星空のキャラバン
村を出た後、私は近くの比較的大きな街でキャラバンが来るのを待ち、中に入り込んだ。とにかく専門家に習うのが一番だと考えたからだ。
習うのは、もちろん芸だ。歌でも踊りでも、楽器でも良い。とにかく人の感情……できれば感動や喜びなどの感情を多く呼び起こせる技ができるだけ早く欲しかったのだ。
キャラバンはそれにうってつけだったのだ。
しかし、普通のキャラバンには幼い頃に弟子入りする必要があって、私は潜り込めない。
そこで、星空のキャラバンと呼ばれる『訳あり』のキャラバンに潜り込んだ。
星空のキャラバンは、その多くが何らかの理由で主人を失って自由になったものの、故郷に帰れない奴隷達で構成されている。
星空のキャラバンは見せ物として、踊り、曲芸などを披露するがその質はあまり良くない。実際には非合法な荷運びや暗殺などが、主な仕事だからだ。
それでも素人の芸人では無い以上、それなりのノウハウは持っている。
私は裏仕事に微塵も気付いていない様子でキャラバンに接近した。
ただ、帰る場所が無い、とだけ言った。…演技力が私には無い。嘘は必ずばれる。だから、事実だけに限定して話す事にしたのだ。
幸いな事に、相手も私の事情には興味が無いらしく、事情は一切訊かずに嬉々として迎え入れてくれた。
私はすぐさま女達に委ねられ、踊りを覚えさせられる事になった。
若い娘は踊るのが一番儲かると言われ、露出度の高い衣装を与えられた。……正直に言えば、申し訳程度の布きれにガラス玉やビーズをあしらって、腰と胸にあてがっているだけだ。私からすれば、到底衣装と言える代物では無かった。
しかし、それに文句を言う訳にはいかない。私はそれを着ると、男を喜ばせると言う踊りの輪に加えられた。振り付けはそんなに難しいものではなく、同じパターンの繰り返しが多かった。だから、動きはすぐに覚えた。
ところが、指示通りに完璧に踊って見せたのに、女達を束ねているメーダと言う中年女が腰に手を当てて頭を左右に振った。
「何でこんなに色気が無いんだろうねぇ……」
他の女達が、こうするのだ、ああするのだ、と色々指導をしてくれたので、出来うる限りその通りにしたのだが、メーダの望む水準には達しなかった。
「あんた、男を見てどう思う?」
メーダの問いの意味が分からなかった。言葉に窮していると、更に言い募る。
「年頃の娘が、男共に注目されているのに、恥じらいも無いのかね。その中に良い男が居たら、自分の方を向かせてやろうって言う意気込みも無いのかね」
やっとメーダの言いたい事が理解できた。
「無いです。……それを感じないと何か問題でも?」
メーダはため息を吐いた。
「この子は綺麗だけれど、木彫りの像だ。ダメダメ、踊りはやめ」
こうして、私は踊り子として不合格になり、歌と楽器を覚えさせられる事になった。
教えてくれる事になったのは、灰色の長髪とヒゲを蓄えた老人だった。
トーチと呼ばれている老人は、長く吟遊詩人をしていたのだが、旅の途中で賊に襲われ、片足を失いこのキャラバンに転がり込んだのだそうだ。
出し物と出し物の間で、つなぎとして歌を歌うのが仕事だ。
トーチは寡黙な老人で、話しかける者はめったに居なかった。だから、教えてくれるか解らないが、とにかく頼んでみな、とメーダが言うので従った。
恐る恐る私が教えを請うと、彼はあっさりと引き受け、早速リュートの弾き方を伝授してくれた。
リュートが弾けるようになり、歌を習い始めると、彼は歌にまつわる物語を私に楽しく話すようになった。……あまりに長く一人で旅をしていた為、対話そのものを忘れていたのだ、と、うち解けてきてから教えてくれた。
トーチは、私を気に入ってくれて、様々な歌を伝授してくれた。
私もリュートに慣れてきたし歌も好きだったので、伝授される時間は楽しく過ぎた。
「お前は筋が良い。吟遊詩人は生涯に三人弟子をとらねばならない。私は足のせいで二人しか弟子を育てられなかった。三人目に出会えたのは、神の賜だ」
神の賜……。その言葉に一瞬複雑な気分になった。それを悟られない為に別の質問をする。
「何故、三人なの?」
「吟遊詩人は多くが一人で旅をする。途中で命を落とす者も多い。……それに、我々の歌は大勢で歌うものでも無いし、金を取る為のものでは無いから、途中で歌うのを止めてしまう者も少なからず居るのだ」
つまり三人の内、一人でもものになれば良いという事らしい。
「お金を取らないのにどうやって暮らすの?」
「吟遊詩人に飯を食わせなかったり、旅の為の水や食料を与えなかったりする村はまず無い。金は無くとも必要な物は大抵無償で賄える。我々は別名、万民の財産と呼ばれているのだからね」
「万民の財産……」
トーチは誇らしげに続けた。
「国境も人種も越え、過去の歴史物語や各地方の伝承を拾い、歌にして人々に伝える事が我々の目的だからだ。人が居る場所ならば何処へでも行く。行き先の人数は問わない。たった十人の集落でも、人が居ると解れば行く。思いがけない話を拾えるかも知れないからな」
トーチは吟遊詩人と言う仕事に誇りを持っていた。……黙りこくっていたのは、足を失って吟遊詩人として生きられなくなったと言う落胆もあったのだろう。
私が歌を覚えている限り、彼は弟子を持つ吟遊詩人で居られる。私と出会えて彼は生き甲斐を取り戻したのだ。
私にとっても、一人で旅が出来る肩書きを得られるのだから良い出会いだった。
トーチの教えをひたすらに吸収する日々は続いた。
歌に出てくる天使も悪魔も人も、遠い昔や遙か彼方の大地の事だと言うのに、トーチにかかると生き生きと歌い出され、情景が見える様だった。
人に恋して人になった天使の話、悪魔に愛され、悪魔の子を産んだ娘の話、天使と悪魔の決闘の見届け人になった人の話……。
天使も悪魔も人も、精一杯生きている。私が生きていたいとあがいてもおかしくないのだ。歌は私に希望や勇気もくれた。
星空のキャラバンで過ごす間に三年が過ぎた。追う者も見あたらず、優しいトーチ、そして賑やかな仲間達と過ごす、穏やかな日々が続く。
皆、訳ありでここに居るのだから、昔の事は話さないし訊かない。目の前の楽しい出来事を共に共有する。メーダと踊り子の娘達は、踊らない私をのけ者にせずに、輪に入れてくれた。痛みを知る人達だからこその優しさなのだと徐々に分かってきた。
娘達は、唐突に身ごもって子供を産んだりしていたけれど、メーダも男達も特に気にした様子は無かった。……後で知ったのだが、踊り子は、望まれれば体を売るのも仕事だったのだ。メーダが私を踊り子にしなかったのは、この稼ぎが全く期待できなかったからだと後から教えられた。
「あんたを見て、この娘はやれと言えば何でもやるけれど、合点の行かない事には是が非でも抵抗する強さがあると一目で分かった。……客ともめると解っている娘に売春はさせられないからね」
メーダの見立ては間違っていない。
もし男の相手をさせられていたら、殺しはしないがかなり強引な方法で引き下がらせるか、このキャラバンから居なくなっていただろう。しかし。
「他の娘達がそういう事をしているのに、私だけ、その…」
「居心地が悪いかい?……そうさね、適材適所ってやつだよ」
踊り子達も最初はメーダの判断に不服だったそうだ。しかし、私がリュートを弾きこなし、歌を覚えて弾き語るのを見て納得したのだそうだ。
吟遊詩人の才能が無い者には、いくら教えてもなれない。トーチはリュートを教える段階でそれを見抜く事が出来ると言っていた。私はそれに合格だったらしい。
では、吟遊詩人の才能とは何なのか?
