1gの優しさ
【帝都発】帝都暦765年7月1日、第12代皇帝が正式に即位
―マリノベーテ大聖堂にて戴冠式挙行―
帝都暦765年7月1日、首都中心部に位置する由緒あるマリノベーテ大聖堂にて、厳かな雰囲気の中、第12代皇帝の戴冠式が執り行われた。
式典には各地から多くの貴族や高官が参列し、国内外からの注目を集める中、新たな皇帝の即位が正式に宣言された。
これにより、先代の崩御以来約10年空位となっていた皇位が正統に継承され、帝国は刷新された側近や新たな議会体制を若き皇帝と共に急進的に推し進めていく方針だーーー
私が読んでいる新聞を微風が撫でたのと、洗濯かごを抱えた同僚が枯れ草を踏みつけたのは同時だった。
仕方なく顔を上げたが、目の前に広がる干したばかりの十数枚とあるシーツが小さく波打つ様に気を取られてしまった。こんなに気持ちの良い天気だと言うのに、軍靴のように勇ましい足取りで近づいてくる同僚の性格はいつだって陰湿で苛烈だった。
「ちょっと!!あんたに頼んだ客室のレースカーテン、汚れが落ちてないって怒られたんだけど!!」
そう言うや否や、彼女は洗濯かごごとそれを私に投げつけた。
舌打ちを一つ残し、荒っぽい足取りでスカートの裾を翻しながら、城の中へ戻っていく。あの自分の想い通りにならないものは全て蹴散らさんとする脚が、桶の中で洗濯の汚れを落とすところを私は見たことがない。
再び、風がシーツと草木を揺らす音だけが残る洗濯場の隅で、私は苦笑いで草臥れた木製の椅子から立ち上がり、右足を少し引きずりながら歩く。
そして、散らばった洗濯物と籠を一つずつ拾い集めていった。
同僚の苛烈な彼女――ベルに怒鳴られるのは、もう慣れている。
王城のランドリーメイドになって二年が経つが、一年先輩の彼女は「指導」と称した横暴を繰り返すばかりで、先輩らしい優しさを向けてくれたことは一度もなかった。
ランドリーメイドになる前、私は以前の職場で負った傷がなかなか治らず、丸一年を病院で過ごしていた。
リハビリを終え、ようやく外に出られるようになってから紹介されたのが、ここだった。
死を覚悟したのは、五年前のことだ。
瀕死の傷から右足の後遺症だけで済んだのは、まさに奇跡だと医者は驚いていた。
生まれ持った生命力に感謝しながら、私は今日も洗濯物を干している。
帝国の門出を祝うほどに、私たちランドリーメイドの仕事は山積みになっていく――そんなことを、お偉い方たちはきっと知らない。
ベル以外の同僚には恵まれている。
繁忙期だというのに、私の右足を気遣い、ランドリーメイドをまとめるメイド長は、休憩用の椅子が常に置かれている水場へと、私をよく配置してくれる。
他の仲間たちもそのことに文句を言うことはなく、皆が常に私の体調を気遣ってくれていた。
王城に務める者たちは上から下まで気立ての良い者たちが揃っていたため、余計にベルは浮いていた。
そのため、その恩返しとして、扱いづらい問題児であるベルと進んで組んでいる。ベルは、面倒な私を押し付けられたのだと吹聴して回っている。
だが――その実、立場が逆であることを、彼女は知らない。
荒っぽく返品された洗濯物を、丁寧に洗い直し、固く絞る。
その間に持ち込まれた追加の汚れ物も洗う。
大きな木桶に、井戸脇に備え付けられたポンプで水を汲み入れていく。
十分に溜まったところで、洗剤と汚れ物を放り込み、私は足でじゃぶじゃぶと洗い始めた。
洗剤の混じった水面から、いつものようにいくつものシャボン玉が空へ浮かび、風に流されていく。
緩くシニヨンにまとめた紅茶色の髪と瞳が水に映っては、足に踏まれて消えていった。
乾いた洗濯物は、アイロン係のもとへ運ぶ籠の中へ畳んで詰め込んだ。
空いた干し場には、洗いたての洗濯物を、しわを伸ばしながら一枚ずつ干していく。
これが今の私の仕事だ。
仕事がひと段落し、私はまた休憩用の椅子に腰を下ろした。
この束の間の穏やかな休憩が、私の日常にささやかな彩りを添えている。
風の音に耳を澄ませるのが好きだった。
この国は、爽やかな乾いた風が吹く季節が長い。だからこそ、私の小さな幸せは、いつもすぐそばにあった。
「ちょっと!! またサボってるの!? 信じられないわ、このノロマ!!」
私のささやかな幸せを壊す彼女が、あの勇ましい足音とともに、また戻ってきた。
彼女からは風に乗って煙草の匂いがした。
私が少し呆れて視線を向けると、今日はよほど機嫌が悪いのか、右手に握りしめていた煙管の入った銀製のケースを、全力で投げつけてきた。
甘んじて額で受け止めておこうか――そう考えた、そのときだった。
音もなく、私の前に人が降ってきた。
文字どおり、降ってきたのだ。
私の額に届くはずだったそれは、突然の妨害に遭い、キン、と鋭い音を立てて弾き飛ばされた。
降り立った人物の背は高く、座ったまま見上げるには首が痛くなるほどだった。
その頼もしい背中に見覚えはない。
だが、王族の血筋を証明する、見事な金色の髪が――何よりも雄弁に物語っていた。
きっと振り向けば、髪と同じくらい美しい金色の瞳が、静かに輝いているのだろう。
