18話 甘い息が触れ合う、冬のリンク
ふたりは、雪に覆われた街路へゆっくりと足を踏み出す。景色に目をやりつつ、会話は穏やかに流れていった。
「子供たちがあちらで雪合戦をしてますよ」
「本当だ、元気だな。ああ、向こうには大きな雪だるまもある。凛々しい眉をしているな。その隣には小さな雪だるまと、もっと小さな雪だるまが……」
「ふふ、きっと家族ですね。凛々しい眉をした子はお父さまかしら。あっ、見てください。あのツララ……光を受けてきらきらと煌めいて、まるでクリスタルで出来たシャンデリアみたい」
「ああ、……綺麗だな」
レオナルドも思わず足を止め、静かに目を細める。
彼にとっては見慣れた冬の景色だったが、隣に彼女がいるだけで、世界がまるで新しく見えた。
何気ない景色に目を輝かせるソフィア。その無垢な横顔は、降り積もる雪よりも澄んでいて――思わず視線を逸らすのを忘れてしまうほど、美しかった。
「先程から、甘い香りがしますね……」
「ああ、向こうからだな」
市場の奥へと進むと、食べ物の屋台が立ち並ぶ一角にたどり着いた。
木枠の小さな屋台には、焼き栗やジンジャーブレッドの香りが漂い、白い息を吐きながら通り過ぎる人々を引き寄せている。
「おっ、ホットワインが売っているな。こいつを飲むと身体が温まるんだ」
その屋台では、鉄鍋の中で果実と香辛料がぐつぐつと煮ていた。赤い液面からは甘く濃い香りが立ちのぼり、揺らめく湯気が夜気に溶けていく。
「あれを飲んで温まろう。ホットワインをふたつくれ」
レオナルドがそう言って、屋台へと歩み寄る。
店主は快活な笑みを浮かべ、湯気の立つ木のカップを二つ差し出した。
「領主様、いつもお疲れ様です。お代なんて、いただけませんよ」
「いや、そういうわけにはいかない」
レオナルドは苦笑しながら、銅貨を数枚取り出す。
店主が遠慮して手を引くのを、彼は穏やかに押し戻し、無理やり銅貨を握らせた。
「皆の働きがあってこその領地だ。対価はきちんと払わなければな」
その言葉に、店主は一瞬目を丸くし、それから深く頭を下げた。
ソフィアは、そっとその様子を見つめていた。
「……領主だと知られているんですね」
「まあ、顔だけはな。こうして街へ来るのは久しぶりだが……」
お忍びのつもりで、ソフィアもレオナルドも平民のような恰好をしていた。けれど、いまのやりとりでソフィアは気づいてしまう。すれ違う人々の視線が、どれも柔らかいことに。驚きや畏れではなく、まるで見守るようなまなざしを向けられていることに。
此処にいるほとんどの人が、レオナルドの素性も、そして隣を歩く自分の存在にも分かっていて、あえて気づかぬふりをしてくれているのだ。
ふたりの時間を、邪魔しないように。
「さあ、どうぞ。少しだけアルコールは強いが、甘くて飲みやすいと思うよ」
レオナルドが差し出したホットワインを両手で受け取った。ソフィアは、そっと唇をカップへ寄せる。
舌先に触れた瞬間、驚くほどやわらかな甘みが広がり、果実の深いコクがゆっくりと喉へ落ちていった。
「……ほんと。ほっとする味です」
自然と声がほどける。
「ああ、寒い日にはちょうどいい飲み物だな」
レオナルドもひと口飲み、吐く息を白く揺らした。
湯気の向こうで、彼の表情がわずかに和らぐ。戦場に立つ騎士でも、領地を背負う統治者でもない。ただ、ひとりの青年の顔だった。
「街へ出るのは、久しぶりなのですか?」
「……ああ、防衛の仕事が忙しいからな。たまに領民の様子を視察することはあるが――こうして、何の目的もなく、誰かと肩を並べて歩くのは……いつ以来だったか、もう思い出せない」
その言葉は、淡々としていながら、どこか寂しげだった。
ソフィアは胸元でカップを抱いたまま、ゆっくりと街を見渡す。
雪は淡く降り続け、灯火の明かりが粒の一つひとつに反射して、柔らかな金色の粒子となって夜気に溶けていく。
「……でも、皆様、レオナルド様をお慕いしている様子でした。わたし達に気づいていながら、何も言わずに……ただ、見守ってくださっているのですから」
「そうだな。皆……、優しいんだな。ここに住む者は、皆、真面目で、よく働いて、情にも厚い。誇りに思っている」
レオナルドは言葉を飾らない。その素朴な響きが、かえって揺るぎない信頼の深さを伝えていた。
ソフィアの胸は、静かに震えた。
ああ――彼は、この街を愛している。そして、この街の人々もまた、彼を愛しているのだと。
「行こう。まだまだ見せたい場所があるんだ」