修練についてくるだけの、歌への愛情や忍耐強さだとトーチは言っていた。
踊り子達は、私とトーチの練習の時間が長いと言う。そんな時間があったら、おしゃべりしたり、服を縫ったりしている方が楽しいと皆言う。
私は、人と感じる時間感覚にずれがある。だからトーチが止めるまでいくらでもつきあえる。そもそも眠る必要も無いのだから、つきあえて当たり前なのだ。
それに切実に一人で旅が出来て生気が得られる芸を欲している。それが熱意になっているのだから、他の娘達とは事情が違うと言えば違いすぎる。
とは言うものの、同じ女として、見ていて辛いのだ。売春の代償はあまりにも大きい。
乳飲み子を抱えていた踊り子達は、裏方に回り、踊り子の衣装が着られる様に体がすっきり戻る頃、子供達を手放していた。
母親だった娘達は、皆その日は泣きに泣いて、仲間が全員で慰めた。
キャラバンで育っても幸せになれないから、乳離れしたら里子に出すのだと、キャラバンの頭であるヴェルンが教えてくれた。
このキャラバンでは女は売春を兼ねた踊り子、男は曲芸の傍ら、人殺しや抜け荷運びになるしかない。
彼らだって好きでやっている訳じゃない。しかし、社会の仕組みからはみ出した者は、こういう生き方しか出来ないのだ。だから、子供はここでは育てられない。
「クレア、もし吟遊詩人になるなら、こう言うはみ出し者の末路も歌ってやってくれよな。俺達みたいにならないよう、警告も込めて」
ヴェルンが、冗談とも本気とも付かない口調でそう言った時に、やるせなさがこみ上げた。
村に住む者の暮らしは理解していたけれど、社会で立場を失った者の暮らしは全く知らなかった。
地上は天使と悪魔のバランスが取れれば平和になるのだと信じていた。平和と言うのは、皆が幸せになる事だと思い込んでいたけれど、平和である事と、人が平等に幸福になれる社会を作り上げる事とは、同義では無いのだ。
エナの村でどれだけ麦が豊作でも、踊り子達は体を売らなくてはならないし、男達は金の為に法を犯すのだ。
私はあまりに物を知らなさ過ぎる。キャラバンでの日々は、それを思い知る経験の連続だった。だから、キャラバンの人達には、必ず敬意を払って接した。
男達が裏の仕事に出かける時には気をつけて、と声をかけて外まで見送った。娘達が男を取った後には必ず風呂に入れる様に毎朝風呂の準備をした。
最初は少し戸惑っていたものの、歳月と共に慣れて、皆笑顔で応じてくれるようになった。
「ここの皆は、優しくされる事に慣れていない。自分の受けた傷を、お互い笑って誤魔化す事で精一杯虚勢を張っている。まっすぐに接するお前の純粋さはどう働くか心配だったが、良い方向に働いている様だな」
私には到底できない事だ、とトーチは言った。
あなたならどうするの?と問うと、見て見ぬふりをする、と言う答えが返ってきた。お前はここが痛いのか、とつつかれれば腹が立つだろう?と。
確かにその通りで、私の敬意はそういう行為に取られかねない事だった。それにすら気付いていなかった。
お前のやり方は、お前だから出来る事であって、誰にでも出来る事じゃないし、場合によっては通用しない。だから、私の言った事を覚えておくのだよ、と言われ、私はその言葉をしっかりと胸に刻んだ。
歳月は静かに過ぎていった。
私は、名乗った訳でも無いのに、「シルバークレア」と紹介されて度々ステージにあげられるようになっていた。シルバー。ここでもそうなのかと思うと正直滅入ったが、異論を唱える理由が見つからず、結局そのまま定着してしまった。
弾き語りとして出ては、広く知れ渡っている有名な伝承を歌う。単なるつなぎではなくちゃんと時間をもらって。
演目に出せる段階にまで技術はあがったと認められたのだ。これもトーチの指導あっての事だ。お陰で体の調子はすこぶる良い。
そして私の調子が良くなるにつれて、トーチの背中が小さくなっていった。生気を吸う因果な質故に、人の寿命の終わりが明確に分かってしまう。
トーチはこの冬を越せない。
私の感覚がそうささやく。季節が変わっていくのが、辛い。
本人はそれを知ってか知らずか、すっかり好々爺になって穏やかに暮らしている。
私に教えるべき歌は全て教えたそうで、私も吟遊詩人を名乗る資格は得たらしい。しかし、だからここを離れる……と言う気は無かった。
トーチの最後を看取るのが、弟子として最後の仕事だったからだ。それが終わるまでは、最低でもこのキャラバンと行動を共にし、少しでも稼いで、皆が嫌な仕事をせずに済むようにしたかった。
しかし、穏やかな時間は唐突に終わってしまった。
悪魔と天使はそもそも同種だが、その性質は対極にある。
天使が動植物を養護し、増殖を促すのに対して、悪魔はその数を減らす事に心血を注ぐ。
数千年の寿命を持ち、人には考えられないような身体能力を持つ彼らが、直に手出しをすれば地上はあっと言う間に荒れ地と化す。
だから、神のかけた枷……掟によって彼らは縛られている。
天使にも悪魔にも感能力と言う動植物の心理を読み取る能力がある。これは一見すれば便利だが、諸刃の剣となっている。
心理は、意識を集中して天使や悪魔達が読むのではなく、勝手に流れ込んでくるもので、天使や悪魔はこれらに対して心理防壁を常に展開し、心理が必要以上に漏れたり、入って来たりしない様にしている。
ところが、死に際の断末魔は強力な破壊力を持ち、天使や悪魔の心理防壁を破壊して精神を切り裂くのだと言う。
特に自分達に近い生き物……人から受ける苦痛の波動は、あっさりと防壁を破壊すると言う。
だから人間を傷つけただけでも反動でショック死する天使や悪魔が居るのだとか。それ故に、天使も悪魔も人に直接手を下さない。
人あがりのワルキューレである私には、この掟の苦痛は想像する事しか出来ない。
天使や悪魔からワルキューレになった場合、感能力は残っているそうだ。
ただ、心理防壁が格段に強化されて、天使や悪魔の断末魔も易々と防げるのだとか。私は、感応力の事も心理防壁の事も未だによく分からない。
姉様達の話では、私は地上の生物が生まれながらに備えている天然防壁をそのまま備えてワルキューレになっているそうだ。……つまり私は誰の心理も感じないし、断末魔による精神破壊の影響を全く受けないのだ。
一方で、私の心理は全部垂れ流しで、天使にも悪魔にも相手が防壁を解けば易々読まれてしまう状態だとも言われた。それは凄く恥ずかしい。何とか自分の意識を外に漏らさない防壁を作ろうと教わったり試みたりしたが、結局作る事は出来なかった。
さんざん試して諦めた後、私はふと質問をした。それでは地上生物にどうやって関与するのかと。
二人の姉様は、同時に獣を使うのだと答えた。天使は聖獣を、悪魔は魔獣を。
生物に手を加え、自分達の手駒として山野に放つのだ。聖獣は土地を豊かにしたり、その体が万病に効く薬になったりする。一方魔獣は、土地を荒らし、人を害する。どちらも人間を遙かに超える身体能力を持っており、人が束になってもそう易々とは仕留められない。
でも、人の力で絶対に駆逐できない物を地上に置いてはならないと言う掟があり、それを護らないと天界にも魔界にも、それなりの神罰、というかペナルティが存在するのだそうだ。
