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19/26

19話 迫りくる脅威

――今朝も、いつもと変わらない静かな朝のはずだった。


朝の光が、屋敷の大広間に穏やかに差し込んでいた。

冬の柔らかな日差しが、石造りの壁を淡く照らし、暖炉の火はほのかに暖かさを運ぶ。

庭からは雪をまとった樹木が静かに揺れ、風の音がかすかに屋敷の中に届いていた。


「春に間に合うように、結婚式の準備を進めていかなくてはなりませんね」


式の段取り、招待する客のリストアップ、そして遠方から訪れる客の宿泊先の手配。考えただけで、頭の中にやるべきことの山が積み上がっていく。


「冬は長いとはいえ……のんびりしていたら間に合わなさそうだわ」


ソフィアはため息をつく。背後で微かにレオナルドの気配を感じながらも、視線はまだ机の書類に向けたままだ。


「レオナルド様は国境の防衛でお忙しいでしょう? ですから、式の段取りや招待状の準備は、どうかわたしにお任せください」


言いながら、ソフィアの手は自然とペンを握り直す。文字を走らせる指先に、少しだけ緊張が混ざる。


「……その言葉に甘えてもいいだろうか」


レオナルドの声が、静かに部屋に響く。低く落ち着いた声色に、確かな迷いと真剣さが滲む。


「……だが、俺にとっても一生に一度の大事な式だ。できる限り、打ち合わせには参加したい」


大事な式。――その言葉に、ソフィアの胸がひときわ熱くなる。思わず唇がわずかに緩む。


「それに……」


レオナルドが言葉を選ぶように、一瞬だけ口を開く手を止めた。


「……君のドレス姿も見たいんだ」


そう言ってから、はっとしたように目を逸らし、暫く考え込む。


「……いや、やはり当日までの楽しみにしておくべきか?」


「ふふ……レオナルド様ったら。でも、せっかくですから……わたしに一番似合うドレスを、あなたに選んでいただきたいです」


真面目な顔でそう言うレオナルドを見て、ソフィアは笑い声をどうしても堪えきれなかった。


「でも、無理はなさらないでくださいね。お身体を壊されては、元も子もありませんから」


柔らかな声に、レオナルドの瞳がわずかに和らぐ。

部屋には穏やかな空気が流れ、冬の光が静かに二人の輪郭を照らしていた。窓の外では、凍てついた庭木の先に淡い光が差し込み、冷たさの中にも柔らかさを帯びている。


けれど、その静けさは一瞬にして崩れ去った。

ひとりの兵士が大広間に飛び込んできたのだ。

甲冑の金属がぶつかる音、雪の靴跡、そして荒い息遣い――屋敷の中に緊張の空気が一気に満ちる。


「――レオナルド様! 報告です! スタンビートです!」


その声が大広間に響いた瞬間、ソフィアの心臓がどくんと跳ねた。

スタンビート――辺境伯領において、それは最悪の事態を告げる言葉だった。


ソフィアは椅子を倒しそうな勢いで立ち上がる。

壁に掛けられた絵画も、暖炉の炎も、先ほどまでの穏やかな時間も――すべてが音を立てて崩れ去るように感じられた。


「スタントビート、ですか……?」


口から漏れた声は震えていた。

兵士は肩で息をしながら、レオナルドの前へと駆け寄る。


「閣下、間違いありません! 国境の北側で大地が揺れ、森も川の動物たちが以上な行動を見せています。スタンビートの兆候です!」


説明を聞いた途端、胸の奥が強く締めつけられる。

魔物の大群が、人の住む地へと一斉に押し寄せる現象。 いかに防壁を築き、兵を配置し、城塞を整えても、魔物の群れの規模が大きければ、人の営みは簡単に呑み込まれてしまう。原因は未だ解明されていない。起こるのはごく稀だが、ひとたび兆しが見えれば、数十年に一度の厄災として国中を震え上がらせた。


