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庭師の妻が屋敷を出た日、薔薇が枯れ、蜂が消え、麦が実らなくなった  作者: 秋月 もみじ


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第5話 条件はつけない


芽が出ていた。昨日まで何もなかった土から、薄緑色の双葉が、ふたつ。


二週間が経っていた。


実験区画の一角に、私は毎日魔力を注ぎ続けた。朝と夕方の二回、土に手を当てて、根に語りかける。微生物の活動を促し、土壌の酸性度を緩やかに中和し、地下水脈の流れを調整する。


目に見える変化は遅い。でも、土の中では確実に何かが動いている。指先に伝わる振動が、日ごとに力強くなっていく。


今朝、ナタルが実験区画に来て、地面を見て、泣いた。


正確には、泣きそうになった。目を赤くして、何度かまばたきをして、唇を噛んで、こう言った。


「すげえ。すげえっすよ、ティアさん。この土、三年前に石灰を撒いてもだめだったんです。何をやっても草も生えなくて、もう捨てたほうがいいって話まで出てた場所で」


「ティアさん」と呼ばれることに、まだ慣れない。侯爵家では「奥方様」か、陰で「庭番」。どちらでもない呼び方が、くすぐったかった。


「石灰だけでは不十分なんです。土壌の菌のバランスが崩れているので、先にそちらを整えないと。いえ、菌というと語弊がありますね、正確には微生物の生態系というか、根と共生する菌根菌の密度が」


ナタルの目が泳ぎ始めた。話しすぎている。


「……ですので、もう少し時間をください」


「はい。何ヶ月でも」


ナタルの笑顔は、まっすぐだった。裏がない。この人は、植物魔法の理論を理解しているわけではない。ただ、土に芽が出たことが純粋に嬉しいのだ。


そういう反応を見るのは、久しぶりだった。


カラヴァス領で初めて薔薇を咲かせたとき、庭師見習いたちは拍手してくれた。でも旦那様の反応は「ご苦労」の一言で、翌月にはもっと多くの品種を求められた。成果は次の要求の踏み台になるだけだった。


ナタルの「すげえ」には、次の要求がなかった。ただ、芽が出たことが嬉しい。それだけ。


ティアさん、と彼は言った。奥方様でも、庭番でもなく。名前で呼ばれる心地よさを、私は少しずつ思い出している。


◇◇◇


午後、ケイルの執務室に呼ばれた。


契約の条件を正式に決めるためだという。私は背筋を伸ばし、椅子に浅く腰かけた。侯爵家の七年で身についた姿勢。こういうときだけ、令嬢の所作が出る。


「報酬は、成果に応じた後払いでいいですか。月ごとに面積と収穫量で」


「条件はつけない」


「……は」


「条件をつけたら、あんたは契約のために働く。つけなければ、土地のために働く」


ケイルは窓の外を見ていた。実験区画の方角。芽が出た、あの場所。


「土地が喜ぶほうがいい」


何を言われたのか、一瞬わからなかった。


契約の条件を聞きに来たのに、条件がない。報酬の交渉をするはずが、報酬の話にならない。


頭の中で、七年間の記憶が一瞬で巻き戻った。旦那様は常に成果を数字で求めた。薔薇が何輪咲いたか。収穫量が去年と比べてどうか。コストに見合う成果があるか。数字に出ない仕事は、存在しないのと同じだった。


この人は違う。


「土地のために」と言った。「あんたの成果」ではなく、「土地」を主語にした。


呼吸が深くなった。気づかないうちに浅くなっていた呼吸が、自然に戻っていく。肩の力が抜ける。いつから肩に力を入れていたのだろう。


口元がほころんだ。笑ったつもりはなかった。でも、頬の筋肉が勝手に動いた。


ケイルが、少しだけ視線を逸らした。


「……それで。最初に必要なものは」


「石灰岩の粉末。堆肥。あと蜂の巣箱があれば。受粉の媒介がいないと、いくら土を整えても」


「蜂は、ナタルが心当たりがある。明日には」


「ありがとうございます」


お礼を言った瞬間、胸のあたりが妙に詰まった。ありがとう、という言葉が自分の口から出たことに、自分で驚いている。


七年間、誰に何を感謝していたのか。温室の花に「ありがとう」と言ったことはある。人間に言うのは、久しぶりだった。


ケイルは「ああ」とだけ言って、視線を窓に戻した。沈黙。


居心地の悪い沈黙ではなかった。むしろ、何も言わなくていい空気というものが、世の中にはあるのだと初めて知った。カラヴァス家の沈黙はいつも冷たかった。ここの沈黙は、温室の中の空気に似ている。湿度があって、温かい。


