【第86話前編:年度末の静寂と、双頭の工期】
【Scene 1:青豆腐の作戦会議】
メイン納屋の中に据えられたコンテナ事務所「青豆腐」では、エアコンの乾いた駆動音と、智子が叩くキーボードの規則的な音が交差していた。
そこへ、現場の土を微かに纏った牧野が入ってくる。
「佐藤さん、おはようございます。550坪の方、このペースなら今日の夕方には準備工事でやれることは全部終わっちまう。明日からどう動くか、指示をもらっておきたいんだが」
佐藤はモニターの工程表を見つめたまま、手元のカップを置いた。
「お疲れ様です。なら、明日からは人員を590坪のボロ納屋の補修に回してください。あそこには、昨日運び込んだ36台のボイラーと、来週届く米山さんの資材が控えている。屋根の穴を塞ぎ、床を整えないと、預かっている物が傷んでしまう」
「了解した。あそこの屋根は舞と森田に任せるよ」
佐藤は手元のタブレットを操作し、先週発注を済ませたリストをメインモニターに表示させた。
「来週には、米山さんの水田を自動化するための大型DCモーターやLTEルータ、LoRaモジュール、さらに24基分のセンサーデバイスが順次入ってきます。設置には数名を回しますが、まずは受け入れる箱の整備が必要です」
佐藤は画面を切り替え、現場の布陣を確認する。
「健治は今週、年度末の事務処理で動けませんが、来週からは戻ってきます。工事が本格的に始まるまでは、二つの拠点を並行して進めることになります」
牧野が力強く頷き、事務所を出ようとした際、佐藤が一点付け加えた。
「あちらの納屋はまだネットが引けていない。4月の入金を確認してから回線とPCを整える予定です。それまでは各自のスマートフォンのテザリングで、ヴェルの網と繋いでおいてください。通信費の補助については智子に伝えてあります」
「分かった。現場の工夫で乗り切るさ」
牧野が去り、入れ替わるように北脇と千尋が修理スペースへ向かおうとする。佐藤はその背中に声をかけた。
「北脇さん。今日からの進め方です。まずはボロ納屋にある分と合わせて、ボイラー40基以上の完動品を作りましょう。予備を含めて45基を狙います。終わった物は識別できるようにして、どんどん進めてください」
「45基ですか。千尋さんの手際も良くなっていますから、良い形で作れそうです」
「お願いします。ボイラーの目処がついたら、次は来週届く24基分の土壌・水位センサーの組み立てを、千尋さんと二人でお願いしたい。年度末の処理が終わっていないので、私は智子と一緒に決済作業に入ります。現場の方は少し手薄になるかもしれませんが、判断は北脇さんに任せます」
北脇は「承知しました」と短く応じ、千尋と共に工具箱を開いた。
「佐藤さん。水門用の部品、材料が入り次第、そちらを最優先で差し込みますね。それがこの街にとって一番大事なことですから」
「助かります、北脇さん」
智子が書類の山から顔を上げ、少しだけ残念そうに口を開いた。
「社長。私も手が空いたらそのボイラーの修理、手伝いたいわ。事務仕事ばかりだと、製造に関わっていた頃の感覚がなまってしまうもの」
「智子、気持ちは分かるが、まずはその一円の狂いも許されない計算を終わらせてくれ。私と北脇さんが免状を盾に、確実な回路を組んでおくから」
「ふふ、そうね。約束に従うわ」
智子は再び画面に向き合い、ヴェルの演算結果と照合を始めた。
『あはは! 智子、自分の領分を弁えなさいな。マスターと北脇さんの論理回路に、今のあなたの数字まみれの脳が混ざったらノイズになるだけよ。さあ、私と一緒にこの海帆市の流れを、一円単位で同期させましょう!』
ヴェルの不敵な笑い声が、青豆腐の壁に響く。
海帆市の2拠点、10名の仲間と2人のAI。
それぞれの役割が、春の静かな朝の中で一つの音を刻み始めた。
【Scene 2:2000円でも昇給は昇給】
「31日の入金を 3,240,000円に補正したわ。着地は 4,182,376円よ」
智子がモニターの数値を更新する。
「30日時点で 8,115,020円あれば、31日の支払い 7,172,644円は当日分を待たずに決済できるな。余裕は大事だ」
佐藤はコーヒーを啜り、確実な余力を確認した。
『合理的ね。4,182,376円の着地。これが私たちの最初の実績よ』
ヴェルの声が青豆腐に響く。
