25話 春の訪れと共に
エリックに連れ去られかけたものの、レオナルドに救い出されソフィアは、そのまま屋敷へと戻ることになった。
案内された先は、暖炉の火が赤々と燃える、暖かな部屋だった。
「……あ……」
緊張が解けて思わず零れた息は、白くならなかった。凍えきっていた指先が、火の温もりに触れた途端、じん、と鈍い痛みを伴って蘇る。毛布を肩に掛けられ、暖炉の前の長椅子にそっと座らされると、張り詰めていた糸が一本、また一本と解けていった。
「怖かっただろう。もう大丈夫だ、安心してくれ」
穏やかで低い声に、ソフィアは小さく息を吸い込み、「……っ、はい」と答えて頷いた。
暖炉の炎は優しく揺れ、赤から金へと色を変えながら、彼女の頬を照らす。冷え切った身体に、時間をかけて熱が染み渡り、恐怖で強張っていた呼吸も、次第に整っていく。
「今回の件は、侯爵家へしっかりと抗議をしよう」
レオナルドは毅然と言い切った。その横顔には、譲れぬ怒りが滲んでいる。
だが、ソフィアは首を横に振った。
「……いいえ。どうか、表沙汰にはなさらないでください。未然に防げたことですし……それに、妹の嫁ぎ先ですから」
「だが、君が誘拐されたんだぞ!」
思わず強まったレオナルドの声には、抑えきれない苛立ちと、彼女を失いかけた恐怖が混じっていた。
けれど、ソフィアは静かに首を振ったまま、柔らかに答えた。
「ですが……未然に防げたことですし。もうエリック様と会うことはないでしょう。きっと、私のことを想って、ではなく――過去の私……エリック様を慕っていた私を取り戻そうとしただけだと思います」
その言葉に、レオナルドの瞳が一瞬だけ揺れた。
「どういうことだ……?」
「エリック様は、わたしが好きだったわけではありません。エリック様を好きなわたしが惜しくなっただけかと。わたし達は、共に依存していたのです。それに――」
ソフィアはひとつ深呼吸をし、微笑を浮かべた。
その笑みは穏やかでありながら、どこか切なげだった。
「わたし、エリック様ときちんとお話もできないまま、婚約を終えてしまいました。だから今回のことは……」
ほんの一瞬、遠い過去を見つめるように瞳を伏せる。
「ただ、さようならを言いに来られただけなのだと思います。わたしも……それを、受け入れただけです」
その言葉に、レオナルドはしばし沈黙した。
エリックという男が、ソフィアを想っていなかった――そう断じることは、できない。なぜなら、自分自身もまた、彼女の優しさに救われ、惹かれてきたひとりだからだ。
あの男もきっと、同じだったのだろう。
彼女の温もりに甘えて、その存在に寄りかかりながら――いつしか、それが与えられて当然のものだと錯覚した。好意に胡座をかき、甘えきった末に踏み越えてはならない一線を越えたのだ。
……だからといって、許す気など微塵もないが。
「……君がそう言うなら」
レオナルドは低く呟き、長い息を吐いた。
すべて納得したわけではない。むしろ、胸の奥にはまだ燻るような怒りがあった。それでも彼は、それ以上を口にせず、ソフィアの気持ちを優先した。
やがてレオナルドは静かに立ち上がり、ためらうような足取りでソフィアのもとへ歩み寄った。
そして彼は、床へひざまずき彼女の膝に額を預けた。両腕はそっと、しかし離れまいとする意思を宿して、その腰へと回された。その姿は、縋りつく子どものようであり、同時に、許しを乞う罪人のようでもあった。
「……君を、失ってしまうのではないかと……怖かった」
低く掠れた声が、薪の爆ぜる音に溶けていく。
「氷の獅子と恐れられてきた男が、この有様だ。情けないだろう」
自嘲を帯びた言葉に、ソフィアは首を横に振った。そっと彼の髪に触れながら、静かに続ける。
「……情けなくなんか、ありません」
それどころか――
自分を失ってしまうかもしれないと怯え、誇り高きはずの彼が弱さをさらけ出しているその姿が、ソフィアには愛しくてたまらなかった。
失うことを恐れ、愛するがゆえに揺らぐ心。
不器用ながらも、真っすぐに思いを伝えてくる。その意外な一面も彼の揺るぎない本質であり――ソフィアが、何よりも大切にしたいものだと気が付いた。
「私も……怖かったです。このままレオナルド様に会えなくなって、幸せな日々まで失ってしまうのかと思うと……」
ソフィアはレオナルドの頭を抱いて、ぎゅっと腕に力を込めた。
「君を、誰にも傷つけさせたくない。二度と、失いたくない」
レオナルドはゆっくりと顔を上げた。
膝越しに見上げたその瞳は、夜の闇よりも深い色を宿している。そこにあるのは威厳でも冷静さでもなく、ただ一人の女性だけを映す、裸の想いだった。
