23話 交差する心
ソフィアが連れ去られたその頃。
レオナルドは鍛錬を終え、汗を拭う間もなく執務室へと戻っていた。
若干の後ろめたさを覚えながらも、レオナルドは胸の奥に芽生えた不安を放置できずにいた。
知りたくない、と思う一方で――知らずにいることのほうが、もっと怖かった。
彼女の過去。
自分の隣に立つ前、ソフィアがどんな人間に想いを寄せ、どんな未来を思い描いていたのか。
若干の後ろめたさを覚えながらも、レオナルドはソフィアのかつての婚約者について調査を依頼した。
侯爵家の嫡男――エリック・ウィリアム。王都でも名の知れた才子で、剣も学も申し分なく、社交の場では常に人の輪の中心にいる男。
報告書に並ぶ文字を追うほどに、胸の奥がじわじわと重くなる。
いかにも女性に慣れていそうな、優しげで甘い顔立ち。洗練された物腰。誰もが憧れる「理想の貴公子」。
「なるほど……自分とは、正反対の男だな。多くの女性に慕われていても、不思議ではない」
そうだ。ソフィアがかつて心を寄せた相手として、これほど相応しい男もいないのだろう。それどころか――自分など、比べる以前に土俵にすら立っていない。
社交は得意ではなく、言葉も足りず、気の利いた一言すらまともに口にできない。
女性の扱いなど、ましてや心を喜ばせる術など、学んだ覚えもない。
それでも――彼女に、好きになってもらいたくて。
この辺境を、そして何より、こんな自分自身を。
だから慣れない誘い方で街へ連れ出し、昨日もブティックへ足を運んで贈り物をした。
けれど、それが正解だったのかは分からない。彼女がドレスや宝石を殊更に好むわけではないことは、分かっていたはずなのに。
控えめに遠慮するその姿を見るたび、いっそドレスや宝石を素直に喜ぶ、分かりやすい女性だったなら良かったのではないかと、そんな浅はかな考えがふと頭をよぎったこともある。しかし、その謙虚さ、その慎ましさに、より一層心を惹かれてしまうのだ。
欲しいものは、惜しまず与えたい。ひとつ残らず、この手で与えてやりたい。
彼女が望むのなら、どんな願いであろうと叶えてやりたい。
「旦那様」
はたと顔を上げると、報告書を届けに来たクラウスが一歩下がった位置で静かに立っている。
長年仕えてきた部下は、レオナルドの表情を一目見ただけで、何を思っているか察したようだった。
「ご不安になられるのも、無理はございません。王都でも名高い人物です。容姿、才覚、家柄……表向きだけを見れば、確かに非の打ちどころはありませんから」
クラウスは言葉を選ぶように一拍置き、続けた。
「ですが、かつて婚約者であったソフィア様を冷たくあしらっていた、という噂もございます。不仲の末の婚約破棄だったと」
「ああ……それでもだ。彼女が、かつて彼を慕っていたという事実だけは消えない」
低く呟く声には、どうしようもない引っかかりが残っていた。
「ですが、ソフィア様ご自身が面会を拒まれたのですよ。少なくとも今は、彼を慕ってはいらっしゃらないのでしょう」
「……本当に、そうだろうか。本心まで、そうだと言い切れるか?」
クラウスはわずかに目を瞬かせ、苦笑を滲ませた。
「まさか旦那様が、恋愛面においてこれほど臆病になられるとは思いませんでした」
「……俺自身が、一番驚いている」
吐き出すような声音だった。
しばし沈黙が落ちたのち、レオナルドはふと視線を伏せる。
「ソフィアに面会を断られて、もう二、三日になる。それでも――侯爵家の嫡男は、まだ王都へ戻っていないのだろう?」
低く抑えた問いに、クラウスは一拍置いて頷いた。
「はい。どうやら領内の宿に滞在しているようですな」
「……それで、再び面会を求めてくる様子もない、と」
「ええ。動きはありません」
その静かな報告が、かえって不気味だった。
