24話 確かに、愛していた
正面には、剣を携えたレオナルドが立っている。その瞳は、怒りと警戒を孕み、真っ直ぐにエリックを射抜いていた。
レオナルドは一歩も引かず、腹の底から声を張り上げた。
「連れ去ったのは分かっている……大人しく、ソフィアを返せ!」
その言葉を受け、エリックは一瞬だけ目を細める。
そして、口角をわずかに歪めた。
「……その台詞は、僕の台詞だよ」
思いがけない返答に、レオナルドの眉が跳ね上がる。
「なにっ?」
「ソフィアと僕は……幼いころから、婚約を交わしていた。互いの未来を疑いもしなかったんだ。それなのに……こんな形で、無理やり引き裂かれるなんて。ソフィアを……ッ、返してくれ!」
エリックは視線を逸らさず、言葉を重ねた。まるで、胸の奥に積もり続けていたものを吐き出すように。握った拳が、かすかに震える。
「だが、君はソフィアを雑に扱っていたそうじゃないか……!」
「ああ、それでもだ。……それでもソフィアは、僕だけを一途に慕っていた。僕を、愛していたんだ! レオナルド卿には分からないだろう。僕たちが、どんな時間を共に過ごしてきたのか……。
彼女がどうすれば喜ぶのかも、泣くのかも。全部、僕だけが知っている。君が出会うより、ずっと前からだ」
その声には、取り繕いきれない焦りと、縋るような執着が滲んでいた。
「彼女は……彼女は僕と結婚するべきなんだ。王都へ戻った方が、きっと幸せだ。彼女だって、そう望んでいる筈だ」
その言葉を、レオナルドは咄嗟に否定出来なかった。
自分は、本当に彼女を幸せにできるのだろうか。その問いは、彼の胸の奥に、ずっと居座り続けている。
一度は婚約者に逃げられた男だ。彼の方が、ソフィアに相応しいのではないか。
そんな考えが、胸の奥をよぎってしまう。
――いや。
目の前の男はソフィアを大切にしていなかったらしいではないか。
けれど、ソフィアがかつてこの男を慕っていたことも否定できない。自分よりもずっと前から、彼女の一番近くにいた。それもまた、紛れもない真実だった。
「……ッ」
喉の奥で、言葉が詰まる。
じりりと、嫉妬が心を焦がしていく。
浅ましいと、自分でも思う。
それでも――
……彼女を、失いたくない。
心が揺れたまま立ち尽くしていた、その刹那。馬車の中から、かすかな物音がした。ソフィアが目を覚ましたのだ。彼女は状況を悟るや否や、息を吸い込み、思いきり声を張り上げた。
「レオナルド様ーーッ!」
はっきりと、自分の名を呼ぶ声。
その声を聞いた瞬間、レオナルドの胸の奥で、迷いが音を立てて砕け散った。
「ソフィア……!」
反射的に、身体が前へ出る。
「待て、レオナルド卿!」
エリックが腕を伸ばし、行く手を阻もうとする。だが、レオナルドは躊躇なくエリックを突き飛ばした。雪を巻き上げ、エリックは地面に倒れ伏す。
その姿を一瞥することもなく、レオナルドは馬車へと駆け寄った。
扉を掴み、乱暴に引き開ける。
車内には、眠りから引き戻されたばかりのソフィアがいた。肩を震わせ、怯えた瞳でこちらを見上げている。
「……レオナルド、様……」
たまらず抱き寄せると、震えていた身体が、わずかに彼に縋るように力を込めた。
「大丈夫だ。助けに来た」
彼はそのまま、彼女の背に片腕を、膝の裏にもう一方の腕を差し入れ、迷いなく抱き上げた。足が床を離れ、宙に浮いたことに、ソフィアは小さく息を呑む。
腕の中に収まる温もりを確かめるように、レオナルドは一歩、馬車の外へと踏み出す。
吹き付ける冷たい風から庇うように、自然と彼女を抱く腕に力がこもった。
「怖かったな。もう、何も心配はいらない」
この腕に抱いている重み。微かに震える体温。
それらすべてが、彼女が「ここにいる」証であり、二度と手放してはならないものだと、骨の奥まで叩き込んでくる。
奪われるところだった。ほんの一瞬でも、判断を誤れば。
もう迷わない。誰が相手でも、どんな過去があったとしても関係ない。
――彼女を、愛しているんだ。
その背に、焦燥に満ちた声が追いすがる。
「ソフィア……ッ! 待ってくれ! 行かないでくれ!」
雪を踏みしめ、よろめきながら立ち上がったエリックが、必死に手を伸ばす。
「君は……君は僕が好きだったはずだろう!? そいつなんかと結婚するなんて、そんなはずがない……!」
彼の叫びが、雪原に虚しく響く。
ソフィアは、レオナルドの腕の中で小さく身じろぎした。ぎゅっと握られていた外套の裾が、ゆるやかにほどかれる。
「……レオナルド様。自分で歩けます」
その一言は、震えていなかった。
レオナルドは一瞬だけ逡巡し、それから静かに彼女を地面へと降ろす。
雪を踏みしめ、ソフィアは自分の足で立った。外套を整え、深く息を吸う。
そして、エリックと真っすぐに向き直った。
視線の先にいるのは、必死に手を伸ばすエリック。かつて、心を預けていたはずの相手。
「ソフィア……! 僕と一緒に、王都へ帰ろうっ!」
縋るような声に、ソフィアの胸がかすかに疼く。
けれど、その痛みは、もう彼女を縛らない。
「……エリック様。わたしは、王都へ戻りません」
距離を保ったまま名を呼ぶ。
その声音は、はっきりとしていて、迷いがなかった。
「どうしてだ!? 君は僕が好きだっただろう!? 今でも――」
「好きでした。大好きでした」