まさか、そのスタンビートが起きるなんて――。


その脅威の名が響いた瞬間、屋敷の空気はざわりと色を変えた。

召使いたちの表情は強張り、廊下に走る足音が重なり、

いつもの静謐な屋敷が、嵐の前の空のように緊張で満ちていく。


「レオナルド様、前線への出陣を!」


「……うむ」


短い返事。

しかしその声には、覚悟と責務を抱えた者だけが纏う重みがあった。その眉間に刻まれた深い影は、背負うものの重さそのものだった。


ソフィアの胸に、言いようのないざわめきが広がる。

辺境伯が国の防衛を担う立場であることも、その当主であるレオナルドが、前衛に立って魔物と刃を交える役割を担っているだということも、頭では分かっていた。


けれど――実際にスタンビートが起きた今。覚悟していたはずの恐怖が、言葉では覆いきれない不安が、心を締めつけていった。


「レオナルド様……」


思わず呼んだその名は、震えを帯びていた。

行ってほしくない。そんな本音が、喉元までこみ上げる。


スタンビートなんて、王都育ちの令嬢には想像すらできなかった。怖くて仕方ない。そばにいてほしい。守ってほしい。

なにより――彼に、そんな危険な場所へ行ってほしくない。

怪我をするかもしれない。命を落とすかもしれない。最悪の未来が次々に胸をよぎり、息が苦しくなる。

どうか、お願い。行かないで、とすがりつきたかった。ただその一言を口にすれば、きっと涙がこぼれてしまう。

けれど、許されないことだとも理解していた。唇を噛み、こみ上げる想いを必死に飲み込む。


「レオナルド様。どうか気を付けて、いってらっしゃいませ」


「ソフィア……」


ソフィアはゆっくりと周囲を見渡す。不安に唇を噛むメイド。足を止め、どう動くべきか判断できずに立ち尽くす若い従者。誰も、この状況でどう動くべきかを戸惑っている。

ならば、動ける者が動かなければ。


「レオナルド様、どうぞわたしのことはお気になさらず。民の避難は、わたしにお任せください」


言葉に迷いはなかった。

ほんの少しだけかすれた声が、それでもまっすぐに響く。


その瞬間、彼の視線がソフィアを捉えた。

そのまなざしには、驚愕とも戸惑いともつかない影が揺れたが、最後に滲んだのは、揺るぎない信頼。


「領民を、屋敷の者たちを……任せた」


短く、乾いた空気を震わせるように力強い声。

宣誓のような一言に、ソフィアの胸がきゅっと締めつけられた。


ソフィアは微笑もうとしたが、うまくいかなかった。涙を押しとどめるような、ひどく歪な微笑みになってしまいながら、それでも言葉を返した。


「お待ちしております。必ず、帰ってきてくださいませ」


外庭から、前線へ駆けていく兵たちの足音、怒号、武具が擦れる硬い音が押し寄せる。

レオナルドはひとつ短く息をのみ、視線を揺らしたのち、決意を背負ったまま踵を返した。


その広く頼もしい背中が遠ざかっていく。

胸に添えた手のひらが震える。押し殺しても、押し殺しても、怖さは波のように寄せる。


――泣くのは、戻ってきた時に。必ず、生きて帰ってきた姿を見てから。


胸の奥でそう固く誓うと、ソフィアはそっと顔を上げた。


「皆さん……避難の準備を始めましょう」


呼びかける声はまだかすかに震えていたが、その瞳には確かな意志が宿っていた。


「まずは城内までの避難経路を確保して……それから、子供や年寄りを優先に!」


ソフィアは頭の中で地図を思い描き、街と屋敷周辺の地形を即座に整理する。

雪に閉ざされた坂道、凍りついた小川、森へ続く細い農道。

どの道が吹雪の影響を受けにくく、魔物との遭遇を避けられるか。

どこに誘導すれば、最も多くの人を傷つけずに導けるか。

思考は速く、迷いはなかった。


「急がないと。時間はあまりないもの」


