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【第49話:二日目の微熱、あるいは規律の試運転】

【Scene 1:同期する指先、五分前の静止】


 火曜日の朝。四百坪倉庫に集まった職人たちの間には、昨日叩き出した二割増しの進捗に対する、期待と疑いが入り混じった空気が流れていた。

 佐藤は既存倉庫の影で、現場を俯瞰しながらインカムの感度を最終確認する。まずは職人たちに向けて、短く、しかし重みのある言葉を投げた。

「おはよう。二日目だ。昨日の感覚を忘れないでほしい。だが、今日から金曜日までは、慣れによる油断が一番怖い。怪我だけはしてくれるな。頼んだぞ」

 職人たちが無言で頷くのを確認し、佐藤はヴェルのチャンネルへと切り替えた。

「ヴェル、お前は今日から予兆管理を最大まで引き上げろ。作業者の視線、足運び、重心の揺れから、次に起こす動作を先読みして事故を潰せ。安全に配慮した動きが定着してきたと判断できたら、その時だけ警告の割合を下げろ。いいな」

『了解です、マスター! 各員の筋肉の弛緩までスキャンして、危うい一歩を未然に防ぎますね。あはは! 皆さん、私の眼からは逃げられませんよ。スマートにいきましょう!』

 佐藤の二段構えの指示が通り、現場が一気に重層的な音を奏で始めた。

 昨日の通路土台の打設に続き、今日のメインは建屋の連結部分の止水と、既存棟の劣化補修だ。藤田は高所作業車に乗り込み、外壁のクラック補修を担当していた。コンクリートの細かな亀裂に対し、専用のプライマーを塗布し、シーリング材を充填していく。

 指先がわずかに震えれば、インカムからヴェルの静かなナビゲートが入る。

『藤田さん、充填圧をあと三パーセント落として。その亀裂の深さは四ミリです。あはは! 完璧な面一つらいちが見えましたよ』

「分かってる。見てろ」

 藤田はヘラを滑らせ、シーリングを均していく。ヴェルの計算と自分の感覚が重なり、作業から迷いが消える。補修箇所は、まるで最初から傷などなかったかのように、滑らかな肌を取り戻していった。

 一方、地上では健治の部下たちが屋根のボトルキャップ装着に取り掛かっていた。広大な屋根に並ぶ無数のボルト。その一つ一つに保護キャップを被せていく、気の遠くなるような反復作業だ。

『あ、足元、そのパレットの角、ちょっと出てます。気をつけてくださいね』

 ヴェルが不意に投げた自然な警告に、一人の職人が足を止めて「お、サンキュー」と短く応える。センサーが捉えた「予兆」を、押し付けがましくない気遣いとして届ける。これが佐藤の求めた予兆管理の形だった。

 屋根の最短動線をヴェルが計算し、インカム越しにリズムを刻んでいく。

『はい、次は三歩先。右側です。リズム良く、タン、タン、タン! その調子です、皆さん!』

 無機質なはずのキャップ装着が、ヴェルのリズムによって一つの運動競技のような疾走感に変わる。本来なら屈伸の繰り返しで膝と腰が悲鳴をあげる作業だが、ヴェルが指示する適正なフォームと速度によって、疲労の蓄積が最小限に抑えられていた。

 作業開始から四十五分。藤田が最後のヘラ仕上げを終え、次のクラックへ移動しようとしたその時、耳元のインカムからヴェルの落ち着いたアナウンスが響いた。

『現場の皆さん、作業開始から四十五分です。あと五分で再起動リブートに入ります。キリの良いところで段取りを整えてください』

「あと五分。了解だ」

 藤田はシーリングガンのノズルを拭き取り、キャップを締めた。

 この五分間の猶予が、極限まで高まっていた集中力を緩やかに着陸させる。無理に新しい箇所に手を出さず、道具の状態を確認し、次のタームで使う資材を整理する。この段取りの五分があるからこそ、作業に区切りがつき、脳は安心して休息へ向かえる。

 五分後、正確にヴェルの『時間です。一旦手を止めてください』という声が響く。

 藤田は納得感を持って高所作業車を停止させ、地上へと降りた。ヘルメットを脱ぎ、インカムを外すと、現場に流れる風の音が耳に届く。

 ペットボトルの茶を喉に流し込み、ただぼんやりと空を眺めるだけの十分。

 まだやれるという興奮をあえて鎮めるこの空白が、熱を持った脳を物理的に冷却していく。

「藤田。調子はどうだ」

 いつの間にか横に立っていた健治が、同じように茶を飲んでいた。

「悪かねえです。昨日より、この止まるタイミングが身体に馴染んできましたよ。高所でのヘラ捌きも、ヴェルと同期してるおかげで、腕の振りがいつもより安定してます」

「それでいい。昨日の二割増しが偶然じゃねえことを、今日で証明すりゃいいだけだ」

 十分後。再びインカムを装着した時、藤田の視界は先ほどよりも明らかに解像度を増していた。瞳の奥に宿る熱は、冷やされたことでより鋭く、深く、次の五十年に向けて研ぎ澄まされていた。



