16話 エリックの後悔
辺境伯家の面々と雪遊びに興じ、笑い声を弾ませていたソフィアたち。
しかし、ソフィアの知らぬところで――。
王都の夜会では、きらびやかな光と楽団の旋律が渦巻く中、ひそやかな噂だけが静かに独り歩きを始めていた。
「聞いた? ソフィア様、辺境で不便な暮らしを強いられているそうよ。雪に囲まれて、何もないところだっていうじゃない」
「まあ……お気の毒に。皆の憧れだったエリック様の婚約者で、あれほど羨ましがられていたというのにねえ」
真珠の耳飾りを揺らしながら、令嬢たちはグラスに満たされた葡萄酒を指先で弄び、まるで悲劇のヒロインを語るかのように眉根を寄せた。
心の底から同情している訳ではなく、暇を持て余した社交界の話題のひとつに過ぎないのだが。
「氷の獅子と恐れられた、あの冷酷な辺境伯との結婚ですもの……きっと辛い思いをしているはずだわ」
「ええ。しかも魔物も出る土地なのでしょう? 考えただけでぞっとするわ……」
くすくすと、忍び笑いがこぼれる。
その噂話のひとつが、ふとした拍子にエリックの耳へと届いた。その瞬間、胸の奥を、氷の刃でなぞられたかのような冷たい痛みが走った。
――ソフィアが、辺境で不便な暮らしを?
薔薇に囲まれた庭園で笑っていた少女の横顔が蘇る。幼い頃から隣にいて、自分を一途に慕ってくれていた婚約者。
それなのに、エリックは愛を返さなかった。
そのせいで、望まぬ結婚を受け入れ、厳しい土地へ追いやられてしまった。
喉の奥がつまるような後悔が、じわりとせり上がってくる。
「……ソフィアは、きっと辛い思いをしているのだろうな」
エリックの胸には責任感と罪悪感、そして複雑な未練が混ざった感情が渦巻いていた。
はじめは上手くやれていた。婚約したばかりの頃は、もっと素直に笑い合えていた。なのに、いつからだろう。彼女に屈折とした彼女を抱いてしまったのは――。
父上も父上だ――。
他責だとわかっていながらも、エリックはどうしても父に苦言を呈さずにはいられなかった。勝手に婚約の交換を了承したのは、他ならぬ父なのだから。
「ソフィアの妹ならば、姉に劣らず優秀だから問題ないだろう」
どうやら父は、そんな安直な考えを抱いていたらしい。だが、それは決定的な誤解だ。
家族に愛されなかったソフィアは、愛を求めるように勉学に励み、知識も礼儀作法も徹底的に身につけた。あの完璧さは、孤独を埋めるために磨かれたものだ。
一方のシャーロットはどうだ。家族に甘やかされ、欲しいものを欲しいままに与えられ、努力などしたことがない。マナーも教養も、最低限すら怪しい有様だ。
ソフィアのように公爵家の格式を背負える器では決してない。むしろ、シャーロットを妻に迎えることは、公爵家にとって致命的な失策にしかならないのに。
そう――自分の妻にふさわしいのは、たった一人。
ソフィアだけだ。
その確信が胸の底に静かに沈みこみ、やがて揺るぎない決意へと変わっていく。
「……ソフィアを迎えに行こう。きっと、あの子も僕を待っているはずだ」
その声は甘く響きながら、どこか歪んでいた。
ソフィアは僕のものだ。
幼い頃から婚約者として傍にいたのだから、当然だろう。彼女の笑顔も、優しさも、涙さえも──すべて僕だけのものだったはずだ。
強引にでもソフィアを連れ帰りさえすればいい。あとは、シャーロットでは公爵家の夫人にふさわしくないと理由を立て、婚約を当然のように元へ戻せばいいのだ。
何よりソフィア自身が、それを望んでいるはずだ。エリックは疑いもしなかった。
「……そうだ。ソフィアは僕を待っている。僕以外の誰かの隣に立つはずがない」
自分にそう言い聞かせると、胸の奥にふつふつと熱がこみ上げてくる。
それは愛情などという生ぬるいものではなく、むしろ獲物を逃すまいとする捕食者の本能に近かった。
僕が彼女を取り戻すのだ。
誰にも渡さない──再び、僕のものに。