ソフィアは屋敷の者たちに向き直り、はっきりと声を響かせた。


「ここにいる限り、皆さんは無事です。扉は閉じられ、壁は厚く、警備の者も配置しています。だから、落ち着いてください。

これから領民を此処へ避難させます。皆さん、対応をお願いします。」


侍女たちは緊張に顔を強張らせていたが、ソフィアの声が届いた途端、はっと息を飲み、それぞれの持ち場へと駆け出した。


「物資の整理を! 毛布と食糧を広間へ!」

「傷の手当ができる者は医務室に!」

「子供たちは、泣かせないようそばにいてあげて!」


次々に命が動き出す。

兵士が慌ただしく駆け込んできた。


「ソフィア様、外に不安が広がり始めています! 多くの者が混乱し、泣き叫ぶ声も!」


ソフィアは迷わなかった。


「――わたしが行きます。」


兵士が慌ただしく駆け込んできた。

彼女は外套を掴むと、その裾を翻し、冷たい風が吹きすさぶ街へと繰り出した。


辺境伯領の空は、昼でも鉛色の雲に覆われていた。

その厚い雲の合間から、雷のような轟音が響く。大地を震わせる音は、まるで大地そのものが唸っているかのようだった。


白い息が空へ溶けていく。

雪の舞う広場には、既に多くの領民が集まっていた。

小さな子どもは泣き、母親はその背を抱きしめながらも、怯えた瞳で周囲を見回している。

怯え、ざわめき、互いに手を取り合いながら、どうすればいいのか分からず立ち尽くしている。


ソフィアは胸の奥で震える鼓動を押しとどめ、前へと進む。


「皆さま、どうか落ち着いてください!」


澄んだ声が、冬の空気を切り裂いた。

ざわめきがほんの少しだけ止まる。数十の視線が彼女へ向いた。


「これより、皆様を安全な場所へ避難させます」


言いながら、彼女は一人ひとりの瞳を見るように視線を巡らせる。


「レオナルド様は、既に前線へ向かわれました。そしてわたしは、領民の皆様を守ります。あなた方を、必ず城へ安全にお連れします」


子どもを抱く母親の肩が、かすかに震えている。

ソフィアはそっと歩み寄り、子どもの頭に手を添えた。


「怖いわよね。でも大丈夫。

――必ず、わたしが、あなたたちを守りますから」


その声は揺れていなかった。

自らを奮い立たせるための言葉ではなく、確信を持った言葉。


ゆっくりと、広場に息が戻ってくる。

泣き声は小さくなり、人々は互いを支えながら、整然と動き始めた。


「子供とお年寄りを先に! 足元に気をつけて!」

「怪我人はわたしのところへ! 温かい毛布も運んでください!」

「馬車を出せ! 城門まで何度でも往復する!」


声が連なり、動きと秩序が生まれる。

混乱の中で、ソフィアは息をひとつ吸った。


レオナルドが騎馬に跨り戦場へ向かう姿が、ふと脳裏に蘇る。剣を背負う後ろ姿には決意が刻まれていた。

けれど、戦っているのは彼だけではない。

いま、この場に残された民もまた、不安とう見えない敵と立ち向かっている。怯え、戸惑い、行き場を失いかけた心を、正しく導く事。それもまた、一つの闘いであり、誰かが担わなければならない役目だ。

守るべきものは、ここにもある。その思いが、彼女の心をさらに強く引き締めた。


「さあ、行きましょう。大丈夫です。わたしについてきてください!」


ソフィアは前へ、雪を踏みしめて歩き出した。


「よし、まずは避難路を整えて……皆を、無事に……」


時間が経つにつれ、避難は整然としていく。

泣き叫んでいた子供も、ソフィアの手を握り、少しずつ前に進む。

杖にすがっていた老夫婦も、互いに手を取り合いながら、雪道を歩き出した。


一方その頃――前線となった森は、もはや地獄そのものだった。

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