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庭師の妻が屋敷を出た日、薔薇が枯れ、蜂が消え、麦が実らなくなった  作者: 秋月 もみじ


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第1話 最後の水やり


「三番棚の蘭には、三日に一度。忘れないでね」


温室の湿った空気が肌に張りつく。夜明け前の薄闇の中で、私は如雨露の水を細く傾けた。


蘭の根に水が触れると、白い根がわずかに動く。ほんの一瞬、指先に伝わる微かな脈動。七年間、毎朝感じてきた反応だった。


今日で最後になる。


棚の端から端まで、一鉢ずつ。薬草の苗には霧吹きで、多肉の群生にはほんの数滴。どの鉢がどれだけの水を欲しているか、私の指は覚えている。というか、指だけが覚えている。頭で考えるより先に手が動いて、如雨露の角度が変わる。


三番棚の奥にある原種の蘭。この子は水温にうるさくて、冷たすぎると根が硬くなる。だから冬の間は温室の端に置いた水を一晩かけて室温に馴染ませてから、朝一番に――。


……誰に説明しているのだろう、私は。


この温室に、私の話を聞く人間はいない。七年間、一度もいなかった。だから私は植物に話しかけることを覚えた。蘭に語りかけ、薔薇に相談し、薬草の芽に「おはよう」と声をかける。


おかしな癖だと思う。でもやめられなかった。声を出さないと、ここが自分の居場所だと信じられなくなりそうだったから。


七年分の朝が、この指の中に積もっていた。


◇◇◇


温室を出ると、廊下の窓から東の空がようやく白み始めていた。


私の靴音だけが石の床に響く。こんな時間に起きている使用人はいない。いえ、正確には、こんな時間に温室にいるのは私だけだった。七年間、ずっと。


家令のマルタさんの部屋の前で足を止めた。扉の下の隙間に、封をした書類の束を差し入れる。


土壌管理手順書。季節ごとの作付計画書。薬草栽培マニュアル。庭師見習いへの引き継ぎ事項。全部で四冊。この半年をかけて書き上げた。


ただし、魔法的調律の手順は書けなかった。あれは言葉にできない。土に手を当てたとき、根が何を求めているかを感じ取る。その感覚を文字にする方法を、私は知らない。


マルタさんなら、わかってくれる。わかった上で、困るだろうけれど。


◇◇◇


二階の廊下を渡るとき、書斎の扉の向こうから声が聞こえた。


低い笑い声。それから、もう一つ、高い声。


メリッサ・ヴォーンの声だった。


足を止めなかった。止める理由がない。三年前に初めてあの笑い声を聞いた夜は、廊下で立ち尽くした。二年前は早足で通り過ぎた。一年前からは、聞こえても歩く速度が変わらなくなった。


慣れた、と言えばそうなのかもしれない。いえ、慣れたのとは違う。


根が枯れたのだ。


夫に対して何かを期待する根が、いつのまにか水を吸うのをやめていた。枯れた根は痛まない。痛まないから、歩く速度も変わらない。


◇◇◇


自室に戻ると、荷造りはすでに終わっていた。


革の旅行鞄が一つ。着替えが数着。銅の剪定鋏。真鍮の土壌測定具。父の植物図鑑。七年分の書き込みが詰まった、私の唯一の財産。


窓の外では、庭園の薔薇がまだ眠っている。七年前、私が最初に手を入れたのがあの薔薇園だった。土壌の酸性度を調整し、根に魔力を通し、三ヶ月かけて花を咲かせた。


旦那様は一度も見に来なかった。


社交界では「カラヴァスの薔薇園」として評判になった。旦那様は宴席で「うちの庭は自慢でしてね」と語ったと、侍女から聞いた。誰が咲かせたかは、一度も話題にならなかったらしい。


あの薔薇は、私がいなくなったら枯れる。わかっている。調律が切れれば、三日もたない。棚の蘭も。果樹園の木も。畑の麦も。


それでも、私は行く。


七年の契約は満了した。更新の通知は来なかった。法的には、すでに他人だ。


鞄の底に、小さな紙包みを忍ばせた。種が三粒。銀木犀の種。実家の庭から持ってきて、ずっと温室の引き出しにしまっていたもの。


温室の片隅の、誰も見ない場所の土に、朝の水やりのついでに埋めておいた。


なぜそんなことをしたのか、自分でもよくわからない。ただ、何も残さずに去るのは、というか、この温室と私の間に何もなかったことにするのは、少しだけ嘘になる気がした。


◇◇◇


正門は重い。両開きの鉄扉を、使用人の手を借りずに押した。


蝶番が軋む音。朝の空気が顔にあたった。


夜明けの風は、温室の中の空気とは全然違う。湿度が低くて、少し冷たくて、どこか遠くの野花の匂いが混じっている。


振り返らなかった。


いえ、正確に言えば、振り返りたくなかった。振り返ったら、庭園の薔薇が目に入る。あの薔薇を置いていくことを、体が受け止めきれない気がしたから。


足元に、昨夜の雨で落ちた花弁が一枚。門扉の隙間から漏れた風に運ばれたのだろう。白い花弁を踏まないよう、一歩横にずれた。


最後まで、こういうことをしている自分がおかしかった。


門の外に馬車が待っていた。昨夜のうちに手配しておいた、商人の乗合馬車。御者が帽子を上げて挨拶する。


「東へ。エストレーラ領まで」


鞄を抱えて座席に収まると、馬車が動き出した。


車輪が石畳を離れ、土の道に入った瞬間、音が変わる。硬い反響が消えて、柔らかい振動に変わった。


ああ、と思った。


この振動を、私は知っている。土の上を走る音。温室の外の、広い世界の音。


肩の力が抜けた。同時に、鼻の奥がつんとした。


この二つの感覚が同時に来ることを、なんと呼べばいいのか、私にはわからなかった。


解放、と言えば近い。でも、ただの解放ではない。根を引き抜いた痛みが、まだ指先に残っている。


馬車の窓から、朝日が差し込んだ。


私の膝の上の植物図鑑の表紙が、金色に光る。父の字で「ラトゥーア家 植物誌」と書いてある。


この図鑑だけが、七年間ずっと私の味方だった。ページの間に挟んだ押し花が、何枚か落ちた。拾って、元の場所に戻す。


もう私の土ではない。でも、この図鑑は私のものだ。


◇◇◇


馬車が丘を越えたとき、カラヴァス邸の温室の屋根が小さく見えた。


ガラスの屋根が朝日を受けて光っていた。あの光の下で、私は毎朝、土と話していた。


あの温室の中で、最初の薔薇の花弁が、今まさに落ち始めているはずだった。

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