2話 エリックとの出会い
初めて彼に会った日のことを、ソフィアは生涯忘れることはないだろう。
けれど、その日の記憶を語るには、まずは少しだけ過去を振り返らねばならない。 ソフィアの世界が静かに変わり始めた、あの頃のことを。
リヒター家に妹が生まれたのは、春先のまだ冷たい風が屋敷を吹き抜ける頃だった。
それは本来、家族がひとつの喜びを分かち合う、幸せに満ちた出来事――のはずだった。
しかし、妹が生まれてからというもの、両親も兄も妹に夢中になっていた。
赤ん坊のころから愛らしく、早くもその美貌の片鱗を見せ始めた妹は、家族の誰もが目を細めて褒めそやす存在となった。
「ほら、ご覧。まるで天使のような寝顔だ」
「本当ね、こんなに可愛い子供を見るのははじめてよ。きっと将来は領地一の……いいえ、国で一番美しい令嬢になるわ」
それまでソフィアにも向けられていたはずの家族の視線と温もりは、いつの間にかすべて妹のもとへ流れ込んでいた。
居間でシャーロットを囲む輪の中に加わってみても、自分だけ薄い膜の向こう側にいるようで、そこに居場所があるとはどうしても思えなかった。
気づけば孤独を抱え、ひとりで机に向かう時間ばかりが増えていた。
……わたしなんて、誰からも必要とされていないのかもしれない。
そんな思いが胸に積もり始めた頃だった。
その日、ソフィアは母に連れられて、伯爵家の馬車に揺られていた。
訪れる先は、侯爵家の屋敷。彼女の婚約者となる少年との、初めての顔合わせのためだった。
緊張と期待が胸の奥でせめぎ合い、落ち着かない。
まだ幼い彼女にとって、「婚約者」という言葉の意味を完全に理解してはいなかった。けれど、大人たちがその相手を誇らしげに語るたびに、心の中に温かな誇りが芽生えるのを感じていた。
屋敷に通され、案内されたのは広々とした庭園だった。
そこはちょうど春の盛り。満開の花々が陽光を浴びて色鮮やかに咲き誇り、柔らかな風が枝を揺らしていた。風に乗ってひらりと舞う薄桃色の花びらは、まるで天から零れ落ちる祝福の雨のようだった。
ソフィアは思わず立ち止まった。眩しい景色に目を奪われて。
けれど、次の瞬間。もっと強く視線を吸い寄せられる存在を見つけてしまう。
花々のあいだに立っていたのは、一人の少年だった。
陽の光を浴びてきらめく金の髪。真っ直ぐに澄んだ碧眼。まだあどけなさを残しているのに、背筋は伸び、立ち姿には誇り高さが漂っていた。
あの人が、わたしの……
母がそっと背を押した。
「ソフィア、ご挨拶なさい」
小さく息を呑んだソフィアは、胸の鼓動を抑えきれないまま一歩を踏み出した。
花びらがふわりと舞い降りる中、少年と向かい合う。
「僕はエリック。今日から君が、僕の婚約者になるそうだね」
その少年――エリックは、少し照れくさそうに、それでいて誇らしげに口を開いた。
「は、はい……」
彼はただ、決められた約束を口にしただけかもしれない。けれど幼いソフィアには、その言葉がまるで祝福の宣誓のように響いた。
「……あの……は、初めまして……ソフィアと申します……」
声は震え、掠れてしまった。それでも覚えたばかりのカーテシーを披露して、精一杯挨拶をする。
「うん、よろしくね」
少年の唇がそっと弧を描く。
まるで花弁が朝露に開いたように、誰もが目を離せない美しさを秘めていた。
その微笑みに、ソフィアは完全に心を奪われた。
「ソフィア?」
名を呼ばれ、はっと我に返る。呆けたように見入ってしまっていたことに気づき、慌てて視線を逸らす。頬から耳へと熱が広がり、真っ赤になっていくのが自分でも分かった。
「よ、よろし……く、お願いいたします……っ」
エリックの側に立っていた侯爵が、ほほえましそうに笑う。
そしてエリックの肩を軽く叩き、言った。
「エリック。せっかくの機会だ。ソフィア嬢に庭を案内してあげなさい」
「はい!」
元気よく答えたエリックは、迷いのない仕草でソフィアに手を差し伸べる。
「ソフィア、こっちにおいで。薔薇を見せてあげるよ」
