。曲の歌い出しに失敗さえしなければ。そう言う意味ではやはり最初に歌い出しの一音が欲しいが……ここではどうにもならない以上、無理を言っても仕方ない。
「そう。でもまだ時間があるわ。もう少し他を当たってみましょうか」
アミイ姉様の提案に私とバジルがうなずき、歩きだそうとした時だった。
『あげるよ』
突然、子供の声が聞こえて、足が止まった。
先を歩いていた姉様がそのまま行ってしまい、バジルが私の異変に気付いて振り返った。
「どうかした?」
「……子供の声が聞こえたの」
バジルは周囲を見回すが、路地には子供どころか、私達を除けば人が居ない。
すると、小さな男の子が近くの家の扉から顔を出した。
「あの子か?」
「……多分」
もっと耳元で言われたような気がしたのだが。
黒髪に青い目の男の子は、首を傾げている私に駆け寄ってくると、握っていた何かを差し出した。
「あげるよ」
さっきの子供の声だった。子供は受け取るまで動く気が無いとでも言う様に、握った手を突き出している。
恐る恐る手を差し出すと、手の上で握り拳が開いて、キラキラしたものが手のひらに落ちてきた。それは糸……いや、弦だった。
「リュートの弦じゃないか」
バジルが驚いていると、大声がした。
「ああー」
アミイ姉様が路地を引き返してきて、男の子を指さして大声を上げている。
男の子はアミイ姉様を見て、にこりと笑うと、出て来た扉に駆け込んでしまった。
一体何が起こったのか分からず、きょとんとしている私とバジルを尻目に、アミイ姉様は走ってくると男の子の駆け込んだ扉を勢いよく開けた。
アミイ姉様の開けた風圧で埃が舞いあがる。扉の向こうは家具一つ無い空き家だった。
「子供が居たよね……でも、居たとは思えない家だね」
バジルが空き家を覗き込む。姉様ががっかりした様子で言った。
「あれは、この聖獣の化身よ」
あえて聖獣と言ったのは、バジルが居る手前だからだろう。
「あの子が、ですか?」
髭の生えた亀の化身が小さな男の子だとは意外だった。
「そう。会えるのは凄く幸運な事なのよ」
アミイ姉様の言葉にバジルは感心した様に私を見た。
「ここに来るときも、クレアを見に来たみたいだったよね?気に入られたみたいだね」
それは、私がワルキューレだからだ。聖戦の開始と終わりを告げる神獣には縁のある者だからだろう。心の中で呟き、バジルには曖昧に笑って見せた。
「クレア、その弦を試してみなさいな」
「はい」
姉様がテラスのあるカフェに連れてきてくれたので、三人でお茶をしつつ、私は弦を張る事になった。
その間、バジルにローとフレイ姉様の話を聞く事になった。
姿は優美だと言うのに、無骨な武人の様な性格だった姉様が、ローとどうやって親しくなっていったのか、その話に私も姉様も耳を疑った。
それは、赤面したくなる様な場面が多々ある、まるで少女の夢の様な話で、あの姉様が実は初々しい乙女であった事を証明するエピソードの連続だった。
話の総括としてアミイ姉様はこう言った。
「結局、フレイ姉様は戦では百戦錬磨だったけれど……恋愛に関しては小さな女の子と大差無かったと言う事ね」
「年上に対して、ちょっと言い過ぎじゃないか?」
「一応姉様と呼んでいるけれど、そもそも私達は年が変わらないのよ。……それはともかく、ローって人は口の腐りそうな表現方法で、延々と好きだって言い続けただけなんでしょ?それで落ちちゃうなんて、あり得ないわ。クレアだってそう思うでしょ?」
さっきローの真似では落ちないと断言してしまった身としては、返答に困るしかない。曖昧に笑って作業を続ける。
「ローはさ、フレイさんに会うまで、恋愛に関して全く興味が無かったらしいよ。女は守るべき存在だが、愛するなら酒だって豪語していたらしいから。それがこうまで骨抜きになって自分にぞっこん……そう思ったら、女としてはグラっと来るんじゃないの?」
「私は御免だわ。勝手に目を付けられるなんて嫌よ。気持ち悪いわ」
バジルが、妙に納得した表情になった。
「アミイさんって、誰かを好きになった事ないだろう」
「まぁね。好きになるに値する男なんて、そう居ないもの。第一私はシスターですから、夫は神です」
「シスターらしくないのに、こういう時だけそういう事、言うんだな」
「シスターらしくないってどういう意味?」
「神に心身共に捧げた清楚さとか、信心深さとかが全くないって事」
アミイ姉様が、何とも嫌そうな表情になって黙り込んだ。
「ほら、全然神なんて信じてないって感じだろう?それがシスターらしくないって言っているの」
