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庭師の妻が屋敷を出た日、薔薇が枯れ、蜂が消え、麦が実らなくなった  作者: 秋月 もみじ


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第3話 最初の枯れ


温室の扉を開けたとき、メリッサは最初に匂いの変化に気づくべきだった。昨日まであった甘い花の香りが、もう、ない。


「枯れてる? ……なぜ」


三番棚の蘭が、一晩で葉を丸めていた。白い根は茶色く変色し、花芽がだらりと垂れ下がっている。隣の棚の薬草も、先端から黒ずみ始めていた。


メリッサはオルセンの書斎に走った。


「侯爵様、温室に異変が。薬草の一部が枯死の兆候を」


オルセンは書類の束を脇に寄せ、眉を上げた。


「水やりの不備だろう。庭師見習いに任せてあるはずだ」


「確認しましたが、水はやっています。量も適切なはずです」


「ならば病気か。学院で習ったことを活かしてくれ」


メリッサは温室に戻り、自分の知識を総動員した。葉の変色パターンからカビ性の病害を疑い、殺菌処理を施す。水の量を調整し、温度管理を見直し、通気口の角度まで変えた。


三日後。殺菌剤の濃度を間違え、希少な薬草が三株、完全に枯死した。


「なぜ。教科書通りにしたのに」


庭師見習いのひとりが、俯いたまま呟いた。


「奥方様は、殺菌剤を使いませんでした。土の中の菌のバランスを魔法で整えていたので」


メリッサは見習いを睨んだ。


「前時代的なやり方ね。科学的なアプローチのほうが合理的よ」


見習いはそれ以上何も言わなかった。ただ、枯れた薬草の根を静かに片付けていた。その手つきが丁寧で、根を傷つけないように指先で土を払っている。奥方様にそう教わった、と言わんばかりの動作だった。


メリッサはそれを見ていない。すでに次の棚に向かい、別の薬草の葉裏を確認している。確認しながら、棚に肘が当たって小さな鉢が揺れた。中身は多肉植物。水を控えめにすべき種だが、メリッサはそれを知らない。


温室の奥の窓硝子に、朝日が差し込んでいた。七年間、この時間になるとティアが窓を少し開けて換気していた。今日は誰も窓に触れない。温室の湿度が、ゆっくりと上がり始めている。


◇◇◇


その夜、オルセンは書斎で報告を受けた。


「温室の被害は拡大しています。原因は特定できません」


家令のマルタが差し出した引き継ぎ書類を、オルセンは初めてまともに見た。四冊の手順書。几帳面な文字で、季節ごとの管理方法が事細かに記されている。


ただし最後の頁に、こう書かれていた。


「魔法的調律については文書化が困難です。申し訳ありません」


オルセンは書類を閉じた。


「植物魔法の使い手を探せ。王都の学院に問い合わせろ」


マルタは頷いた。ただし、その表情に浮かんだ何かを、オルセンは読み取れなかった。マルタには見えていた。この引き継ぎ書類の行間に滲む、七年間の重みが。


窓の外、庭園の薔薇が月明かりの下で揺れていた。花弁の色がいつもより淡い。


それに気づく人間は、この屋敷にはもういなかった。


翌朝、庭園の端にある蜂の巣箱を見回りに行った庭師見習いが、一つの巣箱が空になっていることに気づいた。蜂が一群、巣を放棄している。


見習いはマルタに報告した。マルタは、報告書の日付の横に小さく印をつけた。奥方様がいなくなって、三日目のことだった。


◇◇◇


馬車が揺れる。


荒地に入ってから、道が悪くなった。石が多く、轍が深い。窓の外の景色が変わっていく。カラヴァス領の整備された農地が消え、灰色がかった平原が広がる。


草が少ない。木はあるが、葉が小さい。根を張る力が弱い土地だと、見ただけでわかる。


エストレーラ伯爵領。


事前に調べた情報は少なかった。先代の伯爵が放漫経営で領地を荒廃させ、現当主が立て直しを図っているが、農業生産は低迷している。植物魔法の使い手を求めているのは、それが理由だろう。


馬車が丘を下りると、小さな集落が見えた。石造りの家が十数軒。屋根の補修が行き届いておらず、壁に蔦が絡まっている。


蔦の種類を見て、私は少し安心した。この蔦は水分を好む。つまり、地下水脈はまだ生きている。完全に死んだ土地ではない。


いえ、「安心した」は少し違う。手が疼いた、というのが近い。この土地に触りたい。指を土に差し込んで、地下の水脈がどこを走っているか、根がどこまで伸びているか、確かめたい。何ができるか知りたい。


植物魔法使いの職業病みたいなものだ。枯れかけた土地を見ると、放っておけない。ちょうど、道端で転んだ子供を見過ごせないのと同じ感覚で。


ただし、私の場合は人間より土のほうが先に目に入る。それが問題なのかもしれない。


馬車が屋敷の前で止まった。


カラヴァス侯爵邸と比べれば、ずいぶん小さい。石造りの二階建て。壁は白いが所々ひびが入っていて、玄関脇の花壇は土がむき出しになっている。花壇にしようとして途中でやめたのか、それとも花が枯れたのか。


屋敷の前に、一人の男が立っていた。


背が高い。日に焼けた肌。袖をまくった腕に、土の汚れがこびりついている。貴族の格好ではない。ただ、足元の靴だけはしっかりしていた。実用的な革靴。よく歩く人の靴。


「あんたが植物魔法使いか」


低い声。短い言葉。敬語が、ない。


「はい。ティア・ラトゥーアです。エストレーラ伯爵様は」


「俺がそうだ」


伯爵、という肩書きから想像していた人物像と、目の前の男はかなり違った。社交界の洗練された物腰も、書斎に閉じこもる学者然とした雰囲気もない。どちらかというと、畑仕事から戻ってきた農夫に近い。


ただ、目が違った。こちらを見る目に、値踏みするような鋭さがある。社交辞令で取り繕う気配がない。


「長旅で疲れただろう。部屋に案内する。荷物は」


「鞄一つです」


「……それだけか」


「はい。あとは、この手があれば」


自分の手を広げてみせた。土で汚れた爪。剪定鋏の柄で硬くなった掌。侯爵夫人の手ではない。庭番の手。


ケイル・エストレーラは、私の手を一瞬見て、視線を逸らした。首の後ろに右手をやる。


「……悪くない手だ」


何が悪くないのか、よくわからなかった。


風が吹いた。荒地の乾いた風。花の匂いがしない代わりに、遠くの山の土の匂いがする。鉄分を含んだ、少し錆びた匂い。酸性寄りの土壌に特有の、あの匂い。


私はその匂いを、深く吸い込んだ。


この土地は、怒っている。でもまだ、死んではいない。

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