「次は昇給対応ね」
智子が給与査定表を開く。
「藤田さんは 10,000円、20代の5人は 5,000円アップね」
「30万以下の奴らは半年ごとに 10,000円は増やしたいが、入社1ヶ月足らずでそれはやりすぎだ。今回は 5,000円で様子を見る」
佐藤が名簿の端を指でなぞる。
「あと、北脇さんと智子。上げる気はなかったんだが、みんな上がったほうがいいだろ。2,000円乗せておけ、くくっ」
「あら、私も? 2,000円分の働きは上乗せしなきゃね」
智子は呆れたように笑い、ファイルを閉じた。
事務所の電話が鳴った。上原香織からだった。
「佐藤さん、今から事務所に行ってもいいかしら。先日の話で」
「わかった、待ってる」
佐藤が短く応じてから10分後、香織が青豆腐のドアを叩いた。
「例のお話、お引き受けさせていただこうと思います。智子ちゃんも忙しそうだし。夫からも了解を得ました」
「そうか。では4月から土日祝休み、1日5時間、月給22万円で問題ないな。ヴェル、契約書2枚出してくれ」
『了解したわ。プランナーに送信。今、出力するわね』
複合機が作動し、温かい紙が吐き出される。
「香織先輩、ありがとうございます。本当に頼りにしてます」
智子が心底ほっとしたような声を上げた。
「少しでも智子ちゃんの助けになればいいんだけど」
「急な話を引き受けてもらって助かる。やっている業務や利益がなかなか特殊なので、信用が置ける人間にしか頼めない仕事なんだ。舞も、現場で頑張っているぞ」
佐藤がそう付け加えると、香織は静かに微笑んだ。
「いえ、こちらこそ。この短い勤務時間で、これだけしっかりした賃金をいただけるのはありがたいわ」
香織はデスクに向かい、二枚の契約書にサインを書き入れた。
「詳細はスマホからも見れる。後で確認してくれ。香織さん、智子のフォローから現場パートの穴埋めまで、業務は多岐にわたるが頼むぞ」
「ええ、精一杯やらせてもらうわ」
佐藤製作所に、また一人、信頼できる「身内」が増えた瞬間だった。
【Scene 3:おじいさんがあつまる】
25坪の実験棟に、中古ボイラーが「ゴォ」と低く唸る音が響く。
「カチリ」と電磁弁が鳴り、床下のポリ管に15度の温水が送り込まれた。 佐藤は滅多にここへは顔を出さないが、システムが自分抜きでも完璧に回ることを確信している。
だが、米山は違った。 来なくても勝手に育つと分かっていても、どうしても足が向いてしまう。
「すごいな。どれ一つとして、成長のスピードにばらつきがねえ」 「シュボボボ」と水槽の底でマイクロバブルが弾ける。 酸素をたっぷり含んだ水が、30粒の根を休む間もなく刺激し続けていた。
LEDの光に照らされた、一糸乱れぬ数ミリの緑の刃を、米山が眩しそうに見つめていると、背後の扉が開いた。
「お、米山さん来てたんか」
木村と島田が、手に何かを下げて入ってきた。
「木村さん、島田さん。どうしたんですか。折りたたみ椅子まで持って」
「いや、ここがあったかいじゃろ。島田と話すのにちょうどいい場所だと思ってな」 木村が笑いながら、25坪の空間の隅にどっしりと腰を下ろす。
「予備を考えて持ってきた。米山さんもどうぞ」
島田が手際よく椅子を広げ、苗を囲むようにして並べた。 三人のベテランが、LEDの光に照らされた小さな緑を囲んで座る。
本来なら5月まで拝めないはずの光景が、このプラントの中だけに濃縮されていた。
「外はまだ冷えるからな。ここならストーブの灯油代も浮かんで助かるわ」
島田が膝を突き合わせるようにしてパレットを覗き込む。
「米山さん、この苗、見事に揃ってるじゃないか。1粒の遅れもねえよ」
「ああ。完璧な同期だ。佐藤さんの機械が、こいつらに無理やり同じ春を食わせてやがるんだな」
米山も椅子に座り、膝の上で手を組んだ。 ヴェルの合成音声が、規則的な機械音に混じって響く。
『合理的ね。実験棟が近所の社交場へとデフラグされているわ。 室温22度、地温15.5度。 この子たちにとっては、海帆市で最も快適な環境というわけね』
「いいじゃないか。こいつらに見守られながら育つ苗も、悪くないだろう」
25坪のプラント。 高圧酸素の泡が弾ける音と、老人たちの穏やかな話し声。 無機質なシステムの中に、泥臭い人間の体温が混ざり合い、静かな朝がゆっくりと過ぎていった。




