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ワルキューレの行方  作者: 川崎 春
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サキュバス堕ち

 世界の中で、ほんの一部の者しか知らないと事がある。

 神とは人の姿をした巨大な世界であり、人や獣、植物と言ったものは、神の体を構成する細胞の一つ一つであると言う事実である。

 細胞は適正な数が適正に働かなければならない。異常増殖しても、逆に減っても神の体は損なわれる。

 神の細胞の一部は、多くの細胞を統率し、コントロールする力を持ち始めた。

 この特殊な細胞達は、己の住む世界の全貌を理解し、受け入れる者と拒絶する者に別れた。

 受け入れた者達は、世界の仕組みの一部として神を健全に保つ事を至福の喜びとし、神の為に全力を注いだ。

 一方で、神が永遠に自分達と対話する立場にならない事(己の細胞と話をする者は居ない)、また神を滅ぼせば己も消えて無くなる事をよしとしなかった者達は、憎しみや絶望に任せて神の体を害し苦しめる事で自分達の苦悩を伝えようと、もがいた。

 そして、これらの感情は細胞が代を重ねても受け継がれ、二つの勢力となって争い続けている。

 体を健全に保つ為に盲目的な前者の行き過ぎた行為を、結果的に後者が制限する。

 二つの勢力のバランスによって、神の体は健康に保たれる事となった。

 前者を天使、後者を悪魔と呼ぶ。他の動植物は彼らによる支配を一方的に受ける事になった。その中でも最も高等な「人」は、世界の状態を知る上でどちらの勢力も注目する存在である。

 人の数が一定以上に増えれば、天使が優勢、逆に減り続けると悪魔が優勢であるとされた。天使は人の住みよい環境を整え増やし、一方で悪魔は人同士を争わせて数を減らしたのである。

 人が増えすぎて環境が破壊されるのを悪魔が防ぎ、一方で天使によって保護された人の知恵で、大地は安定した実りを生み出していった。

 しかしバランスは、ほんのちょっとのきっかけで崩れ去る。その崩れは神の死、つまり世界の崩壊を招く。

 神が生き続ける為には、天使と悪魔は未来永劫拮抗したまま争い続けなくてはならない。しかし、時としてバランスは大きく崩れた。

 神の体は、大きくバランスを崩した場合にのみ、特異な存在を生み出し、バランスを取り戻していた。その方法とは、優勢な勢力の力を圧倒的な力でそぎ落とす事。

 世界の頂点に君臨する天使と悪魔を凌駕するこの特異な存在は、神の体で求められるだけ天使や悪魔を刈り続けた。

 世界の頂点に立つ種族を、まるで雑草でも刈るように滅したのだ。

 しかし……もしバランスが元に戻ったら、この恐るべき存在はどうなるのだろう?

 今はまだ、誰も知らない。

 私達は唐突に自覚した。自分達は神の為に集った特殊な存在、ワルキューレなのだと。

 出自は天使だったり悪魔だったり、稀に人の場合もあった。ある日同じ時に自覚し、昨日までの自分とは、がらりと変わってしまう。それがワルキューレの現れ方なのだ。

 そしてワルキューレの園と呼ばれる次元の狭間を拠点に、天使と悪魔の争いに介入するのだ。神が望む限り。

 数千年に一度、現れるか否かと言われるワルキューレ。その数は九人に定められていると言う。しかし、私達の代は何故か八人しか集まらなかった。これは異常な事なのだが、それでどうなるのか私達には知る由も無かった。

 探して連れて来ようにも、居場所が皆目解らない。天界も魔界も地上世界も広い。私達には砂浜でたった一つの砂粒を探す様な作業をしている暇は無かった。神に与えられた使命があったからだ。神が許すまで、天使や悪魔を狩るという使命が。

 結局、九人目は現れなかった。……使命の終わるときまで。

 私達は自分達をごく自然に姉妹だと考え、年下の者は年長者を「姉様」と呼んだ。

 私は最年少で、全員が姉だった。集った際には年端も行かぬ十二歳の子供だった。自分が長女で姉の欲しかった私はただ素直にうれしく、姉様達も可愛がってくれた。

 人の出自である私は、使命に突き動かされ、別れも言わずに飛び出した家が恋しかったから、姉様達の優しさが本当にありがたかった。優しい姉様達の存在に救われて、家族を思い出す事は減っていった。

 更に、戦場で姉様達と戦う際の連帯感と使命感は、陶酔に近い感覚を私に与えた。

 神が望む殺戮。正義の名の下に敵を倒す都度、気分は高揚し、人であった頃の生活や道徳観念は更に遠くへと押しやられていった。

 私は殺戮に酔いしれた。選ばれた自分を誇りに思い、姉様達と戦える幸福に感謝した。

 しかし、その陶酔を感じ続ける内に、ふと心に満たされない気持ちが生まれた。それは年を重ね、大人に近づく事で生まれた精神の隙間に入り込み、恐ろしい疑問をささやき始めた。

 そう、神の望む殺戮は永遠では無い。神が望まなくなった時、殺戮しか出来ない私はどうなってしまうのかと。

 それを考え初めて以来、忘れていた人としての暮らしを度々思い出し、滅した相手にも痛みや恐怖を感じる感覚があった筈だと思い至るようになった。

 人間としての道徳観念を思い出した所で、殺戮は関係なく続く。だからそれは心の奥へと閉じ込めた。

 しかし終わりは必ずやって来る。その事実を姉様達はどう思っているのだろう?

