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【第42話:要塞の胎動と、経営者の産声】

【Scene 1:夜明けの軍議とフルメンバーの邂逅】


 納屋の大型ストーブがパチパチとはぜる音だけが響く中、佐藤の拠点にはかつてない密度の人間が集まっていた。外は深い闇に包まれ、吐き出す息は白く凍る。集まった全員が、これから始まるプロジェクトの予感に緊張した面持ちで佐藤の言葉を待っていた。

「皆さん、おはよう。集まってもらって助かるよ」

 佐藤の短く、しかし芯の通った挨拶が納屋の空気を引き締めた。

「集まってもらったのは他でもない。これから始まる上田倉庫拡張プロジェクトの全貌を話す前に、まずは互いの顔を合わせておきたい。済まないが、各々手短に自己紹介をお願いします」

 佐藤が促すと、作業台の隅でタブレットを操作していた智子が、品のある所作で一歩前に出た。

「佐藤の東京時代の部下、智子です。本プロジェクトの法務、契約、および資金管理を担当します。また、倉庫内の通信回線やセンサー等の埋設工事については、私が現場の技術指示を兼任させていただきます。よろしくお願いします」

 続いて、少し緊張した面持ちで立つ裕子が頭を下げた。

「牧野の家内の裕子です。主人がいつもお世話になっております。詳しいお話はこれから伺うことになっておりますが、精一杯務めさせていただきます」

「それと、こいつにも自己紹介させておこう。ヴェル、挨拶しろ」

 佐藤がメインモニターへ視線を送ると、スピーカーから無機質だがどこか傲岸な声が響いた。

『私はこの拠点の統合制御および演算を担当するヴェル。猫こそが正義です。……失礼、効率こそが正義です。以後、お見知りおきを』

 一瞬の静寂の後、佐藤は淡々と工務店の面々を紹介した。

「こっちが現場を回す健治だ。前日に概略は話してある。後ろにいるのが健治の部下3名。で、こっちが俺の部下の牧野と藤田だ」

「健治だ。よろしくな」 「牧野です。よろしくお願いします」 「藤田です。よろしくお願いします」

 一通りの挨拶が終わると同時に、佐藤がモニターを切り替えた。

「今回の工事の根拠を説明します。ヴェル、出せ」

『了解しました。現在の運用状況を総括します。これが導入前の上田倉庫です。現場の混乱は完全にデバッグされています』

 切り替わった画面に映る、整然とした現在の動き。健治の部下たちは、その圧倒的な変化に言葉を失った。

「倉庫をさらに躍進させる。そのために、隣の廃倉庫を買い取ります。これから智子と牧野を連れて、地主を落としに行く。智子、準備はいいか」

「ええ。法務的な詰めと、買収後のスキームは構築済みです。いつでも動けます」

 佐藤がモニターの設計図を指す。床の不陸調整から配線、消防設備まで、10日間で一気に仕上げる要塞のプランだ。

「健治。お前ら4人のスケジュールは、前日に提示した契約条件で全て買い取らせてもらった。今日から15日間、その全てを俺に預けてほしい。最初の5日間は現場に入らず、ここでヴェルのシステムに習熟してもらう予習に充てる。確実に形にするために必要なステップなんだ。飲めるか」

 健治は、騒ぎから離れた納屋の隅へ佐藤と足を運んだ。

「15日で250万。材料費はこちらで持つが、重機の単発レンタルと各種工具の持ち出し、それにメンテナンス費用もすべて込みだ。いいか」

 佐藤が声を潜めて切り出すと、健治は額の眼鏡を跳ね上げ、佐藤を直視した。

「15日で250万。おい佐藤、そいつは工務店の相場を完全に壊す額だぞ。重機と道具込みにしても、破格だ。いいぜ、喜んで相棒になってやるよ。その代わり、俺を儲けさせるって約束、死んでも忘れるなよ」