正しくは神を信じていないのではない。神を嫌いなだけだ。それにしても、バジルの洞察力には驚く。もうそこまで姉様の事を見抜くなんて。
「まぁ……あんたに説明するのも面倒だから、そういう事にしておくわ」
姉様も言う気は無いらしく、気の抜けた様子でこう言って、私の方を向いた。
「終わったの?」
私が軽く弦を爪弾いているのに気づいたのだ。
「はい」
「試しに何かやってよ」
姉様のリクエストに私は頷いて、少し考える。
「じゃあ……」
今晩酒場でやるつもりの、『天使の酒』を歌ってみる事にした。
天使や悪魔の食べ物は、基本的にはアムリタと呼ばれる飲み物だ。アムリタは天界と魔界では泉の様にわき出ているもので簡単に手に入る。
実は、神の血では無いかと言われている。
しかし、何故か地上界では一滴も手に入らない。だから地上の生物がこれを口にする事はまず無い。
今は昔、天使がうっかりこれを落とし、人間が拾ってしまった事がある。
拾ったのは料理好きの娘で、娘は漂う甘い香りからアムリタを果実酒だと信じ込み、持ち帰るとケーキを焼いて、村中に配ってしまう。
その日から村は、酔っぱらいの村になってしまう。
明けても暮れても酔いが冷めず、男も女も仕事をしないで陽気に踊る。そうしている内に、畑は雑草で覆われ、家の屋根は雨漏りをするけれど、誰もそれを気にしない。
酔いが覚めた時には、皆白髪の老人になっていた。天使の落とす酒は飲んではいけない。
歌の内容はこんな感じだ。陽気な旋律の曲で、酒場でやるには丁度良い。
気付くと、店で食事をしていた人や店主が聞いていて拍手をしてくれた。
「本当に吟遊詩人になったのねぇ」
アミイ姉様がしみじみと言う。
バジルはただ静かに笑っている。
バジルの表情が……姉様の言葉よりも、周囲の拍手よりも、歌を上手く歌えた事を実感させる事に、少し戸惑う。
結局、この店でもう一曲やって、お茶代をただにしてもらう事になった。
店を出ると姉様は感心した様子で言った。
「吟遊詩人って凄いのね。確かにこれなら食うに困らないわ。……それにしても、どのくらいの曲を覚えているの?」
「五百は覚えていると思います……。その辺りから、数えるのを止めてしまったので、よくわかりません」
トーチの知っている曲を全部覚えれば良いと考えてから、数などどうでも良くなってしまったのだ。
「なろうと思ってなれるものでもなさそうね」
「歌が好きなら、案外大丈夫だと思いますよ」
歌うのが楽しいなら、歌える曲が増えるのは、素直に嬉しいと思えるものだ。そして、意外に忘れないものなのだ。特に吟遊詩人の歌は、歌詞が物語になっているから尚更に。
「いいえ、私には、そうは思えないわ。あなたは自分に向いた天職を自分の力でたぐり寄せたのよ。素晴らしい事だわ」
姉様がそう言ってくれたのが嬉しかった。
ふと、姉様がバジルの方を向いた。さっきまでと打って変わって、険しい表情だった。
「あなた、クレアに手を出したら許さないわよ」
「それはクレアの決める事だ」
姉様の表情がより一層険しくなった。
「確かに。でも、フレイ姉様も私も、好きでこの子と離れた訳じゃない。いつでも気にかけているわ。今も、そしてこれからも。もしあなたがこの子と一緒に居て、泣かす様な事があったと、私やフレイ姉様に知れてご覧なさい。確実にこの世に存在出来なくなるわよ」
姉様は本気で言っている。神獣が能力を抑えているのに、殺気で肌がピリピリする気がした。
おろおろする私を尻目に、バジルは、のんきに言った。
「俺が死ぬ事で、クレアが泣く様な事になっていても、そうする気?」
姉様は暫くバジルを睨み付けていた。
私にとっては息をするのも迷う様な時間が延々と続き……殺気が唐突に消えた。
「大きく出たわね……」
姉様はため息と共にそう言ってから、くるりと背を向けた。
「私は教会へ戻るわ。馬鹿の相手で疲れた」
姉様は振り向きもしないで去っていく。
「姉様、明日の夕方、そっちに行きます」
私の声にも、姉様は手をひらひらさせるだけで振り向かなかった。
去り際に一瞬見えた、悔しそうな表情。気になったけれど、今は追えない雰囲気が場を包んでいる。
姉様の背が見えなくなって振り向くと、バジルが私の方を不安そうに見ていた。今まで見た事の無い様な表情だった。
「どうしたの?」
なかなか返事をしない。どうしたのかと再度聞くと、ようやく言った。
「……アミイさんと、ここで一緒に暮らす方が良い?」
「え?」
「アミイさんは、居て欲しそうだった」
自分ばかり寂しいと思っていたけれど、バジルの言葉で気付いた。もしかしたら、姉様も寂しかったのだろうか?
