【第60話:銀の指先と錆びた誇り】
【Scene 1:琥珀色の沈殿と黄金の燃料】
目が覚めたとき、壁時計の針は11時を回っていた。 アラームをかけずに眠るという行為。それが、三週間に及ぶ倉庫改修の現場指揮を終えた体に対する、俺なりの唯一の報酬だった。体が少し軽く、そしてひどく空腹だった。
シャワーを浴び、作業着ではなくラフなジャケットを羽織る。 ポケットには、プラスチックの持ち手がすり減った軽トラの鍵と、スマホだけ。 二月の北海道にしては珍しく乾いたアスファルトの上を、俺の相棒は軽快な音を立てて走った。
錆びたボディだが、荷台の下にあるミッドシップエンジンはバイクのように軽く吹け上がる。
目的地は駅裏の雑居ビル。その地下にある、古びた純喫茶『煉瓦』だ。
重厚な木の扉を押すと、カウベルが低く、湿った音を立てた。 昼前だが、店内は薄暗い。 長い時間をかけて壁に染み付いた紫煙の匂いと、深く焙煎された豆の香りが混じり合い、一種独特な静寂を作っている。 俺は無言で会釈し、いつもの店の奥、煉瓦の仕切りに隠れたコーナー席へと足を向けた。
ドサッ。
赤いビロード張りのソファに体を沈める。 バネが少しへたり、俺の体重を包み込むように受け止めるこの感触が悪くない。 お冷を持ってきた白髪のマスターに、俺はメニューも見ずに短く告げた。
「ホットサンドとブレンド。あと、食後にアフォガードを」
「かしこまりました」
マスターが静かに下がり、再び静寂が戻る。 俺はポケットからタブレットを取り出し、昨日の夕方、ヴェルがこれ見よがしに表示した決算予測の数字を、指先でなぞった。
【経常利益予測:18,100,000円】
1800万。 通帳に印字されれば、ただの数字の羅列だ。だが、この数字には重みがある。 設立一年目の零細企業が、汗と油と、そして徹底的な効率化で捻り出した『純粋な果実』だ。
問題は、今日が二月末だということだ。 このまま決算を迎えれば、国は喜んで30%以上の税金を持っていく。 だが、俺はそれを『奪われる』とは思わない。
俺たちが毎日走っているこのアスファルト。水道から出る清潔な水。現場の安全を守る警察や消防。 それらを使わずに、俺たちは商売ができているか? 否だ。物理的なインフラへの依存度は100%だ。
「税金は『罰金』じゃない。この日本というプラットフォームを使うための『利用料』だ」
俺は運ばれてきた黒い液体を一口啜った。 苦味の中に、微かな酸味が広がる。 利益が出たなら、それを払うのは商売人としての最低限の規律だ。 1800万の利益が出たからといって、慌てていらない外車を買ったり、無駄な設備投資をして金を減らす。それは『節税』という名のただの浪費だ。 そんなことをすれば、会社のキャッシュフローは痛み、本当に必要な時に動けなくなる。
まずは300万。いや、消費税も含めればもっとか。とにかく、払うべきものは耳を揃えて払う。 それが、俺たちがこの国で『胸を張って商売をする』ためのパスポートだ。
カチャリ、と皿の音がした。 焼きたてのホットサンドが目の前に置かれる。 俺は熱々のサンドを手に取り、思考を巡らせる。
納税は義務だ。だが、払った後に残る1000万強のキャッシュ。 これをどうする? ただ内部留保として眠らせておくのは、死んだ金だ。
事務所の建設? 却下だ。今の納屋でも十分に機能している。見栄えの良い箱を作ったところで、中身が変わるわけじゃない。それに、たった一ヶ月で建設なんて物理的に間に合わない。
ヴェルのサーバー増強? 今のスペックで困っていない。猫動画のために金をかけるのは投資ではなく趣味だ。
どこかの団体に寄付? 論外だ。俺が汗水垂らして稼いだ金が、どこの誰とも知れない天下り役人の給与や、意味のない会議費に消えるのは我慢ならない。使い道の見えない金ほど、虚しいものはない。
「金はあるが、使い道がない。贅沢なバグだな」