ケイルの執務室の本棚に、一冊の本が目に入った。背表紙に「植物図鑑」の文字。版は古く、王立学院の刊行物のようだ。


植物に興味があるのだろうか。この人は土を主語にして話す人だから、あり得ない話ではない。


聞こうとして、やめた。今はまだ、聞かなくていい。


◇◇◇


翌日、ケイルが執務室に植物学の本を三冊積んでいた。


ナタルが教えてくれた。「伯爵様、昨日の夜から王都の書店に早馬を出して、植物魔法の専門書を取り寄せたんですよ。ティアさんの仕事を理解したいって」


本の背表紙を見た。『土壌調律の基礎理論』『菌根菌ネットワークの構造分析』『植物魔法使いの役割と代替可能性について』。


三冊目のタイトルで、指が止まった。


代替可能性。


ケイルに悪意はない。わかっている。この人は土地のことを考えて、植物魔法という分野そのものを理解しようとしただけだ。私が倒れたり、去ったりしたときの備えを、領主として当然考えるべきだと判断したのだろう。


でも、「代替可能性」という活字が、目の裏に焼きついた。


カラヴァス領でも同じだった。私がいなくても回る仕組みを求められた。私の技術を文書化しろと言われた。引き継ぎ可能な形にしろと。あなたがいなくても大丈夫なようにしろと。


胃の底が冷たくなった。


ケイルの執務室の前を通りかかったとき、中から声が聞こえた。


「ナタル、この本に書いてある菌根菌の話、あいつが言ってたのと同じだ。あいつの仕事は本に載るような内容なのか」


足が止まった。


この人は、私の仕事を「本に載るような内容」だと驚いている。庭番の仕事だと軽んじているのではなく、その逆。自分が何も知らないことに気づいて、慌てて勉強しようとしている。


でも、三冊目の本のタイトルが頭から消えない。代替可能性。あの言葉は、ケイルが選んだのではなく書店が見繕ったのだろう。けれど。


夕食の席で、ケイルが言った。


「植物魔法使いは、一人では足りないらしい。もう一人、探したほうがいいか」


善意だった。私の負担を減らそうとしている。一人で広大な領地を見るのは無理がある、という合理的な判断。


「……必要ありません」


声が硬くなった。自分でわかった。


ケイルが黙った。箸を置いて、こちらを見ている。何か間違えた、という顔。でも何を間違えたのかわからない顔。


「今は、一人で十分です。この規模なら」


それ以上説明しなかった。「代わりを探される」ことへの恐怖を、この人に説明する言葉が見つからない。ケイルは困った顔で首の後ろを掴んだ。あの癖。


ナタルが慌てて話題を変えた。「そ、そういえば三軒隣のばあちゃんが新しいチーズ作ったんすよ」


食卓の空気が少しだけ戻った。でも、ケイルは最後まで、時々ちらちらとこちらを見ていた。何を間違えたのか、たぶんまだわかっていない。


でも、間違えたことだけは、わかっている。その不器用さが、オルセンとは違うところだと、私は思った。オルセンは自分が間違えたことにすら気づかなかった。


◇◇◇


夕方、屋敷の庭をぐるりと歩いた。


ケイルの屋敷の庭は、カラヴァス邸と比べれば質素なものだ。花壇と呼べるのは玄関脇の一角だけで、あとは砂利と雑草。


でも、庭の隅に若い果樹が一本植えられているのに気づいた。


背丈はまだ低い。支柱に結ばれて、真っ直ぐに伸びている。葉は小さいが、色が濃い。丁寧に水をやっている形跡がある。


何の木だろう。近づいてみたが、この時期は花も実もなく、葉だけでは種類がわからない。ケイルが自分で植えたのか。伯爵自ら庭木を植えるというのは珍しい。


ちなみに、この果樹の横の土壌はpH5.8。悪くない。酸性寄りだが、果樹が育つ範囲内だ。


……また土の分析をしている。


部屋に戻ると、窓から実験区画が見えた。小さな芽が夕日に照らされて、影を伸ばしている。


明日は何を植えようか。ケイルの好物を聞いて、それに合う野菜を探してみたい。契約の条件はないけれど、この土地のために、自分にできることがある。


それが、今の私にはちょうどいい大きさの目標だった。


ナタルが夕食に地元のチーズを持ってきてくれた。山羊乳のリコッタ。柔らかくて、少し酸味があって、パンとの相性がいい。


「このチーズ、美味しいです。山羊は近くに?」


「三軒隣のばあちゃんが飼ってるっす。ティアさんのおかげで牧草が増えたら、もっとうまいのが作れるって言ってましたよ」


私の「おかげ」と言われるのにも、まだ慣れない。


この土地の食卓を変えることが、私にはできるのかもしれない。そう思ったら、チーズの味が少しだけ甘く感じた。


……たぶん、気のせいだけど。

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