昨日の夜も、一緒に行かないと言ったら、少し寂しそうだった。けれど……。
「姉様とは一緒に暮らせない。姉様には姉様の生き方がある。一緒に居たら、私は自分の生き方を見つけられないまま、姉様の生き方について行くだけになってしまう。それは……どうしても良い事だと思えないの。どんなに姉様と一緒に居たくても」
バジルが、ほっとした様に表情をゆるめた。
「クレアは、生き方を見つけたいのかい?」
「そんな大層なものじゃないの。……姉様達に庇われて生きるのは嫌。妹の意地みたいなものよ。誇れる様な妹になりたいだけ」
「十分だと思うけど?」
「私はまだ何もしていないわ。吟遊詩人としてやっと独り立ちしたところ。やって行けるかどうか、まだ分からないもの」
そこで思い出して、バジルに礼を言った。
「ありがとう。街に入るとき、私の身分証明書、どうにかしてくれたでしょ。本当に助かったわ」
そう言った途端、バジルが罰の悪そうな表情になった。
「その事だけど……謝っておくよ」
「どうして?」
その後、私はバジルの差し出した物を見て、激怒する事になった。
日が暮れ、宿屋で行われた独唱会は大盛況の内に終わった。拍手をしている中に、バジルの姿も見えるが、私はあえて見ない。
宿屋の主や客に退席の挨拶をし、私は部屋にさっさと入った。勿論、バジルは追いかけてきたけれど、中には入れない。
「クレア」
外から声がする。返事をする気は勿論無い。
身分証明書には、バジルが私を護送中であると言う証明が添付されていたのだ。
どうやらローが手配をしたらしい。騎士団で取った本物の証明書だった。
つまり……私は、犯罪者扱いをされていたのだ。
「謝るよ。街では誰も君を罪人だなんて思っていない。それは分かっているだろう?」
そうだろうが……理不尽で不愉快だ。
「君の身分証明書は、街で発行してもらえるように頼んである。早ければ明日にも手に入るから」
そんなに簡単に発行してもらえるなら、何故護送証明書で連れてこられたの?怒鳴ってやりたくなったが、バジルと言葉を交わすのが嫌で黙っていたら、暫くしてまた声がした。
「君はアミイさんの妹だ。しかも、今日歌った事で吟遊詩人だと証明された。身分証明書は、必ず出してもらえるから信じてくれ。……頼むよ。許してくれ」
他の部屋にも筒抜けになっているだろうに、大の男が必死で嘆願している。バジルの様子が少し哀れになって、黙って扉を開けた。
そこには情けない表情のバジルが立っていた。片手を後ろ手にしている。何か持っているらしい。
「これ、お詫びと……今日の独唱会の成功祝い」
そう言って差し出した手には、小さなブーケが握られていた。
ふんわりと柔らかい色の小さな花で出来たブーケがあまりに可愛かったので、思わず手を伸ばして受け取ってしまった。……こんな風に花をもらった事が無いのだから、誘惑に負けても仕方ない、と自分に言い聞かせる。
「気に入ってくれた?」
受け取った以上、許さない訳にはいかない。黙って頷くと、背を向けて窓際まで行く。
背後で、バジルが入ってきて扉を閉める音がした。
「騎士団で身分証明書を再発行となると、クレアが一人で連れ出されて、色々聞かれる事になるから……ローが、それはまずいって言い出して、どうやったのか護送証明書を持って来たんだ」
騎士団の男共の中に、私を欲望のはけ口にしようとした奴らが居た事を思い出す。それに、細かい事を色々訊かれるのも困る。ずっと星空のキャラバンに居たのだから。
「こんな方法、嫌だって俺は言ったけど……他にどうしようも無くて、君にも言い辛くて。ごめん」
確かに言い辛いだろう。しかし、前もって言われていた方が遙かに良かった。
「今度こういう事をする時は、私にちゃんと話して」
「はい」
バジルは素直に返事をした。そして、こう付け加えた。
「相談するから、一人で黙って何処か行ったりしないでくれよ」
思わず、バジルを振り向く。
あの目だ。いつも私を観察している時の目……誤魔化しを寄せ付けない目だった。
ようやく悟る。バジルが相談出来なかったのは、一人で旅をするつもりなのを見透かされていたからだ。……私にも原因があったのだ。