俺は独りごちて、冷たい水で喉を湿らせた。 その時だった。
カラン、コロン。
再び、店の扉が開く音がした。 俺は思考を中断し、何気なく入り口に目をやった。
「あ、ここここ。落ち着くでしょ?」
「へえ、駅裏にこんな店あったんだ。智子、よく知ってるね」
聞き覚えのある声。 俺が眉をピクリと動かすと同時に、入ってきた女性と目が合った。 オフホワイトのコートに身を包んだ、少しリラックスした表情の智子だ。彼女は俺の顔を見るなり、目を見開き、そして瞬時に「CFOの顔」になりかけた。
「……社長」
「休みだ。仕事の話なら月曜に聞く」
俺はカップを持ち上げ、短くそれだけを告げて視線を逸らした。 智子は一瞬きょとんとしたが、すぐにフッと柔らかく笑った。
「そうね。お邪魔しました。行きましょ、奥の席へ」
彼女は友人を促し、俺の背中合わせにあるボックス席へと消えていった。 俺は安堵の息をつく。 ちょうど、マスターが小さなガラスの器を運んできたところだった。 バニラアイスに、熱いエスプレッソが別添えになったアフォガード。 俺は熱い黒い液体を、冷たい白に回しかけた。
俺はスプーンで溶けかけたアイスを口に運んだ。甘さと苦さが脳に染みる。 背後からは、友人らしき女性の、少し疲れたような声が漏れ聞こえてきた。
「……でさ、また予算会議で揉めたのよ。物価は上がってるのに、給食費の徴収額は据え置き。親御さんの負担を増やせないのはわかるけど、今のままじゃカロリー計算を合わせるのが精一杯」
「大変ね。またメニュー変更?」
「ええ。来月から米のランクを落とす案が出てるわ。地元の農家さんのお米を使いたいけど、予算オーバーなの。……子供たちに『美味しい』って言ってもらいたいのに、私たちがやってるのは『栄養素の数字合わせ』だけ。調理場の皆さんも『こんなパサパサのご飯、出したくない』って……」
栄養士らしき女性の声が、微かに震えていた。 俺の手が止まる。 数字合わせ。コストカット。現場の悲鳴。 それは、俺がメーカー時代に嫌というほど見てきた、腐敗した組織の末路そのものだった。
「……パサパサの飯、か」
俺はスプーンを置いた。 俺たちの周りには、田中のように「特A」ランクの米を作っている農家がいる。だが彼らは農協に安く買い叩かれている。市場価格の100に対して、買取は精々60だ。 一方で、予算不足でその「良い米」を食えない子供たちがいる。 本来繋がるべき需要と供給が、金というノイズで分断されている。
俺の中で、回路が繋がった。
「60だ」
俺は小声で呟いた。 事務所も、サーバーもいらん。 俺はこの1800万の一部を、『米』に変える。
田中のような農家から、農協を通さずに直接買い取る。 価格は市場の八掛け。農協の買取価格(六割)より二割高い。 田中たちは利益が増え、俺は市場価格より安く手に入れられる。 そして、その米を地元の小学校へ現物で流す。
これは単なる慈善事業じゃない。 まず、農家に「佐藤は味方だ」「高く買ってくれる」と骨の髄まで刷り込める。 そうすれば、今後トラクターが壊れた時、彼らは誰に修理を頼む? 間違いなく俺たちだ。 これは、将来の修理依頼を独占するための最強の『営業活動』になる。
そして、子供たちが美味い飯を食えば、その親たちの俺たちに対する心証も変わる。 デメリットは、俺のキャッシュが減ることと、来年も期待されることくらいか。フン、毎年1800万稼ぎ続ければいいだけの話だ。
俺はカップに残ったエスプレッソを飲み干し、伝票を掴んだ。 思考のデフラグは完了した。 金(利益)を、米(信用)に変える。 このプランを実行するためには、まずこの街の『重鎮』に筋を通す必要がある。
俺は席を立った。 背後の席では、まだ栄養士が「美味しいものを食べさせたい」と嘆いている。 今は黙って通り過ぎる。 だが、週明けには、その嘆きを俺の「規律」と「米俵」で黙らせてやる。
