第7話 置いてきたもの
根を張るということは、その場所を選ぶということ。私はまだ、どこにも根を張れずにいる。
ケイルの領地に来て、一ヶ月半。実験区画の緑は広がっていた。最初は一つだけだった芽が、今では小さな畑になっている。菜の花。大根。蕪。薬草のローズマリー。どれも丈はまだ低いけれど、根はしっかり張っている。
この土地は応えてくれる。手を入れれば入れただけ、返ってくるものがある。カラヴァス領の土壌再生とは違う。あちらは「治療」だった。こちらは「育てる」に近い。
農民の子供たちが、畑に来るようになった。
最初は遠巻きに見ていた子供たちが、ナタルに連れられて近づいてきた。五人。一番上が十歳くらいで、一番下はまだ歩き方が危うい。
「ティアさん、子供たちに花のこと教えてやってくれませんか」
ナタルの頼みを断る理由はなかった。
◇◇◇
花壇の端にしゃがんで、種の蒔き方を教えていた。
「種は深く埋めすぎないこと。浅すぎてもだめ。指の第一関節くらいの深さがちょうどいい」
子供たちが真剣な顔で土を掘っている。小さな指が、慎重に種を一粒ずつ落としていく。
「土をかぶせたら、手のひらで優しく押さえて。ぎゅっとしないで。赤ちゃんの頭を撫でるくらいの力で」
「赤ちゃん触ったことない」
一番上の男の子が言った。
「じゃあ、子猫。子猫を撫でるくらい」
「猫ならわかる」
子供たちが次々に土を押さえる。手つきがばらばらで、強すぎたり弱すぎたりするけれど、それがいい。植物は案外しぶとい。少々雑に扱われても、芽を出す。
「お姉さん」
一番下の女の子が、泥だらけの手で私の袖を引いた。
「お姉さんが来てから、お花が咲いた」
「そうだね。土が元気になったから」
「前のところのお花は、枯れちゃったの?」
空気が凍った。というか、私の中の何かが凍った。
子供は何も知らない。ただ、大人たちの噂話の断片を、子供なりにつなぎ合わせて質問しているだけだ。カラヴァス領の畑がだめになった話は、このあたりにも伝わっているのだろう。
答えを用意していた。「植物魔法の調律が切れると、土壌のバランスが崩れるんです」と、いつもの説明をするつもりだった。
声が出なかった。
膝から力が抜けて、その場にしゃがみ込んだ。子供の目の高さになる。泥だらけの小さな手が、まだ私の袖を掴んでいる。
「枯れたんじゃ」
声が割れた。丁寧語が、剥がれた。
「枯れたんじゃなくて。私が。私が置いて」
言葉が途中で折れる。息を吸う。吸えない。肺の手前で空気が固まる。
「置いてきたの。あの子たちを」
あの子たち。薔薇。蘭。麦。いつから植物を「あの子」と呼んでいたのだろう。でも、そうだ。あの子たちだ。七年。毎朝。水をやって。根の一本一本を。全部、知っていて。
それを。
正当な離脱だ。契約は満了した。法的には。法的には何の問題も。
だめだ。理屈で蓋をしようとしても、蓋が合わない。あの朝、温室で最後の水やりをしたとき、蘭の根が指先に触れた。あれは別れの挨拶だったのか、引き留めだったのか、わからない。わからないまま、門を出た。
花壇がぼやけた。泥の匂いが鼻に入ってきて、それがカラヴァス領の温室の匂いと重なって、鳩尾のあたりが潰れるように痛んだ。
子供たちが心配そうに覗き込んでいる。「お姉さん、大丈夫?」「泣いてる?」「泣いてないよ、目にゴミが入ったんだよ、たぶん」
◇◇◇
足音が聞こえた。
ケイルだった。何も言わずに、花壇の反対側にしゃがみ込む。手に、鍬を持っている。
黙って、隣の土を耕し始めた。
ざく。ざく。ざく。鍬が土に入る音だけが響く。
子供たちが「伯爵様だ」「何してるの」「畑仕事だよ」とざわめいている。ケイルは子供たちに目もくれず、ただ土を掘り返していた。
しばらくして、鍬を止めた。
「ここの根は、あんたを待ってる」
短い言葉だった。ここの、と言った。あっちの、ではなく。
この土地の根が、私を待っている。
立ち上がった。膝の泥を払い、鼻をすすった。子供たちが安心したように「お姉さん、復活した」と言っている。
「ケイル様。一つ、試したいことがあるんです」
「何だ」
「遠隔調律。種に魔力を込めて、風で飛ばす方法です。カラヴァス領まで直接行かなくても、最低限の生態系バランスを保てるかもしれません」
「できるのか」
「わかりません。やったことがないので。でも、理論上は」
「何がいる」
「肥沃な土壌のサンプルと、蜂の巣箱を二つ。それから、風向きの記録が半年分くらい」
ケイルは頷いた。
「ナタルに言っておく。土はうちの畑から持っていけ。蜂は、明後日には揃う」
「ありがとうございます。あの、これは私の問題であって、エストレーラ領の資源を使うのは」
「飢えた領民に罪はない。それにあんたが悩んでいると、うちの畑まで元気がなくなる」
最後の一文が冗談なのか本気なのか、判断がつかなかった。ケイルの表情は相変わらず動かない。でも、肩が一寸だけ下がっていた。あれは、安心のしるし。
◇◇◇
その夜、畑を見回りに出た。
月明かりの下、実験区画の芽が銀色に光っている。小さな葉が露を含んで、一つ一つが宝石みたいに光る。
しゃがみ込んで、発芽したばかりの菜の花の芽に触れた。
「おはよう。いえ、夜だからおやすみか」
声をかけてから、自分で少し笑った。朝でも夜でも、結局声をかけてしまう。この癖は一生直らない。
子供たちが今日、真似をしていた。「おはよう、お花さん」と合唱して、畑中の芽に挨拶して回っていた。恥ずかしかったけど、嫌ではなかった。
屋敷の二階の窓に、明かりが灯っていた。
ケイルの部屋だ。カーテンの隙間から、こちらを見ている人影がある。
見られている、と気づいた。でも、隠す必要はない。植物に話しかけるのは私の日常で、それを笑わない人がここにいる。
月が雲に隠れた。畑が暗くなる。
私は立ち上がり、屋敷に向かって歩き出した。玄関の前で、一度だけ振り返る。
この土地の根は、私を待っている。
そしてたぶん、私も、この場所を待っていたのだと思う。