詳しい事は語られなかったが、どうやらそれはかなり重いものらしく、自堕落な悪魔でも破る者はめったに居ないそうだ。
だから、地上に居る聖獣も魔獣も地上用に調整されていて、弱っているにしても私達の敵には成りえないレベルに設定されていると姉様達は教えてくれた。
戦場に出る能力の無い天使や悪魔は、地上に配備され、これらの聖獣や魔獣の管理をしたり、人々に影響を及ぼしたりして(あるときには助言を、あるときはそそのかし)、互いの版図を広げる争いを地上でもしているのだそうだ。
天界と魔界の戦争の際にも、獣達は使われる。このときの獣は制限が一切加えられていない。当然といえば当然だが、獣が天使や悪魔の首を取らねばならないからだ。
天使も悪魔も、敵を殺せば断末魔で、精神防壁も精神も砕かれて自分が死んでしまう。相手を殺して自分が死んでは意味が無い。だから精神を護る為、優れた強力な獣を作り、その獣に相手の首を取らせるのだ。
戦争の際には、一人の天使や悪魔を護る獣が数十から数百匹。この獣の性能と数が雌雄を決する事になる。
この中の一匹でも良いから生き残り、獣を失い無防備になった敵を仕留めたら勝ちなのだ。
地上の普通の生物より遙かに強力で異質な恐ろしい生物がひしめき合って殺し合いをする。これが、天界と魔界の戦争なのだ。
私は、天界や魔界で獣をよく見知っていたが、よもや地上でまで獣に遭遇するとは考えていなかった。
魔獣絡みで、星空のキャラバンに厄介な依頼が持ち込まれたのは、トーチが床から起き上がれなくなって数日が経った頃だった。
「知恵を貸して欲しい」
ヴェルンが深刻な顔で寝たきりのトーチの元にやって来たのだ。
私に席を外して欲しそうだったので、腰を上げるとトーチがそれを止めた。
「クレアには聞かせた方が良い。賢い子だ。老いぼれよりも機転が利く」
「あんたがそう言うなら……」
ヴェルンは少し不満そうだったが、せっぱ詰まっているのか早速本題に入った。
「知っての通り、俺達にはお勤めがある」
お勤めとは、抜け荷運びや殺人、売春などの裏家業の事だ。
「今回厄介なお勤めをする事になった。魔獣退治だ」
トーチが息を呑み、私も驚いて目を見開いてしまった。
「理由は……隠しても仕方ねぇな。馬鹿なフェリラが、依頼を受けていた荷を持って逃げた。男にそそのかされたんだ」
フェリラと言えば、キャラバンを出て、好きな男と花屋だの雑貨屋だのを開いて暮らすのだと話をしては皆を笑わせていた娘だ。どうやら、本気だったらしい。
「フェリラも男も見つかった。死体でな。どちらも魔獣に食い殺されていた」
「盗まれた荷は何だ?」
トーチの問いに、ヴェルンが渋い表情で告げた。
「ユニコーンの角だ」
ユニコーンは聖獣で、その角は万病に効く為、高値で取引されている。しかし、角から出ている波動が魔獣を引き寄せる為、僧侶による封印を施した後、複数の騎士や戦士の護衛と運搬許可が無いと運べない特殊な物品に指定されている。
「フェリラは封を解いて持ち去ったのだな」
「そうだ。封さえ解かなきゃ死なずに済んだのに、あの馬鹿……実は俺とメーダの娘なんだ。情に流されて余所にやれずに育てた俺達が一番の馬鹿だったよ」
娘だったのか……メーダは大丈夫だろうか。私がそう思っている間にも、ヴェルンは話を続けた。
「それで依頼人に事情を話したら、ユニコーンの角は無くても構わない、その魔獣を狩ってきたら全て水に流すと言ってきた。そうすれば報奨金も出すと。しかし魔獣を狩って来なければ、お前達の情報を街道騎士に通報すると言って来た」
どう考えても、キャラバンに責任を取って全滅しろと言っている様にしか聞こえない。
……依頼人は平民や奴隷を人とも思わない、何処かの貴族なのだろう。
「それで私に聞きたいのは、魔獣の倒し方か?それとも……キャラバンを解散して無事に逃げる方法か?」
トーチの問いにヴェルンは身を乗り出して答えた。
「両方だ。魔獣を倒した話なら歌にいくつかあるだろう。それを分かり易く聞きたい。後、逃げる方は算段が出来ると思う。できれば、ほとぼりがさめるまで身を隠せる場所をいくつか教えて欲しいんだ。あんたなら辺境にも詳しい。知ってるなら教えてくれ」
トーチはしばらく目を閉じて考え込んだ。
「魔獣を倒す方法はあると言えばある。しかし失敗すれば全員が死ぬ事になるだろう。逃げて暮らせる場所なら候補はいくつかある。いっその事、キャラバンの者全員で永住してはどうだ?」
「俺達みたいな者が暮らせる場所があるのか?」
トーチは服の中に手を入れて、小さな袋を取り出した。
「この中には、封印したグリフォンの爪が入っている」
聖獣にしては珍しく凶暴な、猛禽類に似た姿の聖獣。彼らが巣を作り縄張りとする土地は豊饒の地となる。
「この爪を埋めた土地は、どんな作物も最低二十年は必ず豊作になる。今ある蓄えでありったけの穀物の種を仕入れて、開墾した土地の真ん中にこれを埋めれば……昔からある村の体裁が整う。そうだな、最低三年は自給自足をして、踊り子や抜け荷運びしかしていない奴らを普通の村人に仕立て上げて……その頃にクレアが吟遊詩人として村の場所や豊かさの噂をばらまけば、商隊も立ち寄るようになるだろう。そうなれば、あんたは商売慣れしているから、うまくやれる筈だ」
「こんな高価な物、あんた何で……」
「持っているのは偶然グリフォンの死体に出くわした事があるからだよ。吟遊詩人って言うのは、人の通らない道を行く事もあるからな。あんたにやるのは、もう私には必要無い物だからだ。本当なら弟子のクレアに形見で渡す所なのだが、こういう事情ならヴェルンに譲っても文句は無いだろう?」
いきなり話を振られて、私は慌てて頷いた。
ヴェルンは信じられないと言う表情で小袋を見ている。
その気持ちは分からなくも無い。
グリフォンは並の聖獣では無い。攻撃性の少ない聖獣の中にあって、魔獣並に気性が荒くどう猛だ。卵を産むと死ぬと言われているが、死に場所が未だによく分かっていない為、爪はめったに入手出来ない。この爪があれば、ユニコーンの角が五、六本は手に入る筈だ。
「それと、魔獣を倒すのにもこれを使う。封印を解いてこの爪の波動で魔獣をおびき寄せたら、何処でも良いからこれで傷つけられれば勝てるだろう。グリフォンの爪は我々には豊饒の象徴でも、魔獣にとっては致死の猛毒だ」
どうするかには干渉しない。トーチは、ただグリフォンの爪を使えと言う。ヴェルンの誇りを傷つけない為に言わないが、これを依頼人に差し出して許しを請う選択肢もトーチは許容している。
しかし、ヴェルンの暗く輝く瞳から、何となく……何をしたいのか理解できた。彼は絶対に魔獣を倒す事を考えている。
人はどんな危機でも、自分に大きな利益をもたらすと算段出来ると欲をかく。失敗した時の事など考えない。フェリラを……娘を殺された分の帳尻合わせも兼ねているのだろうけれど、あまりに危険過ぎる賭だと思った。
魔獣に傷を付けると言う行為を人間の身体能力で実行する事が、どれほど難しいか、ヴェルンは度外視している。……感情が冷静な判断を邪魔しているのだ。
