第9話 三つの種
手紙が来た。いいえ、手紙が三通、来た。
朝食の席に着いたとき、ナタルが封筒を三つ、トレイに載せて持ってきた。
「ティアさん、お手紙です。三通同時に届くのって珍しいっすね」
一通目は、父からだった。
ラトゥーア男爵家の紋章が押された封蝋。父の几帳面な筆跡。
「ティアへ。先日、旧知の庭師から連絡があり、お前の研究ノートとヴォーン嬢の論文を学院に提出した。学院の調査委員会が精査した結果、盗用が認定された。ヴォーン嬢の論文は全て撤回され、学院からの除名処分が決定している。同時に、お前の研究『カラヴァス侯爵領における生態系調律の七年間の記録』が、学院の紀要に正式掲載されることになった。招聘状が同封されている。お前の仕事は、ようやく正しい名前で呼ばれる。父より」
手紙を持つ指が震えた。文字の上を視線がすべって、同じ行を三度読んだ。
七年間。あの研究ノートに書き溜めた記録。土壌のpH変化の推移。微生物の密度測定。蜂の巡回経路の設計図。季節ごとの調律プロトコル。夜中に温室の灯りの下で、手がかじかんでも書き続けたあの記録。インクの染みと土の跡がついた、誰にも見せられなかったノート。
全部、私のものだった。メリッサの名前がついていた論文は、全て撤回される。代わりに、私の名前が載る。
視界がにじんだ。瞬きをして、手紙の文字に焦点を合わせ直す。父の筆跡は相変わらず几帳面で、一画一画に力が入っている。「お前の仕事は、ようやく正しい名前で呼ばれる」。その一行を指でなぞると、紙の繊維の凹凸が指紋に触れた。
封筒の角を撫でた。紙の感触が、なぜかとても柔らかく感じる。
二通目は、マルタさんからだった。
「奥方様。温室の隅に、花が咲きました。奥方様がお発ちになる朝、埋めていらっしゃった種ではないかと存じます。銀木犀です。小さな白い花で、甘い香りがしています。温室の湿度は六十一パーセント。気温は十八度。花は元気です。奥方様が置いていかれたものは、確かに根を張りました。ご報告まで。マルタ」
銀木犀。
あの種が、芽吹いている。
私の調律が途絶えた土壌で。誰の魔力もない場所で。あの種は、自分の力だけで根を張り、花を咲かせた。
置いていったものが、生きている。
銀木犀の白い花を思い浮かべようとして、代わりに浮かんだのはマルタさんの手だった。あのごつごつした手が、きっと温室の温度計を覗き込んで、「六十一パーセント」と呟きながら紙に書き留めている。花の様子を確かめるために、毎朝温室の扉を開けているのだろう。私がいなくなった後も、あの人は温室を守っている。
手紙を二度読んだ。温度と湿度の数値をマルタさんが正確に記録しているのが、らしくて。口元が歪むのに、鼻の奥がつんとする。どちらの方向に顔が崩れたいのか、自分でもわからなかった。
◇◇◇
三通目は、封筒ではなかった。
ケイルが、昼食の後で言った。
「見せたいものがある。庭に来い」
屋敷の裏庭。あの果樹が植わっている場所。
一ヶ月前に見たときは葉だけだった若い木に、小さな実がなっていた。丸くて、薄く赤みがかった実。形を見て、息が止まりかけた。
無花果。
私の好物。ラトゥーア男爵家の庭に植わっていた、あの無花果と同じ品種。実家の庭で、夏になると母と一緒にもいで食べた、あの。
「いつ、これを」
「あんたが来る前に植えた」
「私が来る前?」
「植物魔法使いを探していると手紙を出した後、ラトゥーア男爵に連絡した。娘さんの好物を聞いた」
声が出なかった。喉の奥が塞がっている。息を吸おうとしても、空気が肺の手前で引っかかる。
この人は、私を招く前から、私の好きなものを調べて、庭に植えていた。土を掘り、苗を選び、水をやり、根が張るのを待った。私がここに来るかどうかもわからないうちから。
「これは」
言葉が組み立てられない。頭の中で、断片がぐるぐる回っている。
条件はつけない、と言った人。土地が喜ぶほうがいい、と言った人。何も言わずに隣で土を耕した人。蜂の巣箱を惜しまなかった人。
その人が、私の好物の果樹を、私が来る前から植えていた。
「お前のために植えた。土地のためじゃない」
ケイルの声が、いつもと違っていた。短い文が、もっと短くなっている。言葉が足りていない。でも、足りないまま放り出された言葉のほうが、何倍も重い。
無花果の実に手を伸ばした。指が触れると、果皮が日差しの熱を蓄えていた。この実が熟すまでに、どれだけの水と光が要ったのだろう。この人が毎日水をやっていたのだろうか。ナタルに任せたのだろうか。聞きたかったけれど、喉がうまく動かない。
◇◇◇
三つの手紙。いえ、手紙は二通で、三つ目は果実の木だった。
部屋に戻って、三つの知らせを並べた。
学院からの招聘状。マルタの手紙。そして、窓から見える庭の無花果の木。
七年。七年かかった。
研究が認められるのに、七年。あの種が芽吹くのに、七年。そして、私のために木を植えてくれる人に出会うのに、七年。
涙が出た。
泣くのは五年目の温室以来だった。あの夜、月見草の上に落とした涙は、翌朝には乾いていた。今度の涙は手紙の上に落ちた。マルタさんの几帳面な文字の上に丸い染みが広がって、インクが少し滲んだ。
「七年」
声が。声がおかしい。自分の声じゃないみたいに、高い。
「七年かかった。でも。芽が」
だめだ。文にならない。主語と述語がばらばらに口から出てくる。
「出てる。根が。銀木犀が、あの温室で。マルタさんが温度と。湿度を。六十一パーセントって」
扉がノックされた。
ケイルだった。入ってきて、泣いている私を見て、固まった。右手が首の後ろに行く。口を開けて、閉じて、もう一度開けた。
ハンカチを差し出した。
白い布。きちんと畳まれている。使った形跡がない。この人は毎日新しいハンカチをポケットに入れているのだろうか。それとも、今日のために用意したのだろうか。
受け取った。鼻をかんだ。侯爵夫人時代なら絶対にしなかった行為だ。
「すみません。取り乱して」
「……泣いていいと思う」
ぶっきらぼうな声。でも、出て行かなかった。部屋の隅に立って、窓の外を見ている。私が泣き止むまで、ただ、そこにいた。
窓の外で、無花果の幅広い葉が風に揺れている。
私のために植えた木が、この乾いた土地で、根を張っている。




