『3』
少し前に家庭教師の話を父上がしていたが、実はその家庭教師が来たのはそれから五日後だった。どうやら、契約は俺に話してからやる予定だったらしい。その間に言葉の壁にぶち当たったわけだから早く来い、と思ってしまった。
……そうだ。そんな僅かな時間の間で言葉って難しい、なんて思う機会があったわけだ。誰か、なんとか…………してくれよ…………。
ちなみに剣の教師の方は次の日からだったが。これには大歓迎だ。変な型でやっていれば弱い体にカムバックしそうで嫌だったんだ。本職になる気は毛頭ないが強くなれたら嬉しいな。
・・・・
・・・
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「剣の教師として俺は来たわけだが…………。
…………伯爵の息子、俺は礼儀はあまり分からない、が。
まぁ、剣は教えられるからな。宜しく頼む、リュディトゥの坊主」
「レイ、ぎ?要りません。
私はリュートとお呼び下さい」
レイギ。れいぎ。あ、…………礼儀、ね。そうか。公式の場所じゃない限り要らないな。だが、礼儀の意味が分かっても発音が大分怪しかった。まぁ、五歳児が「礼儀」を知ってる方がおかしいか。
そういえば俺は貴族の子供だった。敬われる謂れはないがな。だってそれはただの親の七光りだろう?俺は何もしていないのだから。
そうそう、まともな礼儀作法はこの前使用人たちに叩き込まれたからな。知っていて当然。だが、教えを請うならこっちが敬うだろう。貴族は違うんだろうか?偉そうなやつは嫌いだな。俺は……、平凡に生きたいと思う。貴族だからそうはいかないところはあるだろうが、それなら貴族の中での平凡でありたい。
「そ、そうか。
じゃあ、リュートの坊主。剣はどれぐらい出来る?」
「私は剣を三歳の時に持ちました。人に教えを受けるのは初めてです」
あぁ……そうじゃない、リュート…………先生は腕前を聞いているんだ。そんなことを聞いてるんじゃない……どの程度剣が使えるか聞いているんだよ……やってる期間じゃない……。
自分を叱咤し、そして自分で自分が嫌になる。自分の前に立ちはだかる言葉の壁は険しすぎる。何故なら言いたいことが言えないじゃらだ。
イライラした結果、自分の部屋で日本語で絶叫しかけた事もあった。そんなことしたら多分医者を呼ばれるからベッドの上でバタバタもがいてただけだが。因みにそれは昨日だ。
イライラする。イライラする…………今すぐ自分をこの木刀で殴り飛ばしたいが…………あぁ、そうだった、人がいるからできないな。その前に自分を殴るという考えにたどり着くのが異常なのだが。
あぁ、もう……!先生の顔が見えない…………多分呆れた顔をしてるんだろうけどよ……眼鏡くれよ……近眼まで来世に持ち込むなよな……にしてもどういった経緯で目の悪さを引き継いだのか……。あ、もしかしてこの体の視力がもともと悪いとか、か?それなら仕方ないが、腑に落ちない。
ぎゅっと眉間にしわが寄る。眼鏡、眼鏡くれよ……。
「そ、そう怒るなって。リュートの坊主は本当に小さいときからやってるんだな、良いことだぞ!」
「そうですか」
無感動な返事だから、先生の慌てっぷりを増長させた気がしたが、まぁ…………無言よりはいいだろう。
先生、すまん。言葉が分からないんだ。砕けた口調で話されるとさらに分からない。だけど、砕けた口調で話されるのは貴重だ。嬉しいよ、そういう意味では。まぁ本当に砕けた口調なのかは適当な判断だが。父上や母上、使用人たちとは話し方が明らかに違うから何となく、なんだよな。
それに先生「には」別に怒ってなんかいない。自分にぶち切れてはいるが。早く言葉を覚えろと叱咤している。激しくな。自傷に走りかけるぐらいには。
「お、俺はアルバ・フェブリだ。アルバと呼んでくれればいいからな」
「はい、アルバ先生」
アルバ・フェブリ先生…………ね。覚えた。名前は発音は難しいけど、ほとんどが前世のアメリカ人とかイタリア人っぽい名前だから覚えやすい。俺の名前とかは完全に例外だが。リュートに改名したい。リュート・アースルヴァイツ。いいじゃないか。格好いいじゃないか。むしろ、苗字を「アースル」にして欲しいが……それはわがまま過ぎるか。改名を要望するのもわがままだが…………。今世でも俺はわがままな人間か。醜いな……。
「いつもは何をしてから練習を始める?これも重要だ。」
「走ります」
先生が、少し遠い目をしてから話しかけてきてくれた。遠い目をするぐらいには可愛げのない餓鬼だからな、俺は。と言うより、やっとまともに話しけてくれた。
どうか、どもらないで下さい、私の目付きの悪さは治りませんから!………………はぁ…………。
「走り込みだな。それは特に重要なことだ。体力づくりになるしな。ほかには?」
「腹筋とスクワットと背筋と腕立て伏せをします」
「…………すまん、何を言っているかわからない」
…………え?この前、全然読めないけど、メイドに聞きまくって体の部位の名前を聞いたのにか?小難しい本をわざわざ引っ張りだしたのに、スクワットも通じないのか?
