第五話『梵鐘』
「おーい、そっちを下げろ!」
「いいゾ! そのままゆっーくり!」
寺の鐘は人型フォークリフトに持ち上げられ、そのままゆっくり堂のなかから持ち去られていく。
「堪忍してーな。こんな古い銅が何の役に立つっちゅうねん」
つるっとした頭に眉毛のない和尚が目じりと口の端を下げて、関西地方が出身じゃない人が使うような怪しげな関西弁でお願いしている。
「悪いけど、坊さん。おれたちも上から言われてやってるだけだから」
作業員はいすゞのトラックの荷台に鐘をしっかり縛りつけてしまった。
「でも、これで戦争に勝てるんだぜ? 安いもんだろ?」
「もっとあかんことになるゆうとるやんけ」
「だから、それは上の人間に言ってくれよ」
こうして、和尚の寺の鐘はコロニー政府に持っていかれてしまった。
もう十二年も戦争が続いている。
戦争と工業について特別知識があるわけではないが、そんな和尚だって兵器工場が欲しがっているのはタングステンやチタン、強化アルミニウム、それに劣化ウランだと分かっている。
こんな何千年も前の地球で鋳造された青銅なんて混ぜたら、むしろ兵器の質が下がるのも分かっている。
しかし、とにかく持っていかれてしまった以上、やらなければならないことがある。
お寺の横の自宅に戻り、玄関先で下駄を脱ぎ、黒電話である番号をまわした。
「もしもし。シノビはんでっか? 大至急来ておくんなはれ」
十分後には和尚はシノビと並んで、空っぽの前にお堂のそばに立っていた。
弟子が持ってきた緑茶のペットボトルで喉の乾きを取りながら、墨衣の袖でつるっとした頭に浮いた汗を適当に拭う。
「しかし、あっついのう」
脂みたいな蝉の声がしつこく頭の左右にこびりつき、かっきりくっきりした入道雲が立ち上がり、どこかここより幸運な地区に恵みの雨をもたらしている。
コロニー天候評議会の雨は決して水害をもたらさず、水が引く速度に合わせて雨が降るので、雨が降っても何も心配することはなく、涼しいだけなのだ。
ただ、この雲を操作する技術がないので、いつも雨が降る地域と降らない地域の差が激しい。
しかし、方法がないと言う割には雨は与党議員を当選させた選挙区ばかりに降るので、実は雨雲の操縦法は確率されていると和尚は見ていた。
「まあ、そんなことはいまはどうでもよろしい。これ。見てーな」
鐘はないのに、鐘に刻まれた梵字だけが宙に浮いていて、なくなった鐘の輪郭を残している。
字はみな小刻みに揺れていて、どう見ても、よい状態にあるとは思えなかった。
シノビがたずねた。
「やつらにはこれが見えないのか?」
「あいつら、ヒューマノイドやねん。『幽霊や妖怪はいない』ってきっつうインプットされとるから、これ見えんし、わしが何言うても信じてくれへんねん」
シノビはぐびっと緑茶を飲んだ。
この暑いのに黒いシノビショウゾクを着ている。
ただ、それは普通の服のように見えるシノビショウゾクで、絶妙なデザインで、これで普通の町を歩けるし、戦闘や潜入任務もそこそここなせる。刀は細長い袋に入っていて、苦無と護符がポケットとポシェットにかなり強引に詰め込まれていた。
いつでも臨戦態勢に入れる装束だが、銀髪を隠すようにフードをかぶるのはさすがにやりすぎで、熱中症で倒れられてはたまらないから、弟子に経口補水液の瓶を持ってくるように言った。
「寺の鐘にはそれなりのもんが封じられとるんや。妖物どもをぐちゃっと潰して丸めて噛んでペッと吐いて弱めたところでありがたい字に起こして、鐘に刻んどるんや。それを鐘を動かしたりすると、こうなる。封印されてた字だけが残るんや。あのバカタレが持ってった鐘は梵字が抜けて、のっぺらぼうみたいなつるっつるになっとるんに」
