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庭師の妻が屋敷を出た日、薔薇が枯れ、蜂が消え、麦が実らなくなった  作者: 秋月 もみじ


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第2話 白い結婚の七年


馬車が揺れるたびに、荷物の中の植物図鑑がかたかたと音を立てる。


革の背表紙と座席の木枠がぶつかる、乾いた音。父の字で書き込まれた余白の注釈が、揺れに合わせてぱらぱらと頁をめくるように見える。


「ムラサキツユクサの根は酸性土壌を好む。ただし過湿に注意」。父の几帳面な筆跡。その横に、私が十二歳のときに書き足した走り書き。「酸っぱい土は舐めたらわかる」。


あの頃は、土を舐めることが恥ずかしいなんて思わなかった。


◇◇◇


七年前の春。


カラヴァス侯爵領に嫁いだ日、私は十九歳だった。


ラトゥーア男爵家の長女。実家は小さいけれど、代々植物魔法の使い手を出す家系で、その一点だけが私の値打ちだった。


契約書の文面は覚えている。「七年間の婚姻契約。カラヴァス侯爵領の土壌再生を目的とし、期間満了時に更新の意思を双方確認する」。


持参金の代わりに差し出したのは、私の魔法。父は「技術こそが最大の持参金だ」と言った。母は泣いていた。


嫁入りの馬車を降りて最初にしたこと。庭の土を掬って舐めた。


侍女たちの視線が突き刺さった。花嫁の衣装のまま、地面にしゃがみ込んで土を口に入れる女を、どう思っただろう。


でも舌は嘘をつかない。あの土は酸っぱくて、鉄の味がして、苦かった。栄養が偏って、生き物の気配が薄い土。先代が鉱石採掘のために森を切り開き、表土を削った跡だと、すぐにわかった。


この土地は、飢えている。


そう思った瞬間、私の中で何かが決まった。この土を、治す。


◇◇◇


最初の一年は希望に満ちていた。


私は毎日温室と畑を行き来し、土壌の調律に没頭した。根に手を当て、魔力を通し、土の中の微生物と対話する。少しずつ、少しずつ、土が柔らかくなっていく。


旦那様は忙しい人だった。社交と政務で、邸にいる日のほうが少ない。新妻に関心を示さないことを、最初は「仕方がない」と思った。侯爵家の当主だもの、庭番の相手をしている暇はないだろう。


一年目の秋、初めて薔薇を咲かせた日。旦那様の書斎に花を一輪持っていった。「見てください、咲きました」と言ったら、旦那様は書類の山から一瞬だけ目を上げ、「ああ、ご苦労」と言って視線を戻した。


ご苦労。


使用人に労いの言葉をかけるのと同じ口調だった。いえ、使用人にはもう少し温かかったかもしれない。


あの薔薇をどうしたか、もう覚えていない。たぶん温室に持ち帰って、水に挿したのだと思う。


いえ。「庭番」と呼ばれたのは、もう少し後のことだ。


三年目。


メリッサ・ヴォーンが王立学院から研究員として招かれた。植物学の論文で賞を取ったという女性。旦那様は彼女を食堂に招き、書斎に通し、社交の場に連れ歩いた。


私の研究ノートを貸してほしいと言われたのは、その頃。彼女は「参考にしたいだけ」と言った。半年後、学院の紀要に掲載された論文は、私のノートの内容そのものだった。著者はメリッサ・ヴォーン。私の名前はどこにもない。


旦那様に訴えた。「あれは私の研究です」と。


旦那様は書類から目を上げず、こう言った。


「庭の手入れの記録を論文と呼ぶのか」


顔を上げてほしかった。せめて私の目を見て言ってほしかった。


でも旦那様の視線は書類の上に固定されたまま、私を通り越して窓の外を見ることすらなかった。窓の外には、私が二年かけて蘇らせた果樹園が広がっていたのに。


あの日から、私は「庭番」になった。


使用人たちの態度が変わった。それまでは「奥方様」と呼んでくれていた侍女の何人かが、陰で「庭番の方」と言うようになった。マルタさんだけが変わらず「奥方様」と呼び続けてくれた。あの人は、私が毎朝どれだけの仕事をしているか、見ていてくれたから。


◇◇◇


五年目の冬の夜。


温室で一人、月見草の植え替えをしていた。


月見草は夜に咲く。暗い温室の中で、淡い黄色の花弁がぼんやり光っている。


涙が落ちたのは、花弁の上だった。


泣いたのはその夜だけだ。いえ、泣くのを許したのがその夜だけだった、というのが正確かもしれない。


月見草は、涙で濡れても翌朝には乾いている。誰にも知られない。花は何も言わないけれど、ただ、隣にいてくれた。


あの温室の湿度は冬でも六十五パーセントを保っていた。人の涙なんか、すぐに空気に溶ける。そういう場所だった。私にとっては。


あの夜、私は土に誓った。泣くのはこれで最後にする。この土地が私を必要としている限り、私はここにいる。でも、契約が終わったら。


終わったら、私は。


◇◇◇


七年目。


契約満了の半年前に、更新の意思確認の書簡が届くはずだった。


届かなかった。


代わりに社交界の噂が届いた。カラヴァス侯爵が、ヴォーン嬢を次の妻候補として紹介している、と。


期限が来た。法的手続きは明快だった。更新通知がない場合、契約は自動解消される。私は実家の姓に戻り、侯爵家との一切の関係を失う。


一切の関係。


この温室も。この畑も。この薔薇園も。私が根を張った場所の全部。


準備は半年かけた。引き継ぎ書類を整え、庭師見習いに基本的な管理方法を教え、マルタさんに事情を話し、馬車を手配した。


そして最後に、温室の隅の土に、銀木犀の種を三粒。


いつか、芽が出るかもしれない。出ないかもしれない。私の調律がなくなった土壌で、あの種が生きられるかどうか、正直わからない。


でも埋めた。


この温室が、私のことを忘れないように。


いえ。それも違う。


私が、この温室のことを忘れないように。


◇◇◇


馬車の窓の外、景色が変わり始めていた。


カラヴァス領の整備された農地が途切れ、手入れの行き届かない荒地が見え始める。


私はこの先の土地を知らない。エストレーラ領。荒廃した辺境。人手も資源も足りない小さな伯爵領。


そこから届いた一通の手紙だけが、今の私の行き先だった。


「植物魔法の使い手を探しています。条件は面談時に」


短い文面。筆跡は太くて、少し歪んでいた。几帳面な人の字ではない。紙の端が少し汚れていて、土の匂いがかすかに染みついている。書斎ではなく、外で書いた手紙なのだと思った。


鞄の中で植物図鑑がまた音を立てる。


その先に何があるのか、まだわからない。でも少なくとも、ここではないどこかに、私が手を入れるべき土がある。


それだけは、確かだと思えた。

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