 佐藤は短く頷いた。

「ああ。いろいろ仕事は今後も頼むことになる。この眼鏡の初めての体験者だ。もし良さそうなら導入を検討してほしい。俺にも儲けさせてくれ。くくっ」

 佐藤は壁に並んだ4セットのARデバイスを起動させた。

「健治、藤田。そしてスタッフの皆さん、V-Linkのことをヴェルに習ってくれ。お前らは、その光をなぞるだけでいい。ヴェル、開始しろ」

『了解しました。健治氏、およびスタッフ3名、藤田さん。装着を確認。まずは、道具の強制停止の感覚を脳に同期させてください』

「うおっ、なんだこれ。佐藤、中身が透けて見えるぞ!」

 健治の驚愕を背に、佐藤は智子、牧野、そして裕子へ視線を向けた。

「智子、牧野、裕子さん。俺とこれからの動きを煮詰める。青豆腐へ入れ」



【Scene 2:青豆腐の静かな共謀】


 ユニットハウス「青豆腐」の内部は、サーバーの排熱によって、穏やかな空気に包まれていた。そこへ、もう一人の女性が姿を現した。

「香織さん、お越しいただきありがとうございます」

 佐藤が挨拶をすると、智子が驚いたように声を上げた。

「香織先輩! どうしてこちらに」

「智子、久しぶりね。昨日、佐藤さんから連絡をいただいたのよ。上田さんからもお話は伺っていたし」

 45歳の香織は、智子の一学年上の先輩であり、昨日、佐藤が直接コンタクトを取った人物だった。

「香織さん、裕子さん。お二人には、俺が引き受けたあの集会所の管理全般を担ってもらいたい。清掃から備品の管理、そして集まってくるおばあちゃんたちの相手。それがメインの業務になります」

 佐藤の言葉には、余計な装飾も期待を煽るような響きもない。ただ、現場を任せる者としての事実だけを伝えた。

「香織さんには、今日から加わっていただきます。あわせて、香織さんと同じ条件で動ける方をあと4名、集めていただきたい。時給は1,900円。基本は週1回から2回の交代制、一日4時間です」

「1,900円……そんなにいただけるんですか?」

 香織が少し戸惑ったように問い返す。佐藤は淡々と、だが確かな敬意を込めて答えた。

「しけた給料で人を預かるつもりはない。その代わり、掃除からおばあちゃんたちの相手まで、あの場所を無人にせず、空気を守る管理者としての役割を任せたい。時折、全員に来てほしいという日があるかもしれませんが、柔軟に対応できる方をお願いします」

「わかりました。その金額に見合う、誠実な人材を私のネットワークで揃えます」

「お願いします。では裕子さん、香織さん。今日はお二人で集会場へ向かってください。現場の雰囲気を確認し、現状決まっている管理手順はヴェルから教えてもらってほしい」

『猫こそが正義です。いえ、効率こそが正義でした。裕子さん、香織さん。集会場でお待ちしています。レクチャーを開始しましょう』

 香織と裕子が連れ立って事務所を出ていくと、閉まったドアの音が静かに響く。 室内には佐藤、智子、牧野、そしてモニターの中のヴェルの三者だけが残された。佐藤は椅子を深く引き寄せ、残った二人に鋭い視線を向けた。

「智子。これから先、俺に何かあって動けなくなった時のために、今動いている事業は基本すべて把握しておいてくれ」

 智子がタブレットを操作する手を止め、正面の佐藤を真っ直ぐに見つめた。その目は、これが単なる仮定の話ではなく、佐藤が組織としての永続性を最優先に考えた指示であることを瞬時に悟っていた。

「承知しました。物流、製造、そして現在はまだ実験段階の毬。すべてのフローと金の流れを、完全に把握しておきます」

「助かる。それと牧野」

 名前を呼ばれた牧野が、膝に置いた手に力を込めた。

「牧野。お前は真面目で優しい。それは人としてはいいことだが、事業主としてはマイナスに働くことがある。本来は作業に集中してもらうのがベストなんだろうが、これからお金の話が出るときは基本、すべて同行してもらう。経験を積んでくれ。そして、俺に問題が発生したときは智子をカバーしてほしい」

「私が、智子さんを」

 牧野の困惑を、智子が静かに遮った。

「牧野さん。佐藤さんが仰るのは、私が数字で戦う際、あなたが現場の実体として私の背中を支えるということです。私一人では、土の匂いのする泥臭い交渉は完結しません。よろしくお願いしますね」