婚約者だったエリックを前にすれば、決意が揺らぐのではないかと、ソフィアは怯れていた。
けれど実際に向き合ってみて、その不安は拍子抜けするほどあっさりと霧散した。
「はじめは、ただ純粋な気持ちでお慕いしていました」
ソフィアの脳裏に浮かぶのは、初めて出会ったあの庭園。
やわらかな光に満ちた中で向けられた微笑みと、似合うと言って手渡された白薔薇――その一輪が、どれほど長く自分の支えであったことか。
名前を呼ばれるたび、胸が弾んだ。ともに過ごす時間は、何ものにも代えがたく、ただ隣にいられるだけで心が満たされていた。
――あの頃のわたしは、確かに、あなたを愛していました。
「けれど、いつしか……家族の中に居場所を見つけられなかったわたしは、婚約者という立場の、たったひとりのあなたに縋るようになっていたのです」
レオナルドは言葉を挟まなかった。ただ、彼女の腰を抱く腕に、ほんの少しだけ力を込める。
ソフィアは言葉を選ぶように、静かに続けた。
「だから、どんなに冷たくされても、どんなに蔑ろにされても、逆らえなかった。それでも傍にいられるなら、それでいいと……自分に言い聞かせていました。それは愛ではなく……ただの依存だったのだと、今なら分かります」
エリックの表情が、凍りついたように固まる。
「けれど、必要とされるために縋るのではなく、互いに支え合いたいと願う。そんな感情を、辺境に来て初めて知りました」
ソフィアは、レオナルドの方を見る。
脳裏に浮かんだのは、スタンビートが起きた日の記憶。恐怖に晒されながらも、それぞれが為すべき役割を果たし、力を合わせて危機を乗り越えた。
「レオナルド様から――惜しみなく注がれる想いを受け取りました。ただ大切にされ、溢れるほどの愛情を与えてくださったのです」
そして、今日まで少しずつ、確かに愛を育んできた日々に思いを馳せる。
ソフィアはそっと彼に身を寄せた。
「ここでの生活は、あなたが想像しているほど惨めでも、不自由でもありません。みんな、優しくて親切な人ばかりです。わたしはこの地で……愛を知り、確かな居場所を得ました。あなたの元に戻る理由は、どこにもありません」
その言葉を前に、エリックは声を失ったまま立ち尽くしていた。
ソフィアは、もうこちらを見ていない。
向けられる視線も、寄り添う仕草も、柔らかくほころぶ笑みも――すべてが、はっきりとレオナルドへと注がれている。
かつては、自分に向けられていたはずのものだった。
そう、信じて疑わなかった。
……本当に?
「……そんな……」
喉の奥から、かすれた声が零れ落ちる。
否定したいのに、言葉が続かない。
かつて自分に向けられていた、あの穏やかな微笑み。
けれど、その笑みを、彼はどれほど長く見ていなかっただろう。
愛されていることに胡坐をかいて、彼女が耐え、縋り、我慢していたことに、目を向けようともしなかった。
それどころか、ぎこちない笑顔の彼女に、妹を引き合いに出して「もっと可愛く笑え」と言っていた。
「僕は……なんて事を……」
膝から力が抜ける。雪の上に崩れ落ちても、立て直す気力すら湧かない。
自分は、何を失ったのか。
いつ、取り返しのつかないところまで来てしまったのか。
答えはもう、目の前にある。
ソフィアはもう、僕のもとには戻らない。
「……ソ、フィア……」
名前を呼んでも彼女は降り返らない。背を向ける二人の姿が、ゆっくり遠ざかっていく。
寄り添い、同じ歩幅で進む背中。
その光景を見送ることしかできないまま――
エリックは、完全に、そこに取り残された。
「ソフィア、好きなんだ……本当なんだよ」
震える声で零れた名は、雪に吸われて消える。
プレッシャーに押し潰されそうだった。期待、責務、周囲の視線――それらすべてが胸にのしかかり、息をすることさえ苦しくて。その重みに耐えきれず、彼は大切にしようと思っていた相手に、酷く冷たい態度を取り続けてきた。それでも。
――君を想う気持ちに、嘘なんてひとつもない。
素直に弱さをさらけ出せば、何かが変わったのだろうか。
周囲の期待が苦しいのだと、怖いのだと、言えればよかったのだろうか。
いや、それはあまりにも見苦しくて、そんな事は出来なかった。好きな人の前で、情けない自分をさらけ出す勇気がなかった。
けれど、たとえ弱音を吐いたとしても、ソフィアはきっと彼を嫌いはしなかった。どんな自分であっても、受け入れてくれただろう。エリックには、それがはっきりと分かっていた。
たとえ、重圧に押し潰され、期待に応えられなかったとしても。
周囲は失望の色を隠さなかっただろうが、彼女だけは、決して側を離れなかったに違いない。
そんな君が、僕は――
……だが今更、「愛している」と告げたところで、ソフィアはもう振り返らない。
「あ゛あぁ……」
獣じみた声が雪原に漏れ、すぐに掻き消えた。堪えようとした
呼吸は途切れ、嗚咽が波打つ。視界は滲み、熱い涙が頬を伝って雪に落ちていく。
肩が震え、背が丸まり、指は何も掴めないまま雪を掻いた。叫びは祈りにもならず、ただ喉を焼いて外へ零れ落ちる。
「う゛あ゛あ゛ぁぁぁっっ!!」
空気を引き裂くような慟哭が、白銀の世界に溶けていった。応える者は、どこにもいなかった。
いよいよ……次話、最終回です!
明日、昼間に更新予定です。また、番外編にて妹シャーロットの話も公開します。