「――君を愛している」
短く、けれど確かな告白だった。
それは、誓いであり、祈りであり、そして愛を乞う言葉だった。
ソフィアの瞳に、ふっと涙が光る。彼女は小さく頷き、囁くように言った。
「……はい。わたしもお慕いしております」
震えはあったが、迷いはなかった。
「……この地では、誰にも君を奪わせはしない。俺が、守る」
その言葉に、ソフィアは微笑み、そっと想いを重ねる。
「わたしも……レオナルドさまのおそばで、生きていきたいです」
暖炉の炎は変わらず揺れ、二人の誓いを、静かに、あたたかく照らし続けていた。
***
やがて――
辺境は、長い冬を越えた。
雪に閉ざされていた大地はゆるやかに息を吹き返し、固く凍っていた土はやがて柔らかな芽吹きを許した。冬を迎える前に植えられていたスノードロップも、白い花を密やかに咲かせた。
厳しい季節を共に過ごした日々が、静かに、しかし確かに、ふたりの絆を深めていく。
そして訪れた春。
待ち焦がれていた今日、この日。ソフィアとレオナルドは結婚する。
辺境伯邸の庭園は、朝露をまとった無数の薔薇に包まれ、甘やかな香りが静かに漂っていた。
丹精込めて育てられた花々は、まるで今日という日を待ち望んでいたかのように咲き誇っていた。
白いヴェールに身を包んだソフィアが、小道を歩み出す。肩から袖にかけて繊細な長袖のレースが肌を覆い、光沢を帯びたシルクで仕立てられた、長い裾が美しいロングトレーンのウエディングドレス。その一歩ごとに、生地がかすかな音を立てて揺れた。
正面に立つレオナルドは、軍装ではなく、晴れやかな礼装姿だ。緊張を隠しきれず、耳まで赤くしている。彼の視線は、薔薇ではなく、ただひとり――ソフィアだけを映していた。
「……綺麗だ」
思わず零れたその一言に、彼はわずかに目を細め、いつもの不器用な微笑みを浮かべる。
その微笑みに応えるように、ソフィアの唇にも、やわらかな笑みが宿った。
壇上に並ぶと、神官の静かな声が庭園に響いた。
誓いの言葉が交わされる。富める時も、貧しき時も――ありふれた文句のはずなのに、二人の声で紡がれると、重みが違った。
レオナルドは、迷いなく、はっきりと答える。
「どんな時でも、俺は君を愛し続けると誓おう」
ソフィアもまた、まっすぐに彼を見つめ、静かに言葉を返した。
「私も、あなたを愛します。これまでも、これからも……ずっと」
過去の孤独も、傷ついた日々も、すべてを知ったうえで、それでも共に歩むという誓いだった。
レオナルドの手が、そっとソフィアの頬に触れる。
ソフィアは静かに目を閉じた。唇に触れたぬくもりは、やさしく、あたたかく、まるでこれまでの痛みさえ包み込むようだった。
誓いの口づけの瞬間、列席者たちの拍手が一斉に湧き起こる。
同時に吹き抜けた一陣の風が、薔薇の花弁を宙へと舞い上げた。まるで二人の門出を祝福するかのように。
「綺麗です!」とミーナが声を弾ませ、「おお、旦那様、実に立派ですぞ」とクラウドが胸を張る。
領主であるレオナルドの晴れ姿と、その伴侶となったソフィアを一目見ようと駆けつけた領民たちも、屋敷の人々も、心からの笑顔で二人の結婚を祝っていた。
レオナルドはそっとソフィアの手を取り、低く告げる。
「これからは、共に歩こう。季節が巡る、そのすべてを」
ソフィアはその手を握り返し、微笑む。
「はい。凍える季節も、花開く時も――すべてを、あなたと共に」
そうして、それぞれが抱えてきた過去と孤独は、雪解けのように静かに溶けていった。陽光に満ちたこの地で、ソフィアはようやく居場所と呼べる場所を見つけ、そして――愛し、愛される人を得たのだ。
ふたりは寄り添い、確かな未来へと歩み出す。
春の訪れとともに。
完結しました! ここまで読んでくださった皆さま、本当にありがとうございました!
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本編は終わりますが、お話はもう少し続きます。妹・シャーロットの話とレオナルドの過去の話を予定しています。もし宜しければ、番外編も読んでくださいね。
以前、調子に乗った男が痛い目を見る話(『 婚約者に冷たくされても一途に思う令嬢は~』)を書いたことがあったのですが、「もっと丁寧に描きたい」と思ったのが、今回のお話を書くきっかけでした。
後悔するエリックと、めいっぱい溺愛されるソフィアを書けて楽しかったです。
詳しい後書きは活動報告に載せるので、ご興味がある方はそちらをお読みください。