「わかりました。至らない点ばかりですが、精一杯やらせていただきます」

 牧野の覚悟を込めた返事に、佐藤は重みのある言葉を重ねた。

「そして、雇われているという感覚ではなく、経営者の一端を担ってる気持ちを常に持っておいてほしい」

 牧野の背筋が伸びる。佐藤は満足げに頷いて立ち上がった。





【Scene 3:超弩級の火入れ(覚醒のドキュメンタリー)】


「よし。これからヴェルの指示に従って、これを行ってほしい」

 作業開始の合図として、佐藤がパチンと指を鳴らす。突如、納屋の隅に設置された巨大モニターが起動した。画面は漆黒。

 ──ドォン。

 腹の底に響くような、重厚な太鼓の音が一つ。続いて、ズズン、ズズン、ズズン、ズズン、チャッ! 腹に響く力強いリズムが刻まれ始め、バイオリンの弦が激しく震え、挑戦者たちの主題歌がスピーカーから爆音で溢れ出した。

 画面には、まず健治の顔がクローズアップされる。

『木と共に生きる男』『荒ぶる自然と向き合い、恵みを受け止める「現場の総帥」』

 直後、彼の後ろ姿が映し出され、軽トラックの荷台から大量のマタタビの原木を力強く降ろす瞬間がスローモーションで描かれる。

『精度の高い裁断が、黄金の抽出を約束する「切り込み隊長」』 『精確な仕分けと運搬が、工程全体を支える「縁の下の力持ち」』 『微細な調整が、最良のチップを生み出す「最終投入者」』

 そして、プラントの制御盤の前に立つ藤田の横顔が、鋭いカットで挿入された。

『静かなる情熱を宿し、プラントの心臓を管理する「流れの番人ガーディアン」』

 映像は、粉砕機から吹き出すチップの嵐を映し出した後、再び漆黒へ。そこに、血のように熱い紅色の文字が浮かび上がる。

『彼らが研ぎ澄ます「一滴」は』 『数多の魂を、抗えぬ熱狂の渦へと誘い』 『理性を焼き払い、歓喜の深淵へと陥れる──』

「え、これ俺か!? マジかよ、ヤベえ、めちゃくちゃ渋いじゃねえか!」 「うわ、ハリウッド俳優みたいだぞ! あの最後のテロップ、なんか知らねえけど凄みがあるな!」

 部下たちは互いの肩を叩き合い、モニターにかじりつく。藤田も自分の二つ名に照れながらも、引き締まった表情で拳を握り、健治は満足げに映像を見つめていた。その横で、ヴェルが佐藤にだけ聞こえる音量でボソリと呟く。

『……。彼らがやってること、ただ木を切って……入れてるだけなんですけどね』

「黙ってろ。その気にさせるのが仕事だろうが」

 佐藤は短くそう返すと、モニターから目を離し、昂揚する男たちに向き直った。

「動画で見てもらった通りだ。今日これから、ヴェルの指示でこの工程を完遂してほしい。50kgのマタタビの枝を、最高の一滴に変えるんだ」

 佐藤は上着を手に取り、出口へと歩き出す。

「健治。俺はこれから正木邸へ行って、隣の土地を買ってくる。あとは頼んだぞ。お前たちの『腕』を見せてくれ」

「おう! 任せとけ佐藤! 最高のチップをプラントにぶち込んでやるよ!」

 健治の威勢のいい声が納屋に響き渡る。佐藤は一度も振り返らず、外に待たせてある車へと向かった。背後ではすでに、V-Linkを装着した男たちが、ヴェルの指示に従って獣のような俊敏さで動き始めていた。



【Scene 4:正木邸の交渉(救済のチェックメイト)】


 正木邸の居間には、冬の柔らかな日差しが障子越しに差し込んでいた。上座に座る正木は、出された茶にも手を付けず、佐藤たちを真っ直ぐに見据えている。その視線には、かつてこの町の物流を支えた誇りと、それゆえの意固地な頑なさが同居していた。

「佐藤さん、あんたの熱意はわかる。だがな、あの倉庫はうちの全盛期を象徴する場所なんだ。3000万は下らない資産だと思っている。息子たちの代への一番の財産だ。1000万でも、私にとっては身を切るような安値なんだよ」