本当に引き下がったのか。息を潜めているだけではないのか。胸の奥に、じわりと嫌な予感が染み広がる。
何かが、水面下で形を成しつつある。そんな確信だけが、重く残った。
執務室の扉が、勢いよく開いた。
「――レオナルド様!」
悲鳴のような呼び声に、レオナルドは弾かれたように顔を上げた。
駆け込んできたのは侍女のニーナだ。血の気が失せた顔、乱れた呼吸。それだけで、嫌な予感にざわついた。
「どうした」
「ソフィア様が……っ、誘拐されました!」
一瞬、言葉の意味が脳を滑り落ちた。
「……は?」
レオナルドは椅子を蹴倒して立ち上がる。
「若いメイドが手引きして、エリック様と引き合わせたのです……。ただ会話をするだけとの約束だったらしいのですが、そのまま何処かへ連れ去ってしまったと!」
ニーナの後ろでは、共犯とおぼしきメイドがガタガタと震えながら崩れ落ちていた。
胸の奥で、理性のタガが音を立てて外れた。
「なんだと……ッ」
ギリ、と拳を握り締める。爪が食い込み、血が滲むのも構わなかった。
怒りよりも先に全身を支配したのは、底知れぬ恐怖だった。
――もし、彼女が傷つけられたら。
――もし、二度とこの屋敷に戻らなかったら。
考えるだけで、喉の奥が焼けるように痛む。
最悪の想像が脳裏を焼き、喉の奥がチリチリと痛む。
「そのメイドの処罰は後回しだ。侯爵家の嫡男……エリック・ウィリアムを追う。全兵力を動かせ、何よりも最優先だ!」
静かに言い放つ声は、地を這うように低く。
けれどレオナルドの瞳には、触れれば凍りつくような、絶対零度の怒りが宿っていた。
レオナルドは勢いよく屋敷を飛び出した。胸の奥で燃え上がる焦燥と決意を、抑えることなく。
馬に跨り、手綱を打つ。
吹雪が視界を奪おうとも構わず、彼は駆けた。
――愛する人を、必ず取り戻すために。
***
エリックのソフィア誘拐は、あまりにも杜撰だった。だが、それも無理はないことだった。
そもそも、誘拐などという乱暴な手段を取るつもりはなかったのだ。
彼は最初から、彼女に拒まれるなど想像していなかった。
自分の姿を見れば、涙を浮かべて駆け寄ってくる。そう、疑いなく信じ込んでいた。準備など、ほとんどしていない。眠り薬を忍ばせていたのも、念のために用意したもので、本気で使うつもりはなかった。
だが、彼女は拒んだ。
泣いて縋るどころか、恐怖と嫌悪を滲ませて、離れろと言った。
――その瞬間、エリックの中で何かが音を立てて崩れた。
思い描いていた再会の形を否定され、彼は大きな衝撃を受けた。そして、その動揺と焦りのまま、咄嗟にソフィアを無理やり連れ去るという選択に踏み切ってしまったのだ。
急遽手配した馬車に揺られながら、エリックは胸の内で何度も同じ問いを繰り返した。
どうして、こうなってしまったんだろう。
婚約を結んだばかりの頃、ソフィアのことは――純粋に好ましく思っていた。
大人しく、控えめで、何事にも丁寧。貴族の令嬢だが、高慢なところは少しもなく、守ってあげたくなるような女の子だった。少し緊張しがちではあったが、そんな不器用さがどこか愛らしかった。
婚約者として、申し分のない相手。だがそれ以上に、彼女がふと見せる寂しげな笑顔が、彼の心を捉えていた。
家族は妹ばかりを可愛がるのだと、伏し目がちに語る彼女。
家族の愛を得られない代わりに、婚約者である僕にひたすらに愛を求めてくる姿が可愛らしかった。
どうすれば彼女を笑顔にできるだろうかと考えて、花を贈ったこともあった。
――そう。あの頃は、確かに、仲良くなりたいと思っていたのだ。
けれど、いつからだろう。日々積み重なる重圧に、気づかぬうちに苛立ちが募っていた。
嫡男として背負わされる期待は、年を追うごとに重さを増す。
家の名を汚すことは許されず、些細な失敗ひとつでさえ許容されない。周囲の視線は常に厳しく、息をつく暇もない。