例え出来たとしても、犠牲が必ず出る筈だ。それも何人も。
「逃げて」
私は思わず呟いていた。
「大勢、死人が出る。狩ってはいけないわ」
ヴェルンが決意を秘めた表情で私を見た。
「クレア、お前はお勤めに手を染めてない。今晩中にここを出るんだ」
「みんなやトーチを置いて行けない」
「トーチはメーダが面倒を見る。お前はここを離れるんだ」
「今更、仲間はずれにしないで」
「お前とは違うんだ」
はっきりとした口調で拒絶されて、私は言葉を失った。
「体を売っていた娘達が、普通の村娘として暮らすのは難しい。男と酒で寂しさや不安を紛らわし、ちんけな宝石と安い香水で心を満たす事しか知らない。そんな娘が、辺境に逃れて畑仕事をしながら機織りをして暮らしていれば、わびしくなって逃げ出すだろう。男達だってそうだ。……俺達は、はみ出した生き方に慣れてしまった。真っ当な生き方など今更出来ない」
違う。歪んでいるのは世界で、あなた達は悪くない。
そう言いたいのに言葉が出ない。……自分には言う権利が無い事がたった今解ってしまったからだ。
体も売らない、殺しもしない。
私はこの三年、真っ当な暮らしをさせてもらっていたのだ。
真っ当な生き方が出来ず、嫌々道を外れた行いを繰り返す内、そんな生き方に慣れてしまった者達がそうしている間もずっと。
第一私は、彼らの想像を絶する、遙かに外れた存在である事を伏せ続けてきた。
殺人だってやればきっとここの誰よりも巧かった筈だ。私はそれをあえて言わなかった。自分の都合で、だ。
体だって、誰だって売りたくないに決まっている。私はワルキューレの能力があるから堂々と拒否する態度を露わに出来たが、そうじゃない娘達は泣きながらそれに耐えたのだ。他に方法を見いだせなくて。
私は……もの凄くずるかったのだ。ワルキューレの能力があるから、自分を人間に勘定していなかったのだ。その癖、仲間にしてもらって笑いあえる部分では、人間面をしていた。
自分が情けなくて、拳を握りしめて俯く事しか出来なかった。
「お前の様に、まっすぐな生き方をする強さが我々には無かった。それだけの事だ。お前は何も悪くない。変わり種のお前の事が、皆好きだったよ」
ヴェルンはそう言って私の肩を一つ叩くと、去って行った。
この強さは、私本来の強さでは無い。神に与えられたものだ。本来の私はとても小さい。
私の握りしめた拳に、枯れ枝の様になってしまったトーチの手が重ねられた。
人との接触を恐れなくなったのは何時からだろう?このキャラバンに来て以来、私は人に触れても平気になっていった。感情が、生気が、対話から与えられ続けていたのだ。
支えられていたのは私なのだ。
しかも、不自由無く生気を得られる生き方まで教えられた。
「自分を責めてはいけないよ。お前が同じ歪みに身を落とした所で、彼らは喜ばない」
「私は……」
言い訳をしたかったのかも知れない。けれど、言葉は続かなかった。
「世の中、皆が平等では無い。過酷な運命を背負う者が居る一方、安穏と暮らす者が居る。その不公平を不満に思っても、一人の力で出来る事はあまりに少ない」
トーチが私の瞳をのぞき込んだ。
「お前だって……何かを背負っているのだろう?」
見透かされている気がして、思わず視線を逸らした。
「星空のキャラバンは、望む者の事情を問わない。……資質は見るがね。お前には吟遊詩人の資質があった。それだけだ」
「違う」
私は思わず呟いていた。
「違うの。私は吟遊詩人を手段に選んだだけ」
私は目をそらしたまま、いたたまれず目を閉じて告白した。
「私は、人じゃない」
人だと思いたかった。ここでなら人で居られる。そう思っていた。けれど、誰かが死んでいくのを見過ごしてまで人に固執したくは無かった。
誰にも話してはいけない事だったけれど、話さなくては。私が自分の正体を告げようと口を開くと、トーチが強い口調で声を被せて来た。
「人だ!」
少し苦しそうに息を吐いてから、トーチは普段の静かな物言いで繰り返し言った。
「お前は人だ。天使も悪魔も、人間が人間同士の諍いで死ぬ事に心を痛めない。……違うかね?」
確かに、人同士の争いは単に摂理として捉えていて、天使も悪魔も気にかけないとフレイ姉様が言っていった。……天使や悪魔が殺し合いをしていても、人がその事実に心を痛めないのと同じだと。
「お前は人の心が解る。だからキャラバンも受け入れた。私もお前を人だと思うから弟子にした。天使や悪魔だったら弟子にしない」
胸が一杯になる言葉だった。嬉しくて、涙が出そうだった。私には、まだ……出来る事が、ある。
「ありがとう。私を弟子にしてくれた事、人だと言ってくれた事、あなたには感謝しても感謝しきれない。でも……最後まで一緒に居られない。ごめんなさい。私、行かなくちゃ」
トーチはただ首を左右に振った。その目には涙が光っている。手を差し出してきたので、私はそれを握った。
「お前はまっすぐだ。それ故に険しい道を選ぶ。……逃げても、誰も恨みはしないのに。……何をするのかは問うまい。だが私の最後の弟子よ。おまえの無事と、進む道に幸多からん事を祈ろう。この命が尽きるまで」
これがトーチと交わした最後の会話になった。
名残を惜しんでいる間にも、ヴェルンが行動に移るかも知れない。
メーダを呼んでトーチの事を頼むと、散歩に出かける様な素振りで私はキャラバンを出た。メーダの目は真っ赤だった。それでも笑って、任せておきな、と言った。
この上、ヴェルンまで死んだらメーダはどうなる?……絶対に死なせない。
私は闇夜で感覚を研ぎ澄ました。
魔獣を狩る為に。
3.再会
天界の戦争は、獣に地上の様な制限がかけられていない。皆、桁外れの能力を持っている。何故なら、一匹でも生き残って、敵の首を主に持ち帰らねばならないからだ。
感応力のあるせいで、天使と悪魔は互いに直接手を出せない。……殺せば断末魔で精神を砕かれて、自らも滅びるからだ。
断末魔というのは、聞いている者全てに伝わるのではなく、殺戮の相手にだけ届くものなのだそうだ。だから、獣の殺し合いの断末魔は、天使も悪魔も傷つけない。獣達には、断末魔で切り裂かれる程の繊細な精神が存在しない。異世界の戦争は、人の戦争とは大幅に違うものだった。
天使も悪魔も、獣に守られて奥の方に居る。そして戦場では、魔獣も聖獣も足の踏み場が無い程にひしめいて戦っていた。
彼らは主である天使や悪魔の命令さえあれば死すら恐れない。
当然、勝ち目の無いワルキューレにも襲いかかってくる。それを倒しつつ人型の物……天使や悪魔に近づき首を取る。彼らは腕や足がもげてもそう易々とは死なない。だから狙うなら首か頭なのだ。……心臓を複数持っている物も居るので、胸は狙わない。
ワルキューレは獣でできた柵を切り崩し、天使や悪魔を狩っていた。
そもそも同種である天使と悪魔の姿に大きな差は無い。私達は、相手が天使であるとか悪魔であるとか、そう言う事は一切見分けていなかった。
ただ戦場を察知して降臨したら、より強い相手……つまり優勢である勢力に向かって戦いを挑んだ。
何故そうするのか?