 正木が吐き出すように言うと、佐藤は否定せず、静かに頷いた。その隣で、智子が極めて穏やかな、しかし澱みのない声で資料を広げる。

「正木さん。仰る通り、あの場所は間違いなくこの町の物流の要でした。1990年代、土地と建物合わせて3600万前後の価値があったことは、周辺の公示地価からも明らかです。その価値を否定するつもりは毛頭ありません」

 智子がタブレットの画面を正木へ向けた。

「ですが、時代は残酷に変わりました。今の市場価格で言えば、あの場所は土地が400万。対して、あの規模の建物を今の産廃基準で更地化するには700万かかります。つまり、本来なら差し引きマイナス300万の土地です。普通に売却しようとすれば、あなたは300万を支払ってゴミを処分しなければならない立場にあります。ご子息たちは、その現実をすでにご存知ではありませんか」

 正木の眉間に深い皺が寄った。智子の言葉は、息子たちが帰省のたびに口にしていた本音を正確に射抜いていた。

「正木さん。あなたはこれまで、何もない場所にあの大きな建物を建て、維持してこられた。毎年7万の税金を払い続け、一度も土地を汚さなかった。それは職人として、経営者として、最大限の敬意を表すべきことです」

 佐藤がここで、包み込むような柔らかい口調で身を乗り出した。

「だからこそ、私はあそこを負債のまま終わらせたくない。本来ならマイナス300万の物件ですが、私はあそこを直して使いたい。だから、私は今この場で判を突くなら、600万で買い取ります」

「600万。マイナスどころか、現金が手に入るのか」

 正木の目に、微かな希望の色が混じる。佐藤はそこで、あえて椅子を引き直した。

「ですが、正木さん。あなたがこれまであの場所を守り、税金を払い続けてきた苦労も、私は職人として尊重したい。よし、800万出しましょう。その代わり、今、この場で決めてください。明日になれば、解体費用の再見積もりでこの話は消えます。また倉庫運営に関する相談をするかもしれない賃も込みな感じで」

「相談……私に、か」

 かつての栄光と、目の前の800万という現実。そして何より「まだ頼りにされる」という一言。その落差を埋めたのは、佐藤の敬意だった。

「3000万と言い張って、結局息子たちにゴミを押し付けるよりは、あんたに任せる方がマシかもしれんな。800万か。わかった。それで判を突こう」

 正木は憑き物が落ちたような顔で笑った。佐藤は懐から、智子が事前に用意していた書面をスッと差し出した。

「ありがとうございます。これは本日お話しした内容を記した仮の契約書です。まずはこれに署名と捺印をいただけますか。後日、智子と司法書士を改めて伺わせます」

 正木は震える手で朱肉をつけ、力強く判を突いた。

「よし。これで決まりだ。佐藤さん、あそこを頼んだぞ」

「ええ。大切に使わせてもらいます」

 佐藤は契約書を丁寧にしまい、正木邸を後にした。



【Scene 5:残響(車内での総括)】


 正木邸を後にした車内は、交渉を終えた三人の熱気で少しだけ汗ばむような空気が残っていた。ハンドルを握る牧野が、バックミラー越しに佐藤を一瞥し、深く息を吐き出した。

「佐藤さん。正直に言って、あんなに綺麗に話がまとまるとは思いませんでした。私はてっきり、もっと数字で徹底的に追い詰めるのかと」

「追い詰めるだけなら智子一人で十分だ。だが牧野、交渉の目的は相手を負かすことじゃない。相手が自分から判を突きたくなる道を作ってやることだ」

 佐藤が静かに答えると、助手席の智子が微笑みながら補足した。

「私が最初に出したマイナス300万という数字は、正木さんのプライドという城壁を崩すための砲撃です。でも、壊したままだと相手は逆上して立てこもる。そこに佐藤さんが800万という救援物資を届けた。これがアンカリングの効果です」

「アンカリング?」

 牧野の問いに、佐藤が身を乗り出して教え諭すように言葉を継いだ。

「そうだ。最初に絶望的な数字を見せておいてから、まともな数字を出す。そうすると、相手は自分が得をしたと錯覚するんだ。本来ならタダでもらってあげてもいいような評価額だ。でも俺たちはあの箱を直して使う。しまいにゃ昔は3000万から4000万だった場所だ。買いたたかれていい気持ちになる地主はいないだろ」

