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【第40話:沈殿と予感】

【Scene 1:一週間の手触り】


 台所の換気扇が回る音と、朝食の味噌汁の匂いがリビングに満ちている。 牧野は食卓に座り、自分の両手を見つめた。 指の節々には昨日の山歩きでついた泥が残り、腰には連日の搬入作業と山歩きの疲労が沈殿している。

 裕子が湯気の立つ茶碗を運び、牧野の向かいに腰を下ろした。

「一週間、お疲れ様。どうだった、佐藤さんのところ。毎日泥だらけで、でも月曜日とは顔つきが全然違うけど」

 牧野は少しの間、答えを探すように視線を落とした。 「月曜日に、佐藤さんがお前にいきなり現金を渡しただろ。あの時、あの人は牧野を支えてやってくれと言った。俺、あの瞬間に目が覚めたんだ。中江の借金を減らしてくれたのも、俺を甘やかすためじゃねえ。対等に、一人の製造マンとして向き合うための土台を作ってくれたんだよ」

「私も驚いたわ。あんな風に家族の顔を見て筋を通す人、今時いないもの」

「それだけじゃねえんだ。あの人は客の倉庫に納める400万もするシステムを組む時も、コンマ一ミリの配線まで妥協しねえ。その一方で、おばあちゃんたちのことを考えて、ヴェルの名前をおすずさんに変えちまう。冷徹な合理主義者に見えて、誰よりも人を見てる」

 牧野は茶を啜り、昨日の山での出来事を思い返した。 「昨日もそうだ。泥だらけで戻った俺たちに、一言目に怪我はねえなだ。獲物の枝を見るより先に、俺たちの手足に傷がねえか確認してきた。安全への指示も異常だ。親戚の山に入るのに数千円の入山料をケチるなと言ったり、45分きっちり休めと命令したり。裕子、あの人は、俺たちが怪我をして現場が止まることを何よりも嫌う。それはつまり、俺たちを代えの利かない資産として扱ってくれてるってことだ」

 裕子は無言で微笑み、牧野の泥の落ちきらない厚い手を、優しく包むように握った。

「私はいつからお仕事なんでしょう?」

「さぁ。だが、あの人がわざわざお前を呼んだんだ。遠くないうちに、その出番が来るはずだよ」



【Scene 2:鉄と対話する土曜日】


 納屋の扉は半分だけ閉められ、外の喧騒を遮断している。 聞こえるのは、低く唸るヴェルの冷却ファンと、時折響く金属が擦れる音だけだ。

 佐藤は心臓、蒸留釜ユニットの前に座り込み、懐中電灯で内部の継ぎ目を凝視していた。

「ここだな。このエルボの溶接、中村の親父は適当だと言ってたが、裏波まで綺麗に回ってやがる。当時の職人がいい腕してた証拠だ」

 独り言を吐きながら、佐藤はワイヤーブラシを手に取り、バイパスを通す予定の箇所をさらに磨き込んだ。ステンレスの鈍い銀色が、一箇所だけ鏡のように光り始める。

『マスター。バイパス配管の設計図と、スキャニングデータの照合が完了しています。指定された座標から2ミリ左へオフセットすれば、既存のバルブを殺さずに流量を確保できます』

「2ミリ左か。ヴェル、お前の計算は正しいが、現場の肉厚を見てからだ。よし、この厚みならタップを立てるよりも、ソケットを直接溶着した方が強度が稼げるな」

 佐藤はぶつぶつと言いながら、マジックで正確なケガキ線を引いた。 智子がいればまた始まったと呆れるような細かな確認作業だが、この一歩目の切断で、プラントの寿命が決まることを佐藤は知っている。

「牧野たちが採ってきた枝。油分が乗ってるうちに抽出を始めたい。マタタビの成分を焼かずに、エッセンスだけを物理的に引き剥がす。そのための真空引きだ」

 佐藤はサンダーを手に取り、スイッチを入れた。 鋭い回転音が納屋に響き渡る。

「火花を散らす前に、もう一度だけ確認だ。このバルブ、本当に死んでるか?」

『内部固着を確認済みです。ジャンクの適合品への交換を推奨します』

「そうか。じゃあ、遠慮なくバラさせてもらうぞ」

 佐藤は昼飯のことも忘れ、ただひたすらに鉄の塊と向き合い続けた。 一人の製造マンとして心臓を解体していくその手付きには、破壊と再生が混じり合ったある種の神聖ささえ漂っていた。