そんな中で、「エリック様、すごいです」と一途に慕う彼女の存在は、かつては確かに救いだった。
認められていると実感できる、その瞬間だけは肩の力を抜けた。
だが、重圧に押し潰されそうになる日々が続くうちに、その視線さえも次第に重く感じられるようになった。
嬉しかったはずなのに。大切にしたいと思っていたはずなのに。
それでも……彼女の存在は、少しずつ息苦しさへと変わっていった。
そして、あの日――ソフィアの妹、シャーロットに会った時のことだ。
無邪気に笑うシャーロットと、その隣で微笑を崩さぬまま、わずかに視線を揺らしていたソフィア。
――ああ、不安なのだ。
自分が妹に言葉を向けるたび、彼女の胸が締め付けられているのが、手に取るように分かった。
その瞬間、胸の奥に奇妙な熱が灯った。
庇護欲ではない。逃げ場を失った重圧と苛立ちは、胸の奥で燻り続けていた。そんな中で、自分の一挙一動によって、彼女の心が揺れているという事実が、ひどく心地よかった。
優しくすれば安堵し、少し距離を置けば怯える。その反応に触れるたび、胸に溜まっていた鬱屈が、わずかに晴れていく。
――それは、無自覚な八つ当たりだった。
ソフィアが嫉妬し、不安に沈むほど、自分が「選ぶ側」であるという実感が深まっていく。その感覚に、かすかな罪悪感を覚えながらも、彼は視線を逸らさなかった。
それが――
すべての始まりだった。
自分の言葉で傷つきながら、それでも自分を優先しようとする彼女。
捨てないでほしいと縋りたいはずなのに、必死に微笑むその姿に、安堵と……快感に似たものを覚えてしまった。
彼女は自分のために傷つく。
自分の言葉ひとつで、笑い、沈む。
妹と比べられることを、彼女が何より嫌うのも知っていた。
だからこそ、わざとそうした。シャーロットを選び、称え、視線を向ける。すると案の定、ソフィアは不安に揺れ、唇を噛み、必死に平静を装う。
肩の震えも、痛みに耐える彼女の俯いた横顔も。押し殺された痛みと健気さが滲む瞳の影に、愛おしさが募った。
そして、気づけば、その感覚なしには心が落ち着かなくなっていた。
ソフィアが僕の言葉に一喜一憂し、悲しい顔を見せる――それは、すべて僕を想う証拠に感じた。
ソフィアは――それだけ、僕が好きなのだと。
可愛い、僕だけのソフィア。
――そのときだった。
がくん、と馬車が大きく揺れ、次の瞬間、激しい軋みを上げて急停止した。
投げ出されそうになり、エリックは思わず座席に手をつく。
「な、何だ……!?」
外から聞こえてきたのは、荒い馬のいななきと、人の気配。嫌な予感が、背筋を一気に駆け上がった。
息を詰め、反射的に視線を落とす。
向かいの席には、眠り薬のせいでぐったりと横たわるソフィアの姿があった。呼吸は規則正しく、まつ毛も微動だにしない。どうやら、まだ目を覚ましそうにはない。
ほっとしたのも束の間。
「エリック! 貴様が馬車に乗っているのは分かっている」
低く、鋭い声が馬車の外から突き刺さった。
疑いようもない――辺境伯レオナルドの声だ。
心臓が大きく跳ね、喉が鳴る。
見つかった!? どうしてここまで早く――そんな疑問は、もはや意味を成さなかった。
粗雑すぎたのだ。準備も、根回しも、逃走経路すら曖昧なままソフィアを誘拐した結果が、これだ。
「どこまでも……僕達の、邪魔をするつもりか……」
歯噛みしながら、もう一度ソフィアに目をやる。
彼女を抱えて突破するのは無理だ。外には数人の兵士とレオナルドが待ち構えている。
短い逡巡の末、エリックは決断した。
……今は、出るしかない。
深く息を吸い、覚悟を決めて馬車の扉に手をかける。
軋む音とともに外へ踏み出した瞬間、冷たい空気と、無数の視線が一斉に降り注いだ。