世界のバランスを取るワルキューレの本能なのだと教えられ、長く納得していたけれど、サキュバス墜ちの話を聞いて本能の中身を知り、事実を把握した。
単に、より多くの生気を得られる方へ進んでいるだけだったのだ。優勢な方に生気が多い。単にそれだけ。そういう風に私達が出来ているから、戦場で優勢な側の戦力が削がれてバランスが取れていく。……自我のある者にこんな本能を植えつけるのは、何て残酷なのだと思ったが、抗う事は不可能だった。生気は私達の命と能力に深くかかわっていたから。
その本能を始めてありがたいと思った。私を今正確に魔獣の居場所に導いている。
魔獣は一匹で、何十人分もの生気を持っているから、神経を研ぎ澄ませば、気配で何処に居るのか辿る事が出来るのだ。はっきりと感知できる。辿り着くのも狩るのも容易だろう。
厄介なのは、狩った後の事だ。
誰が狩ったのかわからない魔獣の存在が天界や魔界で知れ渡れば、このあたりに追っ手が集まってくる事になるかも知れない。
うまく人が狩った様に偽装する自信が無い。そもそも長く戦っていないから、手加減の方法が分からない。人ではできない芸当で殺してしまったら偽装できない。
殺すのであれば、どうなるにせよここから離れなくてはならない。しかし、どこに天使や悪魔の目があるかわからないから、神速の移動、と呼ばれる私達本来の超速移動は使えない。空間にゆがみを残す為、後をつけられてしまうのだ。
人に紛れていかに逃げるか。……このあたりの地理に詳しくない事に思い至り、もう少し調べてくればよかったと後悔した。しかし、そんな暇も無かった。仕方無いと割り切る。
更に、キャラバンから持ち出したのは、馬車に無造作に置かれていた草刈り鎌一つ。
既にヴェルンは出かけた後で、お勤め道具と呼ばれる武器は、男達が持って出た後だったのだ。
大慌てで飛び出したものの、移動しながら考えるにつれて、顔を覆う物を持ち出すのだったと気づく。
人に見られれば、それも大問題だ。若い女が、たった一人で魔獣を狩った。……そういう噂は広く伝播するに決まっている。
しかし、その後悔もあまり長くは続かなかった。
人に疎まれ、天使や悪魔につけ狙われても構わないと言う、そんな気分がじわじわと心を占めてきていたのだ。
そうなったらそのときは精一杯あがいて死のう。もし誰かを犠牲にする生き方を覚えれば繰り返すに決まっている。他の方法が無かったのだと言い訳しながら。そして慣れていってしまうのだ。そして戻れなくなる。身も心もサキュバスになり果ててしまう。
それでは、星空のキャラバンの人達と同じ歪みに陥る事になる。それは出来ない。
魔獣の気配が近くなってきた。
ヴェルン達は居ない筈だ。すぐに飛び出し、人に不可能な速さで走ってきた。先に来ている訳が無いのだ。
それなのに、人の気配を感じる。数は五人。真っ暗な森で姿は目視できないが、生気で感じ取れる。
三人は倒れていて、おびただしい生気を垂れ流している。……多分、死んでいるか、助からない重傷。残りの二人の内、一人は命に関わる程では無いが大怪我をして倒れており、その側の一人は無傷。
無傷の者の前に、凄まじい生気を放つ存在があった。魔獣だ。
一刻を争う。私は一気に駆けて、気配の場所に飛び出した。
森の木々が魔獣によってなぎ倒され、小さな空間が出来ている。
騎士らしき重装備の者が三人倒れており、皆血を流していた。
その先に、肩口から触手を二本生やした巨大な豹が軽装備の戦士二人に襲いかかろうとしている。
私はこの魔獣を知っている。……肩から生えている触手に触れると、たちまち体が硬直し、動けなくなる。麻痺してしまうのだ。
その証拠に、怪我人を庇っている戦士は、固まった様に豹を凝視したまま動かない。
人の動きを妨げる魔獣。こんなものそうは居ない。
私は、この魔獣とその主に関してだけは良く覚えている。
剣を交えた事が幾度かあったが、正に鬼神の如き悪魔だった。
この魔獣で私の動きを鈍くして、自ら剣を取り挑んでくるのだ。私の断末魔で死んでも構わないと思っていたのだろう。とにかくワルキューレを仕留める執念だけは確かにあった。
姉様達なら容易く倒せたのだろうが、私は幼く未熟だったので、この悪魔には負けもしないが、勝てもしなかった。
名のある上位悪魔だったのだろうが、サタン程強い訳でもない。勝てない事で、悪魔たちに私は最弱のワルキューレと名指しされる事になった。
フレイ姉様がこの様子を見ていて、私の良い訓練になるからと、この悪魔に対して他の姉様達の手出しを一切禁止した。その為、私は血に酔って見境を無くしていない時にこの悪魔を見かけると、一人で追いかけ回す事になった。
そして時が流れ、私はついにこの悪魔を撃破する機会を得たが、結局仕留めきれなかった。
頭を剣で一撃した際、兜が割れて中から出てきたのは、自分より幼く見える少年の顔だったからだ。……長年の宿敵の予想外の姿に一瞬呆然とした。
彼は顔から血を流しながら叫んだ。この化け物、いつまで殺せば気が済むのだ、と。
激しく血に酔っていたならば、あるいはサキュバス墜ちの事を知らなければ、多分殺していただろう。しかし、当時はそのどちらでも無かったから殺せなかった。血を吐く様な叫びに、自分を恥じた。ただ悲しかった。彼の声に心が悲鳴をあげた。
私は、彼が戦場を離れるのをただ見送った。
それ以後、戦場に彼は現れなくなった。
生死は分からない。傷は深かったから、そのまま死んだのかも知れない。以降、決して天使も悪魔も逃さなかったが、殺す都度、彼の声を思い返して苦悩する様になった。
私が今も、殺しをやりたくないと思う原点はこの出来事にある。
そして今、苦い過去を思い起こす魔獣が目の前に居る。運命の皮肉を感じ、口元に苦笑が浮かんだ。
さあ、見るが良い。ここに、お前の敵が居るぞ。
私は殺気を飛ばして、戦士達から獣の注意を逸らす。
振り向いた獣が牙を剥こうとした瞬間、飛び込み様に、草刈り鎌で触手を一本切る。
地面でのたうつ触手。獣は怒りと痛みの咆吼をあげると、恐ろしいスピードで残った触手を延ばして来た。
しかし、生気の量から予想した通り、地上用に調整されているので、動きは見切れる速度だった。とんぼ返りして避けた後、地面を蹴って一気に懐に飛び込むと、その首をかき切った。
触手を切った時に刃こぼれして切れ味が悪かったので、途中で刃が折れてしまった。……いくら弱いとは言っても、地上の生物よりは硬い。
間髪入れず、首から血しぶきをあげている豹の眉間めがけて、中途半端に刃が残った草刈り鎌を投げた。次の瞬間、刃の部分が眉間に深々と刺さって魔獣は倒れた。
この殺し方は果たして人間に出来る芸当だったのかはわからない。だが、ヴェルン達が魔獣に無謀な戦いを仕掛けて死ぬ事は無くなった。
すぐさま騎士たちを調べたが、三人共絶命していた。そこで、まだ生きている戦士達の様子をうかがう。
幸い、一人は麻痺による硬直で何が起こったか分かっていない様子だった。もう一人は倒れて動かない。気絶しているのだろう。
二人とも男だった。
硬直して仁王立ちになっているのは、浅黒い肌をした逞しい三十男だ。あの触手が軽く触れる程度で避けたのだろう。身体能力が高い上に幸運だったのだ。……この様子なら、まもなく動ける様になる筈だ。
それを確認してから、怪我をしている戦士の方に近寄った。予想通り気を失っている。顔に手を当てていて、指の間から血が幾筋も流れとなって伝った跡が残っている。既に血は止まっているらしい。
騎士の三人と違ってこの戦士は助かる。私はそう判断し、怪我の具合を見るべく仰向けにした瞬間、息を呑んだ。その傷の深さに……そして顔に。
「バジル……何故?」
あえぐような声が口から漏れた。
小さな集落で私に思いを寄せてくれた青年。エナの自慢の兄。
彼が何故こんな場所に居るのか?ああ、この傷では右目は元に戻らない。なんて事。どうすれば良い?
