第10話 根を張る
朝露を含んだ花弁が、指先に触れると冷たい。この冷たさを知っている。季節が、ちゃんと巡っている証拠。
エストレーラ領に来て三ヶ月。実験区画だった場所は、今では本格的な畑になっていた。菜の花が一面に咲いて、朝日を受けて金色に光っている。蜂が忙しそうに飛び回り、風が花粉を運んでいる。
私が手を入れた土地が、自分の力で回り始めている。
嬉しいのに、少しだけ寂しい。植物が私を必要としなくなっていく過程は、子供が親離れするのに似ている。いえ、私に子供はいないから、その比喩は正確ではない。ただ、根が自立していく感覚。それだけは確かだった。
◇◇◇
学院への返事を書いた。
「ご招聘ありがとうございます。大変光栄に存じます。つきましては、苗の植え替え時期と重なるため、三ヶ月後に伺ってもよろしいでしょうか」
ナタルが手紙を読んで目を丸くした。
「王立学院からの招聘を、苗の植え替えで延期するんですか」
「苗は待ってくれませんから」
「……ティアさんって、やっぱりすごい人っすね」
何がすごいのかわからなかった。植え替え時期に植え替えるのは当然のことだ。
ケイルは何も言わなかった。ただ、手紙を出しに行くナタルの背中を見て、口角が上がっていた。片方だけ。
◇◇◇
午後。花畑を歩いた。
ケイルが隣にいた。二人で畑の端を歩くのは、最近の日課になりつつある。歩きながら、畑の状態を報告する。ケイルは黙って聞いている。時々「ああ」と言う。
「南の区画、来月には蕪が収穫できると思います。あと、ローズマリーがよく育っていて、これはパンに練り込むと」
「ティア」
名前を呼ばれた。前触れもなく。
「は、はい」
「花を摘もうと思ったんだが」
ケイルの手が、菜の花に伸びかけていた。
「あ、だめです。それはまだ種を飛ばす前なので。摘むなら向こうの、もう種を落とした株から」
「……そうか」
ケイルが手を引っ込めた。首の後ろを掴む。あの癖。
沈黙が落ちた。いつもの沈黙とは違う種類の沈黙。ケイルの肩が、少しだけ上がっている。安心のしるしではない。緊張の。
「ケイル様?」
「ケイルでいい。何度も言ってる」
「ケイル、さ」
「……この土地は、お前のおかげで生きている」
「いえ、土地の力があったからこそ私の魔法が」
「聞け」
声が少し大きくなった。ケイルにしては珍しい。
「この土地は、お前のおかげで生きている。でも、俺がここにいてほしいのは、土地のためじゃない」
風が止まった。いえ、風は吹いている。菜の花が揺れている。蜂が飛んでいる。世界は動いている。止まったのは、私のほうだ。
ケイルが、こちらを見ていた。まっすぐに。いつもは逸らす視線を、今日は逸らさない。
「お前が畑で花に話しかけてるのを見てると、胸のこのへんが、その。うまく言えないが」
言葉が足りない。文が完成しない。ケイルの表現力は、いつだって言葉の手前で止まる。
でも、足りないままの言葉が、今日は全部聞こえた。
指先が温かい。足の裏が、土の温度を感じている。立っている場所の土が、柔らかい。私が三ヶ月かけて整えた土。
「根を張ってもいいですか」
声が出た。考えるより先に。
「この場所に」
ケイルが、両方の口角を上げた。
初めて見る表情だった。片方だけじゃない。両方。笑っている。この人は、こんなふうに笑うのだ。
「最初から、そのつもりで木を植えた」
無花果の木のことだ。私が来る前に植えた、あの木。
根を張る。そう言った自分の言葉が、じわじわと体の中に染みていく。植物魔法使いらしい言い方だと思った。でも、これ以上正確な表現を、私は知らない。
根を張るとは、その場所を選ぶこと。ここに生き、ここで育ち、ここで花を咲かせると決めること。
七年間、カラヴァス領で根を張ろうとした。でもあの土地は、私の根を受け入れなかった。正確に言えば、私の根を必要としていたのに、それに気づく人がいなかった。硬い岩盤の上に根を伸ばし続けて、どこにも届かなかった七年間。
ここは違う。
この土地は、最初から私を呼んでいた。そして、この人も。
足の裏から、土の温もりが靴底を通して伝わってくる。三ヶ月前、初めてこの畑に立ったとき、土が柔らかいと思った。耕されていないのに、柔らかかった。待っていたのだ、この土は。誰かが手を入れてくれるのを、ずっと。
ケイルの手が、不器用に菜の花を一本折った。種を落とし終えた株だった。ちゃんと、さっき教えたことを覚えている。
「やる」
一本の菜の花。茎が少し曲がっている。花弁が三枚だけ残っていて、残りは風に飛ばされたのだろう。完璧ではない花。でも、この人が選んで、この人の手で折った花。
受け取った。茎がまだ温かい。日に当たっていた側の温度が、指に移る。
◇◇◇
夕暮れ。
屋敷の前の花壇に、小さな花が咲いていた。いつのまにか、雑草だらけだった花壇に、ナタルが花の苗を植えてくれたらしい。子供たちが毎朝水をやっているという。
カラヴァス領からの報告が続いている。遠隔調律の効果で、最低限の収穫は確保できる見込みだという。飢饉は回避された。ただし、完全な復興には新しい植物魔法使いの着任が必要で、王都の学院が候補者の選定を始めている。
オルセンは社交界での発言力が落ち、メリッサの論文盗用が公になったことで、「侯爵家の研究の知性はあの妻のものだった」と噂されている。
私には、もう関係のないことだった。ポケットの中の枯れた麦穂を取り出して、花壇の隅に埋めた。枯れた穂から芽が出ることはない。でも、土に還ることはできる。
「お姉さん、何埋めてるの」
子供たちが覗き込んでくる。
「おまじない。土に、ありがとうって言ってるの」
「おまじない! わたしもやる!」
子供たちが次々に花壇にしゃがみ込み、土に向かって「ありがとう」と言い始めた。ナタルが慌てて止めようとしたが、ケイルが「放っておけ」と言った。
窓から差す夕日が、花壇を橙色に染めている。
ケイルが屋敷の石壁に背を預けて、こちらを見ている。腕を組んで。片方の口角だけ。いや、今日は両方、上がっている。
「おはよう」
花壇の花に、声をかけた。夕方だけど。朝の挨拶を、夕暮れに。
もう、恥ずかしいとは思わなかった。この土地と、この人たちが、私の声を待っている。




