20話 見つけた居場所
一方その頃――前線となった森は、もはや地獄そのものだった。
木々は無残にへし折られ、白雪の上を黒い影がうねりを上げて押し寄せる。獣の咆哮と鋼のぶつかり合う音が幾重にもこだまし、舞い散る血飛沫が雪を赤く染めていく。
その最も危険な只中に、レオナルドは剣を構えて立っていた。
「ここで食い止めろ! 一歩も退くな――押し返すぞ!」
腹の底から響く怒号が、震える兵の背を押す。鋼の剣が鋭い弧を描き、迫りくる獣の巨体を斬り裂いた。
だが敵の数は、まるで底なしの奔流のようだった。盾兵が衝撃で吹き飛ばされ、背後で悲鳴が割れる。
それでも、レオナルドは一歩すら退かなかった。
「――ソフィアが……領民を助けようとしているのだ。俺も応えねば」
戦場の最中、彼の心に浮かぶのは遠い屋敷にいる彼女の姿だった。守らねばならない者がいる――それが彼を立たせていた。
駄目になった婚約の埋め合わせとして迎えたはずの人。最初は、その程度の認識だった。
幼いころから男ばかりの辺境で育ち、貴族令嬢との会話など未知の領域。前の婚約者とは、話せば話すほど機嫌を損ね、最後には何もかも噛み合わなくなって破談した。
だから今回も、どうせ上手くはいかない。そう思っていた。
――彼女に出会うまでは。
相変わらずそっけない返事しかできず、気の利いた言葉も出てこない。
けれど、そんな自分を受け入れてくれた。
格好悪いところも、弱さも、自分でも気づいていなかった傷さえも。その優しさに触れるたび、胸の奥に絡みついていた痛みが、ふっとほどけていくのを感じた。
それだけではない。
ソフィアは、誰に対しても分け隔てなく接する人だった。
屋敷の使用人にも、街で出会う人々にも、感謝の言葉を忘れず、小さな気遣いを惜しまない。その優しさは、誰かに良く思われるためのものではなく、自然に溢れ出るものなのだと、すぐに分かった。
二人で星を眺めたあの夜から、距離はゆるやかに、しかし確かに近づいていった。
図書館で同じ灯りを分け合い、庭園を散歩し、雪の上で笑い合い、氷の上で何度も手を取り合った。童心に返るようなひとときは、忘れていた笑い方さえ取り戻してしまうような時間だった。
ただ時折、彼女がまだ以前の婚約者を忘れられずにいるのではないかと、嫉妬にも似た不安が胸をかすめたりもしたが――
気づけばもう、些細な仕草ひとつで揺れてしまうほどに。
彼女を失う未来が、耐え難いほど怖くなっていた。
いつの間にか彼女は、ただの代わりなどではなく――
誰よりも守りたい、かけがえのない人になっていたのだ。
気づけば、彼女の笑顔が一日の光になっていた。
「うわああ! 魔物の大群だ!」
森の奥から轟音が響いた。地を打ち震わせる蹄音、枝をなぎ倒す咆哮。
黒々とした獣の群れが雪解けの大地を蹴り荒らし、まるで濁流のように押し寄せてくる。
「陣を崩すな! 盾を構えろ!」
レオナルドの声が戦場に轟いた。
兵たちは必死に盾を組み合わせ、槍を突き出す。だが、群れの勢いは凄まじく、最前列の盾が軋み、兵の腕が震える。
次の瞬間、前列の一人が弾き飛ばされた。獣の爪が鎧を裂き、血飛沫が白い雪を赤に染める。
「くっ……!」
レオナルドは咄嗟に前へ出た。長剣を振り抜き、獣の首を断ち切る。飛び散る血が頬を打つが、彼の眼光は揺るがない。
「持ちこたえるんだ! ここを抜かれれば領民に脅威が迫るぞ!」
彼の声は雷鳴のように響き、兵たちの背を押す。恐怖に支配されかけていた騎士たちが、再び盾を組み直した。
「俺たちが退けば、ソフィアも民も皆、喰い尽くされる。死んでも退くな!」
吠えるような号令が、戦場の空気を震わせた。
――その刹那。
群れの奥から、ひときわ巨大な影が姿を現した。
他の魔獣の倍はあろうかという巨躯。岩盤を思わせる分厚い体表は刃を拒み、振り下ろされる角は、ただの一撃で兵の盾を砕き、男たちを弾き飛ばした。
大地が悲鳴を上げ、雪煙が宙を舞う。
吐き出される瘴気は重く澱み、並の兵では近づくことすら許されなかった。
「退け! 俺がやる!」
レオナルドは巨体の正面へ飛び出した。
吹き荒れる咆哮が鼓膜を裂き、冷たい風が皮膚を切り刻む。それでも、一歩たりとも引かない。
――守らねばならない。あの人を、必ず。
「うおおおおおッ!」
気合と共に剣を振り下ろす。
火花が爆ぜ、獣の角が砕け散った。さらに踏み込み、腹へ深々と斬撃を叩き込む。
血飛沫が温かい雨のように降りかかり、巨躯が呻き声を上げて崩れ落ちた。
大地が揺れるほどの衝撃と共に、魔獣は動かなくなった。
一瞬の静寂ののち、兵たちの間に歓声が走った。
「すげぇ……!」
「さすが氷の獅子だ! 押せ! 押し返せ!」
声に士気が上がり、兵たちは再び剣を振るった。
レオナルドは深く息をつき、剣先を再び前へ向けた。
「まだ終わっていない! 最後の一匹まで叩き潰すぞ!」
その背は、恐怖を押しのける盾のように力強く、兵たちの心を奮い立たせていた。
夜が更け、ようやく群れは散り始めた。
