第6話 庭番の責任
「奥方様」と呼ばれるのは久しぶりだった。しかもその声は、震えていた。
エストレーラ領の屋敷の玄関先に、三人の男女が立っていた。日に焼けた顔。使い古された外套。泥のついた靴。カラヴァス領の農民たちだった。
馬車で一日半の距離を、この人たちは歩いてきたのだろうか。
「奥方様。お願いです。畑が死にかけています」
先頭に立った中年の男が、膝をつきそうな勢いで頭を下げた。その隣の女が、布に包んだ何かを差し出す。開くと、枯れた麦の穂が入っていた。穂先が黒ずみ、粒が萎んでいる。
「害虫です。畑一面に湧いて、手がつけられません。蜂も来なくなって、果樹の実が全部落ちました」
穂を受け取った。指で触ると、穂の内側に虫食いの痕がある。菌のバランスが崩壊して、害虫の天敵が消えた結果だ。私の調律が途絶えれば、こうなることはわかっていた。
わかっていた。のに。
実際に枯れた麦穂を手にすると、指先が冷えた。この穂が実るはずだった畑の広さと、そこで暮らす領民の数を、私は知っている。何百人もの食卓から、パンが消えようとしている。
「奥方様、どうか。戻ってきてください」
◇◇◇
三人の後ろから、もう一人の人間が歩み出た。
王都から来たという農政官。きちんとした外套に、王家の紋章が入った書簡筒を腰に下げている。
「元カラヴァス侯爵夫人、ティア・ラトゥーア殿。王都農政局より参りました」
「……何の御用でしょう」
「カラヴァス侯爵領の農業生産が急激に低下しています。原因は植物魔法による生態系調律の停止。調律の停止は、あなたの離脱に起因するものです」
言葉は丁寧だが、目が責めている。
「つまり、私が元凶だと」
農政官の目が一瞬揺れた。しかし、すぐに書簡筒の紋章に手を添え、姿勢を正す。王家の権威を背負っている、という所作だった。その指先は白い。土に触れたことのない指だ。
「現状を放置すれば、領内で飢饉が発生する可能性があります。数百人の領民の生命に関わる問題です」
耳の奥が熱くなった。こめかみの血管が脈打っている。奥歯を噛むと、顎の筋肉が引き攣る。
あなたに何がわかる。あの土地の下を流れる水脈の深さを、冬に眠る種子の呼吸の遅さを、蜂が巣を作る方角の意味を。書簡筒の紋章で人を動かせると思っている人間に、土壌のpH値ひとつ答えられるのか。
喉の奥が詰まるように熱い。でも、声を荒げることはしなかった。七年間、侯爵家で身につけた唯一の技能が、感情を飲み込む筋力だった。
私は正当な手続きで離脱した。七年の契約を全うし、引き継ぎ書類を残し、庭師見習いに教えられることは教えた。法的には、もう他人だ。なのに「元凶」と呼ばれている。
同時に、領民の顔が浮かぶ。私が朝の巡回で挨拶を交わしていた農夫たち。温室で育てた薬草を分けていた村の薬師。収穫祭で笑っていた子供たち。
あの人たちは、悪くない。
「奥方様、お願いします」
農民の女が、両手を握りしめてこちらを見ていた。爪の間に土が入っている。畑仕事をする手だ。私と同じ手。
足元がぐらついた気がした。実際には動いていない。でも、心のどこかで地面が揺れている。根を張ったはずの場所が、急にぬかるみに変わったような感覚。
私が離れたのは、正しかったはずだ。あの土地を去る日、引き継ぎ書類に記した注意事項は三十七項目。季節ごとの調律手順も、害虫の初期兆候の見分け方も、全部書き残してきた。それを読まなかったのは、あちらの怠慢ではないのか。
けれど、麦穂の黒ずみが目に焼きついている。あの色は、菌糸が穂の内部まで浸食した末期の症状だ。ここまで来るのに少なくとも二ヶ月はかかる。つまり、私が去って一ヶ月目から、もう土壌は悲鳴を上げていた。
◇◇◇
ケイルが来たのは、農政官が二度目の説得を始めようとしたときだった。
「話は聞いた」
短く言って、私の横に立った。腕を組んで、農政官を見ている。
「あんたの判断を尊重する」
私に向かって言った。
「どちらを選んでも、ここはあんたの場所だ」
ここはあんたの場所だ。
その言葉が、揺れていた地面を静かに固めた。足元に芯が通る感覚。
「……戻りません」
自分の声が、思ったより小さかった。農民たちの顔から血の気が引くのが見えた。
「でも、方法を考えます。ここにいたまま、できることがあるはずです」
農政官が眉をひそめた。
「植物魔法の調律は、土地に直接触れなければ」
「遠隔での調律を試みます。成功するかはわかりません。でも、やる価値はある」
嘘は言えなかった。遠隔調律は理論上可能だが、実際に成功した例はほとんどない。私にできるかどうかもわからない。でも、「何もしない」以外の選択肢を探すことはできる。
農民たちが、小さく頷いた。希望なのか、諦めなのか。
農政官は何か言いたそうだったが、ケイルの視線に押されて口を閉じた。書簡筒を握り直す手が、わずかに白くなっていた。
◇◇◇
三人が去ったあと、玄関先で一人になった。
手に残った枯れた麦穂を見下ろす。穂先が夕日に照らされて、黒い影を落としている。
この穂を実らせていたのは、私の魔力だった。私が七年間、毎朝土に語りかけて、根の一本一本に魔力を通して、微生物のバランスを整えて、蜂の道を設計して。
それが全部、消えようとしている。
正直に言えば、痛快だと思った部分がある。「庭番」と蔑んだ人たちが、庭番がいなくなって困っている。それを「ざまあみろ」と思う自分がいる。唇の端が持ち上がるのを感じて、自分で自分の顔に手を当てた。
同時に、その自分が嫌だった。土壌が酸性に傾いていく速度を知っている。このまま放置すれば、地下水脈に影響が出る。井戸が涸れる。家畜が水を飲めなくなる。子供たちの喉が渇く。「ざまあみろ」と笑っている場合ではない。
腹の底に、石を飲み込んだような重さがある。
あの領民たちは、私を「庭番」と呼んだわけではない。旦那様が軽んじたのであって、畑仕事をする農民たちは、私の仕事を知っていた。知っていて、でも何も言えなかった。侯爵の妻を庇う立場にない人たちだった。
戻りません、と言った。
正しい判断だ。たぶん。
たぶん。
麦穂を、そっとポケットにしまった。捨てられなかった。この穂が、私の手の中で少しずつ乾いていく。土に還ることもできないまま。