そして思い出す。私はバジルに話があると言った事を。何を話さなければならないかを。
「一人で何処かに行くのは、バジルの方かも知れないよ」
「何故?」
……今日は、本当に楽しかった。あんなに感情を出したのは久しぶりだった。ずっと雨の中を歩いている気分だった。今日は、そんな空に晴れ間が射した。
アミイ姉様の存在が大きいけれど、バジルも一緒に居たからだ。
バジルとなら上手くやれるかも知れない。今話そうとしている事は全部忘れ……ただの吟遊詩人としてバジルと旅をしてしまいたい気持ちに駆られた。
しかし、ここで黙っていたら、犯罪者扱いされるよりも、遙かに酷い裏切りをバジルに対して、してしまう事になる。
姉様は、バジルの恋を妄想かも知れないと言ったけれど、私にはそうは思えない。
だから誠意を込め、彼の人生と目の傷に見合うだけの真実を語らなくてはならない。
「私は、見つかったら狩られるの」
持っている愛らしいブーケに視線を落とした。
こういう格好になっている植物を見て初めて、フレイ姉様の言っていた事が身に染みる。植物から一方的に搾取するのは良くない。
しかし、バジルに見せるには最も効果的だ。私は目を閉じ、ブーケから生気を吸い上げる。目を開くと、ブーケはしおれ、砂となって崩れ落ちた。
怖くてバジルの方を向けない。私は俯いたまま言った。
「私は、生き物の生気を吸って生きている化け物だから。……人じゃないの」
バジルは沈黙している。沈黙が苦しくて更に言う。
「しかも、追っ手は天使や悪魔。私を狩る為なら、魔獣も聖獣も惜しみなく出すわ。人の力で太刀打ち出来る相手では無いの。一緒に旅をすれば、死ぬ事になるかも知れない」
沈黙が痛い。でもこれ以上は何をどう話せば良いのか分からない。どのくらい経ったのか、バジルが静かに言った。
「どうして、君はそんな事になったの?」
「私は、元は人間だった。幼い頃、こんな体にされてしまったの。それで天使と悪魔の戦に、かり出されていたの。……長い間、天界や魔界で戦って殺し、生気を吸い上げたわ」
ワルキューレだとか、サキュバスだとか、そんな言葉を使う気にはなれなかった。そんな言葉で自分を表したら、やってきた事を誤魔化す様な気がしたのだ。
「フレイさんやアミイさんも、そうだったと言う事か?」
「そうよ。……幼い私は、同じ境遇で集っていた姉達に育てられ、一緒に戦ったの。けれど戦いは終わり、姉達はフレイ姉様とアミイ姉様を除いて皆死んでしまった。こんな体で元の居場所には戻れないから、絶望して自ら命を絶ってしまったのよ」
私は窓に後頭部を預け、目を閉じた。
「分かっていたわ。フレイ姉様の様な強さも、アミイ姉様の様な賢さも無い私が、一人で生きていくのは難しいって。でも、嫌だったの。……勝手にこんな体にされて、用が済んだら使い捨てられ、自分で自分を殺すなんて」
「だったら、生きれば良いじゃないか。……君は、自分を化け物って言うけれど、俺にはそんな風には思えない」
閉じていた目を開いて、私は再度バジルを見て反論した。
「さっき、ブーケを枯らしたのも見たでしょ?私は生気を吸うの。……人の生気も吸うのよ?」
「でも、君は四年前も今も、人を襲ったりしていないじゃないか」
「それは……別の方法で人の生気を集めているからよ」
「別の方法?」
「人の感情には生気が込められているの。私は、大勢の前で歌い、喜んでくれた人の感情に混じっている生気を得ているの。四年前、村の広場で歌った時に気付いたの。……だからあの時、村を出たの。それからキャラバンに入り込んで、偶然、吟遊詩人の老人に出会い、弟子になって吟遊詩人になったのよ」
私はバジルの方を向いていられず、顔を背けた。
「本当の事を言えば、あのタイミングで村を出るのは酷い事だって分かっていた。あなたもエナも傷つけてしまう。けれど、それ以上に私は自分の力が怖かった。理性を失って生気を吸い上げてしまうかも知れなかったから……本当に、ごめんなさい」
バジルが近づいてくる事に、雰囲気で気付く。
