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庭師の妻が屋敷を出た日、薔薇が枯れ、蜂が消え、麦が実らなくなった  作者: 秋月 もみじ


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第8話 あの土は私を覚えていません


「戻ってきてくれ」という言葉を、私は七年待った。もう要らなくなってから届くのだから、世の中というのは大概そういうものだ。


遠隔調律は、三度失敗した。


最初の試みは五日前。種に魔力を込め、風の道を計算して放った。カラヴァス領まで直線で二百キロ。理論上は三日で届くはずだった。


届かなかった。


途中で風向きが変わり、種は見当違いの方角へ飛んでいった。ナタルが集めてくれた風向きの記録は半年分しかなく、この季節の上空の気流を読み切れなかった。


二度目は、種の魔力が足りなかった。込める量を増やしたが、距離が遠すぎて種が土に触れる前に魔力が揮発した。カラヴァス領の畑の隅で、ただの枯れた種が見つかったと報告が来た。ただの種。私の魔力の痕跡もなく、何の意味もなく、土の上に転がっていた。


三度目。種の品種を変えた。魔力の保持力が高い菩提樹の種を使い、風ではなくケイルが巣箱から分けてくれた「旅蜂」に運ばせた。蜂は風より遅い。だが確実に飛ぶ。ケイルは蜂の巣箱を四つまで増やし、長距離移動する種の群れを惜しみなく提供してくれた。


「うちの蜂が減るが」とナタルが心配すると、ケイルは「増やせばいい」とだけ言った。


種が届いたのは六日後。カラヴァス領の土壌と私の魔力が接触した瞬間、指先がびりっと痺れた。二百キロ先の土の声が、微かに聞こえた。叫んでいた。水が足りない。菌が死にかけている。蜂がいない。


そこからは少しずつ、本当に少しずつだった。最小限の調律。完全な復元ではない。害虫の爆発的増殖を抑え、蜂の帰還を促し、地下水脈の循環を微かに再開させる程度のこと。


ナタルが気象記録をさらに丹念に集めてくれたおかげで、二回目以降の種の輸送精度が上がった。


そうやって二週間。カラヴァス領から届いた報告では、畑の害虫被害が僅かに収まり始めているという。完全な解決には程遠いが、飢饉の最悪のシナリオは回避できそうだった。


◇◇◇


その日、馬車がエストレーラ領の屋敷に来た。


カラヴァス家の紋章が入った、立派な馬車。門の前で止まったとき、ナタルが走ってきた。


「ティアさん、カラヴァス侯爵が来てます」


足が止まった。


畑から戻ったばかりで、手は土だらけ。長靴に泥がこびりついている。前掛けの裾が草で汚れている。侯爵夫人だった頃の自分とは、かけ離れた姿。


でも、着替える気にはならなかった。


応接室に入ると、オルセン・カラヴァスが椅子に座っていた。


三ヶ月ぶりに見る元夫。相変わらず身なりが整っている。外套のボタンが金色に光り、ブーツに泥一つない。書斎から出てきたばかりのような格好。応接室に置かれた野花の花瓶を、居心地が悪そうに一瞥している。あの人はいつも、生きた花より切り花を好んでいた。花瓶の水を替える必要がない造花なら、もっと好んだだろう。


胸の奥で何かが固く縮んだ。三ヶ月離れていたのに、この人の前に立つと、体が勝手に背筋を伸ばそうとする。侯爵夫人の姿勢。七年間で骨に染みついた癖が、まだ抜けきっていない。