差し出された手に触れた瞬間、ソフィアの心臓は大きく跳ねた。
小さな掌なのに、しっかりとした温もりがそこにある。その手に導かれるまま、花々の間を進んでいく。
「ここが、母上自慢の薔薇園なんだ」
エリックが胸を張る。
その横顔は幼さを残しながらも自信に満ちていて、花々よりも眩しく感じられた。
「すごい……こんなにたくさんの薔薇、見たことがありません」
思わず感嘆の声がもれる。
流石は侯爵家。その庭園は素晴らしかった。咲き誇る赤、白、桃、黄金。色とりどりの薔薇が陽光を浴び、甘やかな香りを風に乗せていた。
「こっちの赤いのはプリンセスローズって呼ばれてるんだ。王家の女性のお名前にあやかり、名付けられた薔薇なんだよ」
「とても綺麗ですね……」
ビロードのようになめらかで、深い真紅の花弁を持った大輪の花。隣を歩く少年は親切にその薔薇の名前を教えてくれる。
ソフィアはその光景に心を奪われ、足元への注意をすっかり忘れていた。
「あ……!」
蔓に足を取られた瞬間、ぐらりと体が傾く。
だが次の刹那、強くしなやかな腕が彼女を支えていた。
視線を上げると、エリックの瞳が真っ直ぐに自分を射抜いている。
近すぎる距離。吐息が重なりそうなほど。
「大丈夫、ソフィア?」
その声は、落ち着きと優しさを含んでいた心臓が跳ね、思わず息を呑む。
小さな手を彼の手から離すこともできず、ただ頷くだけのソフィア。
「……っはい、だいじょ、ぶです」
ほんの一瞬の出来事だったのに、胸の奥に熱いものがじわりと広がる。
薔薇の香りと陽光の中で、二人の距離はいつの間にかぐっと縮まっていた。
「そうだっ」
エリックはぱっと彼女から身体を離すと、すぐ傍の茂みに手を伸ばした。
するりと一輪の薔薇を摘み取ると、陽光を浴びて輝く花を掲げ、振り返る。
「この薔薇を君にあげる」
突然の贈り物に、ソフィアは目を瞬かせた。
離れていった温もりを惜しみながら、ソフィアは差し出された薔薇に視線を落とした。花弁はまばゆく輝く、透き通る白さ。目に痛いほど鮮やかで、思わず息を呑んでしまう。
「えっ、わたしに?」
驚きに揺れる声。
その言葉に、エリックは小さく笑って頷いた。
「うん。あっ、……じっとしてて?」
次の瞬間、彼は迷いなくソフィアの耳元に手を伸ばした。
不意に近づく気配に、ソフィアの心臓は大きく跳ねる。
頬をかすめるように指先が触れ、さらりと流れる髪に白薔薇が差し込まれた。
「できた」
一歩下がったエリックは、満足げに微笑んだ。
その笑みは花よりも眩しく、まっすぐにソフィアを射抜く。
「やっぱり! 僕の見立て通り、白い薔薇は君にぴったりだ。花の意味はね……たしか純潔と敬意、だったかな?」
茶化すように言いながらも、その碧眼はどこまでも真っ直ぐだった。
――エリックの瞳に映っているのは、自分だけ。
胸底で小さな鐘が澄んだ音を立てた瞬間、世界の色が変わった気がした。
その響きは波紋のように全身へ広がり、視線も、意識も、何もかもがエリックに奪われていく。
周囲のざわめきさえ遠のき、今この場には彼と自分しか存在しないように思えた。
「……っ、あ、ありがとうございます……」
掠れる声でそれだけを絞り出すのが精一杯だった。
――このひとは、家族とは違って、わたしだけを、見てくれている……。
それは、孤独に覆われていた心に差し込んだ温かな光だった。
初めての出会いにして、ソフィアの世界には深くエリックという名が刻み込まれたのだった。
その日からというもの――
ソフィアは、彼にふさわしい伴侶になりたい。彼の隣に並んで歩める女性になりたい。
その一心で、これまでの日々を過ごしてきた。
礼儀作法も、勉学も、刺繍も、家政も。
努力はすべて「エリックに愛されたい」という思いからだった。
しかし、いつからか……
隣に立つエリックの横顔は冷たく、美しい彫像のように笑みを見せなくなってしまった。
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