 それだけは、どうしても自分の内に秘めておく事は出来なかった。

 疑問をぶつけると、悪魔が出自だったニバス姉様は、今ある殺戮の快楽に酔いしれていられれば、先がどうなろうと知った事では無いと答えた。

 天使が出自のミレナ姉様は、神が不要だと言う時は死ぬ時なのだから、終わりの先など無いのだと言った。

 他の姉様達も皆似たような答えをした。神が望まなくなったら自分達は終わりなのだと。

 しかし、そうでは無いと答えてくれた姉様が、二人だけ居た。

 一番年長のフレイ姉様とその次に年長であるアミイ姉様だ。

「ワルキューレの行く末にはサキュバス墜ちが待っている。行く末を知るべく過去の文献を調べていた頃、お前は幼かったから教えなかったのだが……そろそろ教えて良い時期だろう」

 最も美しいワルキューレだと言われているのに、いつも男言葉で勇ましく話すフレイ姉様がそう言った。

「サキュバス墜ちって何ですか?」

 アミイ姉様が穏やかな笑顔でその問いに答えてくれた。

「私達は殺す事で、相手の生気を食らっているのよ。ワルキューレの感じる陶酔感は、生気を浴びて起こっているの。私達に殺戮をやらせる為のからくりなのよ」

 何でもない茶飲み話の様な口調で、アミイ姉様は恐ろしい事実を語り続けた。

「だからワルキューレは、生気なしに生きていく事が不可能な生き物。……口から食事をとってもそれは生気を失った死体を食べているに過ぎず、他の生きている物から生気を得られなければ餓死するの」

 頭を何かで殴られた様な気がした。

「神の御使いとして生気を得ている間はワルキューレで居られるけれど、それが終わると名前を変えるの、サキュバスに。それをサキュバス墜ちって言うの。戦場程の生気を得られないから、その空腹感から気が狂って、見境無く生き物を襲う様になるかも知れないの。……この事は、天使も悪魔も知っているから、戦争が終わってワルキューレが見つかったら、どっちも協力しあって狩る事になっているそうよ」

 伝聞調なのは、前のワルキューレが出現したときに姉様が生まれていなかった為だろう。文献だけを頼りにしている情報だと言う事だ。

 姉様達は確か、三百歳を越えている。人にとっては長い時間だが、姉様達が生まれた時には既に悪魔側に天秤が傾く兆候があり、ワルキューレの降臨が近いとされていたそうだ。

「天使と悪魔を返り討ちにすれば、生気を得られるんじゃないですか?」

 フレイ姉様が頭を左右に振ってから言った。

「天界や魔界へは入れない。聖戦が終わればそうなるのは必定。お前にも本能的に分かるだろう」

 一つ頷く。そう、おぼろげにしか感じないが、聖戦が終わればこのワルキューレの園と天界、魔界へと自在に移動できる次元回廊は閉じられる。

 天界や魔界に渡るには、一旦地上世界に下りなくてはならない。天界も魔界も地上世界から来る敵に備えて結界を張っている。

 方法はあるだろうが、すぐに居場所が判ってしまう。……行けないに等しい。他の姉様達の絶望がどれだけ深いかようやく理解できた気がした。

 故郷に戻れば、殺されるか、更なる同胞殺しの日々しか無いのだ。

「我々は地上に逃れるしか無くなる。……生気を浴びるほど得られる天界や魔界の戦場とは訳が違う。空腹で能力が落ちている時に襲われれば、どうなるか、わからん。地上に配備されている力弱い天使や悪魔など敵では無いが……上位の天使や悪魔に追われれば、今までの行いを考えても、惨い死に様が待っていると言わざるを得ない」

 姉様達の絶望の意味を理解して、私ももう死ぬしかないと少し考えた。

 しかし、ふと思ったのだ。

「生きていける程度に……植物などから生気を得て静かに暮らすと言う事は、出来ないものでしょうか?空腹が狂う原因なら空腹にならなければ良いのでしょ?地上でそういう生き方はできないでしょうか」

 人に紛れて静かに生きていくだけなら、狂ったりせずに出来るかも知れない。いや、そうしたい。まだ、死にたくない。

 天使出身のフレイ姉様は豪快に笑った。

「やり方には同意しかねるが、諦めずに生き延びたいと言う意志には賛成する」

 悪魔出身のアミイ姉様も頷いた。

「私もね、神の役に立ったのだからのんびりと隠居暮らしするくらい、許されると思うの。私達、自分の意志でワルキューレになった訳では無いのだもの。別に戦えなくていいのよ。狂わなきゃ。だから、フレイ姉様とも相談していたのよ。あなたも加わる?」

 何度も頷くと、二人は笑んで私の頭をなで、肩を抱いてくれた。

 そもそも生まれ付いて高い能力を持つ二人は、地上を知らない。物心ついたときには高い位を与えられていたのだそうだ。そういう天使や悪魔は地上には関わらず、もっぱら互いの世界の戦争に従事する。