顔をあげると、バジルは目の前に立っていた。
「謝らないで。俺はどんな理由であっても、君が居なくなったら捜したから」
「分からない。どうして私なの?あなたには家族があった。ずっと昔から暮らして気心の知れた村の人達も居た。短い間しか居なかった上に、きちんと言葉を交わしていなかった私を……何故なの?私には、あなたが人生を変えてまで捜す価値は無い」
バジルが厳しい表情になった。
「自分の事をそんな風に言うな。さっきから聞いていれば、化け物だとか、価値が無いとか……アミイさん達の誇れる妹になると言っていたじゃないか」
「そうよ。……その為には、自分を正しく見据えなくてはいけないの。そして、あなたが何と言おうと、私は生気を吸って生きている。人から見れば化け物よ。そして人間の女じゃないから、人間に恋する事は出来ないと言っているの。だからあなたが優しくする価値は無いと言ったの」
「フレイさんはローと結婚した」
事実を突きつけられ、私は一瞬黙った後言った。情けない事に、自分でも分かる程に声が弱々しい。
「……でも、私は子供の時に化け物になった。成人していた姉様達とは違う。誰かに恋する感情を知らない。そんなものが自分の内面に育っているなんて思えない。全然、分からないのよ」
「分からないなら、これから知っていけば良い」
「一生、理解出来ないかも知れない」
ワルキューレにそんな感情が必要だとは思えない。
バジルがどんなに気遣い、優しくしてくれても、それを恋愛感情に発展させて返す事は出来ないかも知れないのだ。だとしたら、バジルの行いは全て無駄になってしまう。
「別に構わない」
「でも、そうなったらあなたの人生を台無しにしてしまう」
そう言った途端、バジルが目を見開き、沈黙が部屋を支配する。
暫くして、バジルはどう説明しようか、と呟くと、少し困った様子で頭をかいて、ため息混じりに言った。
「見返りはいらないんだよ」
そして頭を振った。
「いや、俺を好きになっては欲しい」
「どっちなの?」
混乱して問い返すと、バジルは言った。
「見返りとして好きになって欲しい訳じゃない。俺の事をもっと知って、君が一緒に居たいと思い、選んでくれる事が望みだ」
「じゃあ、そうなるように私は努力すべきだと思う。でもどうすれば良いのか分からない。それが苦しいのよ」
「一方的に責任を感じて、俺に愛情を向ける事を義務にしないでくれ。ただ自然に一緒に居て、俺を気に入って欲しいだけなんだ」
バジルは再度ため息を吐いて言った。
「俺は好きでこう言う生き方をしているって前にも言った筈だ。傍に居る事で苦しまれたら、離れたくない俺としては、切ないよ」
「ごめんなさい。でも、罪悪感は理屈とは別だから、上手く処理出来ないのよ」
ふむ、と、呟くと、バジルの気配が一瞬変わった様な気がした。
うまく言えないが、何かが変わった気がした。
何が起こったのか見極めようとバジルを見つめていると、彼は一瞬で間合いを詰めてきた。
飛び退こうとしたが腕を掴まれる。
放して!と、言おうとして頭が真っ白になった。
何を思ったのか、唐突にバジルは私を抱きすくめたのだ。
「嫌ぁ!」
思わず力を加減せずに抗ってしまい青ざめた。ところがバジルの腕はびくともしなかった。神獣の側に居ると能力が人並みに落ちるとアミイ姉様に言われた事を思い出す。
今度は、自分が相手に抗えない事に青ざめる。ワルキューレになって以来、こんな事は経験した事が無い。
人に抱きしめられる感覚は遠い昔の記憶にはあるけれど……もっと心安らぐものだった。この抱擁は全く落ち着かない。安らがない。
どんどんと、鼓動の音が頭の中にまで鳴り響いていて、考えが言葉にならない。
「やめて」
ようやく出た言葉はこれだった。あまりのか細さに、自分でも驚く。
今すぐにでも逃げ出したい気持ちも露わに嘆願したが、バジルの腕は私を解放しようとはしなかった。籠もる力が更に強くなった。
「だったら約束して」
バジルの声が頭上から降ってくる。……呼吸の音まで聞こえる事に気付いて、更に落ち着かなくなった。