疲弊した兵を率いて戻ったレオナルドを出迎えたのは、屋敷前で待ち続けていたソフィアだった。
灯火に照らされた彼女の瞳には、安堵の涙が光っている。
「お帰りなさいませ、レオナルド様……!」
その姿を認めた瞬間、レオナルドの張りつめていた心の糸がふっとほどけ、安堵と温もりが胸いっぱいに広がった――。
***
レオナルドは荒い息を吐きながら、ゆっくりと彼女の前に歩み寄った。
鎧は魔物の返り血に濡れ、肩で呼吸をする姿は、まさしく“冷酷な辺境伯”と恐れられた噂そのものだった。
鋼の匂いと血の気配がまじり合い、見る者を震え上がらせる迫力がある。
もし以前の自分なら、きっと悲鳴を上げていた。
恐ろしくて、近づくことさえできなかっただろう。
――けれど、今のソフィアは違う。
この人は噂にあるような冷酷な怪物ではない。
危険を恐れず、愛する領民を守るためだけに剣を振るった――優しく、誇り高い人だ。
目の前の血は、人々を救った証なのだ。
だからこそ、思った。
どうしてこの人を恐れられるのだろう。
どうして、この優しさを誰も知らなかったのだろう。
ソフィアは一歩、彼へ近づいた。
まるで引き寄せられるように――。
「……ご無事で、本当に……よかった……」
胸の奥に溜め込んでいた息が、ようやく言葉になって零れ落ちる。
震える指先で、そっと彼の頬に触れた。
硬い鎧の冷たさとは対照的に、肌はまだ熱を帯びている。そこに走る浅い傷。乾ききらない赤が、彼がつい先ほどまで死線に立っていたことを雄弁に物語っていた。
「……っ」
思わず喉が詰まる。
怖かったのだ。失うかもしれないと思った瞬間が、何度も脳裏をよぎった。
「ああ。君のもとへ帰って来られて……本当に良かった」
低く掠れた声には、戦場で張りつめていた緊張と、帰還できた安堵が滲んでいた。
その声音ひとつで、ソフィアの胸に張りつめていた糸が、静かにほどけていく。
――血も涙もない、なんて。
とんでもない。この人には、確かに赤い血が流れている。
この人は、確かに傷つき、流血し、それでも立ち上がり、守るために剣を振るった。
触れている指先に伝わる体温が、そのすべてを否定している。
赤い血が流れ、命の重みを知っている人。
そして――帰る場所として、ここを選んでくれた人。
ソフィアは、そっと指先に力を込めた。
その温もりを、確かめるように。
「君の指示で、これだけの民が無事に避難できたのか……」
周囲を見渡す彼の瞳には、驚きと、はっきりとした称賛が宿っていた。
ソフィアはわずかにはにかみながらも、静かに首を振る。
「ただ、避難の指示をしただけです。協力をしてくれた皆さんが優秀だったので……」
レオナルドは小さく息を整え、ほんの一拍の沈黙のあと、低い声で言った。
「いいや、誰にでもできることじゃない。……君は、この辺境伯領に欠かせない存在だ」
その言葉が届いた瞬間、ソフィアの胸に、じんわりと温かさが広がった。
長い間、自分は誰からも必要とされていないのだと、そう思い込んでいた。
かつての婚約者に必死で愛されようとしがみついた日々――
けれど今、自分の力が誰かの役に立ち、守れた命がある。
ただそれだけで、心が震えるほど嬉しかった。
――私は、この場所で必要とされている。
――私は、誰かを救える。
避難した民の顔を見渡す。
恐怖に強ばっていた瞳に、今はかすかな明かりが灯っている。
その光景が胸にしみて、ソフィアは自分という存在を、初めて誇りに思えた。
「レオナルド様こそ……私達の為にーー剣を奮ってくださって、ありがとうございます……」
鎧越しに、そっと彼の胸元へ手を添える。
すると彼はためらいもなく、その上に大きな手を重ねてきた。
先ほどまで戦場で魔物を斬り伏せていたとは思えないほど、驚くほど優しい温度だった。
視線をふっと上げると、レオナルドのまなざしがまっすぐに自分を捉える。
「君がいてくれて……本当に良かった」
胸が熱くなる。
ソフィアはそっと微笑んだ。
――ああ、私はここにいていいのだ。
ここへ来たばかりの頃は、ただ寒く、ただ寂しく、知らない土地にただひとり嫁いできたという現実ばかりが重くのしかかった。
でも――この地には、確かな温もりがあった。
慣れない生活に戸惑う私を気遣ってくれる、屋敷の人達。
そして、はじめは氷のように無表情で距離を置く人だと思っていたレオナルド様も、ただ不器用なだけで、心根は驚くほど真っ直ぐで優しい。
厳しい冬に閉ざされた辺境の大地。
けれどその下には、確かに人の息遣いがあり、ぬくもりが脈打っている。
それに触れるたび、いつしかこの地を覆う白さは、恐ろしいものではなくなっていた。
――遠くないうちに、私はこの土地を、心から好きになるだろう。
そう思える日が、きっと、すぐそこに。
ソフィアは、いまもかすかに舞い落ちる雪を見上げる。
白い静寂の向こうにある、まだ見ぬ未来へ――そっと手を伸ばしながら。
胸の奥に芽吹いた小さな希望は、雪明かりよりも淡く、けれど確かに、温かく灯っていた。




