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【第44話:情報の防波堤と、要塞の胎動】

【Scene 1:電子の津波と、千代田区の「仮面」】


 水曜日の朝。事務所「青い豆腐」のモニターは、文字通り真っ赤に染まっていた。 昨日、智子がヴェルの指示で放流した「三毛猫の狂乱」の動画。その再生数は、重力を無視するように垂直に近い角度で立ち上がり続けている。

『マスター。電子の海が、想定以上の熱量で沸騰しています。YouTubeのアルゴリズムが、この「0.2mlの真実」を猫好きのタイムラインへ強制デプロイし続けています。コメント欄は、詳細を求める「飢えた群衆」のパケットで埋め尽くされましたよ』

 V-Linkのスピーカーから、ヴェルの硬質な声が響く。佐藤は、目まぐるしく更新される数字を、仕上がった製品の精度を確かめるような冷静な眼差しで見つめていた。

「このまま放っておけば、ここか集会所に野次馬が押し寄せて大変なことになる可能性があるな。ヴェル、今すぐレンタルオフィスの契約を済ませろ。金額と、開設までにかかる時間はどれくらいだ」

『了解。千代田区のバーチャルオフィス、月額一万五千円。ネットからの即日契約で、最短三時間後には都心の住所が手に入ります。今、この瞬間に審査用のデータを送信しました』

 画面が切り替わり、洗練されたミニマルな販売ページが表示される。特定商取引法に基づく表記の欄には、この寂れた納屋の住所ではなく、日本の中心地、千代田区の住所が刻まれようとしていた。

「ええっ、東京の住所にするんですか?」

 智子が驚いたように顔を上げる。佐藤は画面を見つめたまま、静かに口を開いた。

「智子、お前が東京で見てきたはずだ。実体のない情報の波に正面からぶつかれば、現場の人間が先に壊れる。ここにあるのは、おばあちゃんたちの穏やかな時間と、健治たちが守ってる仕事の規律だ。それを守るために、東京の住所という防波堤を築くんだ。野次馬の視線を東京へ逸らして、俺たちはここで淡々と本物を作る。ヴェル、入荷通知の登録数はどうなった?」

『現在、一千百件を突破。まだ誰も触れていない情報の欠片を求めて、東京の見えない空き地に行列ができています。あはは、滑稽ですね』

「それでいい。期待こそが最大の調味料だ。智子、パウチの検品が終わり次第、在庫数を反映できるようにしておけ。情報の洪水は俺が受け止める。現場のことは、現場を信じるしかない。行くぞ、ヴェル。次は物理の要塞の方だ」



【Scene 2:資材の脈動と、見えない配管】


 配送庫へ向かう車中、佐藤はハンズフリーで上田に電話を入れた。

「上田か。今から配送庫の方に資材を入れる。工事用の休憩所を置かせてもらうのに、電気と水道のインフラ事前工事を先にやらせてもらうからな。ああ、現場の邪魔にはならないようにやる」

 電話の向こうで上田が「休憩所か、気が利くじゃねえか」と笑うのを聞きながら、佐藤は通話を切った。

 夕刻。配送庫の錆びついたシャッターが開くと、冷気と共に四トンの平ボディ車が滑り込んできた。荷台には、整然と束ねられたオレンジ色のCD管や、金属製の電線管が積まれている。

 佐藤は、伝票と照らし合わせながら荷降ろしを誘導する牧野の横で、搬入される資材を厳しい目で見極めていた。中一日の段取りでは主要な建材こそまだ届かないが、神経系となるインフラ資材が先行して現場に体温を与え始めている。