呆然としていると、唐突にかすれた声がした。
「あんた、こいつの知り合いか?」
振り向くと、立っていた戦士が緩慢な動きでこちらを向いた。麻痺が消えてきたのだ。
返答に窮していると、男は続けて話した。
「とにかくこいつを運ぶ。ついて来な」
男はそう言いながら体をほぐすように首を左右に振ったり、腕を回したりしている。
「何処に?」
「ここから街道に戻って、南に進むとこいつらの拠点がある。そこには医者も居るし、騎士達の仲間もいる。遺体を取りに来る様に知らせてやらんとな」
男はそう言いながら、バジルを背負う。
「あなた達は騎士達と仲間では無いの?」
男は歩みを進めながら私の質問に応じた。
「金で雇われた傭兵だ。お貴族様の道楽に付き合って命を捨てる騎士と違って、俺達は金で命を張る。あいつらと一緒にされるのは心外だな」
傭兵。何故バジルが傭兵になどなっているのか?気にはかかるが、顔を合わすのはまずい。このままバジルを送り届けるのに付き合って、命の無事が確認できたら、そのまま街道沿いに何処かに移動した方が良さそうだ。
「ところで、あんたは俺の質問に答えていない」
バジルとの関係の話だ。さて、どう答えたものか。
「もしかして、クレアさんじゃないのか?」
いきなり名前を言い当てられてぎょっとする。その様子を見て男は喉を鳴らして笑った。
「そうか、銀髪だからもしやと思ったが……とうとう出会えたか」
「……まるで、バジルが私を捜していた様な言い方ね」
動揺を押し殺して告げると、男は平然と言った。
「その通りだから、そうだと言うしか無いな。……親の遺言で自分達の村にたどり着いたクレアと言う娘の居場所を、自分が奪ってしまったと言っていた」
「そんな……バジルと私が村を出た事は無関係よ」
「でも、こいつはそうは思っていない。あまりに綺麗な銀髪の娘で、勝手に自分のものにすると決めつけていた。どうせ行く当ても無かろうと、妹まで巻き込んですねた態度を取った為に、娘は村を出て行ってしまった。どうしても、もう一度会いたくて、村を飛び出した。それが、こいつの傭兵になった理由だ」
バジルがそんな理由で村を出たなんて、エナ達を悲しませた筈だ。しかもこんな傷まで……。
男はあえて私にバジルの事情を告げた口で、さらりと言った。
「あんたが気に病む事じゃない。こいつが勝手にやった事だ」
「だったら、私に事情を告げる必要は無かったと思うのだけれど?」
自分でも分かる。厳しい声が出ている。この男は、わざと私にこの話を聞かせたのだ。
「まぁ、そう怒りなさんな。あんた、こいつが心配でも、このまま何処か行く気だっただろう?こうでも言わなきゃ、引き留められないと思ったから言っただけだ」
逃げ腰だったのは、見え見えだったらしい。言い返せず、黙り込む。
「とにかく、ちゃんと話が出来るまで居てやってくれ」
ぽんと頭に手が載った。
初対面の筈なのに、やけに親しみがこもっていて一瞬驚く。手はすっと引いていった。
「名乗るのを忘れていたな。俺はロー。傭兵としては、バジルの師匠だ」
「……どうも」
この男はどうも調子が狂う。何かしら私の事を知っているのだろうか。しかし、あの気安さはなんだろう?訳が分からない。
ローは、迷う事無く街道に出た。そして南へと進む。逃げ出す口実を失って、私は後に続くしか無かった。
しばらくすると、遠くに明るい部分がある事に気付いた。野営のかがり火が焚かれた、騎士の駐屯地らしい。
駐屯地を出てうろうろしている人影が、私達に気付いて駆け寄ってくる。
それは少年の戦士見習いで、少し大きな革の胸当てをしている。
「ロー、無事だったかい?」
「まぁな。バジルはこの有様だが、死にはしないだろうよ」
「うわ、片目バックリだ」
露骨な表現が少年の生い立ちと幼さを現している。十三、四歳と言う所だろうか?これほどの怪我を見ても動じる様子が無い。……見慣れているのだ。
その後、私の顔を見た少年は、そのまま私の顔を凝視して固まった。
何か変だろうか?少し戸惑っていると、ローが少年の頭をこづいた。
「女の顔をジロジロ見るな。この姉さんは、例のバジルの想い人だ」
少年ははっとして再び私を見る。この少年もバジルの事情を知っているらしい。
「だからジロジロ見るな」
ローの言葉に少年はしぶしぶ視線を外すものの、まだちらちら私を見ている。
「戦士見習いのライトだ。俺とバジルとこいつで、流れの傭兵をやっている」
「クレアです」
私が挨拶をすると、ライトは黙ったままぺこりと頭を下げた。
「ライト、医者に怪我人が居るって伝えろ」
ローが言うと同時に、ライトは駐屯地に飛んでいった。ローはその後、私の方を向いて少し声を落として言った。
「クレア……って呼ぶけどいいな?俺の事も敬称無しで、ローで構わないから」
早口の口調から何か急な事情があると察し、私が黙って頷くと、ローは続けた。
「騎士の駐屯地には女が居ない。取り調べと称して俺達から引き離し、あんたに良からぬ事を考えそうなヤツが何人か居る。だから肩書きが無いと困る。……あんた今は何をしているんだ?奴隷って事だと厄介になってくるんだが」
「大丈夫。吟遊詩人だから」
反射的にそう答えると、ローが目を丸くする。
「……楽器が無いな」
思わず自分の体を見回す。二度とキャラバンに戻らないつもりなのに、リュートを置いてきてしまっていたのだ。それ程慌てて出てきた事に、今更ながら気付いて愕然とした。
言葉も出ない私を見て、ローはふむ、と考えた後、言った。
「じゃあ、魔獣に襲われて楽器を落とした事にしちまえ。命からがら逃げたものの、楽器が無いのに気付いて、戻ってきて俺達に出会った。いいな?これで行こう」
自分の発案に満足したローは、うんうんと頷いている。
「俺達の仕事も終わった。ここに居るのもバジルが動ける様になるまでだ。バジルが動かせるようになったら、あんたも一緒にここを出る。それまでの辛抱だから、騎士達に近づかない様に。いいな?絶対だぞ」
気迫に押されて頷く。どうもローと話していると、主導権を握られてしまう。
私の事情を聞かれないのはありがたいし好都合ではあったけれど……ローの事が今一、分からない。悪人とは思えないが、何か引っかかるものがある。
しかし、それ以上に大きな問題が目の前に横たわっている。バジルの事だ。どうやって詫びれば良いのだろう。私が同じ立場なら、許せない。片目を失い、彼は傭兵を続けられるのだろうか?村にあの姿で戻ったら、皆悲しむだろう。