私が入ると、オルセンは立ち上がった。


「ティア」


名前を呼ばれた。侯爵家にいた七年間、旦那様が私を名前で呼んだことは数えるほどしかない。大抵は「おい」か、「お前」か、あるいは何も呼ばずに用件だけだった。


「カラヴァス侯爵様。何の御用でしょう」


「……侯爵様、か」


オルセンが眉をひそめた。かつての夫婦の呼び方ではなく、他人としての敬称。当然だ。私たちはもう他人だ。


「戻ってきてくれ。条件は何でも出す。報酬も、地位も、研究環境も」


条件。報酬。地位。


七年間、一度も与えられなかったものが、並んでいる。


「侯爵様。遠隔調律で最低限の対策は進めています。カラヴァス領の害虫被害は緩和しつつあると聞いています」


「最低限では足りない。領地の農業生産は六割まで落ちている。井戸が涸れ始めた地区もある。あと三ヶ月もすれば」


「存じています」


「なら、戻れ。あの土地を知っているのはお前だけだ」


知っている。七年かけて、あの土地の根の一本一本を触った。地下水脈の流れを暗記している。季節ごとの風の道も、蜂の巣の位置も、微生物の分布図も。全部、私の指が覚えている。


でも。


「あの土は、私を覚えていません」


オルセンが、言葉を失った。


「七年かけて作った関係は、あなたが壊したんです。調律は術者の魔力と土地の信頼関係で成り立ちます。私の魔力パターンに最適化されていた生態系は、調律が途絶えた時点でリセットされました。今あの土地に戻っても、ゼロからのやり直しです」


「それでも」


「同じ七年がかかります。七年、また『庭番』と呼ばれながら」


オルセンの顔が歪んだ。「庭番」という言葉が、自分の口から出てきたことに今さら気づいたかのように。


「あの言葉は」


「いいんです。もう。あの頃のことは」


いいわけがなかった。全然よくない。でも、ここで怒りをぶつけても、何も変わらない。変わるのは、目の前のこの男の機嫌だけだ。


立ち上がった。


「侯爵様。一つだけ。あなたの領地の土壌酸性度、現在pH4.2です。私がいた頃はpH6.5でした」


オルセンが黙った。


「数字がお好きでしたよね」


背を向けた。応接室の扉を開ける。廊下にケイルが立っていた。壁に背を預けて、腕を組んでいる。いつからそこにいたのかわからない。


何も言わなかった。ただ、立っていた。


私の横に。


背中の強張りが、少しずつ解けていく。侯爵夫人の姿勢ではなく、自分の姿勢に戻る。肩が下がり、呼吸が深くなる。土と草の匂いが鼻に届いた。応接室にはなかった匂い。廊下の窓が開いていて、畑の空気が流れ込んでいる。


◇◇◇


オルセンの馬車が去った後、ケイルと並んで玄関先に立っていた。


馬車の車輪が巻き上げた埃が、ゆっくり沈んでいく。あの馬車に乗って、七年間を過ごした屋敷へ戻ることもできた。条件は何でも出す、とあの人は言った。報酬も、地位も、研究環境も。かつての自分が喉から手が出るほど欲しかったものが全部、今さら並べられている。


でも、足が動かなかった。この玄関先の石畳の、この場所から。


「……終わりました」


「ああ」


沈黙。


風が吹いた。エストレーラ領の乾いた風。花の匂いが微かに混じっている。一ヶ月前にはなかった匂い。実験区画の花が咲き始めているのだ。


「ケイル様」


「ケイルでいい」


「……ケイル様。あの人が持ってきたお菓子、食べていいですか」


応接室に残された手土産の箱。王都の高級菓子。侯爵家の社交用に取り寄せているものだ。


「好きにしろ」


箱を開けた。砂糖菓子が並んでいる。甘い匂い。


一つ摘んで口に入れた。甘い。舌の上で砂糖の結晶が溶けていく。でもこの砂糖の量だと、蜂が寄ってくるな、と職業的に考えてしまう。侯爵夫人だった頃は、こういう菓子を黙って食べていた。味の感想より先に蜂のことを考える自分が、今はむしろ心地よい。


甘いお菓子を食べながら、枯れた麦穂のことを考えている。ポケットの中の、あの穂。


まだ捨てられないでいた。あの穂が乾いていく速度と、この土地の花が開いていく速度。両方を、指先で測っている。

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