4話 妹の我儘、身代わりの婚約
王都に暮らす伯爵家の屋敷。
その朝は、ひときわ重苦しい空気に覆われていた。
家族そろって朝食を終えた直後だった。
執事が恭しく持ってきた王印入りの封筒を、父が開いた瞬間。居間の空気が張りつめた。
「……王命だ。辺境伯に、良家の令嬢を嫁がせよ、とのことだ」
低く響いた父の声。
ソフィアは一瞬、耳を疑った。
辺境。
それは一年の半分が雪に閉ざされ、魔物がのさばる苛烈な土地。
生きるためには強さと忍耐が求められる。王都で育った令嬢が耐えられる環境では、決してなかった。
そこを治めるのは、若き辺境伯――レオナルド・オーガスティン。
王国で最も剣を極めた男として名を知られ、魔物の巣窟と化した国境にある山を幾度も鎮めてきた。
たったひとりで群れを討ち滅ぼした事もあることから、人々は畏れを込めて「氷の獅子」と呼んだ。
「もともと婚約が決まっていた令嬢がおったが、病を理由に縁談が破談となったらしい。急遽、新しい花嫁が必要とされているようだ」
辺境伯は国防の要だ。単に領地を治めるだけではない。国境を越え、民を脅かす魔物を食い止める――
それこそが、国から課せられた役割だった。
しかし、魔物の脅威は爪や牙ではない。確かに魔物の鋭利な一撃は、肉も骨も容赦なく断ち割った。だが、その身に宿す濁った魔力こそ、人を蝕む最大の恐怖だった。
魔力の低い者が近づけば、たとえ傷ひとつ負わずとも、体内の魔力は乱され、意識を奪われる。最悪の場合は、命さえ落とす。
だからこそ、辺境伯の家には高い魔力を持つ血筋の妻が必要なのだ。要は、強い魔力を宿す高位貴族の“青き血”が求められた。
領主ひとりの力では、辺境の魔物の脅威に抗えない。
代々、強い魔力を持つ妻を迎え、さらに――
高い魔力を宿す子を生み育てることこそ、次代の防衛線となる。
愛情だけでは果たせない婚姻。
国を守るため、世代をつなぐための使命――。
それが、「辺境に嫁ぐ」ということの意味だった。
父は眉間に深い皺を刻んだ。
そして、視線をソフィアの隣に座る妹――シャーロットに向けた。
「指名されたのは、シャーロット。おまえだ」
「えっ……?」
シャーロットの顔が青ざめ、すぐさま真っ赤に変わった。
彼女は天真爛漫で愛らしい。舞踏会でも常に注目を浴び、皆に可愛がられる存在だった。
そんな彼女にとって、冷たい雪原と血なまぐさい戦場の隣で生きる未来など、到底受け入れられるものではなかった。
「いやよ! そんな場所に行きたくない!」
シャーロットの叫びに、母の手が机を強く握りしめる。
父の顔は深く険しく、兄の眉もきつく寄せられていた。
ソフィアはただ静かに、その場の空気を飲み込みながら、妹の無垢な叫びと家族の緊張に心を揺らされる。
「寒くて、恐ろしくて、しかも魔物が蔓延る場所だなんて……! シャーリーには無理!」
「シャーリー、これは王命なのだ。拒む余地など最初からない。家格が釣り合い、なおかつ婚約者のいない令嬢となれば、おまえしかいなかったんだ。……理解してくれ」
「嫌よっ! しかも辺境伯は血も涙も凍った、非情な男だと言うじゃない――」
父の声は厳しい。だがシャーロットは怯むどころか、涙をにじませてさらに声を荒げる。
「どうしてシャーリーなの!? 姉さまが行けばいいじゃない!」
その瞬間、空気が張り裂けた。
シャーロットの叫びは、居間にいた誰もが心のどこかで避けていた思いを、容赦なく言葉にした。
「シャーリー、何を言ってるんだ。ソフィアにはエリック様がいるだろう」
伯爵家の長男であり、ソフィアとシャーロットの兄・チャーリーが、必死にシャーロットをなだめようと声をかけた。
しかし、シャーロットはまるで耳に届かぬかのように、言葉を畳みかける。
