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庭師の妻が屋敷を出た日、薔薇が枯れ、蜂が消え、麦が実らなくなった  作者: 秋月 もみじ


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第4話 土を舐めた女


「条件を聞かせてください」


「条件?」


「契約ですから。報酬と期間と、求められる成果を明確にしていただきたいのですが」


ケイル・エストレーラは眉を寄せた。腕を組み、視線を私の足元に落とす。昨日到着したばかりだというのに、もう靴の先に土がついている。玄関先の花壇の土を踏んだせいだ。正確には、踏んだのではなく、しゃがみ込んで触ったせいだ。


「条件はあとでいい。まず土を見せる。話はそれからだ」


「土を?」


「あんたが見るべきものは書類じゃなくて畑だろう」


反論できなかった。その通りだったから。


◇◇◇


案内されたのは、屋敷の東側に広がる荒地だった。


かつて畑だった場所。畝の跡がうっすら残っているが、今は雑草すら疎らにしか生えていない。土が硬く締まり、表面が白っぽくなっている。塩類集積。水はけが悪い証拠。


私は荷物を地面に置き、しゃがみ込んだ。


手袋は持っていない。いつも素手だ。土は素手でなければわからない。


指先で土を掬う。握る。崩す。粒の大きさ、水分量、粘土質の比率。指の間を通る感触で、およその組成がわかる。


それから、舐めた。


「……何してる」


ケイルの声が、背後で固まっている。


「味でわかるんです。酸性度が高い。pH4ぐらい。鉄分が多くて、有機物が少ない。石灰岩の粉末はありますか。あと、堆肥。できれば落ち葉を三ヶ月以上寝かせたもの」


一気にまくし立てて、はっとした。


「……すみません。つい。土のことになると、その、早口になるんです」


耳の付け根が熱い。また余計なことを。相手は伯爵だ。初対面で土を舐めて、しかも一方的にまくし立てるなんて。カラヴァス家の侍女たちが見たら、「ほら、庭番は庭番だ」と笑うだろう。


「いや、続けろ」


ケイルの声が変わっていた。さっきまでの無愛想さが消えて、何か別のもの。興味、だろうか。口角の片側が、ほんの少しだけ上がっている。


「石灰岩の粉末は倉庫にある。堆肥は……ナタルに聞けばわかる。落ち葉を三ヶ月ってのは、もう少し詳しく教えてくれ」


教えてくれ、と言われた。


庭の手入れの知識を「教えてくれ」と言われたのは、いつぶりだろう。指先の熱さが引いて、代わりに掌の内側がじんわりと温かくなった。


私は立ち上がり、畑の奥に目を向けた。枯れた古木が一本、幹が灰色に変色して立っている。周囲の草も避けるように生えていない。根腐れか、あるいは土壌の毒素が集中しているか。


近づいて、幹に手を当てた。


樹皮の下に、かすかに水が動いている感覚。薄い。とても薄い。でも、完全には止まっていない。


「大丈夫。もうすぐ楽になるからね」


口をついて出た言葉に、自分で驚いた。癖だ。どうしても止められない癖。枯れかけた植物を前にすると、声をかけてしまう。


「……あの木、返事するのか」


「しませんけど、聞いてはいるので」


真顔で答えた。冗談ではない。植物が音声を認識するわけではないが、術者の声には魔力が乗る。声をかけることで、微量の魔力が根に届く。理屈はそういうことだ。


ただ、理屈以前の問題として、私は植物に話しかけずにはいられない。旦那様には「気味が悪い」と言われた。見習いたちには笑われた。温室で一人きりの七年間、私の話し相手はずっと植物だった。


ケイルは何も言わなかった。笑いも、呆れもしなかった。ただ、首の後ろを右手で掴んで、黙って私と古木を交互に見ていた。


◇◇◇


その日の午後、私は実験区画を選定した。


畑の南東の一角。日当たりが良く、地下水脈に近い場所。指先を土に差し込み、目を閉じて魔力を通す。


根が、応えた。


地面の下、三十センチほどの深さに、古い根の残骸がある。何年も前に枯れた植物の根。でもその周囲の土壌には、微かに微生物が残っている。完全に死んだ土地ではない。


私は両手を土に埋め、ゆっくりと魔力を流した。根に語りかけるように。お前たちはまだ生きている。もう少しだけ待って。


指先が冷えた。魔力が体から土に移っていく感覚。疲労が足の裏から上がってくる。


どのくらいそうしていたか。日が傾いて、影が長くなっていた。


「……飯」


振り向くと、ケイルが立っていた。いつからそこにいたのかわからない。手に、パンと干し肉を載せた皿を持っている。


「あ。ありがとうございます。あの、もう少しだけ」


「飯が先だ」


有無を言わさない口調だった。でも、皿を差し出す手つきは荒くない。


パンを齧りながら、畑を見た。まだ何も変わっていない。変わるのは明日以降だ。


パンは黒パンで、少し酸味がある。この土地の麦で焼いたのだろう。土壌の酸性度が、パンの味にまで影響している。ここの土を改良すれば、もう少し柔らかくて甘みのあるパンが焼ける。


「このパンに合う薬草があるんです。ローズマリーを少し。ちなみにローズマリーは酸性土壌でも育つので、最初に植えるにはちょうどいいんですけど、ただ日当たりが」


話しすぎた。ケイルが黙ってこちらを見ている。


「すみません。ローズマリーの話は、今、関係ないですね」


「……悪くない」


何が悪くないのか、やはりわからなかった。


でも、地面の下で何かが動き始めた気配が、指先に残っていた。同時に、このパンを焼いた領民のことを少しだけ思った。この土地の味のパンを食べて育った人たちが、ここにいる。


◇◇◇


翌朝、実験区画に小さな芽が一つ出ていた。


昨日まで何もなかった土から、薄緑色の双葉。


ナタルという若い農政官見習いが、それを見て声を上げた。


「嘘だろ。昨日まで石みたいに硬かった土だぞ」


私は芽の横にしゃがみ、指先で土を寄せた。双葉が朝露を含んで光っている。昨日の魔力に応えて、地下の根が動き出したのだ。こんなに早く反応するということは、この土地はずっと待っていたのかもしれない。誰かが手を入れてくれるのを。


「おはよう。よく出てきたね」


小さく声をかけて、立ち上がった。ナタルが口を開けたまま固まっている。


「あの……芽に、話しかけてます?」


「ええ。朝の挨拶は大事ですので」


真顔で答えると、ナタルが「はあ」と不思議そうな顔をした。


ケイルは屋敷の窓からこちらを見ていた。カーテンの陰に立っている。こちらに気づいていないと思っているのかもしれないが、私は視線には鈍いくせに気配には敏感だ。七年間、温室で一人きりだった人間は、空気の流れで人の存在がわかるようになる。


片方の口角だけが、上がっていた。

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