 そんな訳で、天界と魔界しか知らない二人にとって、私の地上での知識はかなり重要だったそうだ。私は答えられる限り、地上の人間の様子を話して聞かせた。

 結局、私、フレイ姉様、そしてアミイ姉様だけが、終わりの先を考えていた。他の姉様達は、私達の話をはぐらかし、まともに考えようとはしてくれなかった。

 そして、終わりの日がやってきた。

 神の意志に反し、増えすぎた悪魔達がワルキューレに屈して撤退し、天使達の領土、天界が本来の境界線を取り戻したのだ。

 それと同時に、私達全員の脳裏に、鐘の鳴る様な音が鳴り響き、誰かが言葉にするまでもなく、終わりを悟った。

 ああ、終わりがやってきた。ただそう思い、大きく息を吐いた。

 全ての人にとって希望の始まりとなる日が、私達にとっては終わりの日だったのだ。

 人々は悪魔の駆使する魔獣に襲われる恐怖から解放された。荒れた大地は、人と天使が豊饒の地へと変えていくだろう。

 私は十八歳になっていた。サキュバス墜ちの事実を知ったのが十六の時。以後二年は、この時の事ばかり考えて戦っていた気がする。

 殺戮の与える陶酔の中身を知ってみれば、それはただ単におぞましい事にしか思えず、さりとて、殺戮の手を止める事も出来ず……そして、現実にその日がやってきてみると、唯一頼りにしていた、神の使命を果たしたと言う達成感も無かった。

 せめて神が一言でも良いから、よくやったと言ってくれれば、私は他の姉様達の様に自害出来ていたかも知れない。

 ただただ虚しいばかりだった。意味のある事だった、世界を救ったのだと考えてみても、現実味を帯びては来なかった。

 フレイ姉様は、ワルキューレの園で皆の前に立つとこう言って旅立った。

「私は地上で傭兵として生き、生気はそこで勝ち取る。そうやって己の終わりが来るのを待つ事にする。……自害は性に合わぬ。見苦しいが、もがく事にする。ではな」

「私も失礼するわ。大人しく善行でも積んでいれば、天使に殺されるって事は無いと思うのよね。私はシスターになるわ。病気や怪我で助かりそうも無い人から生気をもらい、痛みや苦しみから解放するの。じゃあね」

 アミイ姉様はそう言うと鎧をその場に脱ぎ捨て、更に着衣も捨てて出て行ってしまった。……皆、唖然として見送った。

 その後姉様達は、別れの挨拶も無いまま、一人、また一人と静かに姿を消していった。

 別れを言えば、私は間違いなく引き留める。気持ちの決まっている姉様達を引き留めてしまう。それは互いにとって辛い事だ。皆それを知っていたから、私に気付かれないようにそっと消えていったのだ。姉様達の最後の優しさだったのだと思う。

 そして、私は一人残された。

 死にたくないのに、何処に行けば良いのか、何をすれば良いのか、決められなかったのだ。

 解らないまま、ワルキューレの園で日々を過ごしていた。

 やがて、酷い空腹を感じた。そして、ここで食事をした事が無かった事に初めて思い至った。……神のカラクリなのかも知れない。疑問が生じて戦いを止めてしまわない様にする為の。そうでなければ、こんな初歩的な事にすら気づかないなんてあり得ない。

 体が重くなり、顔にも少しやつれが見え始めた。

 死がじわじわと忍び寄ってくる。何とかしなくてはならなかった。

 そこで、庭にある低木に歩み寄ってそっと抱きしめた。……木がみるみると枯れていく。そして、少し体が温かくなった。

 ワルキューレの園は、後の時代に現れたワルキューレ達も集う大切な神の庭。ここの物をみだりに荒らし続ける事は出来ない。

 私はここを離れなくてはならない事をようやく受け入れ、旅立った。

 ワルキューレとして六年の間暮らしたこの場所には戻れない。人だった頃の家にも戻れない。本当に居場所が無くなってしまった事に気持ちが押しつぶされそうだった。

 それでも、私は旅立たなくてはならなかった。

 私は、多分二度と開けられないであろう次元回廊の白い扉を開き、中へと飛び込んだ。もう、地上にしか繋がっていないそれは、地上のどこに降り立つのか分からなかった。

 ただ本能的に分かっていたのは、姉様達と同じ場所には決して降りないであろうという事だけだった。


 降り立ったのは、緑の濃い森の中だった。生気が満ちていた。小雨に濡れる瑞々しい葉の生い茂る森の小さな空き地。

 ここなら少しだけもらっても構わない筈。身近にあった太い木の幹に抱きつき目を閉じる。

 喉の渇きが少し潤う。私の何倍も生きてきた穏やかな生き物は死の抱擁を大人しく受け入れ、瑞々しい葉は一斉に茶色く変色して足下に落ちた。露わになった小鳥の巣は砂の様に砕けて落ちた。