「…………え?」
「どんなものだ?やって見せてくれないか?」
もしかして、スクワットとか、言葉はあるけど使われていない感じか…………?それとも、俺みたいな年齢の小さな子供がやるわけ無いということか…………?
どっちにしろ、失敗した。何故ならその後に腹筋、背筋といつもやっている数をやった所で先生の目が点になり、スクワットの回数がノルマの半分を超えた所で頭を抱え、片手で体を支えて腕立て伏せモドキをやった所、むしろ教えてくれと言われてしまった…………。
そうか…………こっちではこういう筋力トレーニングは主流じゃないのか…………異文化を広めるのは怖いけど…………流石にこういうのはいいだろう。
その日一日、先生と筋トレで終わった。ひとりぼっちじゃないのは楽しかった。父上と剣の稽古をするのが夢だが、父上はきっとやってくれないんだろうな…………。
・・・・
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・
最高だ。給料がいいからって、伯爵家の坊ちゃんに剣を教えるなんていう仕事、受けるんじゃなかった。……なんてさっきまで考えていた俺を殴り倒したい。
教えることになった、貴族の坊ちゃんは、なんというか、あれだ。そうだな、クールな方だった。始終こっちに向くのは無言、無言の圧力。そういうのがこっちにのしかかってくる。まだ坊ちゃんは小さいのに目線のきつさはかなりの圧力だ。警戒?それとも試しているのか?それは分からない。
使用人たちに坊ちゃんの性格は聞いてきたが、あれだ。揃って、「クールですわ」とか、「クールビューティの代名詞はリュディトゥ様ですわ」とか言うものだから、無口だとは知っていたが…………。
正直、使用人にこれ以上聞くのは怖かった怠慢なんだが……。
中庭で初めて顔を合わせた時も、無言。話しかければ返事は返してくれるが、最低限。クール……の代名詞とは……結構間違いじゃないのか……。誇大だと、思っていた……が。
「剣の教師として俺は来たわけだが…………。…………伯爵の息子、俺は礼儀はあまり分からない、が。
剣は教えられるからな。宜しく頼む、リュディトゥの坊主」
「れい、ぎ?要りません。
私はリュートとお呼び下さい」
貴族らしく偉そうなのか、だから無言なのか、と少し勘違いしていたせいか。礼儀はいらない、と言う坊ちゃんの顔をまじまじと見てしまった。だが、坊ちゃんは微妙に焦点の合っていない、金色の目で見返すだけ。 はは、貴族ってのを勘違いしてたぜ……。こういう人のことを貴族っていうのか。今まで俺が会ったことのある貴族は威張りちらし、権力を振りかざすだけだった。そうか、アースルヴァイツのような、当主から五歳の子供まで、獣人の俺に普通に接してくれる人たちのことを貴族というのか……。
……明らかに目が死んでいるように淀んで見えるのが、少し気になるがな。生きる気、はあるようだが……感情は読めないような、暗い目だ。
「そ、そうか。
じゃあリュートの坊主。剣はどれぐらい出来る?」
「私は剣を三歳の時に持ちました。人に教えを受けるのは初めてです」
小さな木刀と同じく小さな、刃の潰れた剣を手に持つ坊ちゃんに聞く。声が震えてどもった理由は、歓喜。仕えるのだ。この、小さな坊ちゃんに。仕えるのだ。きっと、この人は偉大なことをする。なんて、らしくもなく思う。彼の目には、信念があった。そういう目をした人間が成し遂げるのは、偉大なことばかりだ。坊ちゃんが剣を極めたいのなら、俺が踏み台になってやろう。
無駄に剣の扱いにだけは長けていたが、これが役に立つ日が来たとは……。
にしても…………剣を三歳で持った。それは、普通ではありえない。剣を持とうなんて、かのアースルヴァイツが子供に強制させるか?させないだろ。自分で持ったんだ。その剣を、小さな手で。なら……手助けをするだけだ。
