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3話 遠い日の約束

はじめからエリックも冷たかったわけではない。

婚約を結んでしばらくの間は、あの日の庭園のときのように優しかった。


ふたりきりのお茶会ではたわいのない会話を交わし、季節の花や流行の詩歌について笑い合った。どれも取り立てて特別な会話ではない。けれど、彼と声を交わすだけで胸は満ち足りた。


「最近はお忙しいのでしょう? その……噂はかねがね耳にしております」


ソフィアはティーカップを置きながら問いかけると、彼は少し照れたように笑った。


「ああ、うん。父に叱咤されながら、勉学漬けの日々だよ。侯爵家の嫡男ともなると、学ばねばならぬことが多くて……政治、経済、礼法、果ては歴史まで。頭が回らなくなることもあるね」


「まあ……でも、きっとエリックなら、どれも身につけてしまわれるのでしょうね。

剣の腕前は優秀だと伺っておりますし、魔法の才能もおありだとか――まさに文武両道。とても素晴らしいわ」


彼は苦笑しながら、少しだけ視線を逸らした。


「それは……少々誇張だよ。ただ、剣を振っているときだけは、余計なことを考えずに済むからね」


ソフィアはその言葉にそっと微笑んだ。


「いいえ、エリック様が努力されているのは知っています。皆様からの称賛もその努力合ってこそです。……あの、よろしければ」


彼が不思議そうにこちらを見る。

ソフィアは小さく息を整えて、懐から白い布を取り出した。淡い藤色の糸で花模様が刺繍されている。


「これを……受け取ってくださいませんか? まだまだ練習の身ですけれど、祈りを込めて刺繍したんです……」


「ソフィアが自ら縫ってくれたの? 僕の為に……」


彼の指先がハンカチを受け取ると、陽の光が刺繍糸に反射して、淡い輝きを放った。


「ありがとう。大切にするよ」


その声が少し低く響いて、ソフィアの胸の奥に波紋を残した。

たわいのない会話も、贈り物のひとつも。

彼と過ごす時間のすべてが、何よりも特別に思えた。その様子をソフィアは毎夜眠りにつく前に思い返しては頬を染めたものだった。


また、ソフィアが風邪を引いた時のことだった。

ちょうど妹も同じく体調を崩していた。母は妹の枕元に付ききりで、兄も父も心配そうにその部屋を行き来していた。賑やかな声と足音が隣室から響くたび、ソフィアの部屋だけが取り残されたように静まり返る。


――わかっていたわ。あの子のほうがずっと可愛がられていることなんて。


そう思おうとしても、心臓を掴むような痛みは消えなかった。孤独は熱よりも重く、静かに身体の芯を締めつけていく。

そんな時だった。扉を控えめに叩く音がした。


「ソフィア、入ってもいいか?」


驚いて顔を上げると、そこにはエリックが立っていた。

片手には水の入ったたらいを持っている。


「……エリック様?」


声を出した瞬間、喉が焼けるように痛んだ。

エリックは苦笑し、椅子を引き寄せて彼女の傍に座る。


「ああ、無理に話さなくていい。風邪を引いたと聞いて、お見舞いに来たんだ」


彼はゆっくりと手を伸ばし、ソフィアの額に触れた。

その手は驚くほど優しく、温もりがじんわりと伝わってくる。


「ああ、こんなに熱いじゃないか。こんなにも苦しんでるのに、どうして家族の誰も気づかないんだ」


その呟きに、胸の奥がじわりと熱くなった。

こんな自分を気に掛けてくれる人がいる。たったそれだけのことが、涙が出るほど嬉しかった。


エリックは、水の張った桶から濡れた布を取り上げた。その布を絞ると、丁寧にたたみ直し、ためらいのない手つきでソフィアの額へと置いた。

そして、幼子をあやすように髪を撫でる。


「大丈夫だよ、ソフィア。すぐ良くなる」


低く穏やかな声が、熱に揺らめく世界を包み込む。

指先が髪の間をそっと梳くたびに、孤独の影が少しずつ薄れていくようだった。


「……エリック様……」


「ずっと側に居るから、安心して」


その名を呼んだ瞬間、彼が微笑んだ。

その微笑みはあまりに柔らかくて、彼がくれた言葉がまるで――遠い未来の約束のように思えた。


――ずっと側に居るから。


なのに。

その温もりがいつから薄れていったのか。


思い返せば、妹シャーロットを紹介してからかもしれない。


その日、伯爵家の応対室は柔らかな午后の陽光に包まれていた。窓辺のレース越しにこぼれる光が、磨き上げられた調度品や壁の絵画を淡く照らしていた。

シャーロットが紹介してほしいとねだったため、エリックが来訪した時に合わせて、三人でテーブルを囲むことになった。


「はじめまして、噂に違わず素敵な男性ですのね。ずっとお会いしたかったですわ。なのに、お姉さまがなかなか会わせてくれなくて……」


シャーロットの声は弾んでいた。軽やかで、どこか胸をくすぐるような響きを帯びている。

美しい碧眼に整った顔立ち、柔らかく巻かれた金の髪。幼い頃から家族や親戚の視線を独り占めしてきた少女らしい自信に溢れていた。


ソフィアは胸の奥がひとつ、痛むのを感じた。

エリックを疑うわけではない。彼は優しく、誠実で、今までと変わらず自分を見てくれるはずだ。だが、妹のあまりの美しさに、もしも彼が家族のように夢中になってしまったら――そう思うと、会わせるのが怖くて、臆病になってしまっていた。