「まず自分の事を化け物って言わない事。それはフレイさんやアミイさんも化け物だと言っている様なものだ」
軽いパニックを起こしている私は、ただ何度も頷く。……とにかくこの腕から逃れたいから必死だったのだ。
「次に、人を好きになれないかも知れないって考えを捨てる事。それはあくまでも可能性の話だ」
これにも、パニックのまま頷いた。
「最後に」
「まだあるの?お願い。話は聞くから離して」
バジルは懇願を無視し、耳元に口を寄せて言った。
「自分らしく生きる事」
冷水を浴びせかけられた様に、パニックはおさまった。言われた言葉の衝撃が、抱きしめられた現状を上回ったからだ。
「人を傷つけずに生きていくのと、自分らしさを無くすのとは違う筈だ。君は人を傷つけずに生きようとするあまり、感情を表に出す事を忘れて生きていたんじゃないのか?」
「元々、そんなに笑ったり怒ったり、しない」
「そうかな?君が仕立屋で服を着替えている時に、アミイさんが言っていたよ。あの子が感情を出している所を見られて良かったって。辛い思いをしたからか、張り詰めて感情を表に出さなくなってしまった、と。昔はもっと笑う子だったと」
朝、バジルにからかわれて怒った時の事を思い出す。
アミイ姉様の表情が急に柔らかくなったのはその為だったのだろうか?
「君は俺が怪我から目覚めて以来、俯いて悲しい表情ばかりしていたよ?」
返す言葉が無い。バジルは諭す様に言った。
「罪悪感を持つのは、君が人より大きな力を持っている事が原因だ。生気を吸って相手を殺せると言う能力のせいだ。でも、それを君は優位に立つ目的で利用していないし、利用せずに生きていける。だから、もう自分を追い詰めちゃいけない」
バジルの声が、耳だけでなく、心をも打つ。
「自分を恐れ、抜け殻の様になっていたら、生きるのに疲れてしまうよ」
生きるのに疲れる……確かに疲れている気がする。キャラバンを出るときも、この神獣の街へ入るときも、狩られるなら構わないとあっさり思った事を思い出す。
生きていく為に負けるまいと思っていた気持ちは持っているつもりだったけれど、ぼんやりとしたものになっていたのかも知れない。
「どうしたら良いの?」
「……答えを見つけるのは、君自身だ」
バジルに間抜けな問いかけをしたのが恥ずかしくて身じろぎし、まだバジルに抱きしめられたままだった事を思い出す。
「分かったわ。……離して」
バジルの腕が、あっさりと体から離れていく。思わず息を吐いた私を、バジルはがっかりした様子で見つめる。
「もう少し、あのままで居たかったな。俺は」
「……もう、こんな手は使わないで。絶対に」
今回は神獣によって力を抑えられていたから良いものの、命の保証が出来ない。
バジルには生気を吸うだけでなく、人を上回る身体能力を持っている事も話さなくてはならない。しかし、今はそれを証明できないので、後日話す事にした。
「君が嫌がるならしないよ。今、三つ約束したからね」
バジルは、にんまりと意地悪な笑みを浮かべた。
「破ったら、キスしてもらうからね。頬とか額とかそう言う誤魔化しの無いやつね」
「そんな条件、聞いてないわ!」
バジルは、平然と言った。
「約束には、破ったときのペナルティが付きものだろう?大丈夫、破らなきゃ良い事さ」
顔がさっきまでの恥ずかしさとは違う、怒りで赤くなっていくのが分かった。
「条件を後から告げるなんて卑怯よ」
「うろたえて条件を聞かなかった君が悪い」
うろたえるに決まっている。
「最初からこうするつもりだったの?」
「当たり前だ。正攻法で君に触れられるとは思っていなかったからね」
「手段を選ばないのね。……汚いわ」
「俺は騎士じゃなくて傭兵。それが真骨頂さ」
私よりも遙かに弁が立つ。バジルには口で敵いそうもない。むくれていると、バジルが笑顔で言った。
「言っただろう?俺は、君が思っている程良い奴じゃないって。だから罪悪感なんか持たなくて良いんだ」
彼は、まるで私の気持ちが分かるかの様に、ふとした瞬間に私の心を軽くしてくれる。今日一日で何度軽くしてくれただろう?