いいことだぞ、と話しかけようとした時だった。
不意にギュッと、坊ちゃんの眉間に皺が寄ったのは。
怒っている?俺は何か機嫌を損ねてしまったか?いや……。こっちを見ている。鋭い眼光が、俺の目を掠める。そうだ、掠めたんだ。
もしかして……俺の顔が怖い、とかか? 俺の顔は熊のようだ、とよく言われるが……。いやいや、この坊ちゃんに限ってそれはない。と言うよりも俺は熊の獣人だ。熊に似ていて当然だ。
あ、もしかして。早く練習を始めたいのかもしれない。無口な坊ちゃんだが、剣は人一倍好きだと言うわけだな。それは見ればすぐに分かる。木は新しいのに、坊ちゃんの木刀は傷だらけだからな。
「そ、そう怒るなって。リュートの坊主は本当に小さいときからやってるんだな、良いことだぞ!」
「そうですか」
だ、駄目だ。俺にはこの圧力、耐えれないぜ……。早いとこ練習を始めないと、あれだ。坊ちゃんの剣が俺を超えた瞬間に切り倒される。
結構剣好きのやつはどんなにクールなやつでも剣が関わると性格が変わる奴が多いからなぁ……坊ちゃんもその類らしいな。
「お、俺はアルバ・フェブリだ。アルバと呼んでくれればいいからな」
「はい、アルバ先生」
剣の練習を始めてくれ。そう無言ながら言われた気がした。今すぐにでも始めたいが、取り敢えず名前を名乗る。失敗して最初に名前を言うのを忘れていたからな。
で、坊ちゃんが言った言葉は「アルバ先生」だ。呼び捨てしてくれてもいいのに……。
かなり嬉しい気持ちを抑え、剣の練習に移ろうと、何気なく尋ねた。準備運動のことだ。剣の教師がつくのが初めてだと坊ちゃんは言っていた。何も知らないなら、準備運動をすっ飛ばすことだってざらにある。結構有名な冒険者でさえ、幼少期に準備運動のことを聞かないまま戦っていてポックリ死んだなんて言うことだってあるぐらいだ。
「いつもは何をしてから練習を始める?これも重要だ。」
「走ります」
いきなり走るときた。それも、準備運動がしたほうがいいんだが、それについては今日走る時に言うとして……。まぁ、全力疾走でなければいいか。
「走り込みだな。それは特に重要なことだ。体力づくりになるしな。ほかには?」
「腹筋とスクワットと背筋と腕立て伏せをします」
「…………すまん、何を言っているかわからない」
腹筋、はあれだな。上体起こしのことでも言ってるんだろう。スクワット、はあれだ。重い棒とか、金属の塊なんかを頭上で持って膝を曲げるやつだろ? 背筋、はなんだろう……?腕立て伏せは普通だな。
だが、間違っても五歳児がやるものじゃない。そんなに筋肉を鍛えたら身長が伸びなくなるぞ?
「…………×?」
「どんなものだ?やって見せてくれないか?」
何を言ってるのかわからない、とばかりに意味のない言葉が坊ちゃんの口から漏れる。それぐらい普通だと思ってるんだろう、か。さすがにそれはない。強靭な獣人でもそんな真似をさせるわけ無い。
こくり、と坊ちゃんは頷き、ゴロンと土の上に寝転がる。そして、猛烈な勢いで上体起こしを始めた。
「×、×、×、×……」
「…………」
自分なりの数字らしきもので数える坊ちゃんは、三百を超えた所で止めた。息は上がっているが、大したことは無さそうだ。……なんか、すげぇな……。
続いてスクワットだ。大人用の重い二本の剣を縄で縛ったものを持ち、スクワットを始める。ここらへんになると規格外な坊ちゃんに頭痛がしてきた。こんなすごい人を教えないといけないのか……。
その後もすごい筋力トレーニングを見たが、気づけばその日、坊ちゃんと二人で筋力トレーニングをして終わった。別れ際の坊ちゃんの清々しい笑顔が妙に頭のなかにこびりついた。
だが、同時に飛んできた鋭い目線はぶるりと体を震わせるには十分すぎた。