 佐藤は窓の外を流れる雪景色に目を向けた。

「牧野、経営ってのは損得勘定だけじゃ回らない。特にこの町じゃ、正木さんが息子の代に『あいつに騙された』と言い残せば、俺たちの事業は一生後ろ指を指される。だが今日、彼は『自分の経験を買われた』という顔で判を突いた。あの800万のうち400万は土地代だが、残りの400万は今後10年、20年と続くこの集落での通行料だと思えば安いもんだ」

「通行料。つまり、正木さんのプライドを買い取ることで、将来のトラブルを未然に防いだということですか」

「その通りだ。時間を金で買ったんだ。あの頑固なじいさんが味方になれば、隣でどれだけ騒音を立てても、周囲には彼が説明してくれる。彼をこの事業の協力者に仕立て上げたんだよ。智子が言った相談料という名目は、あながち嘘じゃない」

 智子が手帳を閉じ、感心したように頷いた。

「法務的にも、前所有者の全面協力が得られるという条項を盛り込みました。これで実務上のリスクも大幅に減りました。佐藤さん、牧野さんを立派な交渉人に育てるつもりですね」

「教えられることは全部教える。さあ戻るぞ、牧野。納屋では男たちが最高の一滴を絞り出しているはずだ」

 牧野は力強く頷き、アクセルを少しだけ踏み込んだ。車は、新たな要塞となる廃倉庫の脇を抜け、熱気に満ちた拠点へとひた走る。



【Scene 6:静かなる抽出(黄金の25時間)】


 納屋に戻ると、そこには微細な木の粉が舞い、清涼感のあるマタタビの香りが充満していた。粉砕機はすでに停止し、先ほどまで荒れ狂っていたチップの嵐は、プラントの巨大なタンクへと完全に吸い込まれている。

 健治と藤田、そして3人の部下たちは、V-Linkを外して汗を拭っていた。その表情には、映像で見た「名職人」としての自覚が芽生え始めたのか、心地よい緊張感と達成感が同居している。

「佐藤、入れ終わったぞ。ヴェルの野郎、少しでも投入スピードが落ちると効率が0.8パーセント低下しましたなんて抜かしやがる。おかげで一気に片付いたよ」

 健治が笑いながら言うと、佐藤は満足げに頷き、プラントの制御盤を見つめるヴェルのモニターへ視線を向けた。

『マスター、お帰りなさい。原料の投入は完璧に完了しました。現在、1滴目の抽出に向けて循環圧力を調整中です。今回の50kgから100mlを抽出するのに要する時間は、計算上ちょうど25時間。明日には、この集落の運命を変える黄金の液体が姿を現します』

「25時間か。長いようで短いな。ヴェル、温度管理だけは絶対に外すなよ」

『了解しました。コンマ1度の狂いもなく管理し続けます』

 佐藤は男たちの方を向き、一人一人の顔を見て言葉を繋いだ。

「みんな、お疲れ様。仮契約が取れた。明日からは、いよいよ隣の倉庫の現地調査とV-Linkの本格的な連携練習に入る。健治、来週の月曜日から工事を始めるから、必要な重機のレンタルを今日中に手配しておいてくれ」

「おう、わかった。バックホーとユニック、いつもの所に連絡しとくぜ」

「智子は、設計図に基づいた資材の発注準備を頼む。月曜の朝には現場に揃うように調整してくれ」

「承知いたしました。各ベンダーとの納期調整、即座に入ります」

 智子が手際よくタブレットを操作し始めるのを確認すると、佐藤は最後に牧野へ声をかけた。

「牧野。今から本契約の手続きに行く。お前も一緒に来い。現場の調査の前に、まずはハンコを突く重みというものを隣で見ておいてほしい」

 牧野が背筋を伸ばし、力強く頷く。納屋に響く小さなファンの音だけが、これからの激動の25時間を予感させていた。



【Scene 7:上田倉庫、最終調印(覚悟の継承)】


 納屋を出て、佐藤は牧野だけを連れて車を走らせた。向かう先は、昨日二行の予算書を叩きつけた上田の倉庫だ。助手席の牧野は、膝の上に置いた3,300万円の正式な見積書と契約書が入ったケースを、祈るように抱えている。

「いいか牧野。これから会う上田は、俺の同級生だ。智子のような理詰めの交渉も必要だが、最後にあいつの背中を押すのは、あいつが俺という人間をどう見ているか、その一点に尽きる」