レジで会計を済ませ、乾いた冬の空気の中へと足を踏み出す。
「行くか」
行き先は決まっている。 中村先輩。この街の産業を牛耳る古狸だ。 1800万の使い道、そしてこの「米」を使った戦略。 まずはあの古狸にぶつけて、その反応を見る。
軽い車体を車道へと滑り出させた。 向かう先は中村会長宅。
【Scene 2:鉄の先輩と黄金の愚策】
市街地を抜け、小高い丘の上にある邸宅街へ。 その一角に、母屋よりも立派なんじゃないかと思わせる、巨大なガレージがある。 シャッターが開け放たれたそこには、午後の日差しと共に、濃厚なオイルとガソリンの匂いが漂っていた。
俺が軽トラを乗り入れると、予想通り、ツナギ姿の白髪の男が、年代物のバイクの周りで屈み込んでいた。 黒いタンクにクロームメッキのエンブレム。「メグロ」だ。 中村会長。 この街の産業を支えてきた重鎮であり、俺にとっては頭の上がらない、怖いが頼れる先輩だ。
「おう、佐藤か。今日は『農道のフェラーリ』で来たか」
中村は油にまみれたウエスで手を拭いながら、顔を上げた。 その目は鋭いが、どこか楽しげだ。
「精が出ますね。調子はどうです」
「ボチボチだ。こいつのキャブがご機嫌斜めでな。で、作業着じゃないお前がここに来るってことは、何かあったな」
「隠し事はできませんね」
ガレージの隅にあるパイプ椅子を引き寄せて座った。 ここに来ると、社長としての肩肘張った鎧が少しだけ解ける。
「一期目の決算予測が出ました。経常利益で1800万です」
俺が数字を告げると、中村の手が止まった。 しばらくの沈黙の後、彼は短く息を吐き、ニヤリと笑った。
「やりやがったな。一年目でそれか。大したもんだ」
「運が良かっただけです。それに、ここにあるジャンク品を安く譲ってもらったおかげですよ」
「謙遜するな。道具は使い手を選ぶ。お前が使ったから価値が出たんだ」
中村が冷蔵庫から缶コーヒーを二本取り出し、一本を俺に放り投げた。 カシュッ、という音と共に、俺は言葉を継ぐ。
「税金は耳を揃えて払います。で、相談はその残りについてです」
「ほう。内部留保か、それとも外車でも買うか」
「まさか。残った金で『米』を買おうと思ってます」
「米だと」
中村が怪訝な顔をする。俺は説明した。
「小耳に挟んだんです。最近、物価が上がってるのに給食の予算が追いついてないって。現場じゃカロリー計算だけで精一杯で、味も質も落ちてるらしい」
「……なるほど。それで」
「とりあえず500万。地元の農家から直接買い付けて、小学校に現物でブチ込もうかと」
俺が淡々と告げると、中村は缶コーヒーを口元で止めたまま、まじまじと俺の顔を見た。 そして、腹の底から響くような声で笑い出した。
「カカッ!500万の米をタダで配るだと! お前、本当に馬鹿だな(褒め言葉)」
「否定はしません。ですが、未来の働き手が不味い飯を食ってるのは、どうにも我慢ならんので」
「違いない。腹が減っては戦はできんからな」
中村は愉快そうに笑い、メグロのシートをポンと叩いた。
「いい金の使い方だ。俺が現役なら『回収できるのか』と止めてるところだが、今の俺なら『やれ』と言う。地域に根を張るなら、金よりも恩を売れ。それが一番強い」
「背中を押してもらえて助かります。農家にも顔が利くようになるし、悪い話じゃないでしょう」
「ああ。だがあれだぞ、一度やったら来年も期待される。逃げられんぞ」
「望むところです。毎年稼げばいいだけの話ですから」
「言うようになったな」
中村は満足げに頷き、再びウエスを手に取った。
「好きにやれ。農協あたりが五月蝿そうなら、俺の名前を出してもいい。責任は持たんが、魔除けくらいにはなるだろう」
「十分すぎます」
俺は缶コーヒーを飲み干し、椅子から立ち上がった。 余計な人員の話も、小難しい契約の話もない。 ただ、稼いだ金の使い道を、筋を通して報告する。それだけで十分だった。