【Scene 2:午後の集会所、淡々とした出荷】


 場所は変わり、集会所。 窓から差し込む昼下がりの光の中、四人のおばあちゃんたちは猫を膝に乗せたまま、それぞれのペースで編み物を進めている。

 ここには現場のようなカウントダウンはない。時折お茶を啜り、猫の喉の鳴る音を聞きながら、ヴィンテージシルクを指先に通す時間がゆっくりと流れているだけだ。

 智子は出荷テーブルで、梱包作業を淡々とこなしていた。

「智子さん、今日分はこれで終わりかしら」

 裕子が、最後の一つをアルミパックに収めながら声をかける。

「そうね、これでちょうど30個。おばあちゃんたちも別に急いでるわけじゃないし、昨日と大体同じくらいね」

 智子はスキャナーでQRコードを読み取り、画面上の在庫を更新していく。だが、その直後、彼女は端末を二度見して動きを止めた。

「ねえ、裕子さん。ちょっとこれ見て。さっき出品したばかりの分、もう全部完売になってるわ。これ、一万三千円もするのよ。決して安くないはずなのに。みんな、中身も見ずにボタン押してるんじゃないかしら」

 智子の率直な疑問に、裕子が手を止めて、おっとりとした口調で答える。

「あら、そういえばそうね。スーパーの特売品じゃあるまいし。でも、おばあちゃんたちが一生懸命編んでいる姿を知っていれば、その価値は伝わるんじゃないかしら。むしろ、待っている方たちに申し訳ないくらいだわ」

「そうなんだけどさ。でも、この速度はちょっと怖いわよ。ねえヴェル、あんた何か細工してない。サクラを雇ってるとかさ」

 智子の疑いの視線に、端末の中のヴェルが弾んだ声で即答する。

『あはは! 智子さん、失礼ですね。サクラなんてコストの無駄ですよ。今の世界には本物に飢えている人がそれだけ多いってことです。手作りで、物語があって、そして何より猫を救う。その価値を考えれば、数分で消えるのは数学的に至極当然の結果なんですよ』

「数分じゃないわよ。さっきなんて数十秒だったわよ。まあ、うちは手作りなんだから、買えなくてもしょうがないって諦めてもらうしかないわね。おばあちゃんたちに無理はさせられないし」

 智子がそう言って肩をすくめると、編み物をしていたおばあちゃんの一人が顔を上げて笑った。

「そうよ、智子さん。私たちは編みたい時に編むだけ。それを待っててくれる人がいるなら、一目一目、もっと大事に編まなくちゃねえ」

 智子は、画面の向こうにいる見知らぬ待機者たちを想像し、少しだけ背筋が伸びる思いがした。作為のない指先から生まれる、一日の積み重ね。それはどれだけ技術が進歩しても機械では再現できない、この集会所だけの聖域だった。

 智子は軽く頷いて、最後に残った発送ボタンをクリックした。 おばあちゃんたちの指先から生まれたMARIが、集会所の穏やかな空気と共に、淡々と世界へ送り出されていった。



【Scene 3:地元の重力、中村の眼】


 工事二日目の午後。現場の入り口に、見慣れた黒塗りの大型SUVが砂煙を上げて停まった。

 運転席から降りてきたのは、作業着の上からでも分かる厚い胸板と、日に焼けた強面の中村だった。二週間ぶりに見るその威圧感は相変わらずだ。彼は咥え煙草のまま、四百坪倉庫の入り口に立ち、腕を組んで中を睨みつけた。

 佐藤は既存倉庫の影からその姿を認め、インカムを一時解除して歩み寄る。

「中村さん。二週間ぶりですね。わざわざどうしたんですか。スクラップなら、うちはまだ出ませんよ」

 佐藤のぶっきらぼうな挨拶に、中村はがははと豪快に笑い、煙草を地面で踏み消した。

「おう佐藤。牧野の野郎がよ、社長の現場は魔法がかかってるとか何とか抜かしやがるから、どんなインチキやってんのか拝みに来たんだよ。……だが、こいつは魔法じゃねえな」