レオナルドがそう告げると、ふたりは再び歩き出した。雪の上に並んで伸びる足跡は、先ほどよりもわずかに近い。
ふと、レオナルドの手が、自然とソフィアの手の甲に触れた。二人は思わず視線を合わせた。お互いの顔が、ほんのり赤く染まる。
ソフィアは胸中で、心臓の鼓動を数えてしまいそうになった。
レオナルドもまた、すぐには言葉を持たず、ただ、彼女の瞳を見つめている。
「……ソフィア」
それは、手を離すための言葉ではなく――、そっと繋ぎとめるための、控えめな合図のようだった。
ソフィアは、うなずいた。
差し出されるわけでも、求められるわけでもなく、ただ自然に、ふたりの手がふたたび触れ合う。つないだ指先から、そっと体温が流れ込んでくるようだった。
ソフィアは、視線を伏せて小さく息を吸う。
雪の匂いと、甘い飲み物の余韻、そして彼のぬくもり。
レオナルドもまた、言葉にはしないまま、ソフィアの手をぎゅっと握った。
「冬になると、街ではスケートリンクが開かれるんだ。ソフィア、行ってみないか?」
「アイススケート……ですか?」
ソフィアは首をかしげる。華やかな舞踏会や市場の喧騒とは違う、未知の世界に胸が高鳴る。
「はい、もちろん……でも、私はスケートをするのは初めてです。ご迷惑をお掛けしないでしょうか?」
「大丈夫だ。俺がついている。さあ、行こう」
ふたりが手を繋いで歩き出すと、市場を抜けた先の小高い丘に、スケート場が静かに姿を現した。
氷面は夕陽を受けて輝いて、人々の弾む笑い声が澄んだ空気に響いている。ソフィアは腰を下ろし、おそるおそる靴を履いた。そして、氷の上へ片足をそっと乗せる。
「……わっ、滑る……!」
氷の感触に慣れず、ソフィアは両手を必死に広げてバランスを取ろうとする。
けれど足は言うことを聞かず、前へ後ろへ、ふらふらと揺れ始める。
「しっかり! 俺の手を握れ」
「きゃあ!」
レオナルドは手を伸ばすが、わずかに間に合わなかった。
ソフィアの足が滑り、身体が傾く。
その瞬間、レオナルドがすかさずその身体を抱きとめた。
強く引き寄せられた拍子に、ソフィアはレオナルドの胸にすっぽりと収まった。広い胸板は想像以上に温かく、驚きと恥じらいが一気に込み上げる。
頬がじん、と熱を帯び、呼吸さえ乱れた。
喉の奥で小さく息が震えても、言葉にはならない。
彼の腕の中で、ただ心臓の音だけがやけに鮮やかに響いていた。
「た、助けてくださって、ありがとうございます……思ったより、ずっと難しくて……」
ゆっくりと胸板から頭をどかす。真っ赤になった頬を見られまいと、視線をそらした。
「初めてなら当然だ。焦らなくていい」
レオナルドはソフィアの内心を知ってか知らずか、明るく笑って言った。
そのまま二人は手をつないで、ゆっくりリンクを一周する。ソフィアの足取りは、彼の導きに合わせるうちに、少しずつ安定していった。
「……あ、レオナルド様。わたし……滑れてますか?」
「おお、ちゃんと滑れてるぞ。ふらついても大丈夫だ。君が倒れそうになったら、俺が支えるから」
「ふふっ、あはは。レオナルド様のおかげです……なんだか、楽しいです」
貴族の令嬢は感情をあらわにするのは慎ましくない。それでも、こらえきれず笑みがこぼれ、澄んだ声が雪空へ吸い込まれていった。
「はは、俺もだ。連れてきた甲斐があった」
レオナルドは咎めるどころか、自分まで楽しそうに目を細める
雪の街を見下ろすリンクの上で、二人の距離は自然と近くなる。そっと視線が重なった瞬間、喜びが弾けるように――ふたりの唇に、同じ甘い笑みがこぼれる。
初めてのアイススケートは、ソフィアにとってかけがえのない思い出となった。転びそうになった瞬間の小さなハプニングさえ、振り返れば笑い話だ。
その後も、屋台で焼き菓子を半分こし、小さなお土産を手に取っては笑い合った。
婚約者として「きちんとしなければ」と肩に力を入れる必要もない。貴族としての体面に縛られることもない。
この人の前では――レオナルドの前では。
ありのままのわたしでいれば良かった。
気が付けば、あれほど笑うことは難しいと思っていたはずなのに――。
いつの間にか、ソフィアは気負うことなく、無邪気に声を立てて笑っていた。
胸の奥がふわりとほどけるほど楽しい時間を、気負うことなく過ごせたのは、きっと生まれて初めてのことだった。
……この穏やかな幸福がいつまでも続くと、疑いもしなかった。
雪に包まれたこの辺境に、静かに忍び寄る脅威の存在に、まだ誰ひとりとして気づかないでいた――。