彼のやり方には問題もあるが、ちゃんと評価すべきかも知れない。
「あ。言い忘れていたけれど、俺の身分証明書には、君の護衛って事が明記される。君の身分証にも護衛として俺の名前が入っているから、勝手に旅したりしない様にね。一人だと護衛の方は?なんて怪しまれて足止めされちゃうからね」
急上昇した評価は、一瞬で地に落ちた。
吟遊詩人は一人で旅するものよ!と、言う私の怒声と共に大笑いしながらバジルが部屋を飛び出していったのは、既に真夜中を過ぎた頃の事だった。
酒場で眠っていた酔っぱらいが、夜中の騒音に驚いてひっくり返り、腰を打って寝込んでいる。と、翌朝、宿屋の主人に言われ、酷く恥ずかしい思いをした。
真っ赤になって俯いていると、宿屋の主人に笑われた。
「普通の娘さんだったんだなぁ」
しみじみと言うので、驚いていると、
「何て言うか人を寄せ付けない感じがしてね。……ちょっと得体が知れないなぁって思っていたんだよ」
そんな風に見えていたのかと呆然としていると、バジルがやってきて口を挟んだ。
「これだけの美女が旅をしているんだ。いくら吟遊詩人が万民の財産とは言え……愛想が良かったら危ないだろう?」
「確かに、違いねぇ」
宿屋を出て教会に行く途中、私はバジルに聞いた。
「私って、そんなに雰囲気悪い?」
「美人で表情が硬いとそう見えるってだけ。ちょっと笑うだけでそんな印象はひっくり返るから気にする事無い。……さっき宿の親父に言っていた事は事実だからな。急に愛想良くしようとか思うなよ。変な奴が寄ってくるから」
「それは、私の決める事よ。あなたの指図は受けないわ。護衛なんだから、せいぜいがんばる事ね」
バジルが渋い表情になる。私に無断で旅の自由を制約した罰だ。これくらいは言って良い筈だ。
夕方、教会に行くと、アミイ姉様が立っているのが見えた。
手を振ると、姉様も手を振って歩み寄ってきた。いつものアミイ姉様だ。
「ねえ、昨日不思議な事があったのだけれど」
「何ですか?」
バジルが私と自分の身分証を取りに行くと言って出かけてから、私の楽屋として提供された小さな物置部屋で、姉様は私に言った。
「あなたの歌声が聞こえたのよ」
「宿屋の側に居ましたか?」
「居ないわよ!昨日は夜に教会で葬式があったから手伝っていたの。……その最中にあなたの歌が聞こえたわ。周囲を見たら誰にも聞こえていないみたいだったし、本当に驚いたのよ」
「私……特別な事は何もしていません」
本当にただ歌っただけなのだ。
二人して黙り込む。暫くして姉様が恐る恐る言った。
「神獣からもらった弦のせいかも知れないわ」
思わずリュートを見る。透き通った弦が、外からの光を反射して光っている。
「神獣がくれたのだから特別な物なのよ。……そして、あなたに必要な物なのだと思う」
「必要?」
「神獣は、無意味な事をしないわ。……あなたに渡したと言う事は、あなたに必要だと思ったからよ」
姉様に歌が届く。それは遠く離れても、私の無事を姉様に伝えられる事を意味している。
「どういう原理で誰に届くのか、今は分からないけれど、それも時間が解決してくれるでしょう。フレイ姉様にも届いていると良いわね」
「はい」
私が笑うと、姉様は悔しそうに言った。
「あー、悔しい。昨日まであんなに硬い表情だったのに。あの男のせいでしょ?……それで、バジルに事情は話したの?」
頷く。自分の事を話す課程で、アミイ姉様もフレイ姉様も生気を吸う事を話してしまった。話した事は言っておかなくてはならない。