「藤田、そのCD管は休憩所の設置予定ポイントまで運んでおけ。あと、健治が床をやる前に、先行して埋設するルートの墨出しを終わらせるぞ」

「了解っす。しかし、休憩所を一個置かせてもらうだけにしては、配管の数が尋常じゃないっすね。光回線でも十本くらい引くんですか」

 藤田の素朴な疑問に、佐藤は答えず、代わりにヴェルの合成音声が空っぽの空間に響いた。

『藤田さん、甘いですね。これは単なる配管ではなく、将来の拡張性を担保するための空き容量です。後からコンクリートを割る無駄を考えれば、今この瞬間にオレンジ色の血管を敷き詰めておくのが、最も合理的な設計ですよ。あはは』

 その血管の先には、まだ誰にも明かしていない、ドライバーのための「風呂」という設計が隠されている。

 佐藤は、健治がサンダーの手を止めた一角へ歩み寄り、床の一部を指差した。 「健治。そこ、あと0.5ミリ深く削って溝を切れ。休憩所への給排水ラインだ。今のうちに勾配を完璧に出しておかないと、後で水が滞留するバグに悩まされることになる」

「排水の勾配か。おい佐藤、屋外作業で0.5ミリも求めるのか。ここは精密旋盤の上じゃねえんだぞ」

 健治が呆れたようにサンダーを止める。佐藤は動じず、その削り跡を見つめた。

「旋盤も倉庫の床も、本質は同じだ。その0.5ミリの淀みが、冬場の凍結や悪臭を招く。現場を一生モノにしたいなら、誤差は今のうちに殺しておくのが職人の段取りだ」

「ちっ、分かったよ。お前のそのしつこいこだわり、嫌いじゃねえ。一滴の淀みもない流路を作ってやるよ」



【Scene 3:集会所の布陣と、静かなる包囲網】


 同じ頃、集会所の和室では、智子、裕子、香織の三人が、西日の差し込む中での作業を見守っていた。 おばあちゃんたちの針が刻む一定のリズムに混じって、智子の持つ端末が、絶え間なく震えている。

「香織先輩、佐藤さんから預かっていた『残り4名』の件ですが、進捗はどうですか」

 智子の問いに、香織は迷いのない手つきで手帳を捲り、特定のページを指し示した。

「ええ、昨日中に人選は終わらせたわ。私の繋がりで、最も口が堅くて仕事の確実な4人に声をかけて、全員から内諾をもらっている。時給1,900円、1日4時間の交代制。この条件なら、この辺りで一番動ける人たちを確保できるわ。……それで、佐藤さんの面接はいつに設定すればいいかしら」

 智子がV-Linkを介して確認すると、すぐに佐藤の簡潔な返答が戻ってきた。

『マスターからです。裕子さんと香織さんが決めた人間なら、俺が会う必要はない。人選は任せる、とのことです』

「信頼していただけるのは有り難いですね」

 裕子が少しだけ表情を和らげ、しかし引き締まった手つきで箱を見つめた。

「発送は一日に二十から三十程度と聞いていますが、最初が一番肝心ですもの。佐藤さんが整えてくれたこの体制で、まずは明日からの初荷を、一つ一つ丁寧に出していきましょう」

 そこへ、ヴェルが和室の隅に設置された高精細カメラを静かに駆動させながら、三人へ情報を提示した。

『さて、私はおばあちゃんたちが今作り上げている毬を、一つ一つ動画で記録します。これらはすべてネットショップへ順次掲載しますが、現在は「閲覧のみ」の設定です。写真は見えますが、注文ボタンはまだ殺してあります。期待という名の飢餓感を煽るには、これが最適解ですから。あはは』

 和室の隅にある、気密性を保つための猫専用扉が「プシュッ」という微かな駆動音を立てて開放された。庭から入り込んだ三毛猫が、慣れた足取りでおばあちゃんたちの足元を通り抜け、座布団の上で丸くなる。