「これを始末しろと?」
「先代ならどうにかなったやろが、わしじゃ扱えん。よう知らんのじゃ。ほんま頼むわぁ」
シノビは袋から刀を取り出して、ベルトに差し、五枚の護符を投げた。
紙は刃物のように薄く固くなり、それが梵字の鐘もどきの表面を貫いた。
護符はそのまま外に飛び出さず、鐘の形のなかを肉を投げられたピラニアみたいに走り回る。梵字は赤く燃えるように色を変え、全体の形は徐々に縮み始めた。
まるで、護符を追いつめて一網打尽にするように。
そして、その形がテニスボールぐらいまで縮んだところで梵字と護符の集合体を居合で真っ二つにする。
その一瞬だけ、蝉たちが鳴くのをやめた。
――†――†――†――
「いやあ。ほんま、助かったわ。これ、お礼。ほんま、ありがとう」
「ただの仕事だ」
「そのストイックな姿勢、かっこええわー。女の子がほっとかんやろ。そだ! 天転堂の水ようかんがあるんやけど、休憩ついでに食ってかんか?」
「他の寺からも要請が来ている」
「あちゃあ。やっぱりそうかぁ。これはオフレコやけど、シノビだけで、全部の〈字〉に対応できそうでっか?」
「できるできないの話じゃない」
シノビが立ち去ると、和尚は煙草を取り出して、一服つけた。
クソ暑いなかで喫む煙草の、体力と集中力を削る自己イジメの感覚を修行の代用品にして、石畳で踏み消す。
「チンネン。出かけるで。支度しいや」
三十分後、ふたりは和尚の運転でコロニー行政庁の建物の前に着き、軽自動車のサイドブレーキを引いていた。
「和尚さま。本当にやるんですか?」
「やらなしゃあない。このままだとこのコロニー、地獄見るで」
「でも、シノビさんたちも活躍しているし」
「あほ。このクソ暑いのにフードかぶってる理由、なんやと思うとるねん」
「それはシノビさんがシノビだから顔を見られないために」
「このクソ暑いのに長袖長ズボンで黒フードのほうが悪目立ちするわ。あれはげっそりこけた頬を見られないためや。あのシノビ、相当消耗してるで。たぶんうちに来るまでに十か二十は寺まわっとる。シノビだけでは対応できへんのは明らかや。政府に鐘を持っていくのを今すぐやめてもらわな、あと二日三日で化け物どもの封印が全部破れてまう」
「でも、どうして和尚さまが?」
「わしかて誰かがやってくれへんかなと思っとった。でも、誰もやらへん。そうなったら、しゃあないわ。わしがやらんと。ほんまは嫌やし、めっちゃ怖い。でも、誰もやらへんのや。わしは嫌やから、お前代わりにやれとも言えんし」
「わたしが代わりにやります!」
「あほ。お前じゃ法力が足りんわ」
和尚は苦笑いしながら、ライターと線香の束を弟子の手に押しつけた。
「わしがガソリンかぶって結跏趺坐したら、そのライターで線香を燃やして、わしに投げつけえや」
「ライターでつければいいのでは?」
「それじゃ、お前、手やけどするで」
「いえ、ライターを投げればいいかなって」
「どあほ。もったいないやろが。ダンヒルやぞ、それ。……お前のことは祥釈寺の和尚に話をつけて預かってもらうことになっとる。修行して偉い坊さんになったら、あの寺に戻って、わしの供養でも何でもしてくれな」
和尚は後部座席の赤いプラスチック製のガソリン容器を見た。
見ても、高尚な思想や自分が大いなる流れのなかの小さな葉一枚に過ぎないといったかっこいい悟りは出てこない。出たのは、ため息だ。
「和尚さま――」
弟子は目にいっぱい涙をためている。
――レバーに手をやって、ドアを押し開ける。
「ほな、行こか」