 自分のやってしまった事に目を見張る。

 フレイ姉様は天使の出で、反対こそしなかったものの私のやり方に批判的だった。

 天使も悪魔も、植物の意志を感能力で感じ取れる。姉様にとって私のやり方は、無抵抗な者を蹂躙している様にしか見えないのだと言っていた。

 一方的な搾取。しかしそれは人間にとっては当たり前の事。人は植物を育てては刈り取って食物にしている。確かに罪悪感はあったが、悲鳴をあげて逃げまどう者から生気を吸い上げるよりも何倍も私にとっては気が楽だ。と、思っていたのだが……良くないという気持ちがじわじわと湧き上がる。

 別の意味でアミイ姉様は私のやり方は良くないと言った。

 この方法は私の移動した足跡を残してしまう。ワルキューレ時代に狩られた仲間の恨みを晴らそうと言う天使や悪魔は数え切れない。そんな者達に捕捉してくれと言わんばかりの方法だと。確かにそうだった。

 瑞々しい森で一本だけ枯れた木。不自然極まりない。繰り返せば、人ですら怪しむだろう。

 私達は戦の間、兜に付いた面で顔を覆い隠している。各自を判別する為に見えるとすれば身長、体型、髪の色だけ。

 髪の色から、ワルキューレに通り名が付けられるのはその為だ。

 顔を知られていないのは逃げるのに有利だ。しかし、不自然な枯れ木と言う足跡を残せば、顔を知られるのも時間の問題になってくる。

 この方法はその場しのぎにしかならない。私がワルキューレの園を出られなかった最大の理由はここにあった。姉様達と違う、別の手を思いつかなかったのだ。

 姉様達の方法を真似る事は出来ない。それは姉様達との話し合いの末に出した結論だった。

 似た方法をとれば、足が付く。

 人には解らないだろう。しかし、天使や悪魔の視野や洞察力は、人の遙か上を行く。

 強い女傭兵と、人の最期を看取り続ける慈悲深いシスターに共通点を見いだす者は少ない筈だ。しかし、そんな存在が複数居るとなれば、何かを感じ取られる可能性があった。互いを危険な目に遭わせる事だけは避けなくてはならない。

 私は第三の方法を見つけなくてはならなかった。果たして見つけられるのだろうか?いや、見つけなくては。空腹は続いていたけれど、私は歩き始めた。

 サキュバス墜ちして初めて解った。ワルキューレとは、正真正銘の化け物だったのだ。天使も悪魔もおびえた表情で私達を見ていた。数千年の時を生きる彼らすら震撼させる程の力を持つ為には、それだけの代償を要求されていたのだ。

 天使も悪魔も数え切れない程殺した。恨みを買うのは当たり前だった。生き長らえたいと思うのは、浅ましく恥ずかしい事だと思えた。

 しかし、そう言う風にしたのは神だ。アミイ姉様の言うとおり、私が望んだ訳では無い。

 普通に十八歳になっていたら、今頃は代々受け継いできた家の歌を全て覚えて、秋祭りでは一番の歌い手になっていたかも知れない。そうなっていれば求婚者も現れ、結婚して子の一人も居たかも知れない。

 不毛だと解っていても、そんな考えばかり浮かんでくる。

 黙々と歩き続ける内に、木々の数が減り、森が途切れた。

 その先は緩やかに下ってすり鉢状の盆地へと続いていた。盆地には、五十軒程度の家が寄り添う様に建っていた。小さな集落らしい。

 懐かしい感覚と不安が心をよぎった。

 あの中にとけ込むだけの知識は持っている。しかし、この乾きと空腹を理由に彼らの生気を吸い上げてしまわない様にせねばならない。果たして出来るのか……。

 集落を見下ろしたまま考えていると、悲鳴が聞こえた。若い女の悲鳴だった。

「いや、誰か助けて!」

「こんな場所に誰が居るって言うんだよ?わめきたければ、わめけよ」

 下世話な男の声が聞こえる。

「私は、ただ村の外が見たいと言っただけです」

「連れて行ってやるから、俺の女になれって言ってるんだよ」

 展開としては非常に分かり易い。私の育った村でもこういう事はあった。

 若い垢抜けた行商人が、商隊に混ざってやって来て、村娘と仲良くなる。

 村娘は世間知らずだから、行商人にそそのかされ、村から出て街に住む自分や、行商人と夫婦になって世界を巡る自分を夢想する。

 しかし、行商人達は命がけで街道を巡っているから、村に着いた開放感から女の温もりを求めているだけなのだ。玩ばれて、それで終わり。

 行商人に騙されて娘が孕まされたり、自殺をしたりしても、村人は同情こそすれ、行商人を責めない。遠方の物品の方が大事だからだ。商隊が村に立ち寄らなくなれば、村は外界との縁を持てなくなってしまう。