ローの後ろを重い足取りで進む内、駐屯地へと到着した。
駐屯地でローの言うとおりに私は証言し、その後ローが報告を終えた時には、傭兵達と同じ場所に寝泊まりする事が決められていた。
そして、ローの予測していた事態は案外早く起こった。
バジルの様子を見に医療テントへ歩いていたら、いきなり尋問をするから来いと言われ、一つのテントに連れて行かれた。
検査をするから裸になれと言われ、ローの心配を理解した。
騎士とは名ばかり、チンピラと大差の無い品性の者がこの駐屯地には居るのだ。
あしらう方法を間違えるとロー達に迷惑がかかるので、少し考えてから大声で『騎士の道に生きる』を歌ってみた。
これは、非常に有名な吟遊詩人の歌で、騎士として使命を全うする為に十の試練に立ち向かい、最後の試練で倒れた男の話を歌にしたものである。
まだ悲鳴でもあげられたほうがマシだったと言う顔をしているチンピラ騎士達を尻目に、 テントの周囲に集まって来た他の騎士達に手を振り、私は拍手に送られて去った。多分、これで安易に手を出す者は居なくなる筈だ。
魔獣絡みの事後処理を手伝っていたローが真夜中過ぎに帰ってきて、その話題を切り出した。
「本当に吟遊詩人だったんだな」
ローが感心した様に言う。
「信じてなかったのね」
「楽器を持ってなかったからな。普通、吟遊詩人は命を落としても楽器は落とさないって言うし」
「慌てていて忘れてきてしまったの……取りに戻れない所にね」
「元々いた場所?」
「吟遊詩人の師匠が世話になっているキャラバン。……バジルの村を出てからずっと世話になっていたけど、ちょっとごたごたがあって、身一つで出てきたの」
「キャラバンって、もしかして星空の方か?」
「そう。汚い仕事もするから嫌う人も居るけど、みんな良い人だった。……心配だけど、何処に居るか分からない。楽器よりも、師匠やキャラバンがどうなったかが知りたい」
私がそう言うと、ローは腕を組んで少し考えてから言った。
「そう言えば、魔獣を狩れと騎士団に頼んできたのはこの近くに領地を持っているデリス男爵だ。俺達は男爵の所でしばらく働いていたんだが……あの男爵は、聖獣や魔獣の研究家で、星空のキャラバンを支援して、その見返りに聖獣や魔獣にまつわる物品を集めている。まるで子供の様な男なのだが、研究には定評があって、騎士団も密輸を黙認している状態だ」
「……多分、その男爵絡みだと思う。ごたごたは」
「そうか。なら大丈夫だ。あの男爵は便利な道具は手放さない。星空のキャラバン程密輸に便利な者達は居ない。聖獣や魔獣絡みの品を騎士団に任せると、キャラバンを支援するよりも莫大な金を持って行かれるからな。正規に研究材料を入手する気は無い筈だ。きっと丸く収まっているだろうよ」
ローに、密輸していた物の話をすると、多分男爵の依頼で間違い無いだろうと言う話になった。更に、ローから男爵の性格を聞いて事情を推察してみると、事の全貌が明らかになった。
キャラバンが密輸する様に命じられたユニコーンの角は、デリス男爵の研究材料だった。それが無くなり、機嫌を損ねた男爵は、代わりの研究材料をもってこい……つまり魔獣を殺して遺体を持って来いと命令したのだ。
死んでこいとヴェルン達に言ったのでは無く、待っていた研究材料が来なくてかんしゃくを起こしたのだ。狩って来なければ騎士団に連絡するなんて嘘だったのだ。
しかし、ヴェルンにはそんな事は分からない。皆の為にも死んだ娘の為にも魔獣を狩らねば……と、思い詰めてしまったのだ。
結局騎士団が魔獣を狩った事で密輸した以上の研究材料が手に入り、彼は機嫌を直している可能性が高い。
ヴェルン達の失態はすっかり忘れ去られ、今頃新しい研究材料に夢中になっているだろう。
ローに推察を語ると、それで大筋は間違いないだろうとの答えが返ってきた。
「どうだ?安心したか?」
「ええ。ありがとう……あなたのおかげで気分が少し軽くなったわ」
「少しか」
がっかりした様にローが言う。
「俺としては、かなり、を期待していたんだがなぁ」
私は視線を落とす。
医療テントから連れてきたバジルがここに居る。
医者から処置は終わっていると聞かされたので、ここに連れてきてもらったのだ。……面倒を見ると申し出て。
顔半分、包帯で覆ったままの痛々しい姿のままずっと眠っている。
ライトがその横で、猫の様に丸くなって眠っている。ライトもずっとバジルの側を離れない。
「気持ちは分からなくも無いが、葬式に出ている様な顔するなよ。こいつは生きてる。俺はあんたにそんな顔をさせたくてバジルの話をした訳じゃない」
「元々、そんなに笑う方じゃないから」
ローが私の心配をする事は無いのだ。そもそも会ってから長い訳じゃない。会話も途切れたので、思いに沈んでいると、
「……俺には、一人だけ愛している女が居る。妻だ」
唐突にローがそう切り出した。
「お前よりも少し白っぽい銀髪で、傭兵をしている。名前はフレイ。プラチナのフレイと言えば分かるか?」
反応してはいけないのに、思わずローの方を見てしまった。
「……やっぱり、あんたはバジルのクレアであると同時に、フレイの妹のシルバークレアだったか」
一瞬、体がローに向かって動きそうになったが、押しとどめると力を抜いた。
フレイ姉様が、私の事をローに話して聞かせた。……つまりフレイ姉様が信頼した男なのだ。だったら殺す必要など、無い。
それにローは妻だと言った。ここまで話して聞かせている以上、形だけの夫婦と言う訳でも無さそうだ。フレイ姉様にとって大事な人なら殺す訳にはいかない。
ローはその様子を見てから微笑した。
「フレイの言う通りだな。自分が事情を話したと言えば、クレアは信じると言っていた。アミイの方はそうはいかないと言っていたが」
アミイ姉様の事まで知っている。間違いない。この男はワルキューレであった私達の事を知っている。
魔獣の事にも一度も触れてこない理由が分かった。私が倒した事を最初から分かっていて隠蔽してくれていたのだ。
「あなた、天使なの?それとも悪魔?それで、フレイ姉様は?」
「待て、順番に話す。俺はただの人間だ。……フレイを人間にしたから、ただのって訳じゃないかも知れないが」
「フレイ姉様が、人間に?」
「まぁ、これは偶然の産物ってやつで、そうなっていると気付くのに数ヶ月かかった。フレイも驚いていたよ」
一体何が起こったと言うのだろう?