 ハンドルを握る佐藤の横顔には、正木邸で見せた冷徹な買収者の顔はなく、一人の職人としての誠実さが宿っていた。

「上田にとって、3,300万は会社と家族の運命を懸けた大勝負だ。智子を連れてこなかったのは、これ以上数字で追い詰める必要がないからだ。今日は、あいつの覚悟を俺が正面から受け取る日だ。お前は横で、その空気を目に焼き付けておけ」

「はい。佐藤さんの、盟友としての顔、しっかり見させていただきます」

 車が上田倉庫の前に滑り込むと、そこには昨日よりも幾分かやつれた、しかし目の奥に鋭い光を宿した上田と、余所行きの姿で背筋を伸ばした千代子さんが待っていた。

 事務所の応接室に入ると、佐藤は挨拶もそこそこに、昨日約束した正式な見積書を卓上に広げた。

「上田、千代子さん。これが昨日話した3,300万の契約書だ。俺の覚悟は、昨日伝えた通りだ。一歩も退くつもりはない」

 上田が見積書を手に取り、一つ一つの項目を食い入るように見つめる。その隣で、千代子さんが静かに口を開いた。

「佐藤くん。あんた、昨日言ったこと、忘れてないだろうね」

「ええ。もし稼働開始後3ヶ月で月商1,500万に届かなければ、俺がこの設備をそのままの額で買い取る。その約束は、この契約書の一筆にも盛り込んであります。俺が逃げない証拠です」

 上田が大きく息を吐き出し、佐藤の目を見据えた。

「佐藤。正直、昨夜は一睡もできなかった。母ちゃんの遺産を預かる重みと、お前が描いた2,400万超えの月商っていう夢の間で、頭が割れそうだったよ。でもな、あのボロ倉庫が城に変わるって図面を見てたら、怖さよりワクワクが勝っちまった」

 上田は震える手で実印を握り、朱肉をたっぷりとつけた。

「3,300万。俺たちの命、お前に預ける。その代わり、最高の城を造ってくれよ、同級生」

 重厚な音と共に、契約書に印が刻まれた。佐藤はその様子を、逃げることなく、しかし優しく見守っていた。

「ああ。直ちに始める。お前の命、職人として一滴も無駄にはしない。智子、聞こえているな。契約完了だ。着手金の2,400万、明日中に着金するよう手配してくれ」

『了解しました。上田様、千代子様。この要塞の完成が、皆様の新たな歴史の1ページとなることをお約束します』

 ヴェルの合成音声がタブレットから流れ、千代子さんが顔をほころばせる。佐藤は牧野に契約書を預けると、上田の肩を一度だけ強く叩いた。

「さあ、始めようか。明日から工事車両が入る。上田、お前は現場の混乱を抑える準備をしとけ。人の手配を増やすことも忘れるなよ。現場が回らなきゃ意味がねえからな。牧野がその調整に入る」

「おう! やってやるよ、佐藤!」

 夕闇が迫る集落の中で、新たな物流要塞の鼓動が確かに始まりを告げていた。

「少しこっちの敷地もみさせてもらうよ」

 佐藤はそう言い残すと、牧野を連れて敷地の端へと歩き出した。フェンスの際、雑草が生い茂る未舗装のスペースで足を止める。

「さっきの、正木の倉庫で浮いた200万を使って、ここに上田に内緒で物を作る」

 佐藤が声を潜めて言うと、牧野は目を丸くして問い返した。

「え? 何作るんですか? 予算外ですよね?」

「風呂とトラックドライバーの休憩所だ」

「えー! 風呂ですか!?」

 牧野の驚愕の声に、佐藤はニヤリと不敵に笑った。

「物流の2024年問題、本当のボトルネックは道路じゃなくドライバーの心身だ。シャワーを浴びて足を伸ばせる場所があるだけで、ここへ荷を運びたいって奴が列をなす。上田には内緒だ。完成した時に『おまけだ』って言った方が、あいつも喜ぶだろ」

 牧野は呆れたように、しかし尊敬の入り混じった溜息をついた。佐藤の要塞は、コンクリートと鉄だけでなく、人の体温までも計算に入れて築かれようとしていた。

「まだ誰にも言うなよ、くくっ」



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