「でも、エリック様は姉さまのことを嫌がっているわ! わたしの方が可愛いって、何度も言ってくださったわ! それならわたしが代わりにエリック様に嫁ぐ方が、よっぽど幸せになれるはずよ!」
「……っ!」
ソフィアの胸に鋭い刃が突き立つ。
そう――彼女自身が、心の奥で薄々感じていたこと。
エリックは自分を愛していない――
婚約者である自分を義務でしか見ていない。笑顔も、優しさも、妹にだけ向けている。
それを突きつけられたようで、息が詰まった。
「エリック様だって、姉さまよりわたしが嫁いだ方がずっと幸せな筈よ? ねえ、お父さま!」
シャーロットは涙を滲ませながら、必死に訴える。
父は目を閉じ、重く息を吐いた。
否定も肯定もせず、ただ黙り込む。その沈黙が、何よりも答えだった。エリックがソフィアに冷たい態度をとっているという社交界の噂を父も聞いているのだろう。
ソフィアは膝の上で握りしめた手が震えるのを止められなかった。
彼にとって、わたしは本当に必要だったのだろうか。
シャーロットの言うように、彼女が嫁ぐことを彼は望んでいるのではないか。
もう一度。
彼の笑顔を見たくて、ずっと尽くしてきたけれど……
その一方で、妹は簡単に彼の心を惹きつけてしまう。
心がひび割れる音が、はっきりと聞こえた気がした。
「……分かりました」
かすれた声が自分のものだと気づくのに、少し時間がかかった。
「わたしが辺境に参ります」
部屋中の視線がソフィアに集まる。
父と兄が顔を上げ、目を見開いた。
「ソフィア、おまえ……」
「王命を拒むことはできません。シャーロットが無理なら、わたしが嫁ぎます」
ソフィアは唇をかみしめた。
「お父様もご存じなのでしょう?……わたしはもう、エリック様にとって重荷でしかないですから」
その言葉を吐いた瞬間、胸が裂けるように痛んだ。
けれど同時に、不思議な静けさが心を満たした。
幼い頃から抱いてきた恋心は、あまりに冷たく踏みにじられ続け、ついに限界を迎えたのだ。
「お父様、どうか正式に……妹の代わりに、わたしを辺境伯殿下に嫁がせてください」
シャーロットは驚いたように目を丸くしたが、すぐに安堵の色を浮かべた。
「そうよ! 姉さまが行く方がいいのよ! そして、シャーリーが代わりにエリック様と結婚するわ!」
彼女の声は、もう耳に届いていなかった。
ソフィアの瞳には、揺れる炎のような決意が宿っていた。
――これでいい。
わたしはもう、あの冷たい背中を追わなくていい。
長く続いた恋の終焉は、こうしてあまりにもあっけなく訪れたのだった。
「……それで、本当に良いのか?」
父が静かに、しかし重みのある声で問う。
ソフィアは目を伏せ、喉の奥で言葉が詰まる。胸が締めつけられ、息をするのも辛いほどだった。
本当は誰よりも、この場に立ちすくむ自分を抱きしめてほしかった。けれど、口から出たのは震える声だった。
「は、はい……」
打ちひしがれるように、かすれた声で答えた。
その声は、決して望んで選んだものではない――ただ、抗う余裕すら残されていなかった。
父はしばし黙ってソフィアの肩越しにシャーロットを見やった。
やがて、静かに、しかし確かな決意を帯びた声で言う。
「分かった」
父のその言葉には、諦観と苦渋が混ざっていた。
表向きは婚約を承諾していても、ソフィアが本心から辺境へ嫁ぎたいわけではないことも、彼には痛いほど分かっていたのだ。
しかし、妹に甘く、何かと口実を許してしまう両親と兄は、結局は妹の我儘を尊重する形になってしまった。
ソフィアの胸の奥に、微かな怒りも悔しさも湧き上がったが、それは誰にぶつけることもできず、静かに押し込められた。
ただ、辺境へ赴く決意を固めるしか、残された道はなかった。