 だから行商人に娘を近づけないと言うのが、どの村でも鉄則だ。……それでも、娘達が勝手に近づいて行ってしまうのだから、こういう事は絶えない。

 足音が大きくなってくる。この場を離れた方が良いのは解っていたのだが、娘を放っておく事も出来なかった。

 娘が必死で走ってきて、私に気付き、安堵した様な表情になった。

「助けて!」

 転がるように走ってきた娘は、同じくらいの年齢だった。赤毛で、そばかすの散った頬を真っ赤にして私に抱きついた。

 一瞬ぎょっとする。瑞々しい娘の生きている感覚に一瞬心が浮き立ち、それらを己に取り込みたいと思った。その感覚と思考に戦慄を覚える。顔から血の気が引いていく。

 程なくして男が現れた。その数は三人。

 高そうな上張りを着ているのは商隊の主の息子で、残りの二人はその腰巾着と言う所だろうか。

 男共は、私を見るなり目を丸くして、それから下卑た笑みを浮かべた。

「すげぇ、べっぴんが居るぜ」

「村にこんな娘居なかったぜ」

「隠していたんだろう?」

 私は娘を背にかくまったまま、じわりじわりと集落の方へと退いた。

 男共から目を離さずに、娘に声をかける。

「走って」

「え……?」

「村に走って」

「え?でも……」

「いいから!」

 娘の走り出す音と気配で、一瞬男共の注意が私から逸れる。

 その隙に、私は男共に近づいて足払いをし、再び元の立ち位置に戻った。

 人の目には私の移動も足払いも見えなかった筈である。生気を得られず弱っているとは言え、超人は超人。地上しか知らない生物とその外を知る生物との間には、それ程の差があるのだ。

 呆然として座り込んでいる彼らを残し、私も普通の女の走る速さを心がけ、集落へと逃れた。……前の娘の速さを見習って。

 あの場面で咄嗟に考え得る、これが最良の方法だった。

 村にたどり着くと、私は娘の家に招き入れられた。どうやら娘が状況を説明したらしい。

 開口一番、どうか今は休ませてもらえまいかと頼み込んだ。あそこに何故居たのか、うまく説明出来ない以上、時間を稼がなくてはならない。

 人の良さそうな娘の両親は何も訊かず、私を毛布にくるみ、青い顔をした娘と共に寝室に押し込んでくれた。

 部屋で大きく息を吐くと、娘のすすり泣きが聞こえてきた。

 娘は震えて泣いていた。恐ろしかったのだろう。きっと己の愚かさも呪いながら泣いている。哀れだった。

 声をかけて慰めるのは簡単だが、そうする事で何故あそこに居たのか聞かれては困る。

 泣いているとき、十二歳までの自分はどうやって慰められていただろう?抱きしめられたり、優しく頭をなでられたり、子守歌を歌ってもらったり……。

 娘の泣き声は、しばらく経っても治まらない。

 逡巡した後、私は意を決し、ささやくように歌を口ずさんだ。

 ワルキューレになった当初、家が恋しくなると歌っていた歌だ。祖母が教えてくれた歌の中でも、最も好きな子守歌。姉様達も私がこれを歌うと、気持ちが落ち着くと言ってくれた。歌う回数は年々減って、ここ数年歌っていなかったが……忘れてはいないらしく、歌は口から当たり前の様に流れ出た。

 私は子守歌を歌い続けた。娘のすすり泣きが、寝息に変わるまで。


 翌朝、家族は皆私を昔なじみの様に迎えてくれた。

 娘の父親が笑顔で言った。

「久々に聞いたよ。フォロの系譜は途絶えたと思っていた」

 フォロ。私の姓だ。何故それを知っているのだろう。

「一昨年死んだ、レダ婆さんが最後の一人だったのだが……昨日あんたが歌っていた子守歌はフォロの口伝だ。あんたは、遠縁かね?」

「解りません。ただ、この歌は父方の祖母から習いました」

 父には三人も兄が居て、皆フォロを名乗っていた。到底途絶える様には思えなかったが……これはどういう事なのだろう?

 歌は収穫祭で各系譜に別れて歌う為に幼い内から習うものだった。

「どっかに生き残りが居たんだねぇ。ここは隠れ里だから、来るのは大変だっただろう?家族はどうしたんだい?」

 私はただ口をつぐんだ。娘の母親はそれで納得したらしく、私に同情の視線を向けた。

「大丈夫、ヴィガは仲間を見捨てない。あんたは今日から俺達の家族だ」

 娘の兄と思われる青年が、私にそう言って笑った。

「お兄ちゃん、こういう時だけ格好付けないで。下心丸見えよ」

 目が少し腫れているが、元気を取り戻したらしい娘が笑顔で私を見た。

「昨日は、助けてくれてありがとう。それに子守歌まで……私はエナ。エナ・ヴィガ。あなたは?」

 皆が私に注目している。名前は……偽名で無くても良いだろう。私は素直に答えた。

「私は、クレア。……クレア・フォロ」

 私はフォロの生き残りとして勝手に噂が広まり、丸く事は収まってしまった。

 そして、行商人達は何事も無かったかの様に去っていった。

 どうやら、出発が迫ってきた為、あの男共はエナを口説き落とすのを諦めて強引な方法に出たらしい。今頃、男共はエナの事も私の事も忘れ、次の街か村に思いを馳せている筈だ。