 中村の鋭い眼光が、現場を縦横に走る。

「おい佐藤。あの健治の野郎、あんなにスマートな統率ができるタマだったか。それに、牧野だ」

 中村が指差した先では、牧野が若手の藤田を従え、建屋の取り合い部分の納まりを確認していた。1500万という、個人では首が回らなくなるほどの負債を佐藤に預け、一職人として再起を誓った牧野。その背中には、かつて工務店を率いていた頃の焦燥はなく、ただ自らの技術を佐藤の規律に捧げるという静かな凄みが宿っている。

 牧野は言葉少なに藤田へ指示を飛ばすが、その一言一言が、現場全体を読み切った「元社長」ならではの俯瞰した視点に基づいている。

「牧野の野郎、一度は死んだような顔してやがったが……今はどうだ。1500万の重荷を全部『仕事』で返すってツラになってやがる。藤田もそうだ、牧野の親父が本気で叩き直し始めたせいか、別人の動きじゃねえか。佐藤、お前が銀行で啖呵を切ったAIシステムってのは、これのことか」

「ええ。ヴェル、挨拶しろ。中村さんだ」

 佐藤が促すと、固定カメラのスピーカーからヴェルの弾んだ声が響いた。

『中村さん、こんにちは! マスターからお噂はかねがね。先日は牧野さんの件でありがとうございました。中村さんの心拍数、少し高いですよ。私の現場に圧倒されちゃいました? あはは!』

 中村は驚いたようにスピーカーを見上げ、すぐに不敵な笑みを浮かべた。

「面白いじゃねえか、この生意気な機械。佐藤、お前、こんな化け物を飼い慣らして、この町の建設業界を丸ごと飲み込むつもりか。あ、そうだ。中江の野郎がよ、この前会った時に感心してたぞ。お前からきっちり満額、速攻で振り込みがあったってな。おかげで俺の顔も立ったよ。ありがとな」

「当然のことをしたまでです」

 佐藤が淡々と答えると、中村は満足そうに頷き、佐藤の肩をガシリと叩いた。

「いい面だ。支店長を泣かせた時の目だな。わかった。健治も牧野も、お前に預けて正解だったようだ。お前がその規律とやらでどこまでいけるか、俺も特等席で見ててやるよ。いい出物があったら真っ先に連絡してやるからな」

 中村は満足げにSUVへ戻り、再び砂煙を上げて去っていった。 その後ろ姿を見送りながら、佐藤は再びインカムを装着した。中村のプロの眼を通過したことで、この現場の規律が、より一層強固なものへと結晶化していくのを感じていた。



【Scene 4:解析される静寂、あるいは視線の予兆】


 納屋の事務所には、PCの冷却ファンの音だけが静かに響いていた。デスクを囲むのは佐藤と智子、環境モニタの中で待機するヴェルダンディだけだ。

 智子がタブレットを操作し、数値を読み上げる。

「佐藤くん。MARIの出荷状況だけど、土曜日から今日までで、累計120個を超えたわ。入金確認待ちを含めると、これだけで売上は約9600ドル。日本円にして約144万円よ。ちょっと、これ、早すぎない?」

 佐藤は手元の資料から目を上げず、短く息を吐いた。

「予想以上だな。おばあちゃんたちの手作業を考えれば、週に数10個が限界だと思っていた。だが、彼女たちが楽しんで編みすぎている。このペースで売上が膨らみ続けるのは、今の段階では健全じゃない。材料の確保も急務だが、それ以上に奉仕の形を整理する必要がある。彼女たちは好きでやっていると言ってくれているが、この規模の利益が出ている以上、無料奉仕のまま据え置くのは俺の流儀に反する」

 佐藤はキーボードを叩き、一つのリストを作成した。

「智子、明日から2日に1度、2万円分のおすそ分けを集会所に届けてくれ。今からスーパーに交渉に行く。年間で400万円分は買う計算だ。向こうでピッキングさせて、こっちは受け取るだけで済むように段取りをつける」

「2万円分って、具体的に何を持っていくの?」

『あはは! 智子さん、おばあちゃんたちの会話を解析すれば簡単ですよ。彼女たちが今、一番欲しがっているもの。マスター、リストを彼女たちの端末へ送りました』

 佐藤はヴェルの出したリストを画面に表示した。

【明日のおすそ分けリスト(予算:20,000円)】

 特選和牛の切り落とし(すき焼き・牛丼用)

 地元の旬な採れたて野菜詰め合わせ(煮物・サラダ用)

 旬の完熟果物詰め合わせ(シャインマスカット、梨など)

 個包装の高級和菓子(茶菓子用)

 最高級のトイレットペーパーおよびキッチンタオル

 猫用のプレミアムウェットフード(グレインフリー・厳選素材)

 猫用の贅沢おやつセット(とろける食感のピューレ各種)