勿論、変な約束をさせられた事については伏せる。
言ったのは、バジルが能力を知った上で一緒に旅をすると言った事と、私が自分の能力を恐れてばかりだと生きるのに疲れてしまう、と指摘された事だ。
「バジルの言い分は正しいわ。あなたは歌で生気を得られているのだから、何も苦しむ事は無いの。精一杯生きて、自分がどうしたいのか見極めると良いわ」
そう言って笑う姉様は限りなく優しい。姉様に言われると、本当にそうしていて良いのだと言う自信が湧いた。
仕立屋で姉様は誇らしげに私を妹だと告げた。
嬉しかったけれど、後になればなる程、街にとけ込んで生きている姉様の力添えが無ければ、すんなりと事は進まなかったと思い知る。そして今も自分の生き方を後押ししてもらっている。
「私は助けてもらってばかりです」
「助けてもらう事の何が悪いの?」
呆れたように姉様が言う。
「何でも自分で出来るなんて、そんな人の方がおかしいのよ。そう思っている人は、助けてもらっているのに気付いていないだけよ。みんな、誰かを助けて、誰かに助けられて生きているの。天使や悪魔は違うけれど、人はそれでいいの。……そりゃ、助けてもらう事をアテにして待っているのはどうかと思うけれど、クレアは歌で人を癒したり、励ましたり出来るのだから十分だと思うわ」
「姉様……」
「こんなに素敵な女性になって、歌で人々を魅了しているのですもの。想像していた以上に素敵になったわ」
私は嬉しくて誇らしくて、頬に軽く血が上ってくるのを感じた。
姉様は笑顔で言った。
「あなたの信じた道を進みなさい。大丈夫。あなたは私達が大切に育てた妹だもの」
姉様の言葉が、じんわりと体内に満ちていく。
吟遊詩人として円滑に旅立つ事が出来るのも、バジルに全てを打ち明ける勇気も、姉様とこの神獣の街が与えてくれた恩恵だ。無駄にはしない。
血にまみれた手を気に病んで、何も手に入れようとして来なかった。しかし、それももう終わりにしようと決めた。
子供達が、手が痛くなりそうな勢いで拍手をして飛び跳ねる。大人達が優しいまなざしで子供達に歌を聴かせてくれた事に感謝の意を示す。
優しく、瑞々しい生気が全身に満たされていく。
この生き方が許されると言うのなら……捜してみよう。自分の求める物を。
姉様と別れを惜しみ、街を出たのは三日後の事だった。
船を下り、神獣の街を振り返る。亀は悠然と湖に浮いていた。この先も世界が終わるまで、彼はこの場所に居続けるのだろう。
バジルの声が私の名を呼ぶ。私は彼を見上げた。
ここに来たときと違って、顔を直視する事ができた。罪悪感が完全に無くなった訳ではないけれど、見返す事ができなかった時の重苦しさはもう失せていた。
改めて、その顔が端正である事を認識する。
男に対する審美眼には自信が無い。しかし、女の美しさとは違う美が、男にはあるのだとバジルを見て初めて気付いた。
男を生物として、初めて別の物だと意識した気がする。それまで私の中では、ワルキューレと人間、天使、悪魔と言う区分しか無く、性別に対するそれは皆無だった。
これは進歩というべきだろうか?
「どうしたの?」
「ううん、何でもない」
ずっと見つめていた事に気付いて、私は慌てて視線を逸らした。
バジルが、笑顔で言った。
「何処に行こう?」
そのとき、柔らかい風が頬をなでた。私は風の向かう先を見て言った。
「……風の導く方に」
導かれるままに、私達は歩き始めた。