 エナはすっかり元気になって、色々と村の事を教えてくれた。

 以前、村のあった場所に魔獣(悪魔の使役する獣)が出て、村人の一部が難を逃れ、ここに新たに居を構えたと言うのだ。

 どうも様子がおかしい。ここは確かに私に縁のある村ではあるらしいが、全く状況が飲み込めない。どうやら三十年前の話らしい。

「村のあった場所は、未だに草一本生えない荒れ地のままなんだよ。早く戻りたいね」

「何で戻りたいの?ここじゃダメなの?」

「あの辺りの土地は、街道がすぐ近くにあるし、元々はとても豊かだったそうよ。ここは、戦は避けられるけれど、土地が小さくて痩せているし、人があまり来ないもの。私達、数が減ってしまって困っているの。あそこに戻って村を再興すれば、別の場所に逃れた人達とも合流できるし、新しく村に移ってくれる人も居ると思うのよ」

 エナの話を聞きつつ、私は自分の思いに沈んでいった。

 村の事は覚えている。小麦の海、商隊の馬車、踊る村人、歌う両親。あの場所が無くなってしまった。それも三十年前?そんな事はあり得ない。何故こんな事に……。

 ふと恐ろしい事実に気付く。ワルキューレになってから全く意識していなかったある事実に。

「クレア?」

「ごめんなさい。少し、一人になりたいの」

「私、うるさかった?」

「ちがうの。ちょっと忘れていた事を思い出してしまって……」

「解ったわ。じゃあ、私は行くね。夕飯で会いましょう」

 エナは気を悪くした様子も無くあっさりと去っていった。

 私がここまで来る以前の事を誰もが触れてはならないと思っている様子だった。

 女が一人で旅など普通ではあり得ない。荷物も持たず、服も染色が施されず簡素だったので……簡素なのも、染色が無いのも、鎧の下に着る服であると言うのが理由なのだが……奴隷で逃げてきたのでは無いかと言う推測がされているらしい。

 好都合なので、誤解は解いていない。

 私は一人になると、初めて村を見たあの森との境目まで歩いてきていた。人の居ない場所の方が落ち着く為、考え事をするときにはここによくやってきた。

 全てがうまく行き、成り行きに流されて良さそうな状況はできあがってきていた。

 しかし、二つの問題が解決されていなかった。

 一つは、この不可解な状況の事である。時間にズレのある可能性を考えなくてはならない。

 ワルキューレは、天使や悪魔と同じ感覚を共有している。彼らは何千年と言う時を生きる。人とは時間の尺度が違うのだ。

 私は感覚で六年を生きたと解釈してきたが、ワルキューレとしての六年が人としての六年と同じとは限らない。もし、ワルキューレの六年が実際にはそうで無かったと考えれば、現状の説明は付く。間違いなくそうなのだろう。

 時間の流れ方がサキュバス墜ちした今も、同様に続いているのだとすれば、同じ場所に長居する事は出来なくなってくる。何時までも年を取らない事になるから。

 そしてもう一つ。生気を帯びた人の側で生気を吸い上げずに我慢し続ける事のできる限界はどのくらいなのかと言う事だ。

 この村に来て一週間になるが、今のところ耐えている。木を枯らす事も無く、耐えられている。

 しかし、いつかこの我慢も出来なくなる。確実にそれは近づいてきている。

 理性の糸が切れて、無差別に人を襲う様な事があってはならない。……無いとは言い切れない。

 どのくらい時間的なずれがあるのか知れれば、予測も出来るのだが、それが全く解らない。こんな事になるなら、フレイ姉様やアミイ姉様にちゃんと聞いておけば良かった。

 あの二人は私を心配し、色々助言をくれたが、この事に関しては何も言っていなかった。

 今頃姉様達もそれに気づいて考えている筈だ。あの二人なら、どうとでも出来る気がするが、私は……。

 やはりこの村を出る為の算段は、時間を切って決めなくてはならない。

 一ヶ月。

 頭に真っ先に浮かんだ時間を目標に定める事にした。

 私は大きく深呼吸をした後、ゆっくりとエナの家へと歩み始めた。


 数週間、旅に出る為の情報を集めている内に、歌声が朝から夜遅くまで、方々から聞こえる様になった。……秋祭りが近いのだ。

 収穫に感謝して、口伝の歌を歌う。この際に村の娘達は男達を、男達は娘達を歌声で誘って求婚する。歌が家族を造る。それが村の習わしだった。

 居場所を移しても、村の伝統はしっかりと守られているらしい。

 エナはもてる。村に若い娘が少ないと言う理由だけではなく、彼女には人を和ませる所があるのだ。しかし、彼女は男達の誘いを断り続けていたそうだ。

 どうやら、彼女には年下の幼なじみが居て、その少年が本命らしい。この間の行商人騒ぎで、自分でも気付いていなかった気持ちに気付いたと言っていた。

 明るくそう話すエナを見て、助けて良かったと思った。

「兄さんはあなたに誘いをかけるつもりよ?」

 一体どうするの?エナの目がそう言っている。

 一瞬、思考が止まった。そんな事は予想もしていなかったのだ。

 ……そのときには、もう自分はここには居ないと言えなかったので黙っていると、エナは兄の良さを蕩々と語った。

 村で一番背が高いのだ、力仕事もきっちり出来るのにほっそりしていて優雅だとか、今まで村の娘達の誘いに一度も応えた事が無いのだとか。

「クレア、綺麗だもの。兄さんが独身主義を捨てるのも解るわ」

「……綺麗?」

 考えられない発言だった。

 姉様達は輝くように美しかった。特にフレイ姉様の美しさは、気品と自信に満ちあふれていた。顔が見えなくても立ち振る舞いから「プラチナ」と呼ばれ畏怖の対象とされていた。