『あら、来ましたね。この毛並みの乱れ具合、実に非効率で愛らしい。私のバイタルセンサーも癒やしという名の異常数値を叩き出していますよ。あはは、最高です』

 猫の登場に一段と声を弾ませたヴェルは、そのまま佐藤からの具体的な指示を付け加えた。

『追加の共有事項です。完成品パッケージのうち、特級品二百枚が明日に到着予定。それに伴い、明日は新しく入る四名を含む全員集合をお願いします。掃除だけでなく、おばあちゃんたちの作業以外の工程すべてを全員が理解し、動けるようにしてほしいとのことです』

 おばあちゃんたちは、自分たちの手元が世界中から見つめられる準備が進んでいることなど露知らず、「佐藤さん、今日のお茶菓子も美味しいね」と、そこにいない主人の不在を埋めるように笑い合っている。

 その穏やかな光景の裏側で、電子の世界には巨大な渦が生まれ、千代田区の住所という防波堤を激しく叩き始めていた。智子は最後の一つを検品し終えると、静かに、そして力強く箱の蓋を閉じた。



【Scene 4:隠蔽のメス】


 執刀を終えたばかりの彼女を待っていたのは、労いではなく「口封じ」だった。

「先生、先ほどのオペだが……カルテの記載を少し修正しておいてくれ。癒着が酷かったことにすれば、術後の出血は不可抗力として処理できる」

 医局長が、脂ぎった顔でコーヒーを差し出してきた。その目は笑っていない。

「……事実とは異なります。私の手技ミスではありませんが、事前の検査で見落としがあったのは明らかです。それを隠すのは、患者への裏切りです」

 彼女が真っ向から見据えると、医局長は鼻を鳴らしてコーヒーを机に置いた。

「裏切り? 組織を守るのが一番の忠義だよ。君のミスにしないと言っているんだ、ありがたく思いたまえ。この病院の評判に傷がつけば、君の大切な『研究費』も来期はゼロだ。賢い選択をしろ」

 暗い廊下を歩きながら、彼女は自分の指先を見つめた。人を救うために磨いた技術が、今や組織の汚物を隠すための「掃除道具」に成り下がっている。



【Scene 5:嵐の前の静寂と、要塞の胎動】


 木曜日の夕方。事務所「青い豆腐」には、静かな時間が流れていた。 佐藤は今日、職人らしい手は動かしていない。椅子の背もたれに体を預け、思考の海を漂うようにゆっくりと過ごしていた。

 そこへ、集会所での段取りを終えた智子が戻ってくる。

「佐藤さん、ただいま戻りました。集会所、準備万端です」

「ああ、お疲れさん。香織さんの方も抜かりはないか」

「はい。明日はいよいよ金曜日、パートさん四名も全員集合です。特急品として急ぎで手配した完成袋二百枚も、明日の午前中には届く手はずになっています」

 佐藤はモニターのV-Linkへ視線を向けた。 そこには、改修予定の倉庫で汗を流す健治、藤田、そして牧野の三人が映し出されている。明日の金曜日には、コンテナ、ユニットバス、そして佐藤がこだわったマッサージチェアまで、休憩所に必要なすべての資材が揃う予定だ。

「明日は集会所も倉庫も、一気に熱が上がる。今日のうちにしっかり休んでおけ」

『マスター。明日、すべてのパズルが組み合わさり、物流という名の巨大な歯車が回り始めます。私の計算によれば、誤差はゼロ。あはは、楽しみですね』

 佐藤はヴェルの声を聞きながら、静かに目を閉じた。



【第44話:収支報告】

【前回の資産:2,526,500円】

収入なし:0円】

【支出:120,000円】

 港区レンタルオフィス契約(年間一括):120,000円

【現在の資産(メイン口座):2,406,500円】

【納税・社保引当金(聖域):1,472,000円】

【税金防衛額(節税成功分):2,823,975円】

【個人資産(佐藤):10,950,000円】

【牧野氏の債権残高:15,000,000円】

【第44話:完】


【偉人の言葉】 「お金をためるよりも、自分をためろ。自分をためるということは、自分の実力をたくわえることだ。」


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