「邪魔しました。また米の手配がついたら報告します」
「おう。次は作業着で来い。このメグロのキャブ、お前にも見てもらいたいんでな」
「善処します」
500万の米。 ただの善意じゃない。これは俺なりの、この街への『宣戦布告』だ。
【Scene 3】冷めたスープと20円の壁
喫茶店『煉瓦』の空気は、一時間前と変わらず停滞していた。 智子は二杯目のブレンドを口にし、中学からの同級生、真理の言葉を反芻していた。 地元の学校給食センターで栄養士として働く真理は、冷え切ったカフェオレを前に、現場の惨状を吐き出し続けていた。
「一食あたり260円。これが今の小学生一人の給食費。コンビニのおにぎり二個分で、牛乳と主菜と副菜と汁物を作らなきゃいけない。もう限界よ。魔法使いじゃないんだから」
「260円」
智子は絶句した。 自分がCFOとして扱っている数千万円という数字とは違う、あまりにもシビアで、逃げ場のない数字だ。 企業のコストカットなら『無駄』を削ればいい。だが、給食のカロリー基準は法律で決まっている。削れるのは食材の『質』だけだ。
「見て、ここ。三日のカレー。今までは豚肉を使ってたけど、今月からは『大豆ミート』と『鶏ムネの端材』のミックス。デザートのフルーツは半分にカット。現場はもう、栄養素の数字合わせよ」
真理が一番悔しそうに、赤ペンで修正だらけの献立予定表を叩いた。
「子供たちは正直だわ。『味がしない』『お肉がパサパサする』って、食べ残しが目に見えて増えてる。一生懸命作ってる調理員さんたちが、バケツ一杯の残飯を見て泣いてるのよ。『こんなエサみたいな飯、あの子たちに食わせたくない』って」
「地元の農家さんから直接、安く売ってもらうことはできないの?」
智子の問いに、真理は乾いた笑い声を漏らし、首を横に振った。
「それができれば苦労はしないわ。給食用食材は市の『学校給食会』を通さなきゃいけない決まりなの。そのバックには農協や地元の有力な卸業者がいる。個別に農家さんと契約しようとしても、衛生管理の前例がないとか公平性が保てないとか、もっともらしい理由をつけて却下されるわ。中抜きよ。子供の給食費が、大人の事情で食いつぶされてるの」
智子は何も言えず、ただ唇を噛んだ。 既得権益という名の分厚い壁が、子供たちの皿から彩りを奪っている。
(腐ってるわね)
智子の目が冷たく光ったその時、スマホが小刻みに震えた。 画面を見ると、一時間ほど前に店を出て行ったばかりの「社長」からのメッセージだった。
『まだ喫茶店にいるか?一緒にいた女性に学校のことを聞きたい』
智子は目を見開いた。 背中合わせの席に座っていたあの男は、どうやら真理が漏らしていた「悲鳴」を、その地獄耳で拾っていたらしい。
「真理、ごめん。ちょっと、厄介な人が来ることになりそう。うちの社長よ。たぶん、あなたの今の話、全部背中で聞いてたみたい」
智子が返信を打ってから、数分も経たなかった。 表の通りから、乾いた排気音が響く。
「真理、本当に戻ってきちゃった」
智子の言葉とほぼ同時にドアベルが鳴り、佐藤が店内に足を踏み入れた。 一時間前と同じジャケット姿だが、その眼光は一段と鋭い。 佐藤は迷うことなく二人の席へと歩み寄ると、短く丁寧な会釈を返す。
「突然すまない。智子の会社の代表をしている佐藤だ」
「真理と申します。智子とは小学校からの友人です」
真理が驚き、スプーンを置くのを見届けてから、佐藤は智子へ視線を向けた。
「智子。休みの日にすまないな。隣、いいか」
智子が戸惑いながらも座席をずれると、佐藤はそこに腰を下ろし、真理に向き直って本題を切り出した。
「二人でお話していたところに本当に申し訳ない。今日は考えたいことがあってさっきまでここにいたんだが、納税前のお金の使い道を考えていたところに、給食予算のことが聞こえてな」
