ひと雫
新聞のテレビ欄からは、面白そうな番組が見つからなかった。
部屋の明かりをすべて消して、真夏の夜空を眺めるためにベランダに出てみる。
団扇で仰ぎながらマンションからの景色を確認してみる。いつもと変わらない夜景がやけに心細い。その心細さは、独り暮らしからのそれではなかった。もっと空虚を感じる灰色の心だ。
生ぬるい夜風が火照った顔面を時折優しく包み込み、すっと通り抜けていく。ちょうど一年前のあの夏は、この風が勢い強く感じたはずなのに、やけに滑らかな優しい風に戸惑ってしまう。
こんな優しい風を受け止めてしまうと、またあの日の「優しいあいつ」を思い出してしまうじゃない。
優しいあいつと出逢ったのは去年の四月。ちょうど私が大学生になった時だった。
「なぁ、サークル入らない? バスケのサークルなんだけど、マネージャー足りてなくて」
「えっ」
大学構内の一番大きな掲示板の前で突然男の人に声をかけられた。正直今までスポーツなんかやったことないし、そもそもこの男の人と知り合いではない。なんで私なんだろう。はじめての出会いは疑問符ばかりが頭をよぎっていた。
それからすぐに、バスケサークルの練習に付き合わされた。何をしているのかも分からないまま見守ることしか出来なかった私だったが、男の人はたまに私の方を見て微笑んでくれた。なんだか不思議な気分だ。体育館の中に広がる熱気と滴る汗。初めて見る生のバスケットボールに、私の心は徐々に惹かれていったのを思い出す。スポーツってこんなにワクワクするんだ、って気付いたときには、同じように彼にも惹かれて行っていたのかもしれない。三時間半の練習時間は、思ったよりも短かった。
その帰り、彼の車に乗せてもらって一緒に帰ることになった。そこではじめて彼の名前を知ることになる。岡原裕也。いたって普通の名前なのに、どうしても忘れられない、心に響く名前。名前を聞いた瞬間から、なぜか急に意識し始めたのもまた懐かしい。あんまり意識しすぎて車の中では自己紹介くらいしかできなかった。
もうすぐ家に着きそうな頃、彼が優しい笑顔で私を誘ってくれた理由を教えてくれた。私がなんとなく掲示板のすぐそばをうろちょろしていたり掲示板に貼ってあるいらない情報を眺めていたから、てっきりその中に貼ってあったマネージャー募集が気になっている子なのだろうと勘違いしていたらしい。本当か嘘かわからないけど、さすがに最後までお互いに黙り込んでいたので無理して話をしてくれたのだろう。そういう少しだけ優しいところが大好きだった。
夏休みになる頃には、私もバスケのルールを少しは理解し始めていた。大学の前期がこんなに濃くて楽しい時間なんだと感じさせてくれたのは、紛れも無く岡原くんのおかげだった。その頃には私の中のほんの小さな恋心がどんどん膨張していった頃だったし、それに比例するように岡原くんとは一緒にいる時間が多くなっていた。でもこの頃から、岡原くんのある噂が流れ始めていた。
岡原くんに恋人がいるらしい。そういう噂をチームメイトから聞いたのは、夏休み中盤の合宿でのことだった。午後の全体練習が終わり、みんなが夕食へと急ぐ中、それは起こった。みんなの洗濯物を回収し終わり、合宿所の屋上へと向かう途中、ひとりきりの岡原くんとばったり出会ったのだ。岡原くんも屋上に用があるらしく、二人並んで向かうことになった。
屋上へと向かう階段は、一つ段を上るごとに二つの足音が鳴り響いた。背の高い岡原くんの足取りはしっかりとしていて、対する私はいつもより華奢に感じる。洗濯カゴを抱える私は、今が告白のチャンスだと思った。それはもちろん屋上に上ってからでも良かったけど、改まるとちゃんと言えないような気がするから。でもそれと同時に、こんななんでもない階段で告白するものだろうかとも思ったのは確かだ。さすがに無いよなぁという結論に至り、結局屋上で言おうとかなぁと緩く決意した。肩の力が抜けた私。洗濯カゴの中の洗濯物に顎を乗せてみると、顔中を汗の臭いが襲ってきたので、目元がピクピクっと動いた。そうやって岡原くんのことを考えているうちに屋上へと着いてしまった。その扉が開かれた瞬間、私の中の何かが爆発した。と同時に体が固まった。緩く決意したはずなのに、なぜか緊張感が徐々に高まっていく。人生初の告白でもないのに、どうしてこうも緊張するのだろう。それはそれほど好きなんだって誰かが前に教えてくれたようなきがするけど、でも。考えていることがわけ分らなくなってくる。頭の中は大混乱の末、真っ白にフリーズした。ハッとして洗濯物だけは終わらせようと思ったが、洗濯機まで持っていくのに手も足も顎も震える。洗濯物さえ余分に時間を食っているんだから告白なんてそんな大それたことできない。そう私は決めつけてしまい、岡原くんが屋上でのんびりしているのをただただ横目で伺うことしか出来なかった。
会話ぐらいすればよかったかもなぁ。なんて、合宿が終わって家に帰ってから嘆いても遅い。風呂に入ってベッドで布団をかぶっても、まだ岡原くんが胸の中にいる。目の前にぼやけて見えてくる。これが恋の病なのだろうか。やっかいな病にかかってしまったものだ。その日、私ははじめて恋しくて泣いた。もう自分でもどうしようもなかった。ただただ流れていくひと粒ひと粒の涙の雫がじんわりと枕を濡らしていくのを感じるしかなかった。
岡原くんから彼女がいると告げられたのは、それから一週間後。練習試合の帰り道、初めて自己紹介し合った車の中だった。
それから一年。
私は今でも岡原くんのことを想っている。もう一年も経つのに、一向にこの病は治りそうにない。もちろん岡原くんはあれからずっと彼女とは続いている。大学内ではお似合いのカップルだってはやし立てられてるけど、私の心中は複雑だった。
涙の雫が一滴、また一滴とズボンに落下していく。涙のシミができそうなそのズボンのポケットをぎゅっと握りしめたまま、私はどうする事も出来なかった。一年前のあの日のように。台所の流し台に水滴が落ちていく音がやけに大きく聞こえる。ポタッポタッと銀色のシンクに叩きつけられる無力な水道の雫。水道も一緒に泣いてくれているのだろうか。同情してくれる人は誰一人いない。唯一慰めてくれるのはいつも岡原くんだった。
その時、携帯電話に着信が届いた。岡原くんからだった。私は嬉しい反面、もう終わりにしたかった。
電話に出ないまま、携帯電話を閉じた。夏の夜にふさわしい、涼しげな風が、カーテンを揺らして涙を拭ってくれた。
ひと雫の涙は、もう渇ききっていた。