この世にただ一つ残された、黄金の血筋。
――それを持つ者は、ただ一人しかいない。
《二度と顔を合わせてはいけない。――そうは言っても、お前の顔を殿下は見たことがなかったな》
五年前、最後に受けた命令が、耳鳴りのように脳を揺さぶった。
瞬時に、体が動く。
思うように動かなくなっていた右足でさえ、引きずられながらも。
逃げなくては。
隠れなくては。
彼が振り向く前に。
あまりの人物の登場に言葉も顔色も失っていたベルの前へ、私は一瞬で移動する。そのまま彼女の襟元を引っ掴み、不敬を承知で、彼のもとへベルを投げつけた。
「逃すか」
思い出の中よりも落ち着いたテノールに、幼いはにかんだ笑顔と、子どもらしさの残る笑い声が脳裏に蘇る。
――変わったのは、お互い様か。
同じ釜の飯を食った仲、とは言い難い。
だが、彼を無事に戴冠式まで生き延びさせ、玉座へ座らせるための旅路は、四年と長かった。
その間、世間知らずで無邪気だった少年は、彼を死んでも護るという密命を受けた諜報部の精鋭数名と共に、敵から身を隠し、ときには戦いながら、この場所を目指してきたのだ。
護衛対象である彼が、泣きながらも剣の振るい方や受け身の取り方を叩き込まれていくのを、隣で同じように泥まみれになりながら付き合ったのは、今では良い思い出だ。
(捕まってたまるかよ)
決して振り返らない。
背後で、ベルの驚愕の叫び声と、小さな舌打ちが聞こえた。
姿勢を低くし、シーツの波へ飛び込む。
ランドリーメイドのスカート丈は踝より上にあつらえられているため、幾分足さばきはしやすい。
足音を殺し、風が草木を撫でる音に紛れ込みながら、一気に駆け抜ける。
全盛期には到底及ばない速さではあるが、彼を撒くには十分だった。
「No.207!約束を果たしにきたぞ!!」
幼い少年との口約束より私は上官の命令に従う義務があった。何よりその少年のための命令であるが故だった。
(今更、見つかるとは……運が無い)
身を滑り込ませた生垣の隙間、その先にある庭園と城壁を目指す。
背後から追いすがる、焦燥に塗れた声には、耳を貸すつもりはない。
私は、五年前――彼を生かすために、しんがりを務めた。そのせいで、死んだ。
記録上、そう扱われている死人なのだ。
軍の専門病院で、無数の管に繋がれたまま目を覚ましたとき――司令官から下された最後の命令が、私の耳を塞いだ。
《二度と顔を合わせてはならない。――そうは言っても、お前の顔を殿下は見たことがなかったな
ーー本来、陛下は我々のような者と馴れ合ってはならないのだ》
そう続けた上官の声は、どこか寂しげで、私はただ静かにうなずくしかなかった。
『207。呼びづらいからさ――僕が無事に皇帝になれたなら……そのときは、お前の本当の名前と、仮面の下の素顔を教えてくれよ。
それから、そうだな……僕がお前に贈ったドレスを着て、夜会のダンスフロアで、ファーストダンスを踊ってくれ』
平時でさえ、叶うはずもない約束だった。
『……私より年下のくせに、求婚してくるとは生意気ですね』
『僕と背が変わらないくせに、年上だったのか!?』
そのときの、驚いた顔が忘れられなかった。
二度と会ってはならない。
彼は、皇帝になってしまったのだ。
その尊き血は、然るべき相手と残さなければならない。
《引退した者たちは、殉職扱いとなり、その後城の下働きに紛れて諜報活動を継続させる。そのとき初めて、本名と素顔を晒せる決まりになっている。悪く思うな》
せっかくランドリーメイドの仕事にも慣れてきたというのに、配置換えは避けられないだろう。
ブランクのせいで上がった息を整えながら、たどり着いた城壁に額を押し当て、そのままもたれかかった。ひんやりとした感触が、熱くなった額に心地よい。
いっそ上官に願い出て、城下へ降りたほうがいいかもしれない。
そう覚悟を決めた、そのときだった。
気配を感じ、殺気を滲ませながら振り返る。
そこには、私と同じく前線を退いた上官が、静かに佇んでいた。
従僕の制服に身を包んだ壮年の男は、どこからどう見ても、小綺麗なベテラン使用人にしか見えない。私も上官のように完璧なランドリーメイドだった。一体どこでしくじったのか。
「207、任務ご苦労」
「任務を遂行できず、申し訳ございません。次の任務内容と、配属先をご指示ください。」
「207……いや、アナスタシア=ブロワ。お前の配属先は、ランドリーメイドのまま。任務続行だ」
「拝命いたします。……ん?え、は?」
今日はいつもとは違うことが、あまりにも多すぎた。
禁煙中のベルが煙草をふかして戻ってきた。
皇帝が空から降ってきた。
上官が、命令の内容を変えもしないのに姿を現した。
そして私は、初めて「是」以外の言葉を上官に使った。
「アナスタシア」
笑うことのない上官の口元が、わずかに緩んでいる。
その琥珀色の瞳に、私の紅茶色の髪が映っているのが見えた。
ついでに、間の抜けた顔まで。
慌てて表情を引き締め、私はその続きを待った。
「頑張りなさい」
――最悪だ。
あぁ……右足が痛い。
終
妄想が捗れば、続くかもしれない。
副題は『アナスタシアの受難』