【Scene 3:休日の防壁】


 智子は自宅のソファで、ようやく手に入れた穏やかな時間を楽しんでいた。 手元には温かいコーヒー、膝の上には最新の法務関連の専門書がある。 だが、その静寂はスマートフォンの短い通知音によって破られた。

 画面には、おすずさんという名の三毛猫のアイコンが躍っている。

『智子さん、休日のお寛ぎ中失礼します。昨日アップロードした猫動画の再生回数が、私の予測を12パーセント上回る速度で推移しています。これは誤差ではありません。問い合わせの質が変化しています』

 智子は深いため息をつき、コーヒーカップをテーブルに置いた。

「ヴェル、今日は土曜日よ。佐藤さんも納屋に籠もって鉄の塊と格闘してるはずだし、私も休ませて」

『理解していますが、現在、動画を見た視聴者から「その毬はどこで売っているのか」という直接的なメッセージが、国内・海外問わず秒単位で届いています。中には、勝手に予約注文と称して代金を振り込もうとする者まで現れ始めました。公式な受け皿がない現状は、リスクでしかありません』

 智子は専門書を閉じ、眉間に指を当てた。 ヴェルの言い分は正しい。ただ、今から規約の条文をこねくり回すのは、佐藤の言う通りリソースの無駄だ。今はノイズを消し、期待値を製造へ繋ぐのが先決だ。

『智子さんは現在、当社で最も高い給与を受け取っている、責任ある立場の方です。この局面で、コストに見合う判断を求めます』

「わかったわよ。ヴェル、規約の詳細は後回し。まずは特設ページ一枚作って、期待を繋ぐわ。それと、今ある動画の概要欄に、現在開発中、販売時期未定の文言を全言語で追記して」

 智子は立ち上がり、デスクのPCを叩いた。

「それから、動画の追加もお願い。マタタビの木の伐採風景から、佐藤さんがプラントを組んでる様子をちらっと混ぜて。最後におばあちゃんたちの毬作成風景を足した15秒動画を新しくアップして。前の動画はそのままでいい。あれはあれで、最高の引きになるから」

 智子は、昨日の佐藤の鋭い眼差しと、おばあちゃんの皺だらけの手が交互に映し出されるプレビューを確認した。これが単なるおもちゃじゃなく、現場で作られてる本物だというエビデンスを、情報の層として重ねていく。

『了解しました、智子さん。既存の動画で掴んだ熱量を逃さず、現場の泥臭さと、マスターの精密な手元、そしておばあちゃんたちの温もりをパッキングした続編を射出します。やはり貴方は、コスト計算よりも直感の方が鋭いですね』

「余計な一言よ。法務なんて、後からついてくるノイズ対応でしかないわ。今は佐藤さんの背中を、この熱量で守る。それで十分でしょ」

 智子はコーヒーを一口飲み、エンターキーを叩いた。 期待値を煽るだけではなく、製造現場のリアリティという「毒」をさらに世界へ流し込む。

『智子さん、期待値の多層化、実行します。世界がさらに飢え始めますよ』



【Scene 4:泥に咲く白】


 土曜の医局。静まり返った部屋で、彼女は一人、モニターに向かって術後経過を分析していた。そこへ、酒の匂いをさせた外科副部長と数人の取り巻きが、ゴルフ帰りの中途半端な高揚感を引き連れて入ってくる。

