【第34話:拠点の静寂と、名前を奪われた聖域】
【Scene 1:日曜日の静寂】
日曜日の朝、原野に建つ旧家の敷地は、深い静寂に包まれていた。 物流の大型トラックも、近隣の農作業の音も止まり、ただ冷たく乾いた風が鉄骨造の納屋の壁を叩く音だけが響く。
佐藤は納屋の中央に立ち、コーヒーの蒸気の向こう側にある空間を見つめていた。 約40坪の鉄骨平屋。高天井の下に広がるコンクリート土間は、昨夜までの作業ですっかり清掃され、1990年に打設されたその無機質な肌を露わにしている。
「ヴェル。日曜の定期メンテを始めろ。余計なデータは拾うなよ」
佐藤の声は、高い天井に反響して戻ってくる。
『了解しています、マスター。現在はシステムリソースの30%を自己診断に、残りの70%を猫動画の解析に割り当てています。業務外のログは一切蓄積していません』
「当然だ。余計な混じり物があると、現場の段取りが狂う」
佐藤は一口、温くなったコーヒーを飲み込んだ。 納屋の右奥には、1982年製の大隈鉄工所製の汎用旋盤が、その重厚な鉄の塊を静かに横たえている。
【Scene 2:名前を奪われた聖域】
同じ日曜日の朝。場所は、喧騒の止まない大都市の総合病院、救急外来へと切り替わる。
「部長、この患者は心臓が悲鳴を上げています。すぐに専門のオペ室を開けてください。一刻を争う事態です」
事務長と談笑していた部長の前に、異常な波形が刻まれた紙を叩きつけた。剥き出しの瞳には、組織の都合よりも優先されるべき「目の前の命」だけが映っている。
「先生、落ち着きなさい。その患者は支払い能力に疑問があると事務方から報告が上がっている。どうせ酒の飲み過ぎか何かだろう」
部長は紙を見ようともせず、椅子に深く背を預けた。
「数値が異常だと言っている! 今すぐ手を打たなければ、この人は死ぬ」
「いいかね、高度な医療機器を動かすには金がかかる。まともに費用も払えない人間に、高価な機材や大勢のスタッフを割く余裕は今のうちにはない。もっと確実な『客』のために、部屋を空けておくのが賢い判断だ」
事務長が横から、銭勘定を優先する冷徹な声で口を挟んだ。救うべき場所であったはずの病院は、もはや利益を絞り出すための「巨大な工場」に変質していた。
「命を、金があるかないかで選別しろと言うんですか」
怒りで声が震える。だが、部長は冷たく突き放した。
「これは命令だ。勝手な真似をするなら、預かっている部下たちの来年の配属先はどうなるかな。彼らの医師人生を、その身勝手な正義感で潰すつもりかね」
奥歯が砕けるほど噛み締めた。自分の意地のために、まだ若い教え子たちの未来を道連れにはできない。
「分かりました。薬で時間を稼ぎます」
力なく拳を解いた。白衣が、泥を被ったように重く感じられた。 その心は、すでにこの歪んだ組織から排除され始めていた。
【Scene 3:1990年の床と、明日の据え付け】
納屋。佐藤は膝をつき、コンクリートの床を確認していた。 1990年。祖父がこの納屋を建てた時、大型の旋盤を据えるために祖父が配合から打ち込みまで自ら立ち会い、一切の妥協を許さなかった姿を覚えている。
「不陸なし。やっぱり、爺さんの仕事に狂いはねえな」
佐藤は立ち上がり、白のマーキングチョークを手に取った。 納屋の左中央に、正確な長方形を描き始める。注文したのは、8畳のプレハブ事務所と事務用品一式。自分と智子が共に背中を預けて働くための場所だ。
サッ、サッ、と箒がコンクリートを撫でる乾いた音が響く。 プレハブが届く場所を決め、掃除をする。特別な設備はまだないが、この揺るぎない水平の上に拠点を据え付けることこそが、すべての始まりになる。
夜になり、佐藤はデスクのモニターを閉じた。 常夜灯だけの薄暗い納屋の中、チョークの四隅が静かに明日を待っている。
「ヴェル。明日の搬入工程を確認しろ。それ以外は何も報告しなくていい」
『了解です。明日ユニック車が到着予定。据え付けの立会いは工程表に反映済みです。……あ、マスター! 見てくださいこれ。三毛猫が黒猫のお尻を嗅いだ瞬間の、このフレーメン反応!』
画面の中の猫のアバターが、鼻を突き出し、口を半開きにしたまま完全にフリーズしている。そのドアップの表情は、どこかマヌケで、それでいて生命の不可解な情熱に満ちていた。
「いらねえよ。明日は俺が現場で立ち会う。お前は回線維持に専念しろ。照明落としてくれ」
佐藤が開き戸を開けると、LEDが一斉に消えた。 暗転した納屋に、シャッターの隙間から差し込む月光だけが残る。
佐藤は外に出て、開き戸のカチリという鍵の音を確認した。 明日、この床の上に拠点が届く。
【前回の資産:6,217,000円】
【収入:0円】
【支出:0円】
【現在の資産(メイン口座):6,217,000円】
【納税・社保引当金(聖域):1,472,000円】
【税金防衛額(節税成功分):858,635円】
【個人資産(佐藤):10,950,000円】
【牧野氏の債権残高:15,000,000円】
【第34話:完】
【偉人の言葉】 「土木でも建築でも、まず一番大事なのは基礎固めだ。基礎さえしっかりしていれば、あとはなんとかなるものだ。」