 同じ色の髪をしているのに、私には「シルバー」の通り名が付けられていた。

 悪魔達の声が思い出される。

 “シルバーの方だ。何とかなるかも知れないぞ”

 “シルバーだ。逃げずに戦え”

 弱くて小さなシルバー。ワルキューレで最弱のシルバー。ワルキューレで弱いと言う事は醜いに等しい。私は自分を醜いのだとずっと思っていた。

「どうかした?」

「……何でもない。それよりも、言い辛いんだけど、私は歌わないわ。裏方を手伝わせてもらうの」

 エナが悲鳴の様な声をあげる。

「ダメよ。皆、フォロの歌を楽しみにしているのに」

「フォロは私一人よ?他の歌にかき消されてしまうわ」

「あ……」

 エナは思わず言葉を失う。

 歌は同じ口伝を伝えられた者が集まって歌う歌合戦の様になっている。

 伴奏は同じでも歌詞や旋律が違うものを各口伝で覚える。要は一つの曲で主旋律の奪い合いをするのだ。

「エナのお父さんには、実はもう話してある。村長にも話は行っていると思う」

 エナの父親は残念そうにしていたが、あっさりと了承してくれた。

 今思えば、私の様子からエナの兄、バジルの好意に応える気がない事を察知していたのだろう。

「なぁんだ、そうだったんだ。つまんないの」

 エナはぷぅっと頬をふくらませた。

「あなたの取り合いを見物して、後でからかおうと思っていたのに」

「趣味が悪いわ」

「あなたみたいな素敵な女の子、初めて見たのよ?男達だってそうよ。反応を見たいと思うのは当然じゃない」

 好奇心を隠そうともしない素直さ。それは幸せに育った証だろう。私には、酷くまぶしい。

「私の方が、エナの様になりたいわ」

 エナは、お世辞でも嬉しいわ、と言うと、用事を思い出したと言って去っていった。

 本当の事なのに、と呟いたが、エナには届いて居ない様子だった。

 かなり情報が集まってきた。街道の場所、現在の大陸での位置、徒歩でどれくらいかければ最寄りの街に出られるのか等々……。

 後は旅をしていてもおかしくない理由や装いをどう手に入れるか。

 とりあえず村娘の格好で街に出てから考えても良いだろうと、解決できそうに無い問題は先送りにする。

 少なくとも、ワルキューレの衣で街に出るよりはマシな筈である。

 僻地の村ですら奴隷と勘違いしたのだ。街では本当に奴隷扱いされかねない。

 別に奴隷にされたところでいつでも逃げられるが、奴隷には飼い主が付く。探し回られると困る。……これ以上、追っ手は欲しくない。

「祭、出ないの?」

 唐突に声がした。

 振り向くと、そこにはバジルが立っていた。

 エナの言うとおり、バジルの容姿は、天使や悪魔の出で、容姿の整った姉様達を見慣れている私の目にも十分麗しいものだった。村の青年なのに、少しも無骨なところが無い。心配りも繊細で、話はするのも聞くのも巧い。エナの自慢の兄だ。

 エナの用事とは、こういう事だったらしい。

 黙って頷くと、言葉を失った様にしばらく黙って、それから恐る恐る言った。

「来年は?」

「来年も、再来年も……フォロは増えない」

 想いに応えられない以上、期待を持たせてはいけないのだ。

 まっすぐにバジルを見ると、バジルは顔を強張らせ、やがて寂しそうに笑った。

「本当に、望みは無い?」

「ごめんなさい」

 バジルは背を向けると、走り出したいのを抑えるように早足で去っていった。エナは怒るだろうか? もうすぐ会えなくなるのだから、最後まで仲良くしたかったのに。


 村の娘達は、秋祭りに向けて衣装を作るための布を織ったり、その布を縫製したりするのに忙しい。

 私には生憎、布を織る才能も、縫製の技術も無い。

 それでもエナの熱心な誘いでその輪の中に入っていた。昨日までは。

 今日はエナが誘ってくれなかったので、行けなかった。

 畑仕事なら手伝えるからと、エナの父に申し出てみたが、それは男の仕事だからと断られた。……バジルと一緒に仕事をさせられる筈が無い。当たり前の事だった。

 エナの母親には、あんたは悪くない、子供達の機嫌もその内直るからと言われたが、居心地悪い事甚だしい。

 居場所が無くなって、村の広場に居る事にした。

 年寄りが集まってきて談笑しながら子守をしている。その側に居る事にしたのだ。

「クレアだ」

「くえあ」

「あ~」

 この村には十歳を超えていない子供は五人しか居ない。

 内二人はまだ乳飲み子で親元に居る。残りの三人がここで遊んでいる。五歳のアトスと、二歳のメル、一歳のロビンだ。

 子供は警戒心無く触れてくるので関わらない様にしていたが、今日ばかりは仕方ない。

 今まで距離を置いていたし、よそ者だからいきなり抱きついたりはしないだろうと信じて対峙する。

「フォロの歌、歌ってよ」

 予想を裏切り、アトスが警戒心も無くかなり近寄ってきて催促する。

 アトスの真似を残りの二人がする。

「うたってよ」

「たって~」

 老人達がチラチラとこちらを見ている。その目にも期待が見え隠れする。

 “フォロの祭歌はね、来年の豊作を願う希望の歌よ。だから、願いを込めて歌うの。願いがこもっていないと、麦が育たないよ”