ローは続けた。
「フレイと話して出した見解だが……ワルキューレは個体として不安定だ。能力は生気に比例して伸びていく、限界を知らずに。逆に、生気がなくなると能力を落として体を維持する。それは食い物次第で毎日姿を変えるようなものだ。良い食い物を食ったところで天使も悪魔も人間も種族は変わらない。そんな生物、何処を探しても居ない。ワルキューレだけだ」
言われてみれば確かにそうである。
「だが、ワルキューレは、ずっとその状態って訳じゃないらしい。フレイは唐突に安定して普通の生物になってしまった。つまり、何かきっかけがあれば、生気を吸い上げて命を繋ぐ状態から脱するみたいなんだ。その証拠に、フレイの能力は俺と同じ程度で安定し、生気の代わりに食い物で体を維持出来る様になった。どう見てもただの人間。どうしてそうなったのか、フレイは謎を解明しようと必死だ。あいつは俺に何かあると思っているみたいだが、確証が持てないとか言っている」
「フレイ姉様にもわからないの?」
「まあな。気付いたら、そうなっていたからなぁ」
不思議な話だ。誰にでも起こるとは考えられない。
「ちなみに、俺の奥さんになるって断念したのは、この変化……フレイが変質と呼んでいる状態が判明してからだ。ずっと抵抗があったみたいで、なかなかうんとは言ってくれなかったが、さすがに人になっちまったら諦めたらしい」
「当たり前よ。姉様は、そもそも天使だったんだから、人と結婚するなんて考えられなかったと思うわ」
「今は俺だけの天使だ」
「よく……そんな歯の浮くような言葉を言えるわね」
「フレイにも言われる。顔真っ赤で可愛いぞ」
自分の中のフレイ姉様のイメージが崩れそうだったので、聞かなかった事にする。
何はともあれ、フレイ姉様は生きていく道を見つけたのだ。もうワルキューレでは無いのだ。フレイ姉様が狙われる事は無い。それは嬉しい事だった。
「その笑顔が見たかった」
唐突にローがそう言って、初めて自分が笑った事に気付く。
「フレイがな、事あるごとに、クレアに会いたい、クレアが心配だと言っていてね。俺、ヤキモチ焼いちゃうくらいだよ。でも、奥さんに、お前のクレアは笑っていなかったなんて言いたくない」
ローの言葉に再び笑顔になった。姉様は大事にされているのだ。それが純粋に嬉しい。
そして、こんな風に笑ったのは、ワルキューレの頃から絶えて久しく、本当に笑っていなかったのだとようやく気付いた。
そこで、ローの顔が曇る。
「すぐに言わなくて済まなかったな。何故、黙っていたかと言うと……その……」
皆まで言わなくても分かる。
「いいの。分かっているから」
私は相変わらずワルキューレのままで、追っ手がかかるかも知れない身だ。
ローとしては、今のフレイ姉様に私を会わせる訳にはいかないと思って当たり前だ。
「悪いな」
首を振ったところで、小さなうめき声が聞こえた。ローも私も、一様にその方向を見る。
バジルが微かに身じろぎしていた。
「バジル!」
ローが枕元に陣取り、その隣で私も様子を見守る。
ライトがその声に反応して、がばっと起き上がる。
三人で見守る中、バジルが薄く目を開ける。天井をしばらく見た後、周囲をぐるりと見回して、かすれた声で呟く。
「ここ、どこ?」
「俺達のテントだ」
「でも、クレアが見える」
その言葉にローが失笑する。
「居るんだよ。本当に」
しばらくぼんやりと私を見ていたバジルが、大きく目を見開いて、起き上がろうとする。
「無茶するな」
ローに押し留められ、バジルは苦痛に顔を歪めながら大人しく横たわる。
「募る話はもっと体が回復してからだ。クレアは俺達と一緒に居ると言ってくれている。慌てなくていい」
バジルがじっとこちらを見ている。私はローの話を肯定すべく、ただ黙って頷いた。
「……分かった」
バジルはそれだけ言うと、再び目を閉じた。まだ疲弊しているのだ。すぐさま、規則正しい寝息が聞こえてくる。
「良かったぁ」
ライトが、心底安心した様に言う。全員の気持ちを代弁している様だった。
勢いで一緒に居る事に同意してしまった事を後悔したのは、それからしばらくしてからの事だった。
バジルは数日で熱も下がり、普通に動けるようになった。……顔の包帯は相変わらず痛々しいが。
「お前は勘が良いんだなぁ」
ローが感心した様子でバジルに言う。
「右目が無いのに、普通に歩けるし、あまり不自由そうに見えない」
確かにその通りで、バジルは右目の欠損を感じさせない動きをしていた。
「俺、元々右目はよく見えてなかったんだ。……今回も避け損ねたのは、よく見えてなかったからだよ」
その言葉の通り、剣の稽古を始めてもあまり不自由した様子が見られなかった。
隻眼でもそのまま傭兵を続けられそうな事に、私は内心ほっとしていた。
しかし、すぐに自己嫌悪に陥る。……あの姿で、村に帰って欲しくないから傭兵を続けられる事に安堵しているのだ、私は。本当は帰った方が良いに決まっている。
バジルとは距離を置いていた。
ローやライトを挟んで話す事はあっても、一対一で話す事を避けているのは私の方だった。すぐにでも詫びて彼らから距離を置かなくてはならないのに。
バジルは穏やかな表情で、気付くと私を見ている。
……村に居た頃とあまり変わっていない。エナと話している様子をただ眺めている事が多かったバジル。あまり話をした記憶が無い。
視線が合っても、逸らすのは私の方だ。あっちの視線が追ってきているのが分かって、気持ちが落ち着かなくなる。
今まで分かっていなかったが、人の視線は意識し始めると、凄く厄介だ。村に居た頃も同じ様に見られていたのだろうか?そう思うと恥ずかしくて逃げ出したくなる。
ローは、惚れられてるねぇ、と笑ったが、こちらとしては笑い事では無い。
こんな事をしている内に、駐屯地を出る日まで、まともに話も出来ず、結局四人で街道に出てきてしまった。
「クレア、これからどうするんだ?」
「……リュートを調達しないといけないから、この先の街で少し歌って、交渉してみるわ」
吟遊詩人は金を持たない。必要な物は歌で勝ち取るのだ。トーチの教えを早速実践しなくてはならない。
「俺達が金を出して買うって言うのは良くないのかな」
「これ以上、借りを作りたくないの。遠慮するわ」
ローの提案を断る。ローには本当に世話になった。これ以上はもう迷惑をかけたくなかったのだ。
「借りとか気にしなくていいのに、律儀だな」
ローが苦笑する。
ここで別れた方が良いだろうと思い、私はバジルに向き直る。
「バジル、私……」
そこでバジルが言葉を遮った。
「待って、クレア」
一体何が起こるのかと思っていると、バジルはとんでもない事を言い出した。
「ロー、ここで別れよう。俺はクレアと行く。目的はクレアを探す事だったから、一緒に行くのはここまでだ」
私が何も言えずに呆然としている目の前で、ローはあっさり頷いた。
「寂しくなる……何処かでまた出会えたらいいな」
バジルとローが握手をする。別れの挨拶だ。
「ちぇ、バジルだけ美人と旅なんて、ずるい!」
ライトがむくれる。
「そう思うなら、お前も自分の女を捜す事だな」
ローの言葉に、ライトが口をへの字にする。あんたの奥さんやクレアを見た後で、そう簡単に見つかる訳ないだろうが!と言う声が遠くに聞こえる。
……勝手に話が進められていると思うのに、割り込んで話を止める事が出来ない。言うべき言葉が見つからなかったのだ。
何故、視線に怯んで話をしておかなかったのか……私が逃げ回っている間に、バジルは決意を固めてしまっていたのだ。何年も私を捜していた。ローから聞いていたのに、その重みを理解していなかった私が愚かだった。
強い意志の前に、とっさの言い訳は通じない。それくらいは分かる。……バジルをいい加減な口実で遠ざけるのはまず無理だ。
だからと言って、ロー達と一緒に居たいとも言い出せない。ライトは子供だし、ローは強い戦士ではあるけれど、天使や悪魔に太刀打ち出来る程の強さでは無い。今回の件で万一私に追っ手がかかり、ローが殺されでもしたら、フレイ姉様は酷く悲しむだろう。
バジルときちんと向き合った上で、別れる方向へ説得するしか無い。
手を振って去っていくローとライトを見送っていると、声が上から降ってきた。
「俺達も行こう。ここからだとスライの街が近いよ」
顔を見ずに頷くと、バジルは歩き始めた。
私はその後を追いかけるしかなかった。