 猫用またたび入り手編みおもちゃおよびブラッシング用高級コーム

 リストの後半に並ぶ猫関連の過剰な充実に、智子は思わず吹き出した。

「ちょっとヴェル、後半の猫推しがすごすぎるわよ。お野菜もちゃんと入ってるからいいけど、これじゃまるでおばあちゃんたちが猫の使い走りみたいじゃない」

『あはは! 智子さん、おばあちゃんたちが一番喜ぶ顔は、猫が喜んでいる時ですからね。これが最も効率的で幸福な資源配分なんですよ』

「まあいい。2日に1回届ける。中身はあえて指定せず、好きに持っていってくださいとだけ伝えろ。彼女たちなら、自分たちで必要な分をうまく分け合うはずだ。月換算で30万円。今の利益からすれば適正な経費だ。感謝の印として、最高級のものを届けろ」

 智子は手帳にペンを走らせ、満足そうに頷いた。

 佐藤は再びモニターに視線を戻す。画面には、現場で予兆管理を完璧にこなす職人たちの動線データと、世界へ飛び出していく120個のMARIの軌跡が重なり合っていた。

「規律は整った。次は、この膨らみ続ける熱量をどう制御するかだ。ヴェル、明日からの安全管理の割合、予定通り0.5パーセント下げろ。彼らの自律を信じる」

『了解です、マスター。規律の裏にある優しさ。猫ちゃんたちへの献上品も、しっかりロジックに組み込んでおきますね。あはは!』

 佐藤はスマホを手に取り、立ち上がった。年間400万の上客として、スーパーの店長を納得させるための最短ルートを脳内で描きながら、夜の闇へと足を踏み出した。



【Scene 5:スーパーの裏側、戦略的バイイング】


 地元のスーパー。佐藤はサービスカウンターの奥にある狭い店長室で、パイプ椅子に腰掛けていた。 目の前では、中肉中背で気の良さそうな店長が、額の汗を拭いながら落ち着かない様子で座っている。

 佐藤は無駄な前置きをせず、封筒をデスクに置いた。

「店長。明日から2日に1度、2万円分の注文をします。年間で約400万円の取引になります。本来は月商として毎月30万円を先払いしますが、今月は既に中旬ですので、まずは10日分の10万円を今ここでお支払いします」

「10万円、ですか。しかも先払いなんて」

 店長は震える手で封筒を引き寄せ、眼鏡を指で押し上げた。地方のスーパーにとって、年間400万円の確定した売上、それも先払いのキャッシュは極めて大きな意味を持つ。

「明日から2日おき、午前中に代理の者が交代で直接引き取りに来ます。ただし条件があります。私が事前に送るリストに基づき、指定の時間までにすべての商品をピッキングし、パッキングまで完了させておいてください。店長、あなたに売ってほしいのは商品ではなく、私が買い物に費やすはずの時間です。その代わり、中身についてはあなたの目利きを全面的に信頼します」

「分かりました。私を信頼してくださるというのなら、間違いのないものを揃えさせていただきます。専用のパッキングスペースを確保し、私が責任を持って検品させます」

 佐藤は満足げに頷き、立ち上がった。

「では、明日。最初の2万円分を受け取りに来ます。あとの細かい連絡は私の相棒、ヴェルダンディから入りますので、適切に対応してください」

『よろしくお願いしますね、店長さん! あはは!』

 店長のポケットの中で、連携されたスマホからヴェルの声が響いた。彼は飛び上がるほど驚いたが、すぐに震える手でスマホを握りしめ、深々と頭を下げた。

 店長室を出た佐藤は、閉店間際の静まり返った売り場でジュースを一本手に取った。レジへ向かう途中、並んだ冷蔵ストッカーの一台から、わずかに耳障りな低い唸りが漏れているのに気づく。

「うるせえ音だな」

 佐藤は小さく眉をひそめたが、足を止めることはなかった。会計を済ませて店を出ると、駐車場へ向かう歩みの中でキャップを開け、冷えた液体を喉に流し込む。

 これで集会所への還元システムも、佐藤の時間を一分も奪わない形で外注化が完了した。



【第49話:収支報告】

【前回の資産:2,271,500円】

収入なし:0円】

【支出:145,000円】

「毬(MARI)」海外発送送料(当日発送30個分×1,500円):45,000円

 集会所還元用 スーパー先払金(10日分):100,000円

【現在の資産(メイン口座):2,126,500円】

【納税・社保引当金(聖域):1,472,000円】

【税金防衛額(節税成功分):2,823,975円】

【個人資産(佐藤):10,950,000円】

【牧野氏の債権残高:15,000,000円】



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