「はい。ちょうどその愚痴を智子に話していました。いい状態ではないんです」
真理が切実に訴える。佐藤は一度深く頷き、虚空へ問いかけた。
「ヴェル。500万を米に変えて、市内全部の小学校に寄付できたら、一日一人当たりどれだけ予算が浮く」
『マスター、相変わらずの思いつきね。計算してあげたわ。市内人口三万人の小学校、農家の六割は農協(JA)に卸しているけど、それを八割の価格で直接買い上げる。残りの二割を加工と運搬に充てた場合、児童一人あたり一食につき約15円の予算純増が見込めるわ。260円の低予算で喘ぐ現場にとって、この「15円」がどれほどの重みか、その頭でしっかり考えなさいな』
真理は最初、ぽかんと口を開けていた。頭の中で、その数字の意味を必死に計算している。 やがて、その計算が終わった瞬間、彼女の瞳が大きく見開かれた。
「15円っ!?」
真理は椅子から半身を乗り出し、食い入るように佐藤を見つめた。
「15円あれば、できることが山ほどあります! 冷凍のミックスベジタブルじゃなく、旬の生の野菜が使えます! 時々しか出せなかった果物が、週に一度は出せるようになりますし、ひき肉料理ばかりだったのが、厚切りの豚肉だって夢じゃない! なにより、いつも『足りない』って言っていた高学年の子たちに、もう一品、ちゃんとした副菜を出してあげられます!」
「智子。聞いた通りだ。今期、納税前に動かせる利益は1800万ある。そのうち500万を使って、市内の農家から一番いい米を買い集める。直接だ」
「ちょっと、社長。本気なの」
智子の声が喫茶店内に響き、他の客が数人こちらを振り返った。
「500万よ。給食会っていう巨大な既得権益の壁があるの。寄付したところで前例がないとか管理できないとか言われて突っ返されて終わり。500万をドブに捨てる気」
「ドブじゃない。投資だ。この金をそのまま国に納めて、どこかの誰かの宴会費にされるのと、俺たちの手で子供の胃袋に放り込むのと、どっちがマシな投資か、お前ならわかるはずだ」
佐藤はテーブルの上にあった真理の献立表を指差した。
「一食260円で数字合わせの飯を食わされている子供たちが、俺たちの顧客だ。智子、お前は月曜日までに準備をしろ。この状況、お前ならどう動かすべきか分かっているはずだ」
「言うのは簡単だけど。相当、骨が折れるわよ」
「簡単にいく気がしない、少し考えてみる。真理さんお話聞かせてくれてありがとう」
【Scene 4】規律の防波堤と沈黙の夜
納屋に戻った佐藤は、メインモニターに表示された決算予測の数字を無言で見つめていた。その横には、ヴェルが構築した利権構造の相関図が、冷酷な歯車の羅列となって広がっている。
「ヴェル。さっきの喫茶店での計算、もう一度詳細を出せ。そのうえでネガティブ、ポジティブ両方の評価を」
『あはは! 懲りませんね、マスター。いいでしょう。500万を米に変えて寄付し、一人一日15円の予算上昇を無理やり実現させた場合の再演算結果をデプロイします』
モニターに、赤と青の複雑な折れ線グラフが重なり合う。
『まず、ポジティブ評価。子供たちの食事の質は物理的に向上し、現場の真理さんたちの士気は最大化されます。さらに「農協を通さない流通」の実績が作られることで、既存のシステムに不満を持つ若手農家たちが、密かに私たちの規律に共鳴し始める。これは将来的なバイパス構築の種火になり得ます』
ヴェルの声が、一転して低く冷たいトーンに落ちた。
『対して、ネガティブ評価。これが致命的です。マスター、あなたが「善意」だと思っている500万は、この街の「調整能力」という名の怪物に喰い荒らされます』
モニターの歯車が噛み合い、具体的な数字を吐き出す。
『まず、学校給食会と既存の納入業者との間には「年間最低買取保証」の契約があります。あなたが米を寄付すれば、市は「買わなかった分の米代」を違約金として業者に支払う義務が生じる。つまり、あなたの500万は、子供たちの皿の上ではなく、業者の不労所得として消えるわけです』