「おや、まだいたのか。君の執刀したあのオペ、学会で僕が発表することになったから。データ、明後日までにまとめておいてくれよ」

 副部長は、彼女の顔も見ずに椅子の背もたれを叩く。彼女が死に物狂いで編み出した術式を、さも自分の手柄のように。

「……副部長。あの術式は、私が症例を100件以上解析して辿り着いたものです。せめて連名にさせてください」

 彼女が静かに、だが鋼のような意志を込めて言い返すと、部屋の空気が一変した。取り巻きたちが鼻で笑う。

「これだから『女』は困る。感情的で、手柄にがっつく。君、自分の立場をわかっているか? 誰がその席を『用意してやった』と思っているんだ」

 副部長が顔を近づける。その瞳には、彼女の技術への敬意など微塵もない。あるのは、自分を脅かしかねない才能への、無意識の恐怖と蔑みだけだ。

「君は、黙って僕の『看板』を磨いていればいいんだ。愛想よく、現場の士気を下げないように。……女医の使い道なんて、本当はそれくらいしかないんだからな」

 彼女の手元にある、ボロボロになった専門書。そこには、睡眠時間を削って書き込まれた無数のメモがある。その一行一行が、彼らの軽薄な言葉に汚されていく。

「……分かりました。データは共有フォルダに入れておきます」

 彼女の声は震えなかった。だが、モニターに映る自分自身の顔は、どす黒い欲望に塗れたこの病院という迷宮の中で、ひどく白く、孤独に浮き上がっていた。

「分かればいいんだよ、分かれば。あ、ついでに明後日の会議の資料のコピーも頼むよ。君、丁寧だから助かるんだ」

 彼らが去った後、彼女は血の気が引くほど強くペンを握りしめた。 救いたいのは命であって、この男たちのプライドではない。 彼女の視線は、すでにこの腐りきった「巨大な工場」の出口を探し始めていた。



【Scene 5:鋼の律動】


 納屋に差し込む光が黄色みを帯び、床に落ちる影が長く伸び始めた。 佐藤は蒸留釜の基部に潜り込み、ステンレス製の架台とボルトの出面を睨みつけていた。

 昨日のうちに三人がかりで定位置へ下ろした重量物だ。一人で動かせる代物ではないが、配管の接合部をミリ単位で追い込むのは、指先の感覚を研ぎ澄ませた佐藤の仕事だった。

「この架台の水平が狂えば、内部の攪拌効率がガタ落ちする。ここがすべての起点だ」

 独り言を吐きながら、水平器の気泡を睨みつける。 静まり返った納屋で、レンチを慎重に回し、ボルトを一分刻みで締め上げていった。 金属と金属が密着し、逃げ場を失った空気が小さく鳴る。

『マスター。内部のスチーム配管、圧力テストの準備が整いました。真空引きを開始しますか』

「いや、まだだ。このジョイントのパッキン、馴染みが甘い。一度バラして、面をもう一度当てる」

 佐藤は一切の妥協を排し、組み上げたばかりの配管を再び解体し始めた。 一人では重い釜を支え直すことはできないが、手元の配管一本、バルブひとつの精度を極限まで高めることはできる。 それを放置すればいつか爆発という名の負債になって返ってくる。それを防ぐのが製造マンの矜持だった。

 佐藤は新しいパッキンを指先でなぞり、わずかなバリも見逃さずに処理した。 ふと納屋の隅に視線をやると、昨日運び込まれたマタタビの枝が、静かにその出番を待っている。

「いい材料、いい機材。あとは俺がこれにどう責任を持つかだな」

 再び配管を接続し、ボルトを均等に締める。 納屋の空気が張り詰め、鉄の塊が心臓としての鼓動を準備し始めた。

 佐藤は使った工具を一本ずつ丁寧に拭き、影がさらに伸びた定位置へと戻した。 深追いして精度を落とすのは、素人のすることだ。 佐藤は作業着の汚れを払い、モニターへと視線を向けた。

「ヴェル。17時だ、上がるぞ。照明を落として、あとは預けた」

『了解しました、マスター。作業エリアの電源および照明を遮断します。セキュリティレベルを夜間モードへ移行。機材のエージングは私が継続しますので、ご安心を』

 ヴェルの返答と同時に、作業エリアの照明が音もなく消えた。 佐藤は暗がりに浮かび上がるサーバーラックの青い光を背に、納屋を後にした。 静まり返った空間には、ヴェルの呼吸であるファンの音だけが、絶え間なく響き続けている。


【前回の資産:5,746,500円】

収入なし:0円】

支出なし:0円】

【現在の資産(法人口座):5,746,500円】

【納税・社保引当金(聖域):1,472,000円】

【税金防衛額(節税成功分):858,635円】

【個人資産(佐藤):10,950,000円】

【牧野氏の債権残高:15,000,000円】

【第40話:完】

【偉人の言葉】 「商売とは、感動を与えることである。」



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