 この懐かしいような既視感のある景色のせいだろうか?遙か昔に聞いた祖母の言葉を思い出す。

 子供達の顔が見える。赤い頬が、期待ではちきれそうだ。期待を裏切って、村の外に逃げ出す気にはもうなれなかった。

 ……歌うなら、心を込めて歌わなくては。

 私を同胞だと信じて疑わないこの村の人達に残せる物は何もない。……せめて感謝の気持ちをここに置いていこう。祭には出られないけれど、来年の豊饒を祈ろう。

 口を開くと、昔の景色が鮮明に脳裏に浮かび上がった。

 刈った麦でヒゲと角を作って遊んでいる弟、笑う両親。……ああ、母親のお腹には弟か妹か解らないけれど子供が居た。

 弟は絶対に男だと言い、私は女だと言った。本当はどっちでも良かった。来年の祭は三人兄弟で迎えられる。それが楽しみで仕方なかった。

 末っ子の為に、どうか豊作でありますように。そう思ってあの日も、水汲みの帰り道に歌を歌っていたのだ。

 唐突だった。体が硬直した。心臓が一瞬止まった様に感じた。手から桶がゆっくりと滑り落ちて、ゆっくりと水が流れ出した。気付くと倒れていた。

 起き上がると、目の前に光の糸が見えた。村の外まで延々と続いている。

 光を追わずにはいられなかった。落ちた桶の事も……生まれてくる末っ子の事も忘れた。そして気付けば道も上下も左右も無い場所を泳ぐように移動していて、服は真っ白な生成りの物に変わっていた。その末にたどり着いた。……たどり着いてしまったのだ。ワルキューレの園へ。

 あの日、歌を最後まで歌えなかった。今日は最後まで歌いきろう。この村の為に。子供達の為に。傷つけてしまった人達の為に。

 目を閉じて、黄金色の麦畑を思い出す。豊作だった年の、海のような麦畑を。ここにもあの景色が再現されるようにと。

 歌い終わると、いきなり子供達が抱きついてきた。

 ふりほどこうとしたが、加減をできないと壊してしまいそうな恐ろしさにかられ、命を吸い上げないように念じながら身を固くする。

「クレア、上手!すごい、すごい」

「すごい!」

「ごい~」

 老人達からパチパチと拍手が起こる。

 拍手は離れた場所からも聞こえた。気付けば、村中の人々が家仕事や畑仕事の手を止めて集まってきている様だった。

 驚いている私を見る周囲の目は温かい。

「見事な物だ」

「良い歌をありがとよ。来年の豊作は間違いなさそうだの」

 気付くと体温が一気にあがっていた。長く冷え切っていた体が、いきなり温まったのだ。

 生気を吸い上げてしまったのかと思わず息を呑んだが、子供達の様子は変わらない。しかし、今確かに体に暖かい……生気が入り込んだ。それも大量に。

 一体どういう事だろう?

「クレア、ありがとう」

「ありがとう」

「と~~」

 三人は、笑顔で駆け出す。足はまっすぐに麦畑へと向かっていく。

 あれだけ元気なら、吸い上げた訳では無さそうだが、一体……。

 何が起こったのか解らず、混乱するばかりだった。


 久々に体が軽い。ワルキューレだった頃と比べる訳にはいかないが、飢えたような乾きは消え去った。

 何故こんな事が起こったのか?

 ……考えられる可能性は、あまりに好都合過ぎてすぐには信じられなかった。しかし、何度考えても、この推測しか出来なかった。

 何らかの感情が現された際に、人からは生気が放出される。私はそれを得た、と言うものだ。

 人の間を行き来しているのは言葉や感情だ。それに生気が宿っているとしたら。それも、自分に向けられていない場合には感じ取れない様な、ごく微量なものだとしたら。

 普段は感じられないし、たった一人のものではサキュバスである自分を満たすにはほど遠い。

 しかし、自分に向けて強い感情を呼び起こせれば、それも大勢に対してであれば、乾きも癒せる。健康を害する程の生気を発する者は居ないから、安心して得られる糧になる。

 ようやく姉様達とは違う、自分の生き方が見えた気がした。

 思いがけず遠縁であろう人々に出会い、暖かくしてもらった上に、生きる術へと導いてもらった。

 感謝しても感謝しきれない。……だからこそ、もうここには居られなかった。

 結婚出来ないのに年頃の娘としてこの村に居るのは、ただの害でしかない。バジルが誰かと結婚する為にも、私は村を出なければならない。

 こんな状況だ。エナもバジルも私が消えた事で、更に傷ついてしまうかも知れない。それを思うと心が痛んだけれど、準備していた荷物は森に隠している。このまま出て行くのが一番だと判断した。

 私はしばらく村を見た後、背を向けた。

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