佐藤はモニターを睨みつけるが、ヴェルは容赦なく続ける。
『さらに、衛生管理の「規律」が牙を剥きます。HACCPに基づいた指定精米所での加工、温度管理された配送車両の指定、そして一食ごとに1ヶ月間保存される「検食サンプル」の管理。これら全ての追加コストは、寄付者であるあなたが負担するか、現場の栄養教諭の残業代として転嫁されます。善意が届く前に、現場の人間が過労で倒れますよ』
モニターには、海帆市の教育委員会、JA、そして地域有力者が名を連ねる「給食運営委員会」の構成図が映し出された。
『この図を見てください。この構造を維持すること自体が、この街の「安定」なんです。あなたが勝手な米を持ち込むことは、彼らにとって「管理不能な異物」でしかない。万が一、小石一つ混入して炊飯器が故障すれば、その損害賠償と全生徒の健康診断費用は、保険の効かないあなた個人に全額請求されるよう、彼らは事務手続きを設計します』
佐藤はデスクの端を強く握った。指先が白くなるほどに。
「リスクがなんだ。田中たちの米が買い叩かれ、子供がパサパサの飯を食っている事実に変わりはない。俺の手元には使い道のない余剰金がある。これをぶつけるのが、俺の規律だと思っていた」
『ええ、職人の規律としては最高に美しい。でも、経営者の規律はどう言っていますか? この500万を「組織の調整金」と「責任の押し付け合い」に変換することが、あなたの望みですか?』
モニターには、Ripartenzaに関わる全ての人間の顔写真が並んでいる。その周囲を、行政の分厚い「規律の壁」が囲んでいる。
「俺一人の首なら、いくらでも差し出す。だが、関わる連中をこのドロドロした利権の泥仕合に引きずり込むのは、俺の領分じゃない。彼女たちの平穏を守るのが、この納屋の主である俺の最低限の仕事だ」
佐藤は深く、長く、肺の中の空気をすべて吐き出した。モニターに映る数字は、今や武器ではなく、仲間を守るために「何も動かさない」という選択を強いる、冷徹な防波堤に見えた。
「ヴェル。シミュレーションをすべて閉じろ。給食の件、米の寄付。すべてパージだ」
佐藤はスマートフォンを取り出し、中村の短縮ダイヤルを押した。
「…… …… ……」
呼出音が静寂を刻む。数回の後、中村の野太い声が響いた。
「中村先輩、さきほどはありがとうございました。検討に検討を重ねた結果、俺はまだ弱いとわかりました。お米は、今年はやめます」
受話器の向こうで、中村は何も言わなかった。ただ、短く「そうか」とだけ返し、静かに電話は切れた。 佐藤は画面を消し、暗い事務所に一人立ち尽くした。
『あはは! ついに認めましたね、マスター。悔しいですか?』
「ああ直視したくないほど不愉快だ。500万分の米の寄付、それによる一人一日15円の予算上昇。それすら、今の俺には実現できないのか。ヴェル、智子にも伝えておいてくれ。この判断を。それから、その中に、真理さんに申し訳ないと伝えてほしいとも」
15円の重みに涙を浮かべた栄養士の顔が、脳裏を掠める。 自分の無力さを噛み締め、佐藤はメインコンソールの電源を落とした。
「俺が、この街の澱みを飲み込めるほど強くなるまで、この金は俺たちの牙として研ぎ澄ましておく」
【前回の資産:13,022,020円】
【収入:0円】
【支出:0円】
【現在の資産(メイン口座):13,022,020円】
【納税・社保引当金(聖域):1,472,000円】
【税金防衛額(節税成功分):2,823,975円】
【個人資産(佐藤):11,100,000円】
【牧野氏の債権残高:14,811,800円】
【第60話:完】
【偉人の言葉】 「スピードのないものは、今の世の中、存在価値がない。どんなにいいものを作っても、それが遅かったらだめだ。」