エリックは微笑みを絶やさず、穏やかな声で応じる。


「シャーロット嬢、こちらこそ会えて光栄だ。君の方こそ、噂に違わず可愛らしい女の子だね」


その声音は柔らかく、微笑には確かな温もりがあった。

そのたった一瞬に、ソフィアの胸はきゅうと締め付けられる。

今まで彼の優しさはいつも自分だけに向けられていた――なのに、妹がそこに立つだけで、その視線が自然と移ろってしまうのがわかった。


「まあ、そう言ってもらえて嬉しいわ。でも、シャーロット嬢なんて呼ばず、気軽にシャーリーと呼んでほしいの。家族にはそう呼ばれてるのよ。いずれシャーリーたちも家族になるんだもの」


無邪気に笑うシャーロットに、エリックは頷いた。


「じゃあ、シャーリーと呼ばせてもらおうかな」


「ええ、是非! それにしても……こんなに素敵な男性がお兄様になるなんて、まるで夢みたい。お姉さまもきっと、エリック様が格好いいから心配で、シャーリーに会せたくなかったのでしょうね」


「そんなことないわ、シャーロット……」


「まあ、そうなの? 決して意地悪をしてた訳ではないのね? でも、お姉さまの気持ちも分かるわ。こんなに素敵な方なら、誰だって恋に落ちてしまいそうだもの」


シャーロットは楽しげに笑いながら、エリックへと視線を向けた。

そのしぐさがまた、ソフィアの心を乱す。

エリックはふっと目を細めた。照れくさそうに、けれどどこか満更でもないように微笑む。


「光栄だな。そんな風に言ってもらえるとは思わなかったよ」


シャーロットは唇に手を当て、くすりと笑う。


「まぁ、本心ですわ。お姉さまが羨ましいもの」


エリックは笑みを絶やさず、丁寧にシャーロットと会話を続ける。微かな声で笑うその様子を、ソフィアは息を詰めるようにして見守るしかなかった。

手の中で指を絡めながら、何度も心の中で繰り返す――「大丈夫。エリック様はわたしの婚約者よ……」と。

しかし、胸の奥に渦巻く嫉妬と不安は、どうにも消えそうになかった。


そして、ソフィアの不安が的中するように――

シャーロットと親しくなるにつれ、エリックの態度に微かな冷たさが混ざり始めた。以前のような柔らかな笑みは減り、問いかけても素っ気なく、まるで彫像のように凛とした横顔を向けるばかり。


「ソフィア、もう少し可愛げを見せてくれないか」


「可愛げ……ですか」


「そうだ。もっとシャーロットのように可愛らしい態度をとってくれ」


ある夜会のことだった。煌めくシャンデリアの下、人々の視線が交錯する中で、胸の奥がぎゅっと痛む。


可愛げ……。

シャーロットのように自然に、弾む声や無邪気な仕草を見せろ、ということだろうか。


「お姉さまは真面目だから仕方ないのよ。ちょっと、ひとより不器用なの。そんな無理を言わないであげて、エリック様」


ソフィアの肩越しに、シャーロットの笑みが広がる。自然体で、エリックに向けるその愛らしさが、まるでソフィアの胸を刺すように映る。


「ほら、ソフィア姉さま。言ってる側からそんな顔しないで。折角の夜会が辛気臭くなっちゃうでしょう。ほら、笑って笑って」


シャーロットの声は羽のように軽やかで、どこまでも悪気がない。だがその無垢さが、かえって残酷だった。

唇を引き上げようとする。けれど笑みを作るほど、頬の筋肉が強張り、胸の奥はひりつく。


「……ええ、そうね。シャーロットを見習わなくっちゃね」


「もう、お姉さまったら」


鈴の音を転がすような笑い声が響く。

ソフィアがかろうじて形だけの微笑を浮かべた瞬間、エリックの視線がふとこちらに流れる。冷ややかとも温かいともつかぬ、その曖昧なまなざし。

彼が何を思っているのか、もう分からない。ただ、シャーロットを見つめる時の柔らかな表情だけは、痛いほどに鮮明に焼き付いていた。


――わたしも……努力しているのに、どうして……。


焦燥感が胸を満たし、手のひらが小さく震える。礼儀作法も、舞踏も、マナーも、すべてエリックに認められるための努力しているのに――。

その努力は、妹の天性の愛らしさに比べて、まるで見えなくなったかのように思える。


孤独と嫉妬が、静かに心の奥で渦巻く。初めて会った日の純粋な憧れは、次第に痛みに変わっていった。


もし、もっと愛想よく笑えたなら、愛してもらえたのだろうか。

そう思って鏡の前で幾度も笑顔を練習したことがある。けれど、浮かび上がるのはどうしても歪んだ笑みばかりで――。

そのたびに、自分の至らなさを突きつけられるようで、胸の奥がひりついて痛む。


どうして、わたしはシャーロットのように笑えないだろう。

どうして、シャーロットのように……愛されないのだろう。


シャーロットのような愛くるしさも天真爛漫さも、自分は持っていない。努力では埋められない差が、確かにあるのだとソフィアも分かっていた。

それでも……それでも、努力を重ねれば、いつかは振り向いてもらえるのではないか。そんな淡い望みを、どうしても手放すことができなかった。


痛みの中に、消えそうで消えない小さな未練だけが、暗闇の中